彼は私の言葉を聞いて絶句した。
「お前…、何を言っているんだ…?」
そして、彼は自分の耳を疑っているかのようにそう呟いた。
(痛い…。)
胸が痛い。私は痛む胸を自分で抱きしめた。
「どうしたと言うんだ?俺が何かしたか?」
彼は意外な程狼狽えている。私はゆっくりかぶりを振った。
「ごめんなさい。私の我が儘なの。あなたのせいなんかじゃない。あなたは何も悪くない。ただ私が、母様を、娘として受け入れてくれた母様を、一人きりに出来ない、と思うから!」
彼は私をじっと見つめた。
!母、だと?お前には親はないはずだったな?弟達は先日殺されてしまった。」
私は、彼の視線が突き刺さるように思えた。
「あの後、私は巫女の息子に無理矢理手込めにされそうになって、あいつを突き飛ばしたら、あいつ、死んでしまった…。だけど、巫女はその場を目撃していても一切騒ぎ立てたりせずに、真実を受け入れ、私を許してくれた。それどころか私を名義上の嫁にして、娘、と呼んでくれた。我が子として愛情をくれた。あなたを助けてくれた。自分の一人息子を殺したも同然の、この私だというのに。だから…、だから私は、母様を、年老いた母様を、一人きりには出来ない。いえ、したくない!」
私は懸命に彼に訴えていた。彼は私に圧倒されたかのようにたじろいだ。それから私の肩に手を置いて、私の目を覗き込むようにした。
「俺より彼女を選ぶ、と言うのか?」
今度は私が絶句した。
「早くに両親を亡くしたお前だ。親の温もりを欲しがるのも当たり前かも知れない。それは俺にも理解できる。だが、相手は巫女なのだろう?全ては巫女の息子のしでかしたことが、原因ではなかったか?俺達を苦しめ、お前の弟達をお前から奪い去った。それなのにお前は、そんなやつの親の為にこれからの幸せを捨てる、と言うのか?」
私は唇を噛みしめ、かぶりを振った。涙が溢れてくる。
「違う。母様は、そんな存在ではないの。人々全部の母親たろうと、必死に努めておられるの。聖霊達の思いに応えようと、懸命に務めて、今や擦り切れかけている。手助けが必要なの。私ならそれが出来る、と母様は言っている。聖霊達が私を選んだの。だけど、母様は、私が一番幸せになる道を選びなさい、と、こうしてあなたと二人、逃がしてくれた。あなたと二人きりの幸せな時をくれた。私にはもうこれで充分。今度は私が義務を果たす番。しなければならない事から逃げてはいけない。私は戻らなくては。もう、後悔はしたくない。」
「お前…、お前はそれで良いかも知れない。だが、それでは俺は何なのだ?お前にとっての俺とはいったいどんな存在だと言うんだ?俺とお前は、既に夫婦なのだぞ。」
「ごめんなさい。私の我が儘だと解っています。」
彼が怒るのも当たり前だ。私は彼に酷いことをしている。
「謝るな。謝って欲しい訳じゃない!」
彼は顔を強ばらせて首を振った。
「そんなに簡単に別れられるならば、何故わざわざ俺との婚姻の儀式を承知した?俺と正式な夫婦になどなった?」
「それは…、私がそうしたかったから…。」
私は思わず彼に抱きついた。
「私が、あなたの正式な妻になりたかったから。例え短い間だとしても、あなたの隣で幸せな微笑みを浮かべていられるあなたの妻になりたかった。私の夢だったの。」
彼は一瞬呆然と私を見つめ、それから私をひしと抱きしめた。
「だったら何故、その幸せに浸っておらぬ?幸せは今、お前の手の中なのだぞ。」
「だから、私だけ幸せにはなれない。」
「俺の幸せはどうなる?!お前を失ってしまう俺は!」
「ごめんなさい!私が悪いの!全て私が悪いの!憎んでくれて良いから!殴っても良いから!だから、お願い!私を行かせて!」
「いやだ!お前は俺のものだ!」 彼は再び私をきつく抱きしめた。
「誰にも、何処にもやらない!チクショウ!どれだけ強く抱きしめたら、お前とひとつになれるんだろう?!お前とひとつになれば、お前と別れずにすむ。なのに何故、お前とひとつに解け合うことが出来ないんだ?!」
悲痛な叫び。だが私にはそれに応えることが出来ない。私は彼の激情が収まるまで、じっとそのまま彼に抱きしめられていた。
やがて、彼の腕の力が少し弱くなったのを見計らって、私は彼の腕から逃れ出た。彼は茫然とそんな私を見つめている。やっと、どうしようもないことに気付いたらしい。
「どうあってもお前の決意は変わらぬのだな…。」
酷く辛そうに呟く。全ての生きる希望を無くしてしまったかのように。
「俺にこの先、どうやって生きていけと言うんだ?一族も捨ててきた。生まれた土地も捨てた。この上、お前まで無くして…。」
私はそんな彼に敢えて明るい声で話しかけた。
「聞いて頂戴。私はこれから巫女になるのよ。そして、聖霊達にお仕えするの。知っている?私達の思いは全て、聖霊達の元に集まるの。巫女は常に聖霊達と共にあり、その思いを天に上げているの。私は聖霊達と共にあり、聖霊達はいつもあなたと共にあるわ。だから私もいつもあなたと共にあるのよ。」
彼は目を見開いて私を見つめた。
「私はいつもあなたと共にあるのよ。例えそこに実体が無かろうと、いつも私はあなたの隣にいるわ。」
「俺は、俺は暖かい血肉を持ったお前に、俺の隣にいて欲しいんだ…。」
彼は悲しそうに私を見つめている。
「ごめんなさい。それはできないの。でも、私はいつもあなたの側にいるわ。春の日差しになって、夏の風になって、秋の雲になって、冬の雪になって。だから、悲しまないで。」
彼はまた酷く悲しそうに私を見た。そして、くるりと踵を返した。
「もう、いい。行け。行ってしまえ。」
彼の広い背中が震えている。最早、私にも口にする言葉がなかった。私は唇を噛みしめた。
「何をしている!早く行け!」
彼が叫ぶ。
「俺がこうして堪えている間に!そうでなければ、お前を二度と手放さぬぞ!」
「ごめんなさい!」
私は、自分の荷物をひっ掴むと、敢えてあのひとを振り返りもせずに、全速力でその場を離れた。あとからあとから涙が頬を伝う。あの人の悲しい瞳が私を追いかける。
無我夢中で走り、私は次の日の朝には巫女の庵の前に立っていた。心身共に疲れ果て、崩れ込むように庵に這い入り、泥のように眠った。次に気が付いた時には、心配そうに覗き込む巫女の顔があった。
「気が付いたんだね。一体どうしたんだい?何故お前がここにいるんだい?しかも一人きりで。」
矢継ぎ早に尋ねる巫女に、私は何も答えられず、ただその胸に縋るようにして泣いた。
「お前…。」
巫女はそっと私の頭を撫でてくれた。
「何があったのか、きちんと話しておくれ。」
巫女は私をあやすように優しく囁いた。私はそれだけで安心し、しばし彼女に甘えていた。
「母様…。」
私があのひととの別れを告白すると、彼女は大きな溜息をついた。
「馬鹿だね、お前は…。お前が幸せになる事が、私の一番の幸せなんだと、あれ程に言ったというのに…。本当に馬鹿で、優しい子だよ…。」
彼女は私の思いを察してくれた。そして、共に泣いてくれた。私の思いは報われた。
「丁度お前は、聖地に修行に出かけている事になっている。あのひとは、聖霊達によって解き放たれ、自由の身になった、と族長達は判断した。何せ、誰もあの牢を唯一人の力で破れるとは想像もつかないからね。聖霊達のお力だと考えた方が、無難だし、精神衛生にも良いだろうしね。だから、もうあのひとは罪人ではないし、追われる事もない。熊一族もそれで納得し、あのひとが戻る気なら受け入れると言っていたよ。結局、事件は全てうやむやにされたが、これがこれ程拗れた事件の決着には一番良かったのかも知れないね。」
村への帰り道、彼女は色々とその後の展開について話してくれた。
「お前には余りに目まぐるしい運命の変転だったね。悲しい思いも苦しい思いもたくさんさせてしまった。悪いのは我が息子だというのに、お前はこの私を責めもしない。それどころか私を母と慕ってさえくれている。そして、お前はお前自身の幸せを捨ててまで私と暮らそうとしている。お前はそれで良いのかい?」
彼女は、わざと私の視線から逃れるように真っ直ぐ前を向いたまま、私に尋ねた。
「後悔しないで生きていけるのかい?私はこの上お前の涙を見たくはないよ。」
私はその問いには答えない。彼女は既にその答えをよく知っている。私は彼女に微笑みかけた。
「母様。私はもう、泣きません。」
村が見えてきた。
そうして私は、村で一族の巫女見習いとして暮らし始めた。立場が変わると人々の見方も変わるらしい。何かしらの行事の度に、巫女として、また巫女の代理として盛装して臨席する。すると他の部族の長達から、
「ビーバー一族の巫女は、若くて凛としている。神々しくさえもある。体格は女としては立派すぎるが、巫女としてはかえって風格があって美しくもある。」と、お世辞混じりにせよ誉められる。男達の見る目が一番に変わった。それと共に私に対する態度も変わった。今までの蔑みが簡単に払拭されてしまった。私は何一つ変わってはいない。人の心とは理解しがたい部分がある。
時が過ぎていく。春になり、私もすっかり巫女であることに慣れた頃、体調の変化に気付いた。
「お前、お腹に赤子がいるんだよ。」
巫女が嬉しそうに教えてくれた。
「赤子?私のお腹に?」
だとしたら、あのひとの子だ。私は嬉しさと共に戸惑いを覚えた。
「嬉しいねえ。私はこれで婆だね。」
巫女は心底嬉しそうに私のお腹を撫でた。
「母様、この子は…。」
「解っているよ。息子の子であるわけがない。でも、私の娘の子だ。孫に変わりはないさね。どうかよい子を産んでおくれ。」
「母様…。」
もう巫女は私の本当の母親だった。
夏の盛りに、私は男の子を産み落とした。巫女の一族の跡継ぎの子として皆が祝福してくれた。私はあのひとにこのことを告げねば、と思い、聖霊達に願った。願いは聞き届けられ、私はある夜、かのひとの夢枕に立つことが出来た。
あのひとはあの後結局一族の元に戻らなかった。西に向かい、連山に分け入り、その中腹に居を構えた。あのひとの腕前だ。食べる物に事欠くこともなく、ただ、しばらくの間は一人きりの生活だった。春になった頃、彼は一人の女を助けたことをきっかけに、山の一族に迎え入れられた。山で生きる一族は、総じて身体が大きいこともあり、彼は自分の大きさに引け目を感じることもなく、恐怖の眼差しで見られることもなかった。逆に、助けた女に慕われるようにすらなっていた。私はそれを安心して見つめていた。彼に約束したとおりに。
「空。私の空。」
私は静かに呼びかけた。応えはすぐにあった。
「風!?お前か?」
夢の中でも、聖霊達の計らいで、お互い肉体の五感はそのままだったので、私達はひしと抱き合った。
「会いに来てくれたのか。また会えるとは思わなかった。」
「言ったでしょう?私はいつもあなたの側にいる、と。」
微笑む私の頬を、彼は愛おしそうにそっと触れた。
「あなたのことはずっと見ていたわ。良かった。良い人達に巡り会えて。」
「本当に見ていてくれたのか。そうだ。俺は今、のびのびと生きている。」
彼は本当に驚いて目を見開き、それからそっと微笑んだ。
「あの時は、未来が真っ暗闇に閉ざされたかと思ったが、意外な程幸せに暮らしている。お前は幸せか?」
私は微笑みで答えた。
「今日はね、あなたにお話ししたいことがあって、聖霊達に願って叶えて貰ったの。」
「?何だ?俺とまた暮らせるようになったのか?」
私は笑いながら首を振った。あのひとの本気混じりの冗談。
「残念ながら違うわ。あのね、私、子供を産んだの。男の子よ。」
「子供?どうして…?まさか、俺の子か…?」
私はこっくり頷いた。彼は一瞬戸惑い、次の瞬間満面笑顔になり私を再び抱きしめた。
「子供!俺の子!俺の息子!でかした!」
全身で喜びを表現する彼に、私も感動して涙が溢れて来るのを感じた。
「俺に息子!まさか家族を持てるとは想像もしなかった!会いたい。会わせては貰えまいか?」
私は首を振った。
「ごめんなさい。今は無理なの。後でもう一度、聖霊達に頼んでみるわ。待っていて。」
彼は残念そうに頷いた。
「早く会いたいものだ。だが、やはり俺と一緒に暮らしてはくれないのだな?俺はまだお前と暮らすことを夢見ている。」
「ごめんなさい。」
顔を伏せる私に、彼は仕方なさそうに笑った。
「いいさ。あの時に全ては決してしまったんだ。お前は選び、俺はそれを許した。」
彼はそこで言葉を一旦切ると、そっと溜息をついた。それから私を見て微笑んだ。
「そうか。それを知らせにわざわざ来てくれたのか。嬉しいよ。例え離れていても、お前も息子も俺の家族だ。俺に何か出来る事があれば、いつでも言ってきてくれ。」
私は彼に会いに来た事を後悔した。これ程自分の気持ちが揺れるとは想像出来なかった。彼の胸に飛び込んで、彼と、息子と三人で暮らしたい。でも、そんなこと、今更出来る訳もない。未練だ。私は思いを振り切ろうと、明るい声で彼に話しかけた。
「あなたにお願いがあるの。息子に名前を付けて頂戴。あなたの息子よ。あなたにはその権利と義務があるわ。」
「いいのか?」
彼は嬉しそうに笑うと、腕組みをして考え込んだ。
「これは、嬉しい悩みだな。世の親達は皆この幸せを味わうものなのか?うーん、そうだな。光、はどうだろう?お前と出会ったあの草原を覚えているか?」
私は頷いた。
「そして、お前は風。俺は空。だから息子は光、だ。草原に降り注ぐ光。未来と希望の光だ。」
「光。良い名だわ。ありがとう。」
私は彼に微笑みかけた。
「ごめんなさい。そろそろ時間だわ。私はもう戻らなければ。」
「もう行ってしまうのか?名残惜しいな。また会えるか?」
彼は残念そうに言う。
「聖霊達が許せば。」
私は後ろ髪引かれる思いを振り切るように、少し冷たく言った。
「そうか。息子を頼むぞ。俺はいつでもお前達を心配している。」
私は彼に頷いて見せた。次の瞬間、もう私は自分が自分の寝床にいるのを発見した。溜息が出た。全部自分で選んだのだ。
それきりもう私は、彼に会うことをしなかった。息子を会わせることもしなかった。私は私自身が揺らぐのを許せなかった。後悔することも許せなかった。自分が選んだ道が間違いだとは思いたくなかった。
時は私の思いなどには関係なく、歩みを止めてくれる筈もなく、息子はすくすくと成長し、やがて巫女は天に召され、私も年を取ってゆき…。気が付くと息子は父親の面影を写し、立派な戦士に成長を遂げていた。やがて嫁も来ることだろう。私は死の床にいた。もう癒えることのない病に侵されていた。その寝床で、私は息子と大勢の一族の者達に見守られながら、惜しまれつつ息を引き取った。最後まであのひとの面影を胸に抱きながら。
川は流れる。私は浮かんでは消えていく泡を見ている。
結局、私は意地を張っていただけなのだ。私は溜息をついた。川面に映る私の姿は、あのころとは全く違っている。あの頃の私と今の私は全くの別人だ。それなのに私にはあの『私』の記憶が確かにある。これを前世の記憶と言うのだろうか。記憶に引きずられるようにして、この場所まで来てしまった。私は、今の私が生きてきた年月を思った。その年月は何かを、手に入らぬ何かを求めたものだった。それはあのひとの面影だったのではないかと、今にして思う。私は苦笑した。あのひとをどうしたら見つけられる?あのひとは私が死ぬかなり前に崖から落ちて亡くなっていた。
「本当、私は莫迦ね。後悔したくなくて、今、こんなに後悔しているなんて。私はこうして現在生きているけれど、あのひとが同じ時代に生まれ変わっている保証はない。生まれ変わっていたとしても、姿形が違うあのひとを私はどうやって探し出すの?」
完全に手詰まりだ。
「そして、その後悔をこうして引きずるなんて、ね。全ては泡沫の夢。それでしかないじゃないの。」
頭の中に学生時代に習った古えの文章が浮かんできた。
ゆく川の…、うたかたは、かつ結び…。
end
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