オレはこの世界の者ではないからなんだろうか。逆に変な温もりすら感じ取れたりしている。この違いはどこから来るのか。
暗い階段の頂上に、一枚のドアが見えて来た。姫君の眉間にシワが寄っている。足どりが重い。オレはなんにも感じていないけど、姫君にはこのプレッシャーがかなりの物質的重量として感じられてでもいるんだろうか。
重苦しい思いに囚われて、ふと気が付いた。「思い」にも質量や重さが有るんだ。この世界では。やっと魔法使いが説明していた事がおぼろげにだが解ったような気がした。
階段を上り切った姫君が、ドアの取手に手を掛けた。一瞬の躊躇の後、思い切って引き開ける。とたん、白い影達が飛び出して来た。小さなユニコーン、ペガサス、ドラゴン、シルフィード、アルフ達、サイレーン…。数限りない空想上の生物達が実体のない幻影となって次から次へと飛び出して来る。
(うわっ!)
オレは思わず顔を庇った。姫君も同じ様に腕で顔を庇っている。幻影達は、だがオレ達に襲いかかる事もなく、ただ勢い良く飛び出して来ては通り過ぎ、オレ達の背後で空中に溶け込むように消え失せてしまった。
(何なんだ?これは!)
オレはただ呆気にとられて、幻影達の消え失せる様を眺めた。
やがて嘘の様に幻影達の来襲はぴたりと止み、目の前には真っ暗な空間が有るのみになった。ここに足を踏み入れなければならないのか。オレは思わずたじろいだ。姫君も同じだったらしい。大きく深呼吸をすると、やっとその空間に一歩踏み込んだ。
まるでここは果てしない宇宙空間の様だ。いや、実際に足元には小さな渦巻き銀河が浮いている。あちらから小さな彗星が、目の前を横切って通り過ぎて行った。ここはどこだ?夜の塔の中じゃあなかったのか?混乱するオレを尻目に、姫君は確かな足どりで進んでいく。あれ?姫君の足の下には、しっかりと床が有る。という事は…幻影なのか?この小さな銀河が散りばめられた空間は、さっきの妖精達のように幻なんだ。オレはちょっと安心して、姫君の横顔を盗み見た。姫君には最初から幻影だと解っていたのだろうか。少しも躊躇する事のない確固たる足どり。やっぱりこの姫君はただものじゃない。
幻想宇宙を少しゆくと、部屋の中心らしい場所に真っ黒な塊が見えた。銀河の光りを背景に黒々と渦巻いている。
(暗黒星雲だ。)
姫君は圧倒されたようにその場に立ち止まった。暗黒の渦巻く中心をじっと見つめる。
突然大きな光りの矢が、姫君の隣に降り立った。
「姫君、お待たせ致しました!」
見ると、青銀の魔法使いが、定番の魔法使いの杖を手にすっくと立っている。
「どうやらなんとか間に合ったようですな。」
姫君は、彼の顔を省みて瞬間笑顔を覗かせたが、すぐに再び暗黒星雲に視線を戻すと、じっと睨み据えたまま魔法使いに話し掛けた。
「名付け親の君。あれが本体なのでしょうか?」
「ふむ。この障気の具合から見て、間違いはなさそうですな。」
難しい顔をして魔法使いは頷いた。
姫君は再びごくりと唾を飲み込んだ。額を冷たい汗が伝った。
「さて、どうしたものか…。」
魔法使いが囁くように言った。
「下手に手だしをすれば、まともにこの障気を食らってしまう…。そうなると、いくら光の姫君と青銀の魔法使いたるわたしでも、ただでは済まないでしょうな…。」
すると、気配を察したのか、ふいにあたりに「声」が響き渡った。
『ダレ…?』
魔法使いと姫君は一瞬顔を見合わせ、お互い頷き合うと、姫君が答えた。
「緑花の国の世継ぎの王女です。御使者の口上を伺いまして、まかりこしました。」
暗黒星雲がざわりとうごめいた。
『待ッテイタ…。早クコチラヘ…。』
声と同時に、暗黒星雲から黒い触手が素早く伸び、姫君の手首に絡み着きぐいと引き寄せようとした。
「!姫君!」
慌てて魔法使いが阻止しようと杖で打ち掛かる。
『邪魔スルナ!』
鋭く声が飛び、無数の黒い触手が魔法使いに襲い掛かる。
「名付け親の君!」
姫君は必死に抗らいながら剣を引き抜き、なんとか触手を切り離そうともがいた。
『早クコチラへオイデ、春華。ズット待ッテイタ…。』
名前を呼ばれたとたん、姫君の全身からすっと力が抜けてしまったようだった。もうなにも抵抗する事なく、暗黒星雲に吸い込まれるように引き寄せられていく。その手から、からんと剣が落ちた。
「姫君!いけない!くそっ!『名前』を使われた!」
魔法使いが叫ぶが、触手の攻撃のあまりの激しさに、姫君の助けには行こうにも行けない。オレは慌てて呪文を唱えた。
実体化すると同時に姫君の落とした剣を拾い上げ、姫君を束縛している触手に斬り付けた。ザシュ!鈍い音を立てて触手は切り離され、自由になった筈の姫君はその場にへたり込んだ。
「姫君!」
声を掛けて後ろに庇う。だが姫君は虚ろに目を見開いているばかりだ。
「守護騎士殿!ナイスタイミングだ!姫君を頼む!」
魔法使いが叫んだ。
『邪魔ヲスルナ…!』
暗黒星雲から今度はオレを目掛けて触手が飛んで来た。必死に防戦する。
「姫君!後ろに下がって!」
オレは姫君に叫んだ。姫君を庇いながら戦うには限度がある。オレは左右に触手を斬り払いながらなんとか姫君に体勢を立て直して再び暗黒星雲に立ち向かってもらおうと思った。だが何度叫んでも姫君はなんの反応も示さない。
「姫君!?」
「騎士殿、姫君は『名前』を束縛されたのだ!君が今度は姫君の名を呼び、姫君を呼び覚まさねばならない!君はその、特別なつながりでこの世界にやって来た。君の方が魔王より姫君の心に訴える力が強い筈だ!」
触手を振り払いながら魔法使いが叫んだ。
(名前?さっきから訳の解らない事ばかり言われてる…。)
オレは一人だけ疎外されているような気分だった。なんだかオレだけ手品の種を知らされていないみたいに。
「ええい!何をぼけっと考えている!さっさと名前を呼ばんか!呼んでみれば解る事なのだ!」
魔法使いが焦れて叫んだ。
(どうにでもしてくれ!)
オレは襲い掛かってくる触手の一本を叩き斬りながら素早く姫君を振り返り叫んだ。
「春華姫!目を覚ませ!運命を切り開くんだろう?!春華!目を覚ませ!」
効果は覿面だった。見る見る姫君の瞳に生気の光が蘇り、次の瞬間ぱっと飛び起きて暗黒星雲の触手の攻撃の及ばない所まで飛び退く。
「春華姫!正気を取り戻したのか?!」
叫ぶオレを驚きの眼差しで見つめる姫君に、魔法使いが攻撃を受け流しながら早口で説明した。
「姫君、大丈夫です!味方です!あなたの守護騎士殿です。ずっと影となってあなたを守り続けて来た方です!」
姫君はそれを聞くとはっとオレの顔を見直し、それから納得したように頷いた。そしてすっくと立ち上がると口の中で小さく呪文を唱え、手の中に一本の剣を生み出した。頭上高く掲げる。いずこともなく光の粒子が、そこを目掛けて集まって来る。こんな真っ暗な所なのに、姫君の呼び掛けに答えるがごとく、暗黒星雲に対する銀河の様に、キラキラと輝く渦となって姫君の掲げる剣を中心に姫君をもその光に包み込んで行く。やがて光は剣の刀身に集中し、姫君は上段に構え直した。
「一気にケリを着けます!伏せて!」
叫ぶと同時に暗黒星雲の中心目がけて剣を振り降ろした。光は瞬間一匹の竜と化し、大きく口を開けて躍りかかる。
一瞬、視界がまばゆい光に覆い尽くされ、激しい轟音が耳をつんざいた。慌てて身を伏せていたオレの頭上を爆風が通り過ぎた。そしていきなり静寂が訪れた。
目を開けると、あたりはまた濃い闇に包まれていた。急いで姫君の姿を探す。数歩離れた所に倒れている姫君を見つけて、慌てて駆け寄った。
「姫君、大丈夫ですか!?」
抱き起こして声を掛け、揺り動かすと姫君はゆっくりと目を開いた。
「ああ、守護騎士殿…。魔王はどうなりました…?」
オレは急いであたりを見回した。敵の事などしっかり忘れていた。姫君の事しか頭に無かった。
相変わらず真っ暗な部屋だ。広さがまるで掴めない。やはり数歩離れた所に魔法使いが倒れている。他には何も見えない。
(やったのか…?)
オレは姫君を立ち上がらせながら、そっと呟いた。
(その割にはなんだかいやに呆気ないな…。確かに今のはまるで、アニメヒーローの必殺技みたいな物凄さだったけど…。)
姫君もまだ厳しい表情のまま、油断なくあたりを見回している。オレは姫君をそこに老いて魔法使いを助け起こしに行った。彼は意外とダメージを追っていたようだ。身体の自由が利かないらしい。でも、なんとか身体を起こすと、かすれた声で忠告した。
「姫君、御油断召さるな。障気は消え去りましたが何かおかしい…。」
姫君はこくりと頷くと、オレと魔法使いの元に走り寄った。
「あれしきの事で、あれ程の障気が消え去ってしまった…。姫君のお力は充分に認めてはおりますが、そんな、ただそれだけの実力でこの世界がここまで荒れ果ててしまったとは考えたくありません…。」
「解っています。」
姫君が魔法使いに癒しの呪文を唱えてやりながら受け合った。するとその時、空気が動いた。
とろりとした闇の支配する部屋の中に、何時の間にか暖かそうな光りが灯っていた。かつてあの暗黒星雲のあったあたりに。振り向いたオレ達は、かえってその意外性に目を見張った。
「姫君、あれは…。」
魔法使いが囁くように言った。姫君は厳しい目付きでじっと光りを見つめている。
「魔王の…本体…?」
姫君は腰の鞘に剣を落とし込むとかぶりを振った。
「そうと限ったものでもなさそうです。ご覧なさい。」
促されて目を凝らすと、光りの中に人影が見える。白い寝巻のようなものを着た女の子だ。七・八才に見える。
(何故こんな所に女の子がいるんだ?)
オレと魔法使いは顔を見合わせた。
(しかも、魔王がいたらしい、邪気の中心だった場所だぞ。)
女の子はこちらに背を向けたまま、座り込んで一心不乱に何かをしているようだ。
「まるで陰と陽の対比を目の当たりにしているような気がしますな…。」
魔法使いが気に入らない、といった風情で言う。姫君は少し和らいだ表情になって頷いた。
「ええ。でも、なんだか微笑ましい…。それでもこれには意味があるはずですね。」
そしてまた表情を引き締めると、意を決したように女の子の方へ近づいて行く。オレはそっと邪魔にならないように、そしていざという時には間に合う距離を保って後を追った。女の子の直ぐ傍まで近づくと、姫君は驚かせないようそっと声を掛けた。
「こんにちは、お嬢さん。何をしているの?」
その問い掛けに女の子が振り返った。
(あれ?この子、何処かで会ったような…。) オレの頭をそんな思いが横切った。
彼女は、声を掛けたのが姫君だとわかると、ニッコリと微笑んだ。警戒する様子もない。
「あのね、お話を作っているの。こうやってね、最初にどんなお姫様のお話にするか、お絵描きして決めるの。」
(あ、やっぱり聞き覚えがある…。) オレは彼女の顔を穴のあくほど見つめた。
「そうなんだ。でも、どうしてここにいるの?あなた一人だけで。」
彼女はふるふると首を振った。
「わかんない…。わたし、ただお話を作りたいだけ。お話を作るの、大好きなんだ。」 にこにこと笑いながら言う。
「ね、わたしの作ったお話、聞いてちょうだい。」
そのあまりの無邪気さに、姫君は思わず微笑まずにはいられなかったようだ。
「ええ、いいわよ。でも後でね。今はここから出なくては。あなたも一緒にいらっしゃい。」
しかし彼女は、そんな姫君の話しを完全に無視して、自分のしたい話しを始めてしまった。
「あのね、これは銀の砂の国のお姫様。そしてね、こっちは紅い宝石の国の王子様。二人は恋人同士なの。でもね、年老る白猫がね、二人の邪魔をするの。そしてね…」
彼女の指さす絵を見、話しを聞きながら姫君の顔から血の気が引いていくのが解った。
「輝夜様…留珠様…。」
姫君が呟くのを聞き付けて、女の子が振り返って微笑んだ。天使の笑顔。
「なんだ、知っているんだ。あのね、でもわたし、殺すつもりはなかったんだよ。ちゃんと、二人は結婚しました、めでたしめでたし。で終わる筈だったのに…。二人とも勝手に変わっていっちゃって、不幸になって死んじゃった。なんでかなあ。」
姫君は思わず後退りしていた。女の子はくすりと笑うとゆっくりと立ち上がった。
(あれ?成長している…?)
何時の間にか彼女は、十二・三才に見える程に成長していた。いや、今も少しずつ成長し続けている。
(どうして…?)
それと共に纏っていたものも微妙に変化していっている。薄い水色のかわいらしいドレスから青のワンピース、そして群青色のブラウス…。
「わたし、自分で作ったお話の国をイリュージアって名付けたわ。そしてそこの人達の愛情も、冒険も、野望も、希望も、全部書き続けて来たの。だから、わたしが大きくなるにつれ、イリュージアはわたしの中で、もう一つの世界として成長していったのよ。」
濃い灰色のロングスカートをはいた若い女が、強い視線を姫君に注ぎながら言った。
「姫君!」
後ろから魔法使いが掠れた声を掛けて来た。姫君の唇が微かに震えている。二人とも異様な雰囲気に圧倒され始めている。彼女のこの変貌は一体何を意味するのだろう…?そして彼女の口にしているこの話しは…。
オレはオレで、別の意味で青ざめていくのが自分自身でも良く解った。
(この声…。この話し方…。この顔…。マジかよ…。)
はっきり見覚えがある。でも、認めたくない。オレはどうしたらいい?どう考えてもわけが解らない。
(どうして…?)
何時の間にか風が吹き始めていた。あの若い女の周りに。いや、彼女はまだ年をとり続けていた。そしてその服も、今では真っ黒な喪服へと変わっていた。
「わたし、幸福だったの。とっても。夢を見て、夢を書き綴って、愛を得て、子供も授かって、絵に描いたようなしあわせな家庭を築いて…。わたし、とってもしあわせだったのよ…。」
中年の、悲しい目をした女がそこにいた。闇そのもので出来ているかのような真っ黒な長いマントに、フードを深々と被り、そこから覗く目だけが異様にギラギラしている。姫君がごくりと唾を飲み込んだ。冷たい風か吹いて来る。まるで台風の目のように、彼女を中心にして風が吹き出して来る。次第に強まる風は彼女の全身から滲み出て来る障気で、黒く染まり始めていた。
姫君も魔法使いも、身動き一つ出来ずにいた。その圧倒的な迫力。彼女の抱く深い悲しみ。
「わたし、本当にしあわせだったの…。それなのに、何故わたしはここにいるの?何故一人っきりでこんな所にいるの?」
女は酷く悲し気でひどく怒っているように見えた。
「解っているわ。ここはイリュージア。でも、わたしの中の世界だった筈よ!決して現実ではない、わたしの空想のパラダイス…。それなのに何故わたしがここにいるのよ!?」
今や、黒い嵐が吹き荒れていた。金縛りに有ったように、姫君と魔法使いは凍りついてしまっている。ごうっと風が唸りをあげた。また、暗黒が部屋の中を支配していた。ただ違っていたのは、暗黒の中心には今、あの女がいる。あの女の果てしない悲しみと怒りが、この暗黒の障気を創り上げていたのだ。
たった一人の人間の思いの強さが、この世界を危機に導いている。それこそがここがイリュージアである証拠で有り、理由なのか。オレはただぼんやりとそんな事を考えていた。
宙を見て、己の世界に入り込んでいた女の目が、キラリと光った。姫君をじっと見つめる。そして、にたり、と笑った。
「だからわたし、考えたのよ、この世界の事。この世界の成り立ちや設定。登場人物の行動、性格、役割…。古い馴染みですもの、思い出すのに大して時間はかからなかったわ。」
それからくすりと笑って大きく頷いた。
「だって、ここはわたしの世界なんですもの。気付かない訳がない。そう、わたしの思いの強さだけでは足りなくて、わたしの思いが叶わないのならば、この世界で一番思いの強い者を手に入れて、支配して、共に願えば良いのよね。」
轟々と吹き荒れる風の中、何故こんなにはっきりとあの女の声が聞こえるのだろうか。いたって静かに、静か過ぎる程の口調で話されているというのに。女の視線が姫君にまとわりつくようだ。
「だから、あなたを呼び付けたの。春華姫。ようこそ参られた。」
女はにたりと笑って、姫君の方へ手をさし延べた。いや、それはもう既に『女』と呼べるような代物ですら無くなっていた。真っ黒な闇の塊。それがまるでドライアイスが気化するように、障気をしゅうしゅうと放っている。もう『人』のかたちすら留めていられないのか、輪郭がぼやけて滲んでいる。闇がほどけて嵐となって吹き荒れている。
「闇の化け物…。やはり、魔王…!」
魔法使いが真っ青になって身構えた。だがまだ動きがぎこちない。
「だめだ!行ってはいけない!姫君!」
ゆらり、と姫君の体が揺らいだ。また、意識ごと呪縛されたのだ。
「?何故だ?!名前の呪縛はさっきほどいた筈だ!これほど強い呪縛は名付け親たるわたしにも施せない!何故だ?!」
魔法使いがパニックに陥っていた。
クックックッ…。闇が笑った。
『オ前ハ、自分ガ名付ケ親ダト思ッテイル。ダガ、コノ世界ヲ創ッタノハ、コノワタシ。実際ハ全テワタシノ中カラ出テ来タモノ。名前モマタシカリ。故ニ、本当ノ名付ケ親ハコノワタシダ。』
魔法使いは成す術もなく絶句した。
『サア、コチラへ来ルルガイイ。ソシテ我ガ願イヲ叶エルノダ。』
再び姫君は表情を無くして、曳きずられるように闇の中心へと一歩踏み出した。
「いけない!あなたが闇に身を任せてしまえば、この世界から光が失われてしまう!この世界の未来が闇に閉ざされてしまう!」
魔法使いが金切り声を上げた。そして、一か八か最後の攻撃に出た。体の前で大きく円を描く。
「光よ!我が守護たる月光よ!我が命を糧として我にその力を解放せよ!」
魔法使いの腕の中にまばゆい巨大な満月が出現した。
「闇よ、消え去れ!」
声と共に、エネルギー波と化した巨大な光は、一直線に闇の中心目掛けて突き進んで行った。
ドォォン!鈍い轟音が耳を圧する。一瞬、光と闇の破片が入り交じって飛び散った。
「やったか…?」
がくりと膝をついて、魔法使いが激しく息をつきながら囁いた。姫君もあちらで倒れ臥している。だがしかし期待と裏腹に、煙と埃が収まったその真っ只中には黒い塊がわだかまっていた。
「!」
ゆらり、と塊は立ち上がった。反対に全ての力を使い果たして、魔法使いはばったりと崩ず折れた。
クックックッ…。また、闇が笑った。
『無駄ダ…。ワタシ以外、ワタシヲ止メラレル者ハオラヌ。サア、コチラへ来ルノダ、春華姫。ソシテ、ワタシノ願イヲ叶エルノダ。ワタシノ現実ヲ、ワタシノ現実世界ノ幸福ヲ、取リ戻スノダ。』
倒れていた姫君がふらふらと立ち上がった。その瞳は虚ろに見開かれ、表情もない。魔法使いはもはや動かない体で、必死に腕を伸ばして引き留めようとした。掠れた声を振り絞る。
「姫君…。だめです…!ああ、誰か…。止めてくれ…はるか君!」
名前を呼ばれてはっと我に還った。あまりの事に頭が飛んでしまっていた。今は考えている場合じゃあない。どうにかしなきゃあ。オレに出来る事は…。
オレは咄嗟に魔法使いの杖を拾い上げると、闇の中心目掛けて投げつけた。だが闇は簡単にそれをなぎ払う。
『邪魔ヲスルナ!』
そして、暗黒のつぶてを生み出すと、オレ目掛けて一斉に打ち込んで来た。それは実体がないにも関わらず、手酷い痛みを与える物だった。まともに食らってオレがうずくまると、また闇が笑った。
『無駄ダ。サア、来ルノダ。春華姫。』
オレは歯をくいしばって立ち上がろうとした。とたん、全身を貫く激痛。姫君はまた、ゆっくりと一歩踏み出した。
「くうっ…。」
思わずオレの口から呻き声が漏れる。だが痛みなんかに構っていられるか!オレは無理矢理立ち上がると、姫君と闇の間に立ち塞がった。たちまちあのつぶてが飛んでくる。オレは両手を広げて全身でそれを受け止めた。オレが避ければ姫君に当たってしまう。全身に激痛が間断無く走る。あえなく膝をついてしまう。くそっ、オレは何の役にも立たないのか?このまま姫君を闇に落としてしまうのか?いや、それだけは駄目だ!だけど…どうすればいい?
姫君がまた一歩足を進めた。オレは右手を伸ばしてそれを妨げた。力を振り絞って立ち上がり、姫君を肩ごしに振り返る。表情のない姫君の瞳に涙が浮かんでいた。悲しいのか、悔しいのか。畜生!オレが守ると決めたのに!
オレは歯を食いしばると腹をくくった。一番大事なもの。
『マダ邪魔ヲスルカ!』 闇が吠えた。諦めない。諦めてたまるか!オレはさっきから頭の中に浮かんで消えない、魔法の呪文らしきものを使ってみようと決めた。ここはイリュージア。「思い」の強さこそ最強の武器となる。オレのこの思いが、たかがこんな魔王ごときに負けるものか!
呪文を口にしようとすると不思議に体がひとりでに動いて、右手が高々と天に向かって突き上げられた。
「光の姫君とその名の真実に於いてはるかが命ずる!光の剣よ、来たりて我が意を叶えよ!」
一瞬、光が闇を圧倒して、気がつくとオレの手には姫君の光の剣と良く似てはいるがもう一握り長い両刃の剣が握られていた。
「創世の光よ、創造主の血に於いて、この闇を久遠の彼方へ追い払い給え!」
続けざまにオレの口から呪文が溢れ出す。光の剣が呼応してうぃんと唸り出した。
「行けえっ!」
全ての思いを込めて、両手で闇を目掛けて剣を振り降ろす。七色の光が渦巻きながら闇に向かって行ったと思うと、闇を押し抱き、部屋中に溢れた。それと共に奇妙な暖かさがあたりを満たした。
ゆっくりと光は弱まって行き、あたりの様子が変わって行くのがわかった。もう、そこは闇の世界ではなかった。ごく普通の、しかし充分に贅沢な塔の中の一室。
さすがにオレも力を使い果たしてしまったらしい。荒い息を着きながら座り込んでしまった。どうやら闇を退ける事は出来たようだ。オレは神様とやらに感謝したくなった。周りを見回すと、姫君はぺたりと座り込みオレの方を見ていた。どうやら正気を取り戻した目だ。魔法使いも何とか起き上がろうとしている。よし、こちらは大丈夫だ。オレは一安心すると、最後の難関に挑む事にした。闇の中心が有った方を省みる。そこには淡いピンクの塊があった。いや、ピンクの服を着た女性が倒れていた。オレは一つ溜め息を付くと、力を掻き集めてその傍らに近寄って顔を覗き込み、声を掛けた。その顔はオレが思った通りのものだった。
「大丈夫?僕がわかる?母さん。」
声を掛けられ、また、その内容を理解した時、彼女は驚きのあまり、口をパクパクさせた。自然とオレの顔に笑みが浮かぶ。
「僕だよ、母さん。はるかだよ。息子の顔を忘れたの?確かに二年ぶりだけどもね。」 彼女の目に涙が溢れ、いきなりオレに抱き付いて来た。全く昔と変わらないその仕種に、オレの胸が痛んだ。
「はるか!ああ、はるか。会いたかったわ!でも、どうしてこんな所にいるの?それにあんたのその恰好!あら、そう言えばわたしったら、ここで何をしていたのかしら?」
オレはポリポリと頭を掻いた。
「参ったなぁ、やっぱり覚えていないんだ。どう説明すれば良いんだろう?」
すると後ろから魔法使いが近づいて来て、オレの肩をとんとんと叩いた。
「はるか君、こちらは…?」
「あ、僕の母です。」
「というと、あの、二年前に亡くなった童話作家だった…?」
「はい、そうです。」
オレの返事を聞いて魔法使いは大きく頷いた。
「そうか!これで全てのつじつまが合う!なるほどそういう訳だったのか!」
「あー!ひよっとしてあなた『青銀の魔法使い』さん?!うっそー!月夜観(つくよみ)さん!きゃあ、本物!」
頬をピンクに染めて、瞳をキラキラさせて、彼女が話しを遮って叫んだ。感動のあまり少女に戻ったかのような表情をしている。
(相変わらず子供みたいだ。) オレは懐かしいやら、無くしてしまったものを再び手にできて嬉しいやらで目が潤んで来た。
「!本名をばらさないで下さいよ!はるか君のお母さん!いいえ、創造主の君。ここはあなたが創られたイリュージア。名前が重要な意味を持つ。解るでしょう?!」
青銀の魔法使いが苦笑混じりに哀願した。理解して慌てて口を両手で抑えた母。そう言うところはまるっきりミーハーな女の子そのものだ。オレは奇妙な悲しさに襲われた。この生き生きとした表情も、あちらの世界では失われてしまったものだ。そしてこの世界でも勿論存在していてはいけないものだ。解っている。解っているけど…。
よだれを垂らしそうな雰囲気で、魔法使いをひたすら眺めている母親に頭痛がして来た。完全に舞い上がって状況判断が出来ていない。この性格、昔っから苦労の種だったんだ。
「母さん、それで、どうしてこんなところに居る訳?ここが何処だか解っているんだよね?」
オレの問い掛けにきょとんとした顔をした母親。
「え?何?そういえばイリュージアって…。え?本当にここはイリュージアなんだ!?うわー!マジ?」
オレは天を仰いだ。
「で?この状況は解ってる?」
彼女はふるふると首を振った。
「わたし、ひょっとして悪い子してた?」
上目使いにオレを見ながら、いかにもバツの悪そうな顔をする。参った。ほんのガキの頃からオレは、こんな母親が苦手だ。どうしていいのか解らなくなる。
「あのねえ…。」
オレがお手上げ状態なのをみかねて、魔法使いが助け船を出してくれた。
「はるか君のお母さん、言いにくい事なんですけどね、あなたは自分一人の思いに囚われて、このイリュージアを滅ぼしかねないところだったのです。」
「わたしが?この大好きなイリュージアを?」
魔法使いは大真面目な顔で頷いた。
「ええ。やっぱりお気付きではなかった様ですね。わたしが思いますに、あなたは自分の思いがとても強く深かった為に、かえってその思い自体に主導権を取られてしまわれたのでしょう。なにせ、ここはイリュージア。思いが一人歩きしてもおかしくないところです。今のあなたからは、障気のかけらすら感じられない事から推測しました。解りますか?」
母はじいっと考え込んでいたが、やがて魔法使いの顔を見つめながら頷いた。
「何となくだけど、解る。そうかあ、わたし、とんでもない事をやってたんだ…。わたしね、ここに来た時の事はぼんやり覚えているんだ。気がついたらこの世界にいて、訳が解らなくって、それでいてとっても淋しくて…。だって、はるかもお父さんもいないのよ!探しても探しても何処にもいないのよ!だからわたし、会いたくて会いたくて淋しくて…。わたし、それしか覚えていない…。さっき、はるかに起こされるまで、わたし、眠っていたのかしら…?」
「そうかも知れませんね。」
魔法使いは、少し同情を交えた眼差しで答えた。
「あなたは夢を見ていたのかも知れません。長い悪夢を。そうでなければ、この世界を創造された方が、こんなに美しく、人々が平和に幸福に暮らす世界を創られた方が、あんな魔王になってしまわれる筈がない。」
「…わたし、そんなに悪い事してたんだ…。」
彼女は悲しそうに瞳を伏せた。
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったのに…。」
「だから、あなたの責任ではないと思いますよ。」
魔法使いは溜め息を付いた。
「ただ、ここがイリュージアで、あなたの最後で最終的な願いがあまりにも強大過ぎた…。ええ、ただそれだけの事。」
「え…?それって…?」
「母さん、それはね…。」
オレは話に割って入った。ここから先はオレが言わなきゃ。そしてオレが彼女を説得しなきゃ。親子だもの。
「母さんは覚えていないんだろうけど…、本当の世界ではね、母さんは死んじゃっているんだ…。」
母親の目が大きく見開かれた。
「マジ…?本当にわたし、死んだの…?」
「ん…。もう、二年ほど前になるんだよ…。」
彼女は絶句した。そして次の瞬間大いなる矛盾に気付いて叫んだ。
「んじゃあ、ここにいるこのわたしは何なのよ!何故わたしはここにいるのよ!」
「説明はわたしが出来ると思います。」
魔法使いが考え考え、顎に手を当てながら話し出した。
「あなたはこの世界を創造された。この世界はしかし、その後はあなたの手を離れ、独自に時を刻むようになっていったのでしょう。でもやはり繋がりは決して切れてしまった訳じゃなかったのです。あなたがあちらの世界で肉体を無くされた時、あなたは自然にその繋がりに引かれてこちらの世界にいらしたのでしょう。後は先ほど説明した通りの事が起こったのでしょう。」
母は真剣な顔で話しを聞いていた。今までに見た事のない表情だった。
「うん、解った。あたしはあたしのわがままでみんなを困らせ、この世界まで壊そうとしたんだ…。素直に死んであの世とやらに行けばよかったのにね…。」
完全に落ち込んでしまった顔だ。
「母さん、それは違うと思うよ。」
オレは思わず口を出した。
「僕は母さんに会えて嬉しかったよ。ここでなければ母さんに会う事は出来なかった。ここで僕は色んな経験をした。それだからこうして母さんと向かい合っても、胸を張っていられる。見てよ、母さん。僕はもう子供じゃあない。こんな僕を母さんに見せる事が出来た。それだけでも凄い事だよ。子供としては本当に嬉しい事なんだよ。だからそんな顔をしないで。この世界の人達には僕も一緒に謝ってあげる。」
「うん。ありがと。そうかあ、背が伸びただけじゃなくて、あんたはそんなに大人になったの。」
背伸びしてオレの頭をぽんぽんと叩いた。優しい目をしている。そしていきなり抱き付いた。
「大きくなったね。頼もしくなった。もう一人前の男だね。そうか、あたし、このはるかに会いたかったんだ。今、解った。あたし、あんたの行く末が心配であの世新きたくなかったんだ。でも、もう安心したわ。あんたは大事な人を守れる程の、一人前の男だものね。」
戻る