牢の前には篝火が焚かれ、見張りが一人、番をしていた。あのひとが何の抵抗もせずにおとなしくしているので、堅牢な牢獄に入れてさえいれば大丈夫だと思われたのだろう。しかも、その番人は居眠りを始めている。私は足音を忍ばせて、あのひとに近付いて行った。
「『私の空』。あなた、私よ。」
岩牢の格子からそっと声をかける。横になっていたらしい人影が、ゆっくりと起き上がり、こちらにやって来た。月明りであのひとだとわかった。
「『オレの風』。お前、どうしてこんな所へ?誰かに見つかったら大変な事になる。早く立ち去れ。」
私は格子に縋り付くようにして、なるべくあのひとの傍に寄ろうとした。涙が溢れてくる。その私の顔をあのひとは悲しそうに見た。格子の間から腕を伸ばして、優しく私の頬の涙を拭ってくれる。
「何故泣く?オレの事なら心配はいらぬ。」
私は激しく首を振った。
「いいえ!あなたは処刑されてしまう。だから私はその前に全てを話そうと決意した。」
私のその言葉を聞いて、彼は顔色を変えた。
「私が話せば、あなたの濡れ衣は全て晴れる。大手を振って村へ戻れる。」
「お前は…、そうしたら自分がどうなるか、解って言っているのだな?」
私はこっくり頷いた。
「お前は、馬鹿だ。」
彼は大きくため息をついた。
「オレがそれを望むと思うのか?」
そして、私の顔を見て微笑んだ。
「だって、私はあなたを助けたい!」
「だから馬鹿だと言っている。何もお前が告白せずとも、オレは明日、長老達の前に引き出される。そして、尋問されるのだろう。オレは無実を訴える。聖霊達に誓って真実を訴える。」
「それではどうにもなりはしない!」
「それにな、オレには気付いたことがある。あの、オレを見た、と証言した男。彼は何故、草原にいたのだ?オレがいた、と言うのなら、彼もまた草原にいた事になる。違うか?」
私ははっとした。そうだ。その通りだ。彼は草原にいた。そして、弟達は彼を見張っていたのだ。私の頭の中で、全ての謎が解けた。
「そこにいるのは誰だ?!」
いきなり大声で誰何され、明かりを突き付けられて目が眩んだ。私は咄嗟に小刀を引き抜いていた。条件反射だった。
「なんだ、お前か。『風を見る女』。仇の顔を見に来たのか?」
村の男達だ。見回りに来たらしい。立ちすくむ私の手の小刀を見つけて、彼等は少し慌てた。
「おい、お前、自分で勝手に仇を討とうとしていたんじゃあるまいな!」
完全に勘違いしていた。それを聞いて、あのひとが行動を起こした。
「何とかしてくれ!この女、オレを殺そうとしている!」
必死を装って訴える。私は唖然とした。彼は何を言い出したのだろう?私が彼を殺す?
「その女を捕らえろ!勝手な真似をさせるな!」
先頭にいた男が、私を指してわめいた。
「!」
一斉に男達に飛び掛かられ、私は身動きすら出来ないように縛り上げられた。
「よし。そのまま長老達の元に連れて行け。」
私はいまいち事態が飲み込めないまま、族長の天幕まで引きずられて行った。

「一体何事だ?」
族長の天幕には、長老をはじめ、お偉方が勢揃いしていた。
「お騒がせして申し訳ありません。実は、この女が岩牢に忍び寄り、囚人を殺そうとしておりましたので、捕らえて連行してまいりました。」
「ほう。この女、何者だ?」
「先日囚人に殺された兄弟の姉です。」
一瞬緊張感が辺りに張り詰めた。
「へえ、弟達の仇討ちでもしようとしたんですかね。女だてらに。」
笑いを含んだ声。振り返ると、そけには巫女の息子がいた。
(あいつが何故こんなところに?!)
私の頭にかっと血が上った。きっとやつを睨み付ける。
「なかなか見上げた心意気、とでも申しましょうか。」
やつの言葉に呼応して、一斉にその場の視線が私に集中した。
「そのような口の聞き方は感心せぬ。」
眉をしかめて長老が言った。
「そなたは本来はここにいるべき者ではない。巫女の後継者であり、今回の事件の証言者であるから、特別にこの席に招かれているのだ。分をわきまえるがよい。」
長老にずばりと言われて、やつは黙り込んだ。いい気味だ。私は怒りに燃える目であいつを睨み付け続けた。
「さて、お前。」
 そして長老は、私を省みて言った。
 「お前の怒りはよくわかった。必ず気の済むように計らおう。今日は戻るがよい。もう決して、無謀な真似をしてはならぬ。」
私は有無を言わさず、自分の天幕に軟禁された。

結果として私は、告白する事も、あのひとを逃がす事も出来なかった。ただ一度の機会だっあかもしれないのに。私は自分が情けなくなった。でも、まだだ。まだ諦めない。きっともう一度、長老達のもとへ引き立てられる事だろう。その時を逃さぬようにせねば。私は、その機会をじっと待った。
しかし、運命は 私達に過酷な道を用意していた。
「おい、族長がお呼びだ。」
次の日、族長の命を受けた男が、私を呼びに来た。 「きちんと正装するのだぞ。熊一族の長達もご一緒だ。一族の恥をさらすな。」
私は、珍しくおとなしく従う事にした。族長達の印象を、少しでも良くしておく方が得策だと判断した。私は一世一代の大舞台に立つ覚悟だった。

「連れて参りました。」
声に導かれて天幕に入り、正式の礼のため両膝をついた。
「来たか、『風を見る女』。近く寄るがいい。」
長老の言葉に従い、立ち上がってお偉方の前まで進み寄ると、微かな歓声が上がった。
「ほう。お前がこんなに美しかったとはな。何故日頃から女らしく装わなかったのだ?」
族長が意外そうな声で言った。私は何も答えず、ただ頭を下げた。族長は鼻白んだようだった。
「まあ、よい。熊一族の長達よ、この女が被害者の姉です。」
族長の隣に座った、豪華な頭飾りをつけた正装の男が、こちらを見て頷いた。
「私が熊一族の族長だ。今回の事件の決着がついたのでな。お前にも知る権利があると思うて、ここに呼んでもらった。」
(え?)
「『誠実なる熊』をここへ。」
族長の指示に従って、従者らしき男達が、あねひとを連れて来た。
「さて、『誠実なる熊』よ。我等は今度の件でとことん討議した。そしてある結論に達した。よって、最後に今一度、お前に申し開きの機会を与えようと、この場に呼んだ。こちらにかの証言者がおる。そして、そちらが被害者の姉だ。この二人を前にして真実を語るがよい。」
熊一族の族長の言葉に、あのひとはじろりとあの男を睨み付け、私をしばし見つめ続けた。
「美しいな…。」
彼の唇がそう動いたように見えた。私は涙が溢れそうになって、必死に堪えた。
「さて、証言者よ。この男の前で、聖霊達に誓って真実を述べよ。」 熊一族の長老が、厳かに言った。お偉方の後ろからあいつがのっそりと進み出た。その場にいた全ての者の視線が、あいつに注がれた。あのひととあいつの視線が絡み合って、火花を散らした。瞬間、あいつが笑った、ように見えた。だが、それに気付いたのは、私と彼だけだったのかもしれない。あいつは族長達に向かって深々と礼をすると、彼と対峙した。
「私は嘘を言ってません。あの日、私は草原でこの男を見ました。」
あのひとを指差して断言する。
「聖霊達に誓えるか?」
族長の問いに、右手を胸に当て恭しく一礼して頷いた。
「はい。聖霊達に誓いまして。」
そう答えた男の態度は、とても丁寧で、巫女の後継者としての威厳すら備わっていた。長老達は頷き合い、今度はあのひとに視線を移した。
「何か、申し開きする事があるか?」
族長の問いに、あのひとは軽く頷き口を開いた。
「確かにオレはあの日草原にいた。だが、誰も殺してなどおらぬ。それだけは聖霊達にも誓える。オレは嘘をついてはいない。」
長老達の間からため息が漏れた。
「『誠実なる熊』よ。だが、その言葉だけでは、お前の無実を証明出来ぬ。」
「熊一族の長達よ。この調子ではまた、論議の繰り返しになる。結論はもう出ておるではないか。」
族長が苛立った様子で言い放った。熊一族の長達は、お互いの顔を見合わせた。そうだ。結論は出た、と言っていた。どう出たのであろう?
「『誠実なる熊』よ。お前の話からはもはや何も得るものはないようだ。我々は先ほど出した結論に従うほかなさそうだ。」
熊一族の族長が、眉間に皴を寄せて、苦しそうに言った。
「お前を処刑する事に決まったのだ。」
我が一族の族長が誇らしげに言い放った。
「!」
私はショックのあまり、めまいを覚えた。にやり、とあの男が笑った。あのひとはじっと長老達を見つめた。
「この決定はもはや動かせぬ。例えのちに真犯人が現れようともな。なぜなら、疑いを招き、部族間に戦争の危機をもたらしたその事実が、お前の罪だからだ。」
我が族長がそう続けるのに、私は呆気に取られた。是が非でもあのひとを処刑しようとしているとしか思えなかった。
「これは聖霊達の御意志でもある。のう、巫女の後継者殿。」
「はい、その通りでございます。巫女様はそう御託線を受けられました。私は直に巫女様から伺いました。」
あの男が恭しく礼をしながら言った。私は頭にかっと血が上るのを感じた。嘘だ。直感的にそう思った。だがそれをどうやって族長達に説明したらよいというのだろう?
「オレがどう足掻いても、もはや無駄だという事だな?余計な事は話すな、という事か。」
あのひとは冷静にそう言うと、ちらりと私を省みて頷いて見せた。私にも話すな、と合図を送って来たのだ。私が告白したくらいでは、もう決定は覆らない。話すだけ私が傷つく。話すな、と。私は唇を強く噛んだ。彼の考えはよくわかる。だが、このままでは彼は処刑されてしまう。私は彼の忠告を無視してでも何か言おうと口を開きかけた。途端、すごい勢いで私の頬が鳴った。私の体は吹っ飛んで床に転がった。
「何をする!」
族長達が色めき立った。よりにもよってあのひとが私を張り倒したのだ。
「いや、あまりにこの女が嬉しそうなのでな。オレを犯人だと思い込んでいるんだろうが、オレが処刑されるのがそんなに嬉しいのかと思ったら腹が立った。」
私は床の上で、腫れ上がった頬を押さえながら、あのひとの声を聞いていた。
「女、これでもう、声一つ出す事も出来まい。余計な事はせずにおとなしくしている事だ。オレを笑っている場合ではないぞ。下手に口を滑らすような真似をすれば、お前もオレの二の舞だ。」
「!」
あのひとは、私を止めるために、私を張り倒したのだ。あの場合、怪しまれずに私を、私の言葉を遮る方法はほかになかった。私の目に涙が溢れた。零れ落ちる涙は、ほかの者の目には痛みと悔しさのためのものと映った事だろう。だが、違う。彼の私に対する思いが私を泣かせたのだ。彼は自らの命の危機に瀕しても、私の身の安全を確保しようとしてくれた。私の目からはとめどなく涙が溢れた。
「お前がそんなに乱暴だとは知らなかったな。」
熊一族の族長が、あのひとを押さえ付けながらため息をついた。
「お前が女に手を上げようとはな。」
「いわれもない疑いで命を取られようとしているのだ。それを喜ばれては堪らない。」
あのひとは肩をすくめて皮肉を言った。族長は視線を落としてぼそりと言った。
「すまぬ。私の力が及ばなかった。両部族のためだ。お前の命を私にくれぬか?」
あのひとははっとして族長の顔を見つめた。二人はしばし見つめ合った。族長の顔は苦渋に満ちていた。長達の間でどんなやり取りがあったのだろう。私は我が族長の顔を盗み見た。その唇には微かな笑みのようなものが張り付いていた。我が一族なれどこの人は、自分の有利になる方へ無理矢理話を運ぶ名人だ。例えそれがどんな横車であろうとも、手段も選ばず突き進む。今回は、ある意味族長の威厳がかかっていた。面目を保つために、熊一族の長達を窮地に追い込み、あのひとの処刑を無理矢理承知させたのだろう。私にはさっしがついた。何ということだ。真実ではなく面子が人ひとりを殺そうとしている。
「わかった。あなたに従う。オレの命はあなたのものだ。」
あのひとがゆっくりと言った。その瞳には既に迷いすらなかった。全てを自分の中に飲み込んで、結論を出したのだろうか。澄んだ目だ。熊一族の族長が、堪え切れずにあのひとの手を握り締めてた。その頬には涙が一筋伝っていた。
「済まぬ…。」
「いや。あなたの事はよく知っている。そのあなたがこういうことを言うのはよっぽどの事だ。オレ一人の命で購えるものなら、かまわぬ。あなたの自由に使ってくれ。」
あのひとは、握られた手を握り返して、微かに頷いた。
「ほう。話がまとまったようですな。では族長殿。この者は処刑させていただく。我らの手で。」
我が族長が、勝ち誇ったように言った。熊一族の長達は悲痛な表情で黙り込んでいる。
「決まったようですね、族長。」
その様子を見ていたあいつが口を挟んだ。
「私に名案があるのですが聞いていただけますか?」
「何だ?巫女の後継者殿。言ってみるがいい。」
上機嫌で族長が言った。
「ええ。その者の処刑なのですが、その女にさせたらいかがですか?弟達の仇討ちに。女に殺されたとあれば、その者の名折れとなりましょうし、女も、一族の者達も納得がいく事でしょう。」
「成る程。それはよい。」
我が族長はにたりと笑った。私と熊一族の長達は青ざめた。
「ビーバーの族長殿。それはあんまりななさり様だ。」
熊一族の長老が抗議の声を上げた。
「ふん。罪人に情けは無用。文句があるんでしたら、あの約束はなしですな。だが、そうなればあなたがた熊一族は、我が一族のみならず近隣の一族達から総攻撃を受ける事になりますぞ。熊一族は罪人を庇い、他部族との争いを望み、侵略の志を持っている、と証明した事になる。いかがかな?熊一族の長達よ。」
熊一族の長達は黙り込むしかなかった。そうか。そういう訳なのか。我が族長ながらこの男は、とことんイヤな奴だ。近隣の部族に、あることないこと吹き込んで、熊一族を悪者に仕立て上げ、それを楯にとって脅したのだ。これでは長達もこの男の言うなりになるしかあるまい。そうでなければ一族全体が、攻め滅ぼされかねない。この男の陰謀によって。
「そうか。そういう訳だったのか。」
あのひとがぼそりと言った。
「オレも、族長達も、罠に嵌められたのか。」
「ふん。疑われるような事をした方が悪い。」
馬鹿にしたように族長が言った。
「何にしろ、これでお前の処刑は決まった。しかも、この女の手にかかる、とな。」
「族長。」
あいつが愛想笑いのような笑みを浮かべて、族長に話し掛けた。
「この女は女だてらに弓の名手なのです。どうでしょう?この女の手にかかって、などと言葉だけの、実は最後に一刺しだけさせるというのより、実際にこの女の弓矢で射殺させる、というのは?」
(え?!)
私は心臓を握り潰されたかと思った。本当に私が私自身の手で彼を?
「ほう。それは面白い。よかろう。そうする事に決めよう。」
クツクツ笑いながら言う族長に、長老がみかねたように忠告した。
「族長。お遊びがすぎますぞ。」
「いいえ、長老様。これぐらいやらなくては見せしめになりませぬ。」
おためごがしに口を挟んだのはあいつだ。
「例えどの部族であろうとも、部族間の戦争の種になるような事をした者は、厳罰に処されなければ。二度と誰も、部族間抗争など企てないようにせねばならないのです。」
一見もっともな言い分だ。だが、現実はどうだ?その起因となったのは陰謀だ。
「長老殿。その通りだとわしも思う。わしも実は、息子の仇を討ちたいのだ。だが、その私怨よりも部族の利益、一族の者の思いを優先させているのた。」
いかにも、といった様子で、族長が言った。その場を取り繕うつもりなのが見え見えだ。だが、誰も何も言えない。この男は表面上はしごくまともな事を話している。私は内心歯ぎしりした。
「さて、この者の処刑は、明日、太陽が一番高く登った時。この女の弓にて行う。これが最終決定だ。」
族長が宣言した。熊一族の長達は皆、辛い表情で俯いている。もう、あのひとの命を救う事は出来ないのだろうか。私はひたすらその思いに沈んでいた。
「族長、私からひとつお願いがあるのですが。」
あいつが愛想笑いを満面に浮かべて、族長に擦り寄って言った。
「わしは今、しごく機嫌が良い。大概の願いは聞いてやるぞ。」
族長は軽く受け合った。
「実は、その女、『風を見る女』ですが、私にいただけませんか?」
(え?!)
「ほう。これはまた、驚いた!お前も物好きだな。」
にたり、と笑って族長が言った。
「私もそろそろ後継ぎを造らればなりませんので。その女は、体だけは丈夫そうで、子どもをころころ生んでくれそうですからね。」
やっぱりにたり、と、いやらしい笑い方をしながら、あいつが言った。
「まあ、好きにするがいい。確かにそいつには、むしがついた事など有り得ぬだろうからな。巫女の家系の後継者を生むには相応しかろう。そいつに取ってもいい話だ。このままでは身寄りもないまま、いかず後家で終わってしまうからな。よし、族長命令だ。『風を見る女』よ。お前は巫女の後継者の元に嫁ぐが良い。」
私は愕然とした。よりにもよってあいつのものになれ、と?しかも族長命令では、否とは言えない。私は絶望の淵に追い込まれた。思わず目であのひとの姿を求める。引き立てられて行こうとしていたあのひとと、視線が合った。あのひとは、悲しげな眼差しで私を見つめると、何か言いたげに唇を動かした。だがそれは、言葉にならなかった。私はあのひとの後ろ姿を見送るしかなかった。

私に何が出来るだろう。私は途方にくれた。あまりの絶望感に、手を引かれて連れ出されたのにも気付かなかった。どさりと投げ出されて我に返ると、そこは見知らぬ天幕の、贅沢な寝床の上だった。
「何を…!」
目の前にあったのはあいつの顔。
「何を、って、決まっているだろう?お前は、俺のものだ。子どもを造るんだよ。」
あいつはにたり、と笑った。
「!」
私は思わず後ずさった。
「へえ、お前でも女が男のものになるって事が、どういうことなのかわかっているのか。」
おかしそうに笑いながら、私を逃げられないように追い詰めていく。私は無意識に、いつも持ち歩いていた筈の小刀をまさぐった。だが、そこには何もなかった。何故なら、私はいつもの服ではなく、女の、しかも正装を身に着けていたのだ。
「さて、やはりその様子では、お前にはまだムシが付いていないんだな。そんなに怖がるな。やさしくしてやる。」
冗談じゃない!私はこんな男のものになる気はない!この男の子どもを生んでやる義理もない。大体、こいつは弟達の仇だ!
私はぎりぎりと歯がみした。怒りが沸ふつと湧いてくる。私はキッとあの男の顔を睨みつけた。このままおとなしくこの男の思うがままにされるのは、普通の女のする事だ。私じゃない。私は、私の力で生きてきた。二人の弟を育て上げた。私は!
考えより先に、体が動いていた。のしかかってきた体を、思いっきり蹴飛ばした。あいつは寝床から転がり落ちた。私の大柄な体と、男達から軽蔑されている力が役に立った。
「私を甘く見るな!私はお前がした事を全て知っている。族長の息子を殺したのはお前だ。そして、私の弟達も!」
寝床の前に仁王立ちになって、あいつを睨みながら私は怒鳴り付けた。あいつは私の勢いに度肝を抜かれて這いつくばった。おたおたとその場から逃れようとする。私は再びカッとした。情けない。余りにもみっともないその姿に、こんな男に私の運命が踏みにじられたのかと思うと、怒りと屈辱感に体が震えた。私はあいつの襟首を掴んで引き起こすと、目一杯殴りつけた。ガゴン、と鈍い音がしてあいつは吹っ飛んだ。天幕の隅に倒れ込む寸前。
「ぐえっ!」
奇妙な、蛙が踏み潰されたような声を上げて、あいつは動かなくなった。もう一度殴りつけようと、あいつを引き起こす。しかし、あいつは動かない。ぐったりとぶら下がったままだ。襟首を掴んだまま、軽く揺すってみた。首がガクガクと揺れる。ぽたり、と何かが滴る音がした。床を見ると赤い水溜まり。
(え?)
不思議に思ってあいつの体をよく見ると、背中から有り得ない物が生えていた。祭事用の大刀。と、すると…、あの赤いものは…血?こいつは…死んでいるの?
「ひっ!」
私は小さく叫ぶと、掴んでいたあいつの体を突き放した。どさり、とやつは荷物のように投げ出された。やはり、死んでいる。私が殺した?いや、事故だ。だが、この状況で、誰が信じてくれる?私はその場に立ちすくんだ。

「娘。こちらをお向き。」
それからどのぐらい経ったものか、いきなり後ろから声をかけられて、私は飛び上がった。振り返ると、そこには一人の小柄な老女が立っていた。
「私じゃない!私が殺したんじゃない!」
私は必死で訴えた。わかってもらえる確率がどんなに低かろうとも、何も言わずに処刑されてたまるものか。
「わかっているよ。」
予想に反して、彼女は冷静にそう言った。そして、不様に転がっているあいつの元に歩み寄った。
「馬鹿な子だけどね、馬鹿は馬鹿なりに可愛いかったんだよ。」
老女は膝まずくと、そっとあいつの見開かれた瞼を閉じてやった。
「さて、娘。大丈夫だよ。私は見ていた。お前は自分で自分の身を守ったに過ぎない。悪いのは我が息子さ。情けない事にね。」
彼女は溜め息をついて、軽く首を振った。
「え?息子?」
私は素っ頓狂な声を上げた。
「ああ。ここに死んでいるのは、私の息子さね。不肖の息子だがね。さすがにそんな息子でも、いざ死んでしまうと悲しいものなんだねえ。」
私は老女を見つめた。ごく普通の老婆に見える。しかし首からはまじない紐と一族のトーテムを象った首飾りがぶら下がっている。巫女だ。 「お前は『風を見る女』だね。私は息子に、お前を私の後継ぎにするように、と聖霊達のお告げがあった事を伝えた。そして、お前を私の天幕に連れて来るように命じた。それがあまりに遅いので、様子を見に来たら、あの場面に出くわした。」
巫女はとつとつと話す。
「だから、お前があれを殺したんじゃないって事は、私がこの目で見て知っている。何て事だろうね。」 巫女はまた溜め息をついた。
「私はこの子が仕出かした事を、何も知らなかったのだね。母親であり、巫女でもあるというのに。どおりで聖霊達が、私の後継者としてあの子を認めてくれぬはずだ。嘆かわしい。」
そして、あいつの背中に突き刺さっている大刀に手をかけ、引き抜いた。
「手伝っておくれ。こいつを何とかしなくては。族長達には急な病死という事にしたいからね。お前は聖霊達に指名された、私の後継ぎだ。無実の罪で処刑などさせて堪るものか。」
「私が後継ぎ?」
「ああ、そうだよ。さっきも言ったと思うが、聖霊達がそう望んでいる。私は巫女だ。聖霊達の言葉を聞き、伝えるのが仕事だ。」
「何故、私が?」
「聖霊達の御心は、私などに計り知れるものじゃないさね。だけど、聖霊達の望みを叶えるのもまた、私の仕事。だから、お前をありもしない罪から救い出さねばならない。わかったらさっさとおし。血止めをして、とりあえず寝床に寝かせるよ。ああ、着替えもさせねばね。」
巫女はテキパキと作業を進めていく。やがて、巫女の息子らしく美々しく正装した遺骸が、葬儀用の台座に横たえられた。
「これでよし。明日の朝になったら、私の代理として族長の元へ使いに出ておくれ。婚礼も何もかも終えた、正式な私の嫁であり後継ぎとして。それからこの子の葬儀をするよ。そしてすぐにお前のお披露目の儀式だ。」
あまりに早い展開に私は目が回る思いだ。これから私はどうなるのだろう。そして、あのひとは?
あのひとの事に思い至って、私は慌てて巫女に声をかけた。
「あの、巫女様。」
一段落ついて、彼女は改めて息子の遺骸に見入っていた。私の声が聞こえていないらしい。思えばこの男は、彼女の一人息子なのだ。例えどんなに録でも無い男であろうとも。彼女の肩が震え始めた。私は、彼女を慰める資格を持たない事を、残念に思った。

二人きりの通夜は静かに更けていった。何と目まぐるしい一日であった事だろう。私は、悲しみを内に押し込めるように耐えている巫女を、痛ましく見守っていた。だが、こうしている間にも時は移る。ましてや、他人を交えずに話が出来るのは、今夜この時しか有り得ないだろう。私は話を切り出した。
「巫女様、お話があります。」
彼女はゆっくりと顔を上げて、私に向き直った。
「これからは、『母様』とお呼び。お前はもう、私の娘なのだからね。お前の話を聞く前に、私にお前の知っている事を全て、包み隠さずに話しておくれ。お前の秘密もね。たぶん、それがお前を悩ませているのだろう。全てを知らねば、私は正しい判断が出来ない。そして、行動もとれない。」
彼女の目は真剣だった。悲しみはとりあえず心の奥底に押し込めて、自分の成すべき事を見極めようとしていた。私はごくりと唾を飲み込んだ。







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