十一月三十日
やっと明日から念願の長野に行ける事になった。郷土史や民間伝承の研究を志している僕にとって、長年の夢が叶う。この機会を最大限に生かさねば。

十二月二日
興味深い情報を得た。山深い山村だが行ってみようと思う。

十二月三日
頼み込んで逗留させてもらえる事になった。想像していたよりずっと貴重な資料がある。もっと何か出てきそうな雰囲気だ。しかし、こんな山奥にこんなに立派な旧家があるとは思わなかった。

十二月十日
すごい物を見つけた。この屋敷の開かずの間になっている奥座敷で、僕は彼女を見つけてしまった。

十二月十三日
駄目だ。彼女のことが頭から離れない。あれは僕がこの由緒ありげな屋敷に逗留してすぐのことだった。調査の許しを得て、屋敷中をあちこち見て回っていた。傾斜地に建てられている離れや別棟が渡り廊下で繋がっている、まるで迷路のような屋敷の造り。その中で、古い封印をされている襖に行き当たった。流石にいきなりこじ開けるのははばかられたので、その場は引き返し、夜になって主人夫婦に再び調査の許可を願い出た。老夫妻は困惑した表情で僕を見つめた。
「なにせ昔からのしきたりですじゃ。中に何があるのか、わしも存じません。」
そう言われたまま引っ込んでいるような僕じゃない。僕は再び頼み込んだ。
「あの座敷の中を調査する許可を下さい。開かずの間なんてただの迷信です。この科学の進んだ時代に、そんなものが害を及ぼすとも思えません。」
そう訴えたと思う。その熱心さに折れた形で、老主人はしぶしぶ許可をくれたのだった。

十二月二十日
僕は毎日あの座敷に通い詰めている。彼女に会うために。今でも初めて会った時の事を思い出す。そうだ。それまでの僕は、自分がこうなるとは思いもしなかった。
襖を開けた途端、真っ白な吹雪の中に立っているような幻想に襲われた。一瞬にしてそれは去ったが、部屋の中に足を踏み入れた後も、冷気が足下にわだかまっているような感じが残っていた。部屋の奥に進む。殺風景な部屋だ。ふと視線を感じてふり仰ぐと、そこに彼女がいた。いや、それは一枚の仮面。能舞台で使われる小面(こおもて)。しかし、それはまるで生きているが如く、微かに微笑みを浮かべて、僕を見下ろしていた。その視線と視線が合った時、僕の背中に電流が走った。

十二月二十二日
部屋の床の間の柱に架けられた、たかが一枚の小面。それが何だというのだろう。何故こんなにも僕は惹き付けられる?
僕はそれでも自分の成すべき事を忘れてはいない。床の間に置かれた長持ちの中を調べてみる。中には封印された文箱(ふばこ)と、古い小袖(こそで)、手紙らしき物。早速解読を試みよう。

十二月二十五日
古い手紙を解読するため、老夫婦の助けを借りている。旧家の主人であるだけに書道にも見識があるようで、草書や崩した漢字もよく見分けてくれる。その合間に彼女のことをさりげなく尋ねてみる。
「あの面には言い伝えがありますじゃ。」
老主人は囲炉裏の前で語り始めた。
「昔、この村にとても美しい娘がおったそうな。あちこちから嫁に欲しいと言う申し出があったが、何故か娘は一向に首を縦に振らなんだ。そのうちに村に噂が立った。草木も眠る丑三つ刻に娘の部屋を訪う者がある。それは人には非ず、と。その噂が立って間もなく、娘はふっと姿を消したそうな。神隠しにあったのだと皆が思った。そして誰もがもう娘の事を諦めた、半年ほど経った時、娘はふらりと戻って来たのじゃった。腹に子を宿しての。親達は娘を問い詰めたが、娘は子供の父親の事も、行方知れずになっていた間の事も、一切話そうとはしなかったそうじゃ。ただ黙って首を振るばかり。皆は娘は記憶を奪われたものと判断した。その後、娘は月満ちて子供を産み落とした。美しい女の子じゃった。娘はその子と引き替えにこの世を去った。赤子の余りの可愛らしさ、美しさに 村人たちは山神様の子だと噂した。じゃがそうではなかったのだと後で思い知ることになったがじゃ。その子供はすくすくと成長し、やがて美しい娘となった。その頃からじゃ。村の若い衆が次々と行
方知れずになった。そして娘はますます美くしゅうなっていったそうな。
そんなある日、旅の法師が村を訪れた。そして、一目で娘の正体を見破った。法師はそっと娘の行動を見張り、ある日、村はずれの荒れ野で若い村の衆を襲う現場を取り押さえ、法力の込められた鉈で娘に切りつけた。鉈は娘の顔を切り取り、娘は退治された。やはり娘は妖魔だったのじゃ。後にその荒れ野から行方不明になっていた若者達の亡骸が見つかったそうな。全身の血を搾り取られていたそうな。あの面はその、娘の切り取られた顔じゃ。」
老主人の話に僕は違和感を覚えた。そんな筈はない。あれは確かに木で造られた面だ。人や魔物から剥ぎ取られたものであろう筈がない。そして何よりもその表情。彼女は微笑んでいる。

十二月三十日
実家に手紙を出した。この正月には帰れそうもない。このままここで過ごす事を、老夫妻は快く承諾してくれた。久方ぶりに賑やかな正月になる、と喜ばれたほどだ。僕は、彼女の謎を解くまでは帰るまいと心に決めた。彼女は僕に助けを求めているような気がしてならない。

一月三日
今日もあの部屋に入り浸る。彼女に何故こんなにも惹かれるのか。彼女が僕に語りかけているような気がする。それが何か解れば…。

一月五日
夢を見た。
彼女があの小袖を着て、あの部屋の中に立っていた。そして涙をこぼしながら必死の眼差しで文箱を指し示していた。
あの封印された文箱に何があるのか。僕に彼女を救えるだろうか。もう彼女の涙は見たくない。

一月六日
今日もまた吹雪だ。
文箱の封印を解く。中には驚くべき彼女の素性が書かれていた。ここに書き写しておく。
「城下の由緒正しき家に、男女の双子が産まれ候。古よりの慣習により、男児は跡取りとして家に残し、女子は里子に出され候。何もなければこのまま接点もなく、二人は恙なく、幸せに生きて死んでいった事であろう。だが、偶然が二人を結びつけ候。旅先で病に伏したうら若い武士を看病した女中。この二人が血を分けた兄妹とは、神ならぬ身の二人が知ろう筈もなし。二人は恋に落ち、やはり双子をもうけ候。そしてその事を知った二親に引き離され候。だが訳を知った二人はそれを恥じ、子等を残し自害して果て候。二親は家の跡が絶える事を恐れ、男女の双子のうち男児を引き取り家督を継がせ、女子を身売りさせ候。しかし、因果の糸は断ち切れぬ。成長し、うら若き当主となった武士は花街の花魁と恋に落ち候。身請けし、家も親も捨て、片田舎でひっそりと暮らし始め候。だが、やがて駆けつけた二親により、互いの出自が明らかにされると、やはり自らを恥じて自害して相果てぬ。後には女子が一人残され候。名を雪瀬と申す。」
そうなのだ。近親相姦。これが彼女を魔物とした理由。可哀想に。雪瀬、それはあなたのせいじゃない。あなたはただの一人の女性だ。
吹雪が止まない。

一月七日
今日も雪だ。
僕は自分のしていることが解っている。それがどれ程愚かな事かも。たかが一枚の面に恋い焦がれてどうなる?だが、もうどうにもならない。出来ない。
雪が降り続いている。

一月八日
今日、文箱の二重底の中から彼女の遺書を見つけた。内容を写しておく。
「一筆申し上げ候。お義父上様、お義母上様には長年にわたり可愛がっていただいたご恩に報いもせず、このような形で先立つ不幸をお許し下さいませ。あの方と添い遂げられぬ身と知った今となっては、もう生きている意味もございませぬ。されども慈しんでいただいた年月、私は幸せでございました。
雪瀬 」
彼女はその出自故、相思相愛の恋人と引き離され自害したのだ。そして人々は戒めも兼ねて、あんな伝承を残した。
雪瀬。あなたは時代の犠牲者なのかも知れない。あなたが結ばれない恋に殉じたと知っても、もう僕の思いは止められない。雪瀬、僕はあなたを愛している。
ああ、また吹雪いてきた。

「あなたが自害した後、私もすぐに後を追いましょう。あなた一人を逝かせたりはしません。そして、来世ではきっと添い遂げましょうぞ。
雪瀬殿参る
進藤優一郎

その日、とある廃村の朽ち果てた屋敷跡で、捜索願の出ていた青年、進藤優一の凍死体が発見された。何故そのような場所に、研究資料を探しに行っていた筈のこの青年が、よりにもよって凍死しているのか。その周りに散らばった古い手紙や当人の日記とともに、当時、かなり人々に不思議がられた。もう何年も前の話である。


end



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