私は思わず大声を出した。
「大きな声をお出しでないよ。我等は我等の聖地を守らねばならない。それに、シャーマンの仇も討たねばならない。熊一族が詫びを入れてくれば、また話は変わってこようが、連中にそのような殊勝な心があるのなら、そもそもあのような真似はせぬだろうしね。」
女は肩をすくめた。
「まあ、族長達はあちらの出方を見るおつもりらしいけどね。」
「何にせよ、戦は止めて欲しいよ。いつだって泣くのは女なんだ。」
別の女が溜息をつきながら言った。確かに、戦で犠牲が出れば、悲しい思いをするのは全て女だ。男は面子や体裁で勝手に戦って死んでいく。残された女はどうすれば良いというのだ?
私は暗い気持ちでその場を後にした。
冷たい風が吹いていた。
「どうした?」
ぼんやりと遠くを見つめるようにして黙り込んだ私の顔を覗き込んで、あのひとが尋ねた。私は彼に向き直り、思い切って切り出した。
「戦が始まるという!族長の息子を殺したのはあなたたちか?」
「戦だと?!」
彼は目を剥いた。
「誰が誰を殺しただと?!」
彼は驚きのあまり大声を出した。私はその、彼の驚きように驚いた。
「私の一族のシャーマンである族長の息子だ。知らなかったの?」
彼は茫然と首を振った。
「知らない…。一体何の事だ?」
私は内心混乱しながら、彼に事の次第を説明した。四・五日前に、草原で酷たらしい死体が見つかった事。それがシャーマンである族長の末の息子であった事。シャーマンは聖地の護りの為、聖地に赴くところだった事。発見されたのが熊一族とのテリトリーの境界だった事。熊一族が常日頃、我等の聖地を欲しがっているという事実。そこから導かれる疑惑。
「知らなかった…。そのような大事件が起こっていようとは…。俺じゃない。俺はシャーマンを殺してなどいない。それに、俺の一族の誰かが、ビーバー一族の男を殺したなどという話しも聞いてもいない。我が一族に疑いがかけられているというのか?それは濡れ衣だ!そういう事実があれば、少なくとも俺の耳にも入っている筈だ。」
彼は憤りながらも、順序建てて考えていた。
「一族の中には何の変わりもない。平和な日常そのものだ。もし我が一族の誰かが、そのシャーマンを殺していたとしたら、決してそのように平安でいられる訳はない。少なくとも族長や長老達に何らかの動きがある筈だ。事は部族間の戦にすらなり兼ねない大事だ。そんなとんでもない事を仕出かそうと思うような愚かな人間が、我が一族にあろうとは…。いや、有り得ない。やはり、濡れ衣だ。」
彼はきっぱりと言い切った。
「では、誰が何のためにそんな事をした、とあなたは言うの?」
私は彼に問い掛けた。彼の言う通りなら、また、話が違ってくる。
「わからない…。だが、オレは信じたい。我が一族を。いや、信じている。オレは『誠実なる熊』という名をオレにくれた一族を信じる。」
私は、そんな風に言い切れる彼を、ある意味羨ましく見つめた。
我等には、一族の者から、それぞれに相応しかろうと思う名前が与えられる。それが、その者の特徴となる容姿であったり、特技であったり、性格を表すものであったりさまざまだが、その名は大切にされ、他部族の者などには決して知らされることはない。だが勿論、自分から大切な人に教える分には、何の差し触りもない。
彼は私の顔をはっとした表情で見た。
「お前には名前を聞いておきながら、オレはまだ名乗っていなかったな。すまぬ。」
私は首を振った。
「いいえ。そんな事は私にはどうでもよかったから…。私はあなたが私の事を『オレの風』と呼んでくれるように、あなたの事を『私の空』と、心の中で呼んでいた…。」
「空、か。そんな良い名でオレを呼んでくれるのか?」
彼は少しはにかんだような笑顔を見せた。私は嬉しくなった。
「では、このままあなたを『私の空』と呼んでも良いのか?」
「構わぬ。いや、かえってお前にそう呼ばれるのは嬉しい。一族がくれた名は、オレにとっての誇りだが、同時に重荷でもある。お前はそうやって、またオレを自由にしてくれるのだな。」
彼は少し淋しそうな仁美になって、また笑った。
「皆がお前のようなら、と思う時もある…。」
すっと視線を外した。彼の心に何かあったのだろうか。
「私はあなたにとんでもない問題を持ち込んでしまったのか?」
私は心配になって尋ねた。
「いや。この話は一族の問題でもある。教えてもらえてよかった。戻って族長と協議せねば。」
彼は額に縦じわをよせたまま、私に別れを告げた。
事の成り行きを知りたくて、私はまた村の女達を訪った。私が尋ねるまでもなく、年かさの女が勢い込んで話し始めた。
「聞いたかい?熊一族の族長から使いが来たんだよ!なんでも、シャーマンの死に関わりはない、って言って来たようだけど、我が族長達はなおさら疑いを深めたらしいよ。」
「え?どうして?」
私の素っ頓狂な問いに、女は鼻息を荒くした。
「だってお前、まだこちらから何も言ってやっていないうちから、そんな使いを寄越したんだよ。連中はどうしてこの事を知っているんだい?」
(しまった!)
私は内心舌打ちした。良かれと思ったことが、完全に裏目に出た。
「やらかした当の本人か、さもなくば関わりのある者でしか知り得ない事実なんだからさ。まさか、我が一族に内通者がいる筈も無し。そんな裏切り者がいるとしたら、また大問題だがね。」
そうだ。解っている。私とあのひとが密かに会っている事を、どちらの一族の誰かにでも知られたなら、もうそれだけで尋問され、裏切り者扱いされてしまう。今現在でも、私もあのひとも、つまはじきにされているような状態なのに、これ以上の災難が我が身に降り懸かるのは避けて通りたいところだ。
「族長達は、このあと、一体どうするおつもりなんだろう?」
私の問いに、女は呆れたように答えた。
「そりゃあ、お前。そこを追求して、犯人を焙り出すのさね。そして我等がシャーマンの仇を討つのさ。族長にとっては、一族のシャーマンの仇と息子の仇、二重の意味での敵だからね。」
女はきつい目をしていた。私は改めて気付かされた。一族は、多かれ少なかれ血縁者の集団だ。亡くなったシャーマンは、この女の甥に当たる。
(これは…、ひょっとして私は…。)
胸に引っ掛かるものがあった。真っ黒い不安。
私は、思いあぐんでいた。もう一度、あのひとに会って、この事を知らせねばならない。しかし今、私が動けば、神経を尖らせている一族の者達に、全てを知られてしまうかもしれない。そんな危険を敢えて侵すべきか。しかし、知らせねば、あのひとが…。
「姉さん…?」
私の様子に気付いて、弟が声をかけて来た。私は、ある程度の事を知っているこの弟の顔を見た。果たして、この子を巻き込んで良いものだろうか。でも…。他に、手はない…。
「お前に、頼みたいことがあるの。」
夜の闇の中を、私は駆けていた。弟達に私は重病にかかって寝込んでいる、と工作してもらった。しばらく動けない事だろう、と。この隙に夜闇をついて来た。獣に襲われる危険より、あのひとに降り懸かる危難が恐ろしかった。森を抜け、草原を一気に駆け抜ける。目標は、あのひとの住居。それがどの辺りにあるか、私は聞いて知っていた。闇は濃く、獣達の咆哮が私を追い掛けてくる。急がねば。
「私だ、『風』だ。」
目当ての天幕の中に、そっと声をかける。見つかっては困る。
(お願い!気付いて!)
「私よ!『私の空』。」
微かに気配が動いて、天幕の入口が開いた。
「『オレの風』!何故お前がここに?」
驚きに目を丸くして、彼が囁いた。
「ともかく中へ入れ。」
招き入れられた天幕の中は殺風景なものだった。ある程度予想はしていたが、これ程だとは思わなかった。片隅に大切に置かれた大きな斧と狩猟用ナイフ。拭布とその上に重ねられた毛皮。小さな籠の中には僅かばかりの衣類。天幕の中央にはたき火がたかれていた。それだけだった。
「どうしてお前がここへ?」
私を毛皮の上に座らせて、彼は尋ねた。
「一族の誰かにでも見つかったら、袋だたきにされる。それとも、そんな危険を侵してまで、来る必要があったという事か?」
さすがに話が早い。私はこっくり頷いた。
「あなたの一族の疑いが、解けるどころか増してしまった!我が一族からの知らせもないうちに、言い訳の使いが来た。当の犯人以外がまだ知り得ないうちに、と。あなたが疑われる!」
彼は微かに眉をひそめた。それからゆっくり首を振った。
「オレの一族はオレを見捨てたりしない。オレの言葉を信じてくれる。」
「でも、あなたがどうしてあの事を知ったのか、理由を聞かれたら何と答えるの?」
「答えない。」
「え?」
「オレは口を閉ざしていよう。オレは真実を語っている。それ以外は語らずとも構わぬだろう。」
私は彼の顔を見つめた。このひとは自分の一族を信頼しているのだ。熊一族は、素朴で人情深い。人を疑う事など出来得ない一族だ。そしてこのひとは、その一族から『誠実なる熊』と名付けられた人だ。私はゆっくりと頷いた。
「わかった。では、私はどうしたら良い?」
「お前は、お前自身の安全だけを考えていてくれ。オレにとっては、それが一番の気掛かりだ、『オレの風』。お前が無事なら、全てどうにでもなる。」
真剣な眼差しで真っ直ぐ私を見つめてくる。私にはそれだけでよかった。
しばらくの間私は、自分の天幕に引き篭って、弟達がもたらす情報を一日千秋の思いで待っていた。他にするべき事とてなく、私はあのひとに贈る飾り帯の刺繍に励む事にした。一針一針祈りを込めて、あのひとの一族のトーテム(象徴)を縫い取っていく。この帯はさぞかしあのひとに似合う事だろう。心を覆い尽くそうとする不安を、私は無理矢理追い出した。
「姉さん、大変な事になっている!」
慌てふためいて弟が飛び込んで来た。
「族長達は、熊一族にあのひとを引き渡すように要求する事にしたそうだ!」
「え?!」
私は頭から血の気が引いていくのを感じた。
「どうして?!族長達はどうしてあのひとの事を知っているの?!」
「いや、まだあのひとだと確信している訳じゃない。だけど、熊一族の長老達に、情報をもたらしたその本人を引き渡せ、とねじ込んだらしい。熊一族の長達が情報源を明らかにしないのと、その情報源をひたすら信頼している様子なのに、族長は苛立っていた。だから、熊一族がそこまで庇う人間が怪しい、と思って探したところ、あのひとが浮かんだのだそうだ。」
私はうろたえた。
「どうしよう…。どうしたらいい?」
「落ち着いて、姉さん。
弟が窘めてくれた。
「姉さんがうろたえても何も良い事はないよ。それより、僕達全員で知恵を絞ってみようよ。」
弟の大人びた顔。私は、何時の間にかすっかり一人前の男になっていた弟に、目を見張る思いがした。
「すっかり頼もしくなって…。もう私がいなくても平気ね。」
何気なく漏らした言葉に、弟は激しく反応した。
「姉さん!やだよ!僕等はいつまでも一緒だよ!」
弟の真剣な声に驚いて、私は慌てて言い訳した。
「なあに?私はどこにも行きはしないわよ。」
笑って見せた私に、弟はやっと安心したようだった。弟は弟なりにイヤな予感に襲われていたのだろう。その時には気付いてやる事すら出来なかったが。今なら言ってやれるだろうに。私はいつも、いつまでもお前達を見守っているから、と。そんな私を見ながら、今の私がそう呟いた。
「ともかく、姉さんは目立ってはいけないよ。姉さんはことに村の男達にはよく思われていないのだから。下手に動けばすぐ怪しまれてしまうよ。」
弟達と三人、頭を寄せ合って知恵を絞る。個々の力は弱いが協力し合って、知恵を使って何事もやり遂げる事が得意なのが、我がビーバーの一族だ。何か良い方法が見つかる筈。
「絶対的に情報が足りない。僕達でシャーマンを殺した奴を見つけ出した方が早いかも知れない。」
上の弟が考えながら言った。
「そうすれば、あのひとにかかる嫌疑は濡れ衣だと皆が納得する。もう族長達がさんざん調べたあとだろうけどね。」
私達は、その方法を試してみる事にした。
一族のシャーマンを殺して得をする人物。狙いはそこに絞った。弟達はシャーマンが出掛けた時の事を聞き込みに出掛け、私は噂好きの女達の輪に紛れる事にした。
「おや、お前、病気はもういいのかい?」
目敏く私を見つけた女が声をかけて来た。
「あ、なんとか起き上がれるようにはなったから、少し足慣らしに出て来たんだ。さすがに狩りに出るのはまだ無理だから。弟にも止められたし。」
「お前ももう女らしく、弟達の世話だけして暮らせばいい。弟達はもう一人前の男なのだから。」
私とそう年の変わらぬ女が、胸に抱いた赤ん坊をあやしながら言った。
「弟達に嫁が来るまでに、お前も貰い手が出来ると、一番いいんだがね。」
少し気の毒そうに年かさの女が言った。私は男達からは嫌われていたが、女達にはそれなりに評価されていた。糸を紡ぎながらする噂話に、この頃私が加わっている事を、女達は内心喜んでくれているらしい。
「ところで、族長達は 何を愚図愚図しているんだい?犯人の目星はついたんだろうに。何故さっさとケリをつけちまわないんだい?」
眉をひそめて、憤りを抑えながら、あの女が言った。
「ああ、それは熊一族が受渡しに応じないからさ。なんでも、そいつは一族の信頼が物凄く厚いやつなんだそうだ。だから、そいつはそんな事はしていない、と言っている以上、引き渡す事は出来ないそうだよ。」
「それじゃあ、いつまで経っても埒が開かないじゃないか。まったく族長達は腰が引けちまってるねえ。熊一族がそんなに恐いかねえ。」
呆れたように女は言った。
「仕方ないさ。熊一族は勇猛で名を馳せているんだ。我が一族聡掛かりでも、その、信頼されている男ひとりに叶わないだろうよ。それともお前、一人で立ち向かってみるかい?」
混ぜ返されて女は詰まった。
「あたしは女だよ。戦は男の仕事。手出しはしないさね。」
女は慌てて言い繕った。
「だったら、口も出さない事さね。」
年かさの女が、手を動かしながら指摘した。女達は一斉に静まり返った。
女達の噂話に疲れ果てて戻ると、弟達が既に待っていた。
「姉さん、わかったよ。シャーマンが死んで得をした人物。それは、さきの巫女の息子だ。」
「!」
私は息を飲んだ。
「そんな…。」
「あのシャーマンが今の地位に着くまで、巫女の権力は絶対のものだった。巫女は、力が衰えたから交代した訳じゃない。聖霊の択宣が有ったとシャーマンが言い出したからだ。族長もそうなれば自分に権力が集中するから、喜んで尻馬に乗ったんだ。」
弟は一つ頷いて見せた。
「果たして本当にシャーマンが御託宣を受けたものか、誰にもわからない。当のシャーマンが死んだ今となっては。」
私は唾を飲み込んだ。
「地位を追われた巫女は、それでも聖霊に仕え、聖地の傍らに天幕を張って祈りを捧げている。それを黙って見ている事が、その息子に出来なかったとしてもやむを得ないんじゃないかな。」
私達はお互いの顔を見つめ合った。
「でも…、でも、それは何の証拠もない…。」
「そうなんだ…。証拠がない…。」
私達はまたもや頭を抱えた。
弟達はまた情報と、証拠を集めに出掛けた。私も女達の元に出掛けた。相変わらず姦しい連中だが、稀に役立つ話もしてくれる。私は糸を紡ぎながら聞き耳を立てていた。
「族長達は決め手を欠いているものだから、いまいち強く出られないんだよ。状況証拠しかないからね。しかし、本当に信頼されているんだねえ、あいつは。」
「どんなやつだか知っているのかい?」
「ああ。見た事はあるよ。岩みたいな大男さね。ごつくて見るからに強そうだったがね。」
「へえ。そんなにデカいんかね。」
「なんでもバッファローを一人で狩って、担いで持って帰ったって話だよ。」
「そりゃあ、とんでもない化け物じゃないか。うちの男達じゃあ、束になってもかないはしないね。」
「まったく、うちの連中ときたらへなちょこ揃いだからね。」
どっと同感の笑いが起こった。
そうして、あのひとの無事を確認したものの、ニ三日は何の収穫もないまま過ぎていった。
「姉さん、僕達は、聖地の近くにいるさきの巫女、あ、今はまた巫女に返り咲いているんだっけ。その巫女の天幕を見張ろうと思う。たぶん、息子が出入りするだろうし、何か証拠が掴めるかも知れないし。」
私は、なんだか弟を引き止めたい思いにかられた。
「お前達、それは止めて。なんだかイヤな予感がする。」
弟達は笑って首を振った。
「姉さん、ほかに手はないんだよ。そんなに心配しないで。」
「でも!」
「わかった。だったら僕達は、ひとりひとり交代で見張りに行くよ。それでいいね。」 私は不承不承頷き、その夜、先ず上の弟が見張りにたっていった。
私は毎日のように女達のもとに通い、女達に馴染んで行き、情報を得ようと努めた。あのひとのためにはそれしかないと思った。日々は空しく過ぎていく。救いは、熊一族の強固な反対のため、あのひとは無事でいるということだった。
女達の元で糸を紡ぎ、弟の帰りを待ちながら刺繍の手を動かす。この頃の私の日課だ。おかげであのひとに贈るつもりの飾り帯は、早々に出来上がった。我ながら上々の出来だ。あまりの嬉しさに、私はそっと村を抜け出した。昼間に村から出るのは久方ぶりだ。いつもの狩りの装束に身を包み、万が一誰かの目に触れても怪しまれないように用心した。だが、誰にも見咎められる事もなく、私はいつもの草原の大岩まで辿り着いた。
風に吹かれ、あのひとを待つ。いつのまにか風は冷たく、空は重く雲が垂れ込めていた。もう冬だ。雪が近いのかも知れない。
「寒くはないか?『オレの風』。」
気付かないうちにあのひとは、すぐ後ろまでやって来ていて、柔らかい声でそう言った。私が軽く首を振って微笑みかけると、目元で笑い返した。
「だが、寒そうだ。」
彼は自分が肩からかけていた毛皮を外すと、それで私をすっぽり包み込んだ。大柄な私が、膝元まで包み込まれるほど大きな毛皮。それは、どれほど大きな獣だったのだろう。私は、その温もりに彼の暖かさを感じ、その、彼の腕を惜しんだ。
「『私の空』。今日は贈り物を持って来た。気に入ってくれるといいが…。」
私は、出来上がったばかりの飾り帯を差し出した。
「オレに…?」
彼は、戸惑っているようだった。そっと受け取ると、恐る恐る広げてみる。黒地の布に赤と黄で一族のトーテム、そして空飛ぶ翼。
「これは…。」
彼は暫くその模様に見とれているかのようにじっと見つめていた。
「気に入らなかったろうか。」
心配になった私がおずおずと声をかけると、彼は慌てて首を振った。
「いや!そんな事はない!オレは、ただオレは…、こんな素晴らしい贈り物を貰ったのは初めてだから…。」
それから満面の笑顔で私を見つめた。
「ありがとう。大切にする。」
それからそっと私の肩に手をかけると、自分の胸に引き寄せた。
「あ…。」
気がつくと、私は毛皮ごとあのひとの腕の中にいた。あのひとは、まるで壊れ物を扱うように、私をそっと抱きしめた。私は彼の行動に驚きはしたが、決して嫌ではなかった。
「『オレの風』、いつかお前と共に暮らしたい。この騒動が収まったら、オレは村を出るつもりだ。」
「え?」
私は彼の顔を見上げた。彼はゆっくり頷いた。
「ああ。一族を捨てるつもりだ。そして、誰も知っている者のいない土地で暮らすのだ。お前と一緒に。駄目か?」
私はうろたえた。嫌ではない。いや、むしろとても嬉しい。でも、一族を捨てる?私にそんな事が出来るのだろうか。
「そうか…。」
私の沈黙に、彼はおもてを暗くして呟くように言った。
「やはりオレの思い違いだったか…。忘れてくれ。」
彼の言葉に私ははっとした。このままではこのひとを失ってしまう。果たしてこのひと無しで、私は生きていけるのだろうか。このひとの笑顔が私の胸いっぱいに広がった。私は…。
咄嗟に自分が取った行動が信じられなかった。いきなり私は、自分から彼にしがみついたのだ。
「あなたは『私の空』だ。あなたがいなければ、私はどうして生きていける?」
やっと口から出せた私の真意に、彼は驚いて目を見開き、次の瞬間私を再び抱きしめた。
私が頬をほてらせて、天幕の中でぼんやりしているところに、上の弟が声をかけて来た。
「姉さん、弟がまだ戻らない。夕方には僕と交代するために、一度戻る筈だったのに。」
一瞬のうちに私の頭は冷えた。水を頭から浴びせられたかのようだった。
「何かあったのかも知れない。僕は様子を見に行って来る。心配しないで。ただ、昼寝をして、寝過ごしているだけかもしれないし。」
不安が私の心を暗くした。
帰って来ない。弟達はそれきり戻らなかった。夜中を過ぎ、明け方になり、すっかり朝になっても戻らなかった。私はただ待っていた。彼等の帰りをひたすら待っていた。
「大変だ!」
その知らせがもたらされたのは、太陽が頭の真上に来た頃だった。
「大変だよ!お前の弟達が死んだよ!殺されたんだ!」
あの、年かさの女が天幕に飛び込んで来て、私にそう告げた。私は文字通り目の前が真っ暗になり、その場に倒れ込んだ。
「しっかりおし!犯人はわかっているんだよ!あの、熊一族の大男だ!巫女の息子が見ていたんだ!草原をあの男が走り去って行くところを!今度こそ言い逃れは出来ない。族長も黙っていない。しっかりおし。」
その言葉を聞いて、私は二重の意味の衝撃で暫く立ち上がれなかった。
茫然と座り込んでいる私を、私がじっと見つめていた。知っている。運命は確実に終焉に向かって歩みを進めている。このあと、私は最後の選択をしなければならない。全てを知っている私は、運命に翻弄される私を哀れむしか出来なかった。
何が起きているんだろう。私には訳がわからなかった。弟達が死んだ?殺したのはあのひと?巫女の息子が見ていた?なに?なんのこと?
頭の上を素通りして物事が進んで行くようだ。いつの間にか長老達が会議を開き、熊一族にあのひとの引渡しを要求した。巫女の息子の目撃証言という有力な証拠を突き付けて。あのひとは肯定も否定もしなかったという。あの日、確かに草原にいたからだ。私と会っていたのだから。あのひとは、その事を自分の一族の誰にも、族長にすら言っていない。言えば、私の身が危うくなる。それを気遣ったのだろう。これからもあのひとは何も言わない。私のために。あのひとはそういう人だ。
それなのに私はその時、衝撃から立ち直る事も出来ずに、ただ茫然と流されていた。もう少し私がしっかりしていれば、まだ事態は変えられただろうに。私は何も出来ずにいた。
そうこうしている内に、事態は急転していった。あのひとが何の弁明もしないので、とうとう熊一族も彼を庇いきれなくなっていた。我が一族の長老達が、巫女の息子の証言が間違いである筈はない、と主張したのだ。もし彼が嘘をついているとしたら、聖霊達の怒りが、彼と彼の母親である巫女に下っている筈だから、と。そしてその主張は、熊一族にも通じる理屈であった。
私が事態の変化に気付いたのは、それから数日後の事だった。
「来たよ!とうとう来たよ!さあ、呆けてないで見に行くよ!お前の弟達の敵なんだから。」
天幕にあのお節介女が飛び込んで来て、私の腕を引っ張った。引きずられるようにして広場に出ると、あのひとがやって来るところだった。遠目であっても一目でわかった。まわりをぐるりと我が一族の槍を構えた男達に囲まれて、それでも真っ直ぐ前を見据えて歩いてくる。堂々と、何も恥じる事はないと言いたげに、こうべを真っ直ぐにもたげたまま。私の頭に現実が降って来た。私は大切な時間を何て無駄に過ごしてしまった事か。
「ほら、奴がお前の弟達を殺したんだよ。よく顔を見ておくんだ。」
隣でお節介女が囁いている。
「公開処刑が行われるらしいよ。お前も参加できるとよかったんだろうけど、女は戦士じゃないからね。」
私はそんな話など、耳に入ってはいなかった。既に頭の中は、どうやってあのひとを助けたら良いかで一杯だった。
どう考えても、あのひとを救う道は二つしかなかった。ひとつは、私が長老達に全てを告げて、彼の無実を証言する事。もうひとつは牢を破ってあのひとを逃がす事。真実を話してしまえば、たぶん、私は一族から追い出される。いや、それだけでは済まないかも知れない。でも、あのひとの命には変えられない。私は決心を固めようと、こっそりあのひとが捕われている岩牢に忍んで行った。最後にあのひとに会いたい。あのひとの顔を見られたら、もう、私はどうなってもいい。
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