ここで全てを話していいものだろうか。あのひとの事も。私は彼女の目を覗き込んだ。優しい目だ。人生の悲しみを知っている深い眼差し。私は決意した。この人なら信じられる。私達の未来を預けられる。
「巫女様…。」
私は彼女に全てを打ち明けた。
「そう。そのような訳があったの。 」
その話は、彼女にとって辛いものであったに違いない。彼女の一人息子の悪事を暴くものであったから。しかし、彼女は少し眉を曇らせただけで、私の話しを静かに聞き終え、そう呟くように言った。
「お前は、苦労して生きて来たのだね。そして、やっと幸せを手にしようとしていた。それを握り潰したのは、私の息子。その息子を生んだのも育てたのもこの私。すまないね。許しておくれ、とも言えないほど酷い事を、あの子は仕出かしたのだね。だけど今は、その取返しのつかない事を嘆くよりも、お前とお前の大事な人の未来を考えなくてはね。」
彼女は私の手を取り、そっと撫でた。
「お前を幸せにする事が、私の償い。そして、お前の母親としての私の願い。」
「母様…。」
私の目に涙が溢れて来た。愛情が感じられた。
「さあ、どうするべきか、二人で考えよう。」
夜が明ける迄、私達は話し合った。そして、結論に達した。
その朝、私は巫女見習いで、しかも寡婦の装束に身を固めて、族長の元に赴いた。族長は目を丸くして迎えた。私は巫女の代理として、巫女の息子との正式な婚儀の成立と、その病気による急死、聖霊達によって次期の巫女に指名された事を報告した。あまりの事に、族長も一瞬絶句し、感慨深げにこう言った。
「あなたは、何と波乱に満ちた人生を送っておられる事か。」
族長の感慨はともかく、このところの変転に一番驚いているのは私自身だ。だが、そんな事はどうでもいい。私にはしなければならない事がある。
「それで、葬儀は今日、巫女様自らの手で執り行います。ですから、ここ一両日は、聖霊達に祈りを捧げねばならぬ忌み日として、食べるための狩りのほかの殺生は避けていただきたい、とのお申し付けでございます。」
「と、いう事は、今日の処刑も延期、でよろしいのですな。」
「はい。巫女の息子、という聖霊達にも重要な立場の者が、聖霊達の身許に召されるのです。汚れは出来るだけ少ないに越した事はない、との仰せでした。」
「了解しました。巫女殿のおっしゃる通りに取り計らいましょう。」
族長の元を退きながら、私はほっと溜息をついた。これで第一段階はクリアされた。今になって体が震えた。私は族長を相手に大芝居を打ったのだ。まったく信じられない。この私に、こんな事が出来るとは。でも、是が非でもやり遂げねばならないのだ。
「母様、行って参りました。」
祭壇に向かって祈りを捧げる巫女に、そっと声をかける。彼女には何が見えているのだろう。巫女というのは、聖霊達の声を聞くという事は、一体どのようなものなのだろう。私には考えも及ばない。
彼女は祭壇に一礼すると、私の方に向き直った。
「ご苦労様でした。お前にはこれから巫女見習いとして、私の手伝いをして貰います。」
彼女の言葉に私は頷き返した。
「先ず、族長を含む一族の長達の目をごまかさなくては。それが出来なければ、全てはおしまい。」
「わかっています。」
私は気を引き締めた。
儀式の間中、私は寡婦として、また、巫女見習いとして振る舞って見せねばならない。たった一夜で夫を亡くした、気の毒を絵に描いたような妻と、おぼつかない仕草であっても、威厳に満ちた次期巫女。物凄い設定だ。だが、私には芝居気もあったらしく、何とか無事に切り抜ける事が出来た。
「ここにおいで。」
儀式が終わって、長達も参列の人々も退出し、私達二人きりになった時、祭壇の前に額ずく巫女が私を呼んだ。
「聖霊達がお前を呼んでいる。」
私は巫女の後ろまで行き、そっと膝まずいた。
「これからお前に、聖霊達との意志の疎通を図る方法を伝える。これは、聖霊達が自ら望まない限りはうまくいかない方法なのだけれども、お前は聖霊達から指名された者だ。お前からもそれを望めば、きっとうまくいく事だろう。」
「はい。」
「これまでは、お前を我が息子の嫁、娘であり、巫女見習いとして扱って来た。だがそれは、お前の望みを叶えるための嘘も方便だったはず。これ以上の深入りは無用。お前は拒否する事も出来る。」
彼女は私の顔を見つめた。私は少し迷った。私の望む未来に、聖霊達は必要ない。でも、興味が打ち勝った。聖霊達が、今度のこの出来事を、どのように考えているのかを知りたいと思った。
「私は、望みます。聖霊達の声を聞きたい。」
彼女は頷き、私を祭壇の前、彼女の隣に招き、座らせた。
「目を閉じて、全身の力を抜いて。」
彼女の言う通りにすると、暖かい彼女の手が額に置かれた。
「先ず、この私の手に意識を集中して。」
彼女の声が静かに響いた。
「何が見える?」
何も見えない。いや、真っ暗な闇の中、遥か彼方に白い光。
「光が…。」
「見えるかい?ならば、そちらに向かってごらん。」
私は手探りで歩くようにゆっくりと、意識をそちらに向けて進めて行った。やり慣れない事ゆえなかなかうまくいかない。でも、何とか徐々にだが近づいて行く。じかに自分の足で歩いて行く方が、どんなにか楽だろう。果てしない暗闇の中、深い泥沼を進んで行くような感じだ。それこそ目指すのは希望の光か。
やっと光に手が届きそうな所まで行き着くと、そこには扉があり、光は扉の小窓から漏れている事が判った。扉に手をかけ引き開ける。
「!」
いきなり光が溢れた。光の洪水。目が眩んで、心の中の目を庇う。だが、次の瞬間。一陣の風が吹き過ぎた。優しく頬を撫でていく、昔からよく知っている懐かしい風。
気がつくと、私は一面の緑の草原のただ中に立っていた。風が髪をなぶる。緑色の風。
(…!)
誰かが呼んでいる。私は、風が吹いてくる方へ歩いて行った。ほどなく木立が視界を遮り、尚も進むと泉に出た。何と美しい泉だろう。しんと澄み切って、水底まで楽々と臨める。声がしたのはこの辺りだ。私はぐるりとあたりを見回した。
ちゃぽん。小さな水音。振り返ると、静まり返っていた泉の表面が波だっている。波は光を反射し、きらきらと輝きながら渦を巻き出した。見る見るうちに渦は激しさを増し、輝きも増していく。やがて光の渦は、青い空に呼ばれているように、渦巻きながら空へと登って行く。渦巻く光の帯が天まで繋がった。うっとりと見とれていると、今や光の柱となった煌めく渦から、光のかけらがひらひらと舞い落ちて来る。まるで輝く雪の様だ。手を差し延べて、その一片を受け止める。光の雪は、ふわりと溶けて、ぼんやり光る蛍のようになり、また天ヘと登って行った。見ると、地面に落ちた光の雪達は全て、蛍のようになってふわふわと漂いながら天ヘと登って行く。
(…!)
気がつくと、その光の小さな塊達は、何か囁きながら昇天して行くらしい。その呟きに耳を澄ましてみる。
(…お願い…)
(…を叶えて…)
(……は違う!…じゃない!)
(…が憎い…!何故…)
これは…!?
「人々の思いさね。」
驚いて振り返ると、すぐ傍らに一人の少女か立っていた。
「聖霊達が、人々の思いを昇華させているのさ。」
私は彼女の顔を覗き見た。その顔には見覚えがある。
「母様…?」
彼女はニッコリ笑った。
「よくお解りだね。そう、私さ。」
彼女は巫女だった。
「そのお姿は何故?」
「ここは精神世界だからね。心の有り様がそのまま形になるようだ。お前はあまり変わらないのだね。」
私はまた、降り注ぐ光の雪を一片手に受け止めた。
(…どうして…したいのに…)
光は私にそう囁いて、天を目指した。この光の雪達は全て人々の思い。この光の柱は、人々の思いの集合体?
「お前の考えている通りだよ。」
「母様。」
「人々の思いは、それが良いものであろうと悪きものであろうと、こうして聖霊達に導かれて昇天していくのさ。」
やがて、光の雪は止み、光の柱も徐々に細く弱まって来た。
「残らず天に登って行ったね。」
光の柱が消えた時、巫女は感慨深げにそう呟いた。あとにはまた、しんと静まり返った泉が残されていた。
「聖霊はどこに?」
私は彼女に尋ねた。
「わからないのかい?強いて言えば、この世界がすでに聖霊なのだよ。」
私はあたりをぐるりと見渡した。
(この世界が?)
なんだか、ぴんとこない。私のそんな表情を見て、巫女は肩をすくめた。
「解り辛いかも知れないね。なら、そこの泉に手を浸してご覧。」
言われた通り、手を入れる。
「あ…。」
暖かい手に包み込まれたような感覚。遠い昔を思い出させる。まるで母の手の温もりのような…。そして、その手から温かな思いが伝わって全身を浸した。安らぎの中に抱き取られている。そう思った。
(これは…。)
「わかったようだね。」
巫女はにっこり笑った。
「ええ。」
私も微笑みながら頷いた。正確にはわかった、とは言えなかった。だけど、感じられたのだ。母の様に深い、暖かい、広い、思い。この世界にはそれが満ちている。聖霊とはこの「思い」の事なのだろう。人は、人が持つには重過ぎる思いを、天に上げて生きている。恨みつらみ悲しみ。強すぎる欲望。叶うことのない希望。それらを受け止め昇天させ、人々を生きる事に向かわせている。
「聖霊達には明確な言葉はない。でも、人間を慈しみ、愛する心、それ自体が聖霊だと言っても良いのかも知れない。お前は懸命に生きて来た。弟達の母として、また、女性としても生きる事を知った。そして、愛する者を失う悲しみを知った。だから、聖霊達はお前を選んだのだと思うよ。生きる事の喜びと悲しみを知っているお前だから。」
私と巫女は静かにそこに佇んだ。優しい風が頬を撫でていった。
「巫女というのは何も、特別なものじゃない。聖霊の声を聞く、とはものの例えに過ぎない。私はここに来て、聖霊達の思いを感じる。人々の思いが、悲しみに偏ったり、憎悪に満ちたり、苦しみにのたうったりすると、聖霊は悲しむ。私は、それを見ていられない。だから、そうならないために力を尽くすのさ。だがね、私ももう年老いた。力も知恵も擦り減った。聖霊達のためには新しい力が必要だ。そして、人々の思いを知る聖霊達が、お前を選びだした。だが、それを受けるも受けぬもお前次第さ。聖霊達も私も強制はしない。」
巫女はそんな重大な話を、あたかも噂話でもするかのような気軽な口調で話した。
「今すぐ決めろとも言わないよ。何しろお前には、もう一つやり遂げなくてはならない事があるからね。そして、お前が幸せになる事が、私の第一の望みだし、聖霊達の望みでもあるのだからね。」
そうして、話に聞き入っていると、やわらかな巫女の声が徐々に遠ざかって行き、世界が暗くなっていった。まるで眠りに落ちる時の様に。私はその闇に飲み込まれた。
気がつくと、目の前に覗き込む巫女の顔があり、私は現実世界に戻った事を知った。
「母様…。」
私が呼びかけると、彼女はほっとしたようだった。
「私がわかるんだね。よかった。なかなか意識が戻らないから心配したよ。稀にだけど、あの世界から戻らない者がいるんだ。あの世界は居心地がいいからね。」
巫女は苦笑した。私は少し驚いた。確かにあそこは居心地のよい所だったが、自分の意志であそこに居続けようとは、私は思いもしなかった。
「さて、それじゃあお前の一番大切な仕事の相談をしようかね。」
巫女が真剣な表情になって言った。
私の一番大事なもう一つの仕事。それは勿論、あのひとをこの無実の罪の処刑から救い出す事だ。今、ごり押しされかけていた処刑は、巫女の息子の死という重大事で延期されている。だが、喪が明けてしまえば、何時実行されようとも不思議はない。
「やはり、族長は処刑を諦めたりはしないだろうね。と、いう事は、逃がすしかないね。」
巫女の言葉に私は頷いた。
「私にも族長が意志を変えるとは思えません。あのひとの命を守るためなら、族長の命令に逆らうもやむを得ません。」
「そうだね。彼はあれからまた、岩牢の方へ移されている。見張りは二人。そちらは私が何とか出来る。お前は彼を連れ出して、一緒にお逃げ。」
私ははっとして巫女の顔を見た。
「母様…。」
彼女は優しく笑っている。
「彼と共に逃げるんだよ。それがお前が幸せになる唯一の道さね。言ったろう?私の望みはお前が幸せになる事なんだよ。」
「母様…。」
私の目に涙がこみ上げてきた。
「用意は出来たかい?」
夜も更けた頃、巫女が声をかけて来た。
「はい。」
私は身の回りの物をつめた小さな荷物を背負い、愛用の弓矢を手にして立ち上がった。
「私の庵の辺りに、馬を二頭繋いでおいた。聖地を越えて行くがいい。私が追っ手を食い止められる。そして、困った事があったら、こっそり訪ねておいで。私が生きている限り、出来るだけの事はするからね。」
巫女は、岩牢への道すがら、私の心配ばかりしていた。私は有り難さのあまり、その場にへたり込んで泣き出してしまいそうだった。
「なんて顔をおしだい?これからお前は幸せになるのだよ。」
巫女は私の頬を軽く撫でた。
「新しい旅立ちだ。笑ってごらん。私に最後に笑顔を見せておくれ。」
「母様…。」
私は、無理矢理笑顔を作った。この人の願いなら叶えてあげたかった。でもその時、必死で堪えていた涙がついに一筋、零れ落ちてしまった。
岩牢に着くと巫女は、私を物陰に潜めさせておいて、用意していた酒壷を手に、見張り達の元へ近づいていった。
「ご苦労だね。今日は息子の葬儀の日だ。皆に世話をかけたお詫びに、御神酒を配って歩いているのだよ。お前達もこちらで焚き火でも囲んで、一杯やっておくれ。」
そう声をかけられて、見張りに立っていた男達は、焚き火を囲んで座り込んだ。何の疑問も抱かずに、巫女の差し出した酒壷を傾け、御神酒に舌鼓を打っている。しかし、御神酒にはしっかりと眠り薬が仕込まれていた。やがて、見張り達はこっくりこっくり居眠りを始めた。巫女は私の方を見て、大きく頷いた。
(今だ!)
私は隠れ場所から飛び出して、岩牢に向かった。
「空!『私の空』!」
呼びかけると彼はすぐにこちらに近づいて来てくれた。
「風!『俺の風』!無事だったか?!」
そうだ。このひとはこうしていつも、自分の事よりも私の心配をしてくれる。
「安心して。私は大丈夫。それよりあなた、逃げるのよ!」
私は岩牢の格子を、用意して来た斧で破ろうと一歩下がって斧を構えた。
「ちょっと待て!それでは誰かが手助けしていると知れてしまう。それでは迷惑をかけてしまう人がいるのではないのか?」
彼の指摘に私ははっとして手を止めた。
「では、どうしたら…。」
私はうろたえた。彼の言う通りだ。巫女に迷惑をかけたくない。
「そこをどいていろ。」
彼は私にそう言うと、いきなり岩牢の一番奥まで後ずさると、猛烈な勢いで格子に体当たりした。メキッ!派手な音を立てて、格子は粉砕された。一瞬私は見張りが目覚めぬかと心配した。だが辺りはしんとして、何の変化も起きなかった。私は胸をなで下ろして、彼に言った。
「そんな事が出来るのなら、なぜ最初からそうやって逃げようとしなかったの?」
「俺が逃げ出したら、長達に迷惑をかけた。今は、お前が根回しをしたのだろう?だから、俺と共に逃げるためにやってきた。」
私は苦笑いを浮かべた。
「わかっているのね。じゃあ、急ぎましょう。」
森を抜け、草原を突っ切る。まずは巫女の庵を目指して。二人とも普段からの鍛え方が違う。ましてや「自由」への逃避行なのだ。それこそ矢のように走った。
巫女の庵。聖地の山の麓に巫女が御籠りと祈りの場として設えた、祭壇を安置した小屋だ。傍らに禊ぎにも使われる小さな水場があり、大きな木が数本、庵を守るかのように生えている。馬は、そのうちの一本の枝に繋がれていた。たずなを解き、彼は身軽に一頭に跨った。
「お前は馬に乗れるのか?」
「乗れはしても、走らせる事は出来ない。でも、このままずっと走っていくわけにはいかないでしょう?とりあえず、歩くよりは早いわ。」
私の返事に今度は彼が苦笑いした。そして、私も馬に跨り、二人は轡を並べて歩き出した。東の空が白み始めた。
巫女は私達の為に、食料と防寒具を馬の背に括り付けておいてくれていた。聖地に入る直前に、私達は軽く腹ごしらえする事にした。聖地の中では、火を焚くのもはばかられる。彼と焚き火を挟んで食事する。二人で食事するのも初めてだった。考えてみると、不思議なものだ。私達は、もうずっと一緒にいるかのように、自然に振る舞えている。彼はさりげなく私に手を差し出し、私は何の抵抗もなくその手に縋り付いている。この人ならば、私は安心して寄りかかっていていいのだ。その代わりに私は、この人の身の回りのことを気遣い、出来る限りの事をしてあげる。何という充足感。幸せとはこういう事だったのか。私は初めて女に生まれた事を天に感謝した。
寄り添うようにして馬を歩ませていく。山の裾野をぐるりと迂回するルートをとった。聖地の中心である山頂を越えていくのは、余りに畏れ多い。しかし、いくら聖地の端とは言え、聖地の中には変わりない。私にはじっと見守ってくれている視線が感じられた。暖かな思いが私達を包んでくれている。私は巫女のことを思った。彼女はまさに私の母親のように優しく、私の将来を気遣ってくれた。この暖かさは彼女のものに似ている。彼女は今、どうしていることだろう。うまくやるよ、とは言っていたが…。
「どうした?」
私の顔を覗き込むようにして、心配そうに彼が尋ねた。
「暗い顔をしているぞ。俺が何かしたか?それとも何か心配事か?」
私は首を振った。
「何でもないの。私、こんなに幸せでいいのかと思って…。」
「そうか。俺もこれまでの人生、様々な事があったが、これからはこうしてお前と共に生きていけるならば、苦労した甲斐もあったなと思っているところだ。聖霊達に感謝するよ。」
彼は、やわらかく微笑みながら言った。そうだ。この人とこれからずっと一緒に生きていくのだ。生きて、幸せに暮らすのだ。それが私の望みで、巫女の願いなのだから。でも…。
日が暮れる。追っ手の影はない。どうやら巫女はうまくやってくれたようだ。私達は夜営の準備を始めた。
「もう追っ手も来ないようだな。ゆっくり出来そうだ。」
彼が微笑みを浮かべながら言った。
「風。俺は、聖地の山に入ってから考えていた事がある。」
「?」
「正式な、とは言えないが、婚姻の儀式をしたい。誰にも祝ってもらえない立場だが、せめて聖霊達に祝福してもらおう。お前はイヤか?」
私は驚きと共に感動を覚えた。この人はそんな事を考えていたのか。男の人がそんな事に拘る訳がない。すべて私のためだ。私は思わず彼の顔を見つめた。
「イヤか?やはり、誰にも祝ってもらえず、衣装も何も揃えられない儀式など、無駄だと思うか?」
彼は少し残念そうに言った。私は慌てて首を振った。
「違うの。私、あんまり嬉しくて返事が出来なかっただけなの。」
彼は改めて私の顔を見つめた。
「じゃあ、俺と正式に夫婦になってくれるのか?」
「はい。」
私が頷くと、彼は私を引き寄せ抱きしめた。日頃大柄なのを気にしている私が、彼の腕の中にはすっぽりと収まる。私は彼の前では普通の、か弱い女でいて良いのだ。私はこの人となら普通の女として生きていて良いのだ。私は目を閉じて彼の胸の鼓動に聞き入っていた。
小石を積み上げ、常緑樹の枝を飾り、小さな祭壇をこしらえた。なけなしの食料から志し程度のお供え物を設え、きれいな水を添えた。そして、見よう見まねで儀式をはじめる。
「天と地と聖霊達と、この世に生きとし生ける全てのもの達、死せる全てのもの達よ、ごろうじろ。ここに額付きし二人の者、これより夫婦となりて生きることを誓うものなり。どうか見届け下さり、祝福賜らんことを切に願わん。」
厳かに二人で声を揃えて唱え、繋ぎ合わせた手に聖水を注ぐ。そして、浄められた手で二人の髪の毛を一房ずつ切り取ると、祭壇の前に焚いた火に投げ入れる。ぱっと火の粉が飛び散り、勢いよく火が燃え上がる。
「二人の誓いは火によって聖霊達の御前に届けられ、承認された。これで二人は正式な夫婦となる。」
彼は祭壇の前で最後の決まり言葉を厳かに唱えると、感動に震える私を引き寄せ、静かにくちづけた。
満天の星空の下、枯れ草の上に毛皮を敷いただけの褥。熱い彼の腕に抱かれた私は、幸せだった。彼の情熱と愛情を受け止めるのは、女としての喜びでもあった。愛情を実感として感じられるというのはなんて幸せなことだろう。彼の胸に頭を寄せて、私は眠りに落ちた。
気が付くと、私はあの精神世界にいた。泉の端に佇んでいる。傍らには、うら若い姿の巫女が立っており、柔らかい表情で祝福の歌を口ずさんでいた。私を見つめる瞳には、限りない愛情が溢れており、私の幸せを喜んでくれているのがよくわかる。
「母様。」
私はそっと呼びかけた。すると巫女は、腕を伸ばすと私を抱きしめて背中をぽんぽんと叩いた。
「お前達の誓いは、きちんと聖霊達の御前に届いたよ。聖霊達も喜びに満たされている。お前達の婚姻は聖霊達の思いに叶っている。言祝ぐべきかな。」
私は限りない喜びに包まれた。誰に祝って貰えずとも、この人が祝ってくれた。喜んでくれた。私はそれが嬉しかった。
「私はお前に、一言お祝いを言いたかったんだよ。その思いを聖霊達がくみ取ってくれた。こうしてまたお前に会えるとは思わなかった。」
巫女は本当に嬉しそうに笑った。
「もう私には、思い残すことはない。あの男は、お前を幸せにしてくれるだろう。お前の幸せを私は確信できる。良かった。お前に会うことが出来た。」
言い終えると巫女の姿はすうっと薄れ、消えていった。現実世界に戻ったのだ。私は涙で視界が歪むのを感じた。この世界でも涙は流れるのだ。立ちすくむ私の髪をなぶる様に風が吹いて来た。
何時の間にか私の胸には、一つの決意が芽生えていた。風はそれを肯定してくれているかのように優しく吹いている。私は静かな泉の表面に目をやった。聖霊達には私の思いが全て、悟られているのだろう。その上で、私を見守っていてくれる。
「この決意は、間違っていないのですね。」
私は、そう呟いていた。勿論返事があろう筈はない。でも、優しい風が吹いて来た。
馬鹿…。私は私に呟いた。お前は救いようのない馬鹿だ。どうしてわざわざ苦しい道を歩こうとする?そして苦笑いする。わかっている。それが私なのだから仕方がない。本当に我ながらどうしようもない馬鹿だ。私は内心肩を竦めた。
目覚めると、まだ夜が明け切らぬ冷え込んだ朝だった。霜が、差し込み始めた朝日にきらきらと輝いている。普通に野宿しているのだったら、凍えてしまっていただろう。だが私は、しっかりと彼の腕に包まれ、彼の温もりに守られていた。彼の胸に頭を寄せて、彼の健やかな寝息を聞きながら、明けていく空を眺めている。あまりの幸福感に決意が鈍りそうだ。私にやっと手に入れたこの温もりを、手放すことが出来るのだろうか?私は、しばし彼の横顔を見つめていた。
いつの間にか私は再び眠りに落ちていたらしい。気が付くと、すぐ目の前に、やわらかい表情の彼の顔があった。ずっと、飽かず私の寝顔を見つめていたのだろうか。私は思わず、頬が赤らむのを感じた。彼は私が目覚めたのを確認すると、登り初める朝日のように微笑んだ。
「これは、夢ではないのだな。お前はこうして俺の腕の中にいる。確かな手応えと共に。」
そして、私を優しく抱きしめた。
「いや、夢でもいい。こんな幸せな夢ならば。」
彼の思いに、私は圧倒された。そして私の方からも彼を抱きしめた。
身繕いを終えて、軽い朝食をとった。私は話を切り出す機会を窺った。どうしても彼に話さなければならない。それがどんなに彼を傷つけようとも。
僅かばかりの荷造りを終えると、彼がにっこり笑いながら私に手を差し伸べた。
「さあ、行こう。新しい旅立ちだ。」
私はその手を取ることが出来ず、躊躇って彼の手を見つめていた。
「?どうした?」
彼の顔を見あげる。何ひとつ疑っていない。胸が痛む。私は思わず後ずさった。
「おい、風?」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「ごめんなさい。私、一緒に行けない。」
何を言われたのか理解できていないのか、彼は一瞬その動きを止めた。それからゆっくり私の目を覗き込むようにした。
「どうした?まだ追っ手がやってこないとは限らない。少しでも進んでおいた方がいい。それとも何処か体の調子でも悪いのか?」
心配そうに私を気遣う。
(駄目だ…。)
私の目からは涙がぽろぽろ零れ落ちてきた。
「どうした?やはり何処か痛いのか?」
彼はおろおろと私の方へ手を差し出した。私はその手から逃れるように、かぶりを振った。
「違う…。違うの…。私、もうあなたと一緒に行けない。あなたと暮らせない。」
彼は私の言葉を聞いて絶句した。
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