「乳母やは下がっていて!」
「は、はい!」 慌てて乳母さんは、転がるように近くの岩陰に逃げ込んだ。今にも飛びかからんばかりに化け物は、荒い息を吐き、大量のよだれを垂れ流している。背中を冷たいものが走ったような気がした。
また、姫君が小さく呪文を唱えた。空から稲妻が化け物目掛けて走る。だが、素早く飛び避けた。意外と身軽な奴だ。そしていきなり突進して来た。辛うじて身をかわす姫君。でも、よろけて体勢を崩してしまった。すかさず体当たりにくる化け物。避けきれずまともにくらった!岩に背中を打ちつけて、痛みに姫君の意識が遠ざかっていくのが判る。
「姫様!」 乳母さんが金切り声を上げる。化け物はゆっくりと近づいて来る。
(おい!しっかりしろ!このままじゃ喰われちまう!) オレも必死に叫んでいた。オレは目が覚めりゃ済むんだろうけど、この姫君は喰われてしまう!死んでしまう!そんなの駄目だ!でも、どうしたらいい?!化け物はすぐ目の前まで迫っている。
「ええい!姫様を食べるのなら、わたくしを先にお食べなさい!」 叫びざま乳母さんが間に割って入り、姫君を庇う。そして物凄い形相で化け物を睨みつける。その勢いに押されてか、化け物が一瞬たじろいだ。凄い迫力だ。あの、人の良い、柔和なオバさんといった外見からは想像もつかない。自分も無茶苦茶恐ろしいんだろうに、命懸けで姫君を守ろうとしている。いやだ。この乳母さんも死なせたくない。オレはどうしたらいい?ぐったりしたきりの姫君。畜生!せめてオレが、中にいるという理由からでもいい、この体を動かせたら!逃げ出すにしろ、戦うにしろ、何とかできるのに!
(くそっ!動け!)オレは必死に念じた。想像上の手を一生懸命動かそうとあがいた
ー!― 動く!姫君の指がぴくりと動いた!オレは力を振り絞った。
(動け!)
ゆっくりと姫君は立ち上がった。いや、オレが立ち上がった。いまいち使い勝手がよく判らないが、何とかなる!
光りの剣を握り直すと、化け物を睨み付けている乳母さんに声を掛ける。
「下がって!」
「姫様!」乳母さんの顔が輝く。
今度はオレが乳母さんを庇って前に出る。油断なく化け物を睨み付け、間合いを取りながら八相の構えをとる。ぐるるるる…。化け物は唸りながら、ゆっくりと右方向へと動き出した。まさか、さっきとは中身が違うことに気付いた訳じゃないだろうな。オレは少し勘繰った。そうなると、変に警戒されて、形勢が余計不利になる。でも、そんな事考えていてもしようがない。一か八か、やってみるしかない。化け物に後ろに回り込まれないように、オレもゆっくりと右に回る。その緊張感から、徐々にオレの勘も戻ってくる。これでもオレは昔、北辰一刀流開祖千葉周作の再来、神童、と言われた事があるんだ。まあ、名前にちなんだお世辞だとは解っているつもりだけど。それでも、剣道を噛っていた事には間違いない。受験のため、今は休んでいるんだ。こんな化け物、油断さえしなけりゃ…。あれ?オレは自分で自分に言い聞かせている?ビビってるんじゃねえ!男だろ!思わず自分に喝をいれる。姫君を助けるんだ!
不意に化け物が飛びかかって来た。鋭い爪が顔を目掛けて飛んでくる。咄嗟に光りの剣で受け止めた。火花が飛び散る。凄い力だ。姫君の腕力では受け止めるにも限度がある。オレは咄嗟に判断して、次の一撃を受け流すと、中段から上段へと振り被って、一気に飛び込んで斬り下げた!とたん、闇が裂けた!真っ暗な空から雷光が走り、化け物目掛けて雷が落ちた!一瞬辺りが眩しいばかりの白光に覆われオレの意識が遠ざかって行った。
気がつくと、青く晴れ渡った空を背景に純白のユニコーンが一頭、佇んでいた。長いまつげに覆われた真っ青な瞳でこちらをじっと見つめている。思わず、ああ、綺麗だ、と呟こうとして気がついた。体が自由にならない!慌てるオレを尻目に姫君がうっとりと呟いた。
「美しいユニコーンよ。お前はどこから来たの?私はどうしたのかしら?記憶がないのよ。お前は知っていて?」
姫君はほっそりとした腕を伸ばして、ユニコーンの柔らかなたてがみを撫でている。やっぱりどうやっても、姫君の体はオレの思い通りに動いてはくれない。さっきのは何だったんだ?オレの頭はウニになりそうだ。またオレは傍観者に逆戻りか。それはそれで仕様がないのかもしれないけど、なんとなく納得できない。
ユニコーンはしばらくそうやって大人しく撫でられていたが、まばたきを一つすると口を開いた。
「姫君、ありがとうございました。御蔭様でわたくしはやっと、元の姿に戻ることが出来ました。」
姫君は撫でていた手を止め、ユニコーンの瞳を覗きこんだ。
「何の事かしら?私、あなたに何かしたの?」
ユニコーンはふっさりとしたまつげを伏せて、まるで苦笑いするかのように首を振った。
「覚えておられないのですね。はい、姫君。真っ二つにしていただきました。」
姫君は首をかしげる。それを見てユニコーンは小さく笑った。
「解りませんか?わたくしは、先程まであなた様を喰い殺そうとしていた化け物です。」
姫君は瞬間固まった。
「大丈夫ですよ。もう、あの化け物はおりません。あなた様が倒して下さいました。」
「え?私があの化け物を?」
「はい。見事に真っ二つにしていただきました。」
ユニコーンはにっこり笑って断言した。
「そう…。」 姫君は怪訝そうに呟く。
「私にそんな事が出来るとは思ってもみなかったわ。余りの苦難に、体が勝手に反応したのかしらね。それはそれとして、乳母やは何処?無事でいて?」 姫君は辺りを見回して乳母さんの姿を探した。乳母さんは岩場の傍の砂の中に半分埋もれて気を失っていた。
「乳母や!」 姫君は慌てて乳母さんを掘り出すと、頬を軽く叩いて呼び掛けた。やがて小さいうめき声を上げると、乳母さんはうっすらと目を開けた。
「乳母や!」
「姫様…。わたくしは気を失っていたのですか?化け物…あの化け物は?姫様が斬りつけた所までは見ていたのですが…。」
「それがね…。」 姫君はちらりとユニコーンを見た。
「このユニコーンが、あの化け物は自分だ、と言うのよ。」
「はい。あれはわたくしでした。」 ユニコーンが後を引き継いで言う。
「最初からお話ししましょう。わたくしは紅玉の国の王子に仕える者。もう二年ほど前になりましょうか。わたくしは王子のお供をして、王子の婚礼のため、婚約者の銀砂の国の姫君をお迎えに、銀砂の国の黄昏の城に向かって旅をしておりました。順調に旅は進み、一行は国境を越え、紅玉の国から銀砂の国に入った頃でしょうか。ある時、わたくしは銀砂の国の異変に気付きました。かつて銀砂の国は、美しい銀色の砂漠と、緑したたるオアシスが織り成す、生命溢れる素晴らしい国でしたのに、一歩足を踏み入れたそこは、オアシスは干上がり、生命のかけらも存在しない灰色の砂漠が広がっているばかり。その余りの変わりように、わたくしも我が王子も、最初は唖然とするばかりでしたが、次には婚約者の姫君と銀砂の国の王様や人々の身が案じられました。わたくし達は旅路を急ぎました。すると、黄昏の城に近づくに連れ、一行の中にもだんだんと異常を示す者が現れ始め、城が見え出した頃には、わたくしと我が王子の他には正気を保っている者すらおらぬようになっておりました。それどころか、いきなり黒い障気のようなものにまとわり着かれたかと思うと、次々と魔物へと変化し始めたのです。そしておぞましい姿で、わたくしと我が王子とを喰い殺そうと、襲って来たのです。わたくしは我が王子を護って、懸命に戦っておりました。しかしその時、不意にわたくしをも、かの障気が襲い、次の瞬間わたくしは、我と我が身がおぞましい化け物へと変わりつつあるのを知りました。そして我が心すらも、暗黒の闇に閉ざされようとしている事も。わたくしは慌てました。このままではわたくしは、わたくし自身が誰よりも大切な我が王子を喰い殺してしまう、と思いました。咄嗟にわたくしはその場から逃げ出しました。最悪、そうなるのだけは避けたかったのです。その後、砂漠の真ん中で我が身は完全に化け物と化し、幸運だったのか不幸な事なのか、心の方は闇に支配される事はなかった代わりに、闇の檻に閉じ込められ、我が身は自分の意志では動かせなくなり、ただ本能の赴くまま、温かい血肉を求めて、砂漠をうろつき回る事となってしまいました。情けない事に、体は自由にならなくとも、感覚はそのままなのです。わたくしは汚れを嫌うユニコーンの身でありながら、多くの罪なき人々や動物達を次々と餌食にして 、その悼みと苦しみと恐怖に我が心はずたずたに傷つきながら、それでも自害する事すら出来ずに、ただ悶え苦しむばかりでした。そんな時に姫君に出会い、姫君が化け物を真っ二つに斬り倒して下さった事により、中のわたくしを救って下さる事となりました。」
改めてユニコーンは姫君に頭を下げた。姫君はほうっと一つ息をついて、ユニコーンを見つめた。
「大変な苦労をなさったのですね。私がお役に立てて幸いですわ。私はただ身を護ろうとしただけなのですから。それでは、あなたのご主人、紅玉の国の王子様はどうなさったのですか?」
「あれきりお会いする事もなく、お探しする術もなく…。」
ユニコーンは深い青色の瞳を伏せて答えた。
「そうですか…。私達は東の果て、天山に住まうという魔法使いに会いに行く途中なのですが、彼ならば何か紅玉の国の王子の消息も知っているやも知れません。宜しかったらあなたも一緒に参りませんか?」
姫君はユニコーンに申し出た。
「宜しいのですか?わたくしはいかに闇に捕らわれていたとは言え、あなた方を喰い殺そうとしていたのですよ。」 ユニコーンはおずおずと尋ね返す。
「構いません。今は完全にあなた自身に戻られたのでしょう?ならば何も心配する必要もないではありません。」 姫君はにっこり笑って答えた。
「ありがとうございます。ご好意に甘えさせて頂きます。」
そうして一行は、二人と馬二頭、ユニコーン一頭の構成になった。
旅路を急ぎながら、一行は色々な話をしている。女二人の話好きに、よくユニコーンは付き合ってられるもんだ。オレならやつてられないだろうな。多分、時にはうんざりして、投げ出したくなっているだろう。オレはひたすらユニコーンに同情した。
「ねえ、ユニコーン。」 ある時姫君はユニコーンに尋ねるともなく話し掛けた。
「私、思ったのだけれど…。」
「?何ですか、姫君?」
「あなたは、魔王の事について、何かご存知ではありませんか?」
「はい?」
「私達は魔王を倒す術を探して魔法使いの元へ参るのです。魔王が我が国と我が国民の安全とを引き換えに私自身の身柄を要求してきたものですから。だから、もしあなたが情報をお持ちでしたら、私に教えて頂けないかしら。あなたはきっと何かを知っているはずだと思うの。」
「魔王…ですか?わたくしは、化け物と化した二年程前からの事はまるで解らないのですが…。それ以前の記憶には『魔王』と言う存在はないようなのですが…。」 ユニコーンは首を傾げて答える。
「ええ。私が聞きたいのはあなたが変化する前の事。その頃に丁度、魔王が現れたと伝えられています。そして最初は唯の異邦人であった、と。」
ユニコーンは考え込み、ふと思い出したように呟いた。
「そういえば…。」
「何かありましたか?」 姫君は勢い込んで尋ねる。
「はい。そういえば、我が王子の婚約者の姫君の銀砂の国の黄昏の城に、異邦人のお客人が参られたとか…。」
「そう、それでその方は?」
「はい。黄昏の城の夜の塔に、住まわれる事になったそうですが…。わたくしは、その後の事は存じません。」
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