『オレがいるよ。ここにいるよ。大丈夫だよ。大丈夫だから。』
ふと、姫君が顔を上げてゆっくりと振り返った。オレはギクリとした。目が合った、と思った。どぎまぎとうろたえてしまう。咄嗟に取ってしまった自分の行動に、改めて赤面するしかない。いぶかしげな表情で首を傾げる姫君。うわっ、絶体絶命。オレが何とかその場をとりつくろおうと言い訳を考えていると、姫君が小さく呟いた。
「やっぱり気のせいよね…。なんだか今、誰かに優しく励まされたような…。まるで、ふうわりと何か温かいものに包まれたかのよう…おかげで、しばらくぶりにちょっとだけ幸せな気分に浸れた…。」
そして少しだけ微笑んだ。雲間から陽射しが差し込んだような笑顔だった。バレていない…?オレは二重の意味でほっとした。そして、この姫君はこの細い体で、何て沢山のものを抱えているんだろう、と思った。まだオレとそう変わらない年頃なのに。オレの元の世界の女の子なら、権利ばかりを振りかざして勝手気ままに遊びまくっているだろう年頃なんだ。それこそ責任なんて言葉は、薬にしたくとも持ち合わせていないんだろう、って想像がつくようなコが今時は多いし。いったい何故この姫君ばかりが、こんなに重たい運命をしょい込む事になったんだろう。オレは大きな石を飲み込んでしまったような気分で、姫君を見つめた。
「さあ、こうしていても何も始まらない。行かなくては。」
姫君は、大きく深呼吸すると、黄昏の城に視線を戻した。きつい眼差しで睨み据える。いよいよ本丸だ。敵の本拠地に乗り込む。オレもなんだか緊張してきた。思わず唾をごくりと飲み込む。姫君はどうなのだろう。様子を伺うとやはりその横顔は緊張のためだろうか、白く見えた。ゆっくりと歩き出す。だが、二・三歩歩いたところで引き返してしまう。どうしたんだろうと見ていると、あの、紅玉の国の王子の額に輝いていた紅玉を拾い上げると、懐にしまった。
「せめて輝夜姫に届けてあげなくては。」
そして改めて黄昏の城に向かって歩き出した。
荒涼たる砂漠のど真ん中に、黄昏の城はそびえたっていた。その、暗雲を背に凶々しい姿をさらしている様は、美しい月の砂漠と緑滴るオアシスとを誇っていた国だったなんて、とても信じられない。ゆっくりと歩いて行く。誰もいない。魔物も出て来ない。生き物の気配すらない。どうしたのだろう。全て死に絶えてしまったとでもいうのだろうか。
城の大門をくぐり、いよいよ城内ヘと足を踏み入れる。静かだ。魔物がうようよいるものだと想像していたのに、なんだか拍子抜けしてしまう。でも、ここは魔王の本拠地だ。油断は出来ない。
「輝夜姫はどうされたのかしら…。城の皆さんは、王様達は…。」
姫君も不審気に呟く。
「そうね。取りあえず大広間を目指してみましょう。何か手掛かりがあるかもしれない。」
多分、城の造りというものは、余り大差があるものではないのだろう。姫君は迷う事無く真っ直ぐに広い廊下を進んで行く。薄暗い。だが、やがて目が慣れてくると、廊下の隅の方にぼろ布の山のようなものがあるのに気付いた。所々に血のようなものがこびり着いている。ズタボロになった衣類らしい。いったいこの場所でどのような惨劇が繰り広げられたのだろうか。あちこちに血糊も飛んでいる。でも、今は誰もいない。死体すら見当たらない。
コツコツと靴音だけが響く廊下を姫君は進んで行く。すると、かなり先の方になにやらぼんやりと白く浮き上がって見えるものがあった。何だろう?姫君も気付いたらしい。剣の柄に手を置いたままゆっくりと進んで行く。
近づいて行くとその正体が判った。
「猫?」 姫君が囁く。
その声が聞こえたのか、白い影がうっそりと頭を下げた。
確かに『猫』だ。だが、デカい。一見ライオン程もあるようなでかい真っ白な猫。それが廊下の真ん中にお座りして頭を下げている。姫君はそろりと近づく。猫はそのままじっとしている。取りあえず正面に立ち、身構える。すると猫がゆっくりと頭を上げた。
「お待ちしていました。緑花の姫君。」
うげっ!こいつ喋れるのかよ!
「何故私の事を?あなたは誰?」 姫君は眉をひそめた。不審極まり無い。
「わたしは銀砂の国、輝夜姫のお守役。名前を鈴音(れおん)と申します。あなたがこちらに向かっている事を知り、我が姫君の御為、あなたをお待ちしていました。」
猫はまた頭を下げた。
「外で何があったか、全て存じております。かくいうわたしも魔王の影響下にあります。この姿が何よりの証拠。でも、わたしは自我を失ってはおりません。我が姫君ヘの忠誠も愛情も露程の変わりもありません。ここにこうしていたのは、あなたを我が姫君の元にご案内するためです。どうかわたしと共にいらして下さいませ。」
「あなたが輝夜姫のお守り役…。」 姫君は少し躊躇したが、一つ頷くと猫にこう言った。
「私も姫君にお会いせねばならない、と思っていたのです。紅玉の国の王子様からの預かり物をお届けしたくて。案内して下さい、姫君の元へ。」
すると巨大猫は、優雅な仕種で立ち上がり、長い尻尾をくねらせて先に立って歩き出した。
「こちらです。どうぞおいで下さい。」
猫の後に続く。やはり薄暗いただっ広い廊下を、巨大な白い猫に先導されて進んでいく。なんて不思議な光景なんだろう。いくら夢の世界とは言え、ほんと夢で無ければ見られないものだろうな。オレがそんな事を考えていると、いきなり猫が振り返ってこう言った。
「姫君、少しお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、何でしょう?」
「姫君はお一人でここまでいらしたのですか?」
「いいえ。城のすぐ傍までは、紅玉の国のユニコーンと一緒でした。今は一人ですが。それが何か?」
巨大猫は軽く首を傾げ、上目使いにオレを見た!コイツ、絶対オレが見えている!そう確信の持てる眼差し。しかし、口では何も言わず、ただ今度は真っ直ぐオレを見て、ニタリ、と笑った。
「そうですか。姫君はやはり『騎士(ナイト)』をお連れでしたか。それでしたら話がよく判ります。」
「?」
姫君は一瞬きょとんとしたが、ユニコーンの事だろうと考えたらしい。微妙な表情で猫を見ている。猫は一人で満足そうに頷くと、また歩き出した。そして肩越しに姫君に話し掛ける。
「わたしは今はこのような姿をしておりますが、本来は只の猫に過ぎません。輝夜様のお生まれになる前から王様の飼い猫で、お生まれと同時にお守り役を仰せつかりました。王様がわたしの性格を見込まれたのでしょう。以来、わたしは輝夜様をお畏れながら、我が娘ともまた我が恋人とも思い、慈しみお育て申し上げて参りました。姫様も、わたしを信頼して何事も隠しだてなさる事無く話して下さりました。ですから紅玉の国の王子様の事は、わたしは姫様と同じ程に存じております。」
猫は微妙な苦笑いといった表情を浮かべた。
「城外で何が起きているのか、幸か不幸か魔王の影響下に入ったお陰で、わたしには全て見通す事が出来ました。世界がどのように変わってしまったか、紅玉の国の王子が、やっと『ひと』に戻るチャンスを得たのに、気まぐれに吹き出す魔王の障気に翻弄されて自滅してしまわれたのも、わたしは承知しております。」
そうか。だからあの時、王子は急に態度を変えたのか。
「そうでしたか。私も何故王子様が変わられたのか、不思議に思っていたのです。そう伺えば納得が出来ます。」
「ですが我が姫様には、まだ何も申し上げておりません。余りにお気の毒で…。でも、いつかは真実をお話しせねばなりますまい。どれほどお嘆きになられる事やら…。」
猫は憂鬱そうに首を降った。
「人という生き物は不便なものですね。自分の心の有り様すら、満足にコントロールできない。わたしのような猫属なれば、こうして逆に魔王の力だけを利用し、自分の力を増幅して愛する者を護る事も出来るというのに。」
猫はまるで愚痴を零すかのように話し続けている。姫君は黙って聞いている。
「魔王の力がこの城の住人に及んだ時、全ての人や動物達が変貌し、己を失っていく中、わたし一人が体は変化を遂げましたが正気を保っておりました。偶然にもこの城には猫はわたしだけしか飼われておりませんでした。ですからわたしの他には正気を保つ者はおらず、わたしは我が姫様を、魔王より得た力でお護りしました。」
「え?」
何か引っ掛かるものを感じて、姫君は問い返した。
「魔王から得た力、ですって?」
「ええ。魔物達が己の我欲の為に互いに喰らい合い殺し合うのを止める事は完全に不可能な事でした。ですからわたしは彼等から姫様だけを遠ざけて、わたし自身も本能の赴くところに従う事にしました。未知なる力を我が物として振るいまくるのは楽しかったですよ。例えそれが邪悪な力であろうとも。わたしはえらく強力な魔物らしいですよ。バトルロワイヤルに生き残ったわずかばかりの連中も、結局わたしのお腹の足しにさせて貰いましたからね。魔物と言えど元は人間。結構美味しかったですよ。本物の人間でしたらもっと美味しいんでしょうね。」
猫は舌嘗めずりして、ニタッと笑った。思わず背筋に冷たいものが走った。それは姫君も同じだったらしい。軽く首を振ると、今度は自分から猫に話し掛けた。
「どうしてあなただけ正気を保っていられたのでしょう?」
猫はちらりと姫君を見上げてにやりと笑った。
「ご存知ありませんか?猫は元々魔性のものなんですよ。魔性に魔力が通じると思いますか?」
「…。」
姫君は何も言えなくなったらしい。果たして冗談なのか本気なのか、この猫の言う事はどう受け取って良いのか解らない。それも、相手が『猫』だからなのか、魔物だからなのか。
「わたしが恐ろしいですか?」
姫君の様子をどう見たのか、猫がそう尋ねて来た。
「あなたはひょっとしたら魔物の罠に導かれているのかも知れないのですよ。」
「いいえ。私はあなたの輝夜姫に対する思いを信じております。あなたが輝夜様、と言う時のあなたの目にある優しさを信じます。」
姫君はにっこり笑ってこう答えた。猫はその答えに一瞬瞳を見開いてまじまじと姫君を見つめたが、次の瞬間とても嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。たかが化け猫の言う事を、真に受けて頂けるなどとは、流石に厚かましいわたしとて考えておりませんでした。かえって酷い失礼を致してしまったようです。申し訳ございません。あなた様を試すつもりではありませんでしたが。」
猫は姫君を見直したようで、またえらく姫君を気に入ったようだった。満足そうに喉を鳴らしている。なんだか姫君に対しての言葉遣いまでも変わって来ているみたいだ。へえ、こいつって結構良い奴なのかも知れない。なんて思っていると、奴はちらりとオレを横目で見たような気がした。やっぱりオレの事が見えている?猫には『霊』の存在が見えるって聞いた事があるけど、ひょっとしてオレは奴にとって幽霊みたいに見えているのかも知れない。
「緑花の姫君。わたしはあなた様が気に入ってしまいました。これから先、あなた様がなさろうとしている事、微力ながらお手助けさせて頂きます。でも、まずは我が姫様。さあ、こちらです。」
巨大猫はすっと後足で立ち上がると、一枚の扉に手を掛けた。いつか見た、塔の上の姫君の部屋のものと良く似た雰囲気の扉。小さな花々のレリーフが、持ち主を表すのだろうか。キィと小さな軋み音を立ててドアが開いた。
「姫様、緑花の姫君をお連れ致しました。」
猫が中に声を掛け姫君を招き入れる。促されて部屋の中へと足を踏み入れると、ふわりと良い香りがした。全体に明るい感じの壁紙とあちこちに飾られた花々。柔らかい光りを放つ数多くの燭台。そして趣味の良い、典雅だが華美過ぎる事のない家具達。突き当たりにある大きなドレッサーの横には華麗な打掛けが掛けられていた。花嫁衣裳?日本式のあの文金高島田の?同じものに姫君も注意を引かれたらしい。
「あれは…?」
猫に問い掛ける。
「ええ。姫様の御婚礼衣裳です。美しいでしょう?この銀砂の国の伝統的なものなのですが、王様が優秀な職人達を集めて姫様の御為に特別に作らせたものです。あれをお召しになった姫様はこの世のものとは思えぬ美しさにございますよ。」
猫は頷いて自慢気に話す。そして一番奥の豪華な天蓋つきの寝台の方へ姫君を導いた。寝台は美しい薔薇の花模様のレースのカーテンで覆われていた。輝夜姫は体調が悪いのだろうか。
「姫様、失礼致します。」
猫は寝台の中にそう声を掛けると、恭しい仕種でカーテンをめくり上げた。
「こちらが我が姫様、輝夜姫様にござります。」
姫君が寝台に近寄って行くと、中に一人の少女が横たわっているのが見えた。真っ白いシーツに埋もれた小さな顔。透き通る程に色が白い。細く自然な孤を描く眉。影を落とす長いまつげ。すんなりとした鼻すじ。小さな赤い唇。そして一番印象的なのは、枕に広がるぬば玉の髪。なんて綺麗な少女なんだろう。目が閉じられているのが残念だ。
「輝夜様。」姫君がそっと声を掛ける。だが、その瞳は開かれなかった。ゆっくりと手を伸ばしてその頬に触れてみる。暖かい。その胸も微かに上下している。姫君は猫を振り返った。
「はい。姫様は確かに生きておいでです。でも…。」
猫はゆっくりとかぶりを振った。
「目をお覚ましにならないのです。」 猫は目を伏せて悲し気に輝夜姫を見つめている。
「わたしの力ではどうしようも無くて…。魔王の邪気にもたらされた力では…。ですから、あなた様のお力で姫様を元のように、気高い月の女神のような、可憐で清らかな姫様に戻して頂きたいのです。」
真剣な眼差しで頼み込む猫を、姫君は気の毒そうに見つめた。
「あなたの思いは良く解ります。私も出来る事でしたらどんな助力でも致しましょう。でも…。」
姫君は悲しそうに懐から例の紅玉を取り出した。
「私は私の力不足で留珠様を死なせてしまいました…。この上また輝夜様の御身に何事かあれば、私は留珠様になんとお詫び申し上げたら良いのでしょう…。」
ああ、やっぱり顔には出さなかったけど、姫君はあの王子の事に責任を感じているんだ。あれは姫君のせいなんかじゃないのに。心に傷を負ってしまったんだ。可哀相に…。
姫君はそっと瞳を伏せて紅玉を見つめた。今では形見となってしまった大きな紅玉。王子の瞳を写したような悲し気な輝きを放っている。
「それは留珠様の…?」
猫が気付いて問い掛けた。
「ええ。彼の額飾りに付いていた紅玉です。輝夜様にお届けしようと思って…。」
「ああ、どうかそれを姫様の御手に!ひょっとしたらお目を覚まされるかも知れません!」
猫が興奮して叫んだ。姫君も一つ頷くと、紅玉を輝夜姫の白い手にそっと握らせた。
「!」
赤い唇が微かに動いた。猫が勢い込んで耳元で呼び掛ける。
「姫様、姫様。お分かりですか?わたしです。鈴音でございますよ。」
優しく手の甲を叩いている。輝夜姫の手が、ゆっくりと手の中の紅玉を握り締めた。感触を確かめるように。そうするうちに、みるみる閉じられた瞼に涙が盛り上がり、つうっと頬に滑り落ちた。目覚めるのだろうか?淡い期待が猫の表情を明るくした。
「姫様、お目覚め下さい。」
必死の形相で、でも、決して大声にはならないように気を使いながら、猫は輝夜姫に呼び掛け続ける。しかし、輝夜姫の目は開かない。ただ、閉じられた瞼からはらはらと涙が零れ落ちる。その紅玉が愛する王子の物だと理解しているのだろう。だが、目覚めない。それどころか、段々と赤い唇は色あせ、上下していた胸も動かなくなっていく。
「姫様!」
猫の声が悲鳴へと変わって行く。そして、とうとう呼吸は停まってしまった。猫は輝夜姫の枕元で茫然と凍り付いてしまった。
「姫様、何故…?」
姫君も事の成り行きを、ただ驚いて見ている。何かしら手出し出来る状況でもなかった。いったいどうしたと言うんだろう?オレも何がなんだか解らない。輝夜姫はもはや完全に死相を呈している。
戸惑いと驚きに支配された一同の頭の中に、その時響いた声があった。
『鈴音、緑花の姫様。わたくしはここです。どうか姿見を見て下さい。』
猫と姫君は驚いて顔を見合わせ、次の瞬間寝台の横の姿見の鏡の前へ殺到した。
淡い金色の光りを放つ鏡の中には一人の少女が立っていた。
白い小さな顔に、星を散りばめた夜空のように煌めく瞳。くるぶしまでありそうな、ぬばたまの闇を思わせる長い髪。まさに輝ける夜。その名をそのままに表している。なんて綺麗な少女。そうして佇んでいる所を見ると改めてそう思う。
「姫様。」
猫が小さく呼び掛けた。
『鈴音、ありがとう。そしてごめんなさい。』
鏡の中の少女は、優しくひとみを和ませながら猫に語り掛けた。
『わたくしは、留珠様と共に参ります。今生も来世も共にと誓ったお方です。やっとわたくしの元に戻って来て下さった。』
そして、愛おしそうに手の中の紅玉に頬刷りした。それから改めて姫君に向き直ると深々とお辞儀をした。
『緑花の姫様には心からの御礼を申し上げます。留珠様のお心をわたくしの元にお帰し下さってありかとうございます。わたくしはこの時を待っていたのです。』
つうーっと輝夜姫の頬に涙が伝い落ちた。でも、唇には微笑みが浮かんでいる。
『わたくしたちは、やっとこれで一緒になれます。これで良いのです。』
「姫様…。」 猫は何とも言えない割り切れ無い表情で、輝夜姫を見つめた。
「何故姫様までが逝ってしまわれるのです?そんな必要があるとは、この鈴音には思えません!」
輝夜姫は静かに微笑んで首を振った。
『鈴音…、それ程までにわたくしの事を思ってくれるお前の存在を、わたくしは神様に感謝します。』 輝夜姫は胸の前で手を合わせた。
『でもね、鈴音。わたくしは留珠様を愛しているの。あの方の心を連れて天国に参ります。やっと「ひと」に戻ることが出来たお心です。わたくしが共にで無ければ、天国には辿り着けませんもの。』
「姫様、でも!」
『解ってちょうだい、鈴音。これでいいの。これがわたくしの幸福。』 また輝夜姫は紅玉に頬刷りした。
「輝夜様。私はあなたに酷い事をしたのですね…。」 姫君が泣き出しそうな表情をしている。責任を感じているんだ。違うのに!
『緑花の姫様。わたくしはお名を存じませんので…。あなたはよかれとお思いになって、最善の事をなさった。それに間違いはありません。鈴音が何と言おうとも、わたくしはあなた様に感謝しております。』 輝夜姫はニッコリ笑ってまた優雅にお辞儀をした。
『それに、わたくし自身も魔王の呪縛に捕われておりましたから。』
「えっ?!」
『わたくしが何故目覚める事無く眠り続けていたか、賢明なあなた様に解らない訳がありません。自明の理です。あなた様は今、冷静さを失っておられます。』
姫君は、はっとしたようだった。輝夜姫は微かに微笑むと、また話し始めた。
『わたくしが周りの異変に気付いたのは、何時の事になるのでしょうか。今でははっきりと申せません。でも、少しづつ城の中が殺伐と、暗い雰囲気に包まれて行くような、そんな感じがして…。わたくしは間近かに迫った婚礼の事で頭が一杯で、他の事等どうでも良かった…。留珠様のご到着をただひたすら待ち、その準備に追われる日々を、忙しいながらも楽しみながら過ごしておりました。そんなある日、城の周りに魔物が出没しだし、城の出入りに支障が出るようになりだしました。わたくしはその時、留珠様を心配し、婚礼の事を案じました。やがて留珠様の到着の近い事が使者によって知らされ、わたくしは一日千秋の思いでその日を待ちました。そしてあの日、留珠様はお約束通りにわたくしの元にいらして下さった。でも、その時には留珠様は留珠様であって既に留珠様では有り得なかった…。わたくしがお迎えに出た時、そこには幽鬼のように青ざめ血まみれになりながらもなを、獲物を求めてさ迷う、あの方の姿をした魔物がおりました。その時になってやっと、わたくしは事態の本当の深刻さに気付いたのです。でも、遅すぎました。既に城の中でも異変は徐々に進行し続けており、あの方の出現を引き金のようにして、一気にこの黄昏の城は魔城と化してしまいました。王女たるわたくしは、城やこの国を守らねばならない身ではありましたが、為す術もなく…。そうなるとこの国を将来立て直すため、そしてあの方の真実を後世に繋いで行くために、わたくしはわたくし自身を魔王の影響が最小限になるよう、深い眠りに落とす事にしました。そして時を待ったのです。今がその時。あなたがあの方を連れて来て下さったから、あなたがあの方の真実をわたくしよりも知っていて下さるから、わたくしは最後で最大の望みを果たす事にしました。あなた様になら全てを託せますもの。』
ニッコリ微笑む輝夜姫。姫君は、じっとその顔を見ていたが、激しく首を振ると輝夜姫にくってかかった。
「あなたは逃げるのですか!王女としての責任はどうなさるのです!」
「そうです!わたくしは、この国はどうしたら良いとおっしゃるのですか!」 鈴音猫が叫ぶ。
『鈴音…。もう、城の中には誰もいない…。人々は、お父様、お母様を含めて皆、魔物と化して殺し合って死に絶えてしまった…。国民達もまた、ほとんどが魔物と化し、魔界となった砂漠を互いに殺し合いながらさ迷っています…。無事、人として生き残る者は皆無…。わたくしの存在理由など、もはや全く無くなりました。それでしたらせめて、最後ぐらいはわたくしの望みを叶えてはいけませんか、鈴音…?』
輝夜姫の黒い潤んだ瞳に見つめられて、鈴音猫はぐっと詰まった。
「姫様…。それでもわたくしは、姫様に生きていて欲しいのです…!この年寄り猫の最期を看取って、ご苦労様、と言って頂きたいのです!」
猫の目にも涙。初めて見た。猫も泣くんだ。いや、化け猫だから泣けるのか。
『鈴音…。女の子は何時しか巣立って行くの…。そして、愛する人と共に生きる…。わたくしは留珠様と生きる事を選んだの。この現世でなくても来世は共に、と。わたくしにはあの方無しの「生」は意味がないの。解って頂戴。』
鈴音猫はうつむいたまま黙っている。輝夜姫はため息をつくと、姫君に向き直った。
『あなた様にはご迷惑ばかりをおかけして申し訳ないと思っております。わたくしもまた留珠様も…。わたくしはもうじき、天に上ります。鈴音の事をお願いしても宜しいでしょうか…?全ての真実をあなた様に委ねます。これでわたくしは、安心して逝く事が出来ます。最後にひとつ申し上げますが、夜の塔におられる方は、「魔王」と呼ばれるべきお方ではございません。』
姫君は目を見開いて輝夜姫を見つめた。輝夜姫は何を言おうとしているんだろう。
『確かにこの世界に多大な影響を及ぼしてはおりますが、全て「思い」の強さがため。わたくし達のこの世界の意志が弱まってしまっているのも一因かと思われます。今、この世界には、統べるべきお方がおられませぬ。ですから、強い「思い」に引きずられてしまう…。そう、考えるべきでは、と思います。』
輝夜姫は、姫君の瞳をじっと見つめながら、真剣な表情で話している。
「何故、そう思われますの?」
姫君も真剣な表情で訪ね返す。
『わたくしはあの方にお会いしました。悲しい瞳をしておられました。悪い方ではありません。かえってご自分の思いの強さに、ご自分も引きずられておいでなのではないでしょうか。』
姫君は、ちょっと戸惑ったような顔をしたが、やがて丁寧にお辞儀をした。
「お気遣い、ありがとうございます。お陰で少し、疑問が解けたようです。」
『いいえ。今のわたくしに出来るのは、なるべく多くの情報を、あなた様にお伝えする事だけ。予言された光の女王様の、お役に立てれば光栄です。どうか、道をお誤りなさらないよう、また、ご自身を見失ってしまわれぬよう。わたくしからのお願いです。では、わたくし達はこれでおいとまを…。有難うございました。』
輝夜姫は、最後にもう一度深々とお辞儀をした。その姿は段々と薄れて行き、やがてすっかり消えてしまった。
「姫様!」
鈴音猫が追い縋るように叫んだ。しかし、輝夜姫はもう戻らなかった。鏡は既に単なる鏡でしか無くなっていた。すぐ隣に掛けられた打掛が淋し気に見えた。
「緑花の姫様。」
鈴音猫が胸の底から絞り出すような深いため息をついた。
「我が姫様は逝っておしまいになった…。留珠様と昇天された…。これで良かったのですよね…?」
姫君は何も答えない。答えられないのかも知れない。猫はぷるぷると全身を震わせると、全てを振りきるように伸びをした。
「もう止しましょう。今この時から、緑花の姫様、あなた様がわたくしの仕えるご主人様。これは輝夜様の御命令ではございますが、わたくしにとっても大変な喜びでございます。」
猫は膝まずくと、人間の男が主人に忠誠を誓う時にするように、姫君のマントの裾に口づけた。何て猫だ。自分を人間だとでも思っているんだろうか。なんだかむしょうに腹がたった。姫君はされるがままだ。何か深く自分の考えに没頭しているように見える。そんな姫君の様子には全くお構い無しに、猫は話し続ける。
「それはそうと姫様、これから夜の塔に参られるのですか?余りお勧め出来ませんけど。」 そしてちらりと姫君の顔を仰ぎ見る。
「あいつは何を考えているのかよく解らない、奇妙な奴ですよ。」
その言葉に姫君は反応した。
「鈴音は魔王を見た事があるのですか?」
「はい。いずこともなくこの国に現れた時に。頭っからすっぽりと黒い布を被った小柄な人に見えましたよ。それがこんな事になるとは思いも寄らない事で。ただ、薄気味悪く、部屋に篭ったまま一歩も外に出る事もなく、気付いた時には災いの源になっていたという次第です。」
姫君は眉間にシワを寄せた。何か引っ掛かるものがあるのだろうか。そして肩をすくめると、猫に向かって話し掛けた。
「考えていてもしょうがないわね。いいわ。輝夜様がおっしゃっていた事を信じます。鈴音、夜の塔に案内して下さい。」
「畏まりました。」
猫はひとつお辞儀をすると、先に立って歩き出した。
人っこ一人、いや、生き物の気配すら感じられない。もはやこの国には本当にまともな人間は存在していないのかも知れない。姫君は何を考えているのか、ただ黙って歩を進めている。
「ここです。」
やがて、とある階段の前で猫が言った。
「ここが夜の塔の入口。ここから階段を上って、最上階にある天空の間に、奴はいます。」
姫君はごくりと唾を飲んだ。いよいよだ。とうとうここまで辿り着いた。そういえば、青銀の魔法使いはどうしたんだろう。対決の時までには追いつくって言っていたのに。でも、オレには文句を言う資格なんてないか。なんてったって姫君のピンチの時には飛び出して、颯爽と彼女を救う筈だったこのオレが、丸っきり役立たずの状態だもんなあ。それだけ彼女が凄いって事なんだけど。ホント、このお姫様は脱帽ものだ。
姫君と猫はゆっくりと階段を上って行く。何となくひしひしとプレッシャーを感じる。猫の様子が変わって来た。
「姫様、申し訳ございませんが、わたくしはこれより先にはお供できそうにございません。」
人間で言えば真っ青になって、という表情で猫が言った。
「そうね。いいわ。この障気ではあなたも辛い事でしょうし、完全な魔物に変わられて襲われたら、私も困ります。あなたはここから引き返して、私の帰りを待って下さい。」
姫君は猫に頷いて見せた。そして表情を引き締めて上を見上げた。
「姫様…。」
不安そうな顔で猫が言った。
「どうしても行かれるので…?わたくしはまた主を失う痛みには、もう耐えられそうにありません…。」
その言葉にはっとして、姫君は猫に微笑み掛けた。
「大丈夫よ。帰りを待っていて、と言ったでしょう?私は約束を守ります。」
猫はふるふると体を震わせ、縋り付くような瞳をして、実際に姫君の足元に擦り寄った。
「姫様、わたくしは本当を申し上げると、行かせとうはございません。」
へえ。こいつもただの飼い猫なんだ。単にでかいと言うだけで。溢れんばかりの愛情を、飼い主に注ぎ込んでいる。ちょっとばかし奴を見る目が変わったかもしれない。
姫君はそんな猫の頭をぽすぽすと軽く叩いてやって、毅然とした表情で首を振った。
「だめよ。良い子で待っていて。」
そしてきびすを返すと一人で階段を上り始めた。
長い階段。この螺旋階段は、塔の外周を巻きながら上へと続いて行くらしい。幾つ目がの踊り場を過ぎた頃、ふと気付いた。歌が聞こえる。なんだろう。なんだか聞き覚えの有るような、どこか懐かしいようなメロディ。姫君の表情がまた一段と厳しくなった。姫君にも聞こえたらしい。
「子守歌…?」
姫君が呟いた。怪訝そうな声。
「何故…?」
姫君はまたゆっくりと階段を上り始めた。目的地はもうすぐだ。またプレッシャーが強まったような気がする。
「障気が強い…。」
姫君が顔を歪めた。障気。そういえば、姫君といい猫といい、最前から障気、障気と問題にしているけど、オレには単にプレッシャーとしか感じられないのは何故なんだろう。
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