むざむざこの姫君を死なせて堪るか。オレはオレで出来る限りの事をするんだ。後悔はしたくないし、そこにオレがこの世界に来た理由があるような気がする。
さすがに魔王の住まう黄昏の城に近づくにつれ、辺りの様子は不気味に変化を遂げ始めた。黒い雲が低く垂れ込み、生暖かい風が吹いてくる。ユニコーンが鼻をひくつかせ、顔を歪めた。
「邪気がまた濃くなってますね。」
「ええ。私にも解る程のすごい邪気です。やはり黄昏の城を中心として、段々とひどくなるようですね。これから先にはどのような魔物が待ち受けているか解りませんが、私は出来る事なら彼等を傷付ける事無く先を急ぎたいと思っているのです。」
ユニコーンがはっと姫君の顔を見上げた。姫君は一つ頷くと、暗い眼差しを城の方向に向けた。
「ええ。あなたのお話を聞いて色々考えたのですが、あの魔物達の中には、あなたのように心ならずも魔物に変化した者もいるのではないかと。彼等には罪はありません。ですからむやみに傷付けたり、ましてや命を奪ったりは出来ません。いいえ、してはならない、と思います。」 「姫君…。」
ユニコーンはまるで女神を崇めるかのような目で姫君を見つめた。姫君は固い決意の篭った眼差しを、黄昏の城の方へ 真っ直ぐに向けていた。
魔法使いの言い付け通り、魔物のいない場所は極力ベガサスを歩ませながら姫君は進んで行く。全く魔法使いは良い贈物をくれたものだ、とオレは思った。姫君もそう思っているらしい。無駄な戦いをせずに済んでほっとしているように見える。姫君はもう決して弱者ではない。戦えば必ずや相手を倒せる事だろう。だが姫君はそれを望まない。彼女は深く考えていた。どうしても必要な時以外は、力に訴える事はしない、と心に決めているらしかった。彼女は刻一刻成長している。それがオレには伝わってくる。将来はきっと良い女王様になる事だろう。ふと、『お前は?』と尋ねる声が聞こえたような気がした。『それに引き換え、お前は?』と。
突然真っ白い霧が湧き出して、視界が効かなくなった。もう大分黄昏の城に近づいた頃の事だ。不気味な気配に身構えながら、それでも姫君達はゆっくりと進んで行った。りん、と小さな鈴の音がした。うっすらと何かが見える。人影だ。
「!」
ふいにユニコーンが駆け出した。
「王子様!」
間近まで迫ったが、いきなり急ブレーキをかけてたたらを踏んだ。
「…!…」
慌てて後を追って来た姫君も、思わず息を飲んで立ちすくむ。様子が変だ。
「王子様…?」
怖る怖るユニコーンは声を掛けた。もう一度微かな鈴の音がして、ゆっくりと人影はこちらを振り返る。二人は固唾を飲んで見守っている。そして、完全にこちらを向いたその顔は…。
ユニコーンの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間その口から悲しい絶叫がほとばしった。
「王子様!」
見つめる姫君の顔からすうっと血の気が引いて行くのが解った。そこにいたのは、かつては紅玉の国の王子であっただろうモノだった。額には大きな紅玉の輝く王家の輪を付け、片方の耳には王子の身分を示す小さな金の鈴のついたイヤリングをしていた。こちら側を向いた顔の右半分は、色白の優しげな表情をたたえた端正な以前の顔のままだったが、残りの大部分は…。一体どのような悪魔ならこのような残酷な事が出来たのだろう。彼は確かに人の形はしていた。だが、既に人では無かった。青黒く、半分腐っているかのような皮膚に、無数の小さな顔が浮かび上がっている。そしてその小さな顔の一つひとつが、苦しげな、悔しげな表情をたたえて、恨めしそうにこちらを見ている。ゆっくりと持ち上げた腕から、ずるりと腐り果てた肉塊が落ちた。ぽたぽたと腐汁が滴る。あらわになった骨すらも、小さな人の顔を持った神経繊維のようなうねうねとうごめくモノにまとわりつかれている。
うっと小さく叫んで姫君は口を抑えた。吐き気に襲われたらしい。傍らでユニコーンはふるふると小さく震えている。余りの事に声も無い。
だが、魔物と化した王子の方は、そんな事にお構いなく行動を起こした。持ち上げた気味の悪い腕を思いもかけぬ速さで振り降ろす。すかさず辺りを包んでいた霧が渦巻きだし、凝縮を始めた。みるみる魔物と化して行く。やがてあたりは無数の魔物の姿で被い尽くされた。ありとあらゆる悪夢の具現化。地獄の蓋でも開いたと言うのだろうか。恐ろしい、おぞましい、気味の悪い、いや、どんな言葉を重ねようとも物足りない。うようよとうごめき、ずりずりと這いずり、ゆっくりと二人を取り囲みにかかる。
「姫君!」
やっと驚愕から覚めてユニコーンが叫んだ。
「仕方がありません。戦います。いいですね。」 姫君が剣をぬきながら言った。
「姫君!どうか王子様を…!」 ユニコーンは縋るような目で姫君に訴えた。
「出来る限りの手は尽くします!」 姫君はそう応じて、口の中で小さく呪文を唱え出した。知っている。あの、光りの剣を呼び出す呪文だ。はたして暗黒の空と霧を貫いて、一筋の光りが姫君の剣目掛けて降って来てそこに宿った。
「王子様以外の魔物は、このあたりの障気が凝ったもの。遠慮無く戦えます。」 ユニコーンが戦闘体制を取りながら言った。姫君はこくりと頷くと厳しい目を魔物達に向けた。ざわり、と魔物達がざわめいた。光りの剣に敵対心を煽られたのかもしれない。
いきなりユニコーンが行動を起こした。魔物達の真っ只中に飛び込んだのだ。
「姫君!」
不意をつかれた魔物達が慌てふためき、ユニコーンに気を取られた瞬間、姫君が光りの剣で切り込んだ。ガシュッ!イヤな音を立てて魔物の体は真っ二つになった。
(凄い!腕が上がっている!)
何時の間にか姫君は、剣の扱い方すら会得したらしい。いや、要するに度胸の問題だ。迷いが無ければ太刀筋は定まる。
キン!鋭い爪に受け止められた。そのまま力任せに押さえ込まれそうになる。気付いてユニコーンが体当たりをくらわす。素早く体制を整えると光りの剣を横なぎになぎ払う。
「ギャー!」
これで二匹目。まだまだうようよいる。ユニコーンが呪文を唱えて雷を呼び出し、魔物達の真ん中に打ち込んだ。凄まじい豪音と共に十数匹の魔物が吹っ飛んで、しゅうしゅう音を立てて消えていった。姫君もまた何か呪文を唱え始めている。とたん、光りの剣に金色の光輪が宿った。微かに唸りを上げながら刀身の回りを巡っている。姫君は思いっきり剣を振り被ると勢いを付けて振り下ろした。ウィンと音を立てて金色の光輪が凄い勢いで魔物達目掛けて飛んで行く。ザシュッ!光輪は鋭い刃だった。それが回転しながら空中を飛び、次から次へと魔物を襲う。あっという間に数十匹の魔物をほふってしまう。しゅうしゅうと音を立てて消えていく魔物達の向こうに、もう残り僅かになった魔物に守られて、かの王子の姿が見える。感情が有るのか無いのか、自分が招いたこの戦闘に興味すら無いのか、その視線は姫君にも、必死に呼び掛けるユニコーンにも向けられてはいなかった。時を移さず姫君は残りの魔物に斬りかかった。呆気ない程簡単に、光りの剣の餌食にしてしまう。なんつー上達の速さだ。舌を巻く、とはこういう事か。
ゆらり、と王子がこちらを見た。
「王子様!」 すかさずユニコーンが注意を引こうと呼び掛ける。
「わたくしです!あなた様の近習、ユニコーンの亜紺にございます!お見忘れですか?!」
相変わらず王子は無表情のままだ。ユニコーンの事も、彼の言葉も理解しているようには見えない。それどころか、白骨となり果てた腕を持ち上げ、何事か始めようとする気配だ。
「!」 姫君が身構える間も与えず、間も与えず、あの白骨の腕から小さな顔の群がり付いた神経繊維の束が襲い掛かって来た。驚く程の素早さ。軟体生物そのもののおぞましい動きで、姫君の腕と首に絡み付く。
「!」 見ると、ユニコーンの首にもうねうねとうごめく神経繊維の束が絡み付いている。ぐいと締め付けられて、姫君の手から剣が落ちる。
「くうっ!」首を締められて、その感触の余りのおぞましさに全身鳥肌が立ってくる。
「ユニコーン!駄目です!王子様の心にあなたの言葉は届いていません!」 姫君が叫んだ。
「!」ユニコーンが姫君を振り返る。
「ならばどうすれば?!」
「名前です!王子様の名前を呼ぶのです!王子様の身近にいたあなたなら知っているはず!王子様の名前で王子様の心を呼び覚ますのです!」
「解りました!やってみます!」 ユニコーンは覚悟を決めたように大きく息を吸うと再び王子に向かって呼び掛けた。
「王子様!留珠(るうじゅ)様!わたくしです!亜紺です!お忘れですか?!」
ぴくり、と王子が動きを止めた。締め付ける力も弱まった。ゆっくりとユニコーンを振り返る。
「亜紺…?」 小さく呟く。
「はい!留珠様!亜紺にございます!」 力を得て、ユニコーンは畳み掛けるように叫ぶ。
「留珠様!お止め下さい!わたくし達はあなた様をお探ししていたのです!どうか話を聞いて下さい!」
「わたしを探して…?わたし…?わたしは…誰だ…?」
酷く混乱しているらしい。
「留珠様。あなた様は紅玉の国の王子、名前を留珠様とおっしゃいます。この銀砂の国に婚約者の姫君、銀砂の国の王女、輝夜(かぐや)様との婚礼のため赴いて来たのです。」
「かぐや…輝夜…。輝夜!そうだ…!輝夜姫!」
王子の様子が変わった。
「姫はどうしている?!今どこにおられる?」
「王子様、お気が付かれましたか? 」 ユニコーンがほっと息を付いた。
「亜紺。わたしは何をしていたのだ?」 王子は相変わらず混乱した様子で、自分がどういう状態なのかすら掴めていないようだ。
「王子様、ひょっとして記憶を無くしておられるのですか?」
王子が自分を取り戻すと同時に、あの気色悪い神経繊維のお化けはしゅんと音を立てて引っ込んで行ったので、どうにも我慢できない生理的な嫌悪感からは解放されていたのだが、その事すら王子には意識されていないようだった。
「…王子様…わたくしの話を聞いて下さい。」 ユニコーンが歯切れ悪く話し始めた。この状態をどうしたら相手にショックを与えずに伝えられるというんだろう?途方に暮れる気持ちだろう。彼にしてみれば、自分の敬愛する主人が、そのような姿で目の前に現れた事自体が、物凄い衝撃だったはずなのだ。それなのに彼は、さらにその事実を当のそのご主人に告げねばならないのだ。口も気分もさぞや重い事だろう。
「驚いてはなりません。先ずは落ち着いてご自分のお姿をご覧になって下さい。」
「?」 王子は何が何だかわからない様子で、それでもユニコーンの言葉に従って自分の姿をかえりみた。
「!」 王子の表情に衝撃が走る。そして、助けを求めるようにユニコーンを振り返った。
「亜紺。これは…。」
「王子様…。」 痛ましそうにユニコーンは頷いた。
「はい…。そうなのです。お気の毒ながら、今のあなた様は既に婚約者の姫君をお迎えにいらした時のあなた様ではございません。思い出して下さい。あれから一体何が有ったのですか?あなた様をこれ程迄に変貌させてしまうような何が有ったのですか?!」
「あれから…?」 王子は真剣に考え込んだ。
「わたしは輝夜姫との婚礼のため、銀砂の国の黄昏の城を目指して旅をしていた。そう、亜紺、お前も一緒に。だが、確か黄昏の城に近づくにつれ、共の者達に異変が生じ始め、城が見え出した時には、彼等は魔物と変わり果て、わたしを襲って来た…。亜紺もわたしを護って孤軍奮闘してくれていたのだが、いきなりもがき出したかと思うと、やはりその姿は恐ろしい魔物と変じ、一声叫んだかと思うとわたしの前から走り去り、姿を消してしまった…。それを見てわたしは…。」
「あなた様は?」 ごくりとユニコーンは唾を飲み込んだ。
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