その言葉を聞いて、私の目には涙が込み上げて来た。何か、堅くなに守り続けて来たものが柔らかく融け出して行くかのようだった。弟の顔が頼もしく見えた。
とは言え、長年培われた習慣とは恐ろしいもので、気がつくと私は、弓を手に矢筒を担いで狩りに出て来ていた。森の中、一人きりで歩いていると、寂しさよりも開放感が私を包んだ。私はやはり、村の中で過ごすよりも、こうして自然の中にいる方が向いているのかも知れない。もう二度と猛獣に襲われたりしないよう、充分気をつけながら、私は無意識にあのひとの姿を探していた。
陽射しが暑い。体力の戻り切っていない身には、少々堪えた。川を目指す。とりあえず水でも飲もう。川辺に腰を下ろして一休みする。水を一口飲んでから、足を水に浸して疲れを取る。これでは私の方が弟達の足手まといになってしまいそうだ。私は小さく苦笑いした。そのままぼんやりと弟の言葉を思い返してみた。ため息が出た。
「お前、もう動けるのか?」
いきなり後ろから声をかけられ、私は飛び上がらんばかりに驚いた。振り返らずとも誰かは判っていた。あのひと。深味のある低い声。その声を聞き間違えたりはしない。ゆっくりと振り返る。妙に胸が高鳴っている。
「傷の具合いはどうなのだ?まさか村まで様子を見に行く訳にもいかぬ故、気になっていてもどうしようもなかったのだ。川まで来ればひょっとして、お前の弟に出会えて様子が聞けるかと思って、ここまで危険を侵して来てみたのだが、当のお前に会えるとは…。」
彼は私の顔を見てにっこり笑った。私は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「ありがとう。この通り、もう大丈夫だと思う。弟から色々と聞いている。あなたのお陰で助かった。感サャする。」
私が頭を下げると、彼はかぶりを振った。
「何も大した事はしていない。それに、オレ自身もあの時あのまま、お前を死なせたくはなかった。」
(え?)
「いや、正直に言うとな…。」
彼は私の目を覗き込むようにした。
「オレは、どうもお前の事が気になってしょうがないのだ。あの日もこちらに来ればお前に会えるかも知れぬと思っていたら、お前達の一大事にぶつかった。通り掛かったのがオレ以外の男でも、多分お前達は助かっただろう。だが、オレが、オレの手でお前を、お前の命を救う事が出来た。オレはその事を嬉しく思う。だから、そんなに礼を言ってくれつも困る。」
彼は何を言っているのだろう。
「いや、オレはただ…。」
明らかに彼は狼狽している。日頃の彼からは想像もつかぬ程に。そして、どうしても探す言葉が見つからぬ、といった体で口ごもった。私は私でいたたまれなさを感じて、視線を地面に落とした。
「…オレは…、」
やっと彼がまた話し始めた。
「オレは、その…、もっとお前の事が知りたい。お前が嫌でなければ、時々で良い。オレと話しをしてくれぬだろうか?」
私は驚きの余り絶句した。彼はそんな私の沈黙をまた、誤解した。
「…すまぬ。迷惑だったか。忘れてくれ。オレはもう、こちらには近寄らぬ。」
そう呟くように言うと、きびすを返してしまった。私は慌てた。
「待って!」
つい、大声を出してしまった。振り返った彼に、私は溜め息交じりに苦笑して首を振った。
「あなたは性急過ぎる。私はまだ何も言ってはいない。」
向き直った彼に私は微笑みかけた。
「誰がイヤだと言ったのだ?私は言っていない。余りに驚いたので、急には答えられなかっただけだ。あなたが、あんな事を言うから…。」
彼がゆっくりと近づいて来た。真剣な眼差しで私を見つめる。私は耳まで赤くなったに違いない。
「オレが恐くはないのだな?」
彼は念を押すように尋ねた。
私はこっくり頷いた。
「オレが嫌ではないのだな?では、また会ってくれるのか?」
私はまた、こっくり頷いた。彼の顔が明るく輝いた。
「そうか!会ってくれるのか!」
彼が喜ぶ姿を見るのは嬉しかった。思わず私の顔もほころぶ。その顔を見て彼が言った。
「笑ったな。笑った方が似合うな、お前は。」
そして、私の笑みに答えるようにして笑み返す。ごつい顔が、想像していたよりも遥かに和らいだ表情を見せる。このひとは、顔や体格から受ける印象とは、まるで違った中身(こころ)の持ち主らしい。そして、その事を知っているのは私だけかも知れない。私は彼を見つめた。何なのだろう?この感情は。私の胸を満たしているこの思いは。私は戸惑った。
「お前の元気そうな顔を見られて良かった。ここまでやって来た甲斐があるというもの。まだまだお前と話していたいが、ここは村から近か過ぎる。村人に見咎められる前に、オレは消えるとしよう。オレは大概、初めて会ったあの大岩の辺りで狩りをしている。あそこならお前の村からもオレの村からもかなり離れている。気が向いたら来てくれ。オレは必ずお前を見つける。」
そして彼は、辺りの様子を伺いながらそう言うと、私に別れを告げた。
「オレはこれで戻る。お前も気をつけて戻るのだぞ。病み上がりなのだからな。」
素早く立ち去った彼の姿が私の視野から消えたと思った瞬間、薮を掻き分ける音がして村の男が現れた。
「今ここに、誰かいなかったか?」
怪訝そうに尋ねる男に、私は首を振った。
「いや、誰も。私一人だ。」
「そうか。気の性だったか。ところでお前はこんなところで何をしているのだ?」
「狩りに出て来たのだが、疲れてしまって。まだ怪我が完全ではないらしい。一休みしていた。」
「そうか。お前は怪我をしていたのだったな。もう、動けるのか。女の癖に無理をするから、そんな目に合うのだ。大概にするのだな。」
忌々しげに言う男に、私は何も答えなかった。男は舌打ちすると、村の方へと歩み去った。何時もの事だ。気にしても始まらない。私は不愉快な今の出来事を頭の外に追いやって、あのひとの事を考える事にした。
あのひとは奴が近づいて来る気配に気付いていたのだ。だからあの時、急いで立ち去って行ったのだ。私はまた改めて、あのひとのすごさに気づかされた。
この頃では、弟達が、もう殆ど一人前と言えるほどに成長してくれているので、私にはかなりの自由な時間があるようになっていた。私には、普通の女のする仕事は出来ない。だから、傷が完全に癒える迄は使い物にならないのだ。要するに、単なる厄介者の穀潰しだ。誰も構いつけない。
そんなある日、私は村の者達に見つからぬよう、そっと村を抜け出した。狩りに出る訳ではないので、久しぶりに女の着る衣装を身に着けてみた。これはこの間弟が、自ら捕らえた兎と引き換えに手に入れて来てくれた物だった。
「姉さんに贈り物だよ。今まで女らしい物を身につけているところを見た事がないからね。僕達にこれを着て見せて欲しいな。」
上の弟が、嬉しそうに笑いながら手渡してくれた服。自分が私の役に立つようになれた事が嬉しかったのだろう。そして、苦労をかけた私を遅ればせながら自分の手で、一人の女に戻してやれたら、と思ったのだろう。そんな弟の気持ちがとても嬉しかった。その服を身に着けて見せながら、しかし、私は心の隅で思っていた。今更普通の女としての生き方が、この私にできるのだろうか、と。弟達の手前、口には出したくてもだせない言葉だ。だが私は、とても危ぶんでいる。
とあれ、私はいそいそと草原へ向かっていた。あのひとは私のこの姿を見て、何と言うだろう。女の服はやはり走り辛い。気ばかり逸るが道は捗らない。
やっと草原に出た。気持ちの良い風が吹いている。するとふいに、足元から一匹の兎が飛び出した。反射的に弓を射ようとして、女の服であった事に気付き、苦笑した。普通の女は狩りなどしない。弓矢は既に私の分身と言える物になっているのかと、改めて思う。溜め息が出た。軽く首を振って思いを振り切る。それから草原の彼方へ視線を向けた。人影が近づいて来るのが見えた。颯爽と、速足で歩いてくる。やがて、それはあのひとだと知れた。私を見つけて来てくれたのだ。私の胸は高鳴った。
風に、編んでいない髪をなびかせ、女物の服の長い裾を翻しながら、私はあのひとを待っていた。あのひとは真っ直ぐにこちらに向かって歩いて来る。やがて、私の手前、十歩ばかりの所に立ち止まる。彼の目に、私はどう映っているのだろう。ドキドキしながら、彼の言葉を待つ。途端、彼はにっこり笑った。
「驚いたな。お前だという事は、かなり向こうからでも判っていたが、今日はオレに会う為に、その服を着て来てくれたのか?だとしたら、とても嬉しい。」
私は赤面した。
「こんな恰好をするのは久しぶりだ。おかしくないだろうか?弟が気を使って誂えてくれたのだ。」
彼はもう一度、上から下まで私を眺めていたが、また嬉しそうに笑った。
「いいや、良く似合っていると思う。お前は狩りの腕前も良いのに、美しくもある。凄い女なのだな。」
彼の手放しの絶賛に、私は恥じ入るばかりだった。
「そんな事はない。普段の私との違いに、あなたは戸惑っているだけだ。」
「だが、オレの為に装ってくれたのだろう?」
私は、こっくり頷いた。
「だから、オレが美しいと思えば、美しいのだ。それではいけないのか?」
このひとは、私が望んでも叶わぬだろうと、心の片隅に押し込めていた思いを、どうやって知ったのだろう。私があれ程欲しかった言葉をいとも簡単に言ってくれる。私は彼の顔をじっと見た。
「オレは、何かおかしな事を言ったか?」
彼が真面目に問い返してくる。
「いいえ。」
私は軽く首を振った。
「あなたが、そんな風に言ってくれるとは、思っていなかったので…。」
「そうか…。」
彼は近づいて来ると、私の頭を軽く撫でた。私は、泣き出しそうな顔をしていたのだろう。私は、何故かすごく安心して目を閉じた。
優しい風が吹いていた。私達は、大岩の影に移動して、風に吹かれていた。特に無理して話題を探したりせず、話す時には話し、途切れた時にはその沈黙を楽しんだ。ただ、隣に座っているだけなのに、まるでその大きな腕に包み込まれているように感じられた。
「お前は、本当に風の様だな。爽やかで、気まぐれで、オレを驚かせてばかりいる。そして、オレの気持ちを良い方へと導いてくれる。」
彼が穏やかな眼差しで、言った。
「オレは、何か嫌な事があると、ここに来て風に吹かれていたのだ。風は、オレを癒してくれた。お前は、そんな風のようだ。」
私の胸が熱くなった。
「お前を『風』と呼んでも良いだろうか?」
彼が、遠慮気味に尋ねて来た。私に異存のあろう筈もなく、私は彼に微笑みかけた。彼はまた、嬉しそうに笑ってくれる。こんな風な呼び名なら、大歓迎だ。彼の私に対する思いが込められ、心地良い。一族が私に与えた名は、侮蔑と嘲りとやゆに満たされていた。
そうしてその日は、夕方近く迄そうしていたのだった。そんな穏やかで、充実した時を過ごしたのは初めてかもしれない。あのひとも名残惜しそうだったが、日暮れ迄に戻らねば、村人に怪しまれるし、弟達も心配する。私は後ろ髪引かれる思いで、あのひとに別れを告げた。
やはり、心浮き立つ思いは、態度に現れるらしく、その夜、弟がさりげなく尋ねかけて来た。
「姉さん、楽しそうだね。何か良い事でもあったの?」
私は何も答えず、ただ笑って見せただけだったが、弟は薄々感ずいているらしかった。 そうして毎日でも私は、あの草原に、あの人に会いに行きたかったのだが、弟達の手前、そして村人達の目もあって、そう度々は出掛ける訳にはいかなかった。会いたくても会えない時間は、私の心を淋しさで満たすかのようだった。だが、私は、弟達とあのひとを危険な目に合わせたくなかった。全てが私の行動に掛かっている今なれば尚更に。
そうしたある日、昼下がりに私はやっとあのひとに会える機会を作ることが出来た。村の男達とはもう一緒に狩りに出る事は無くなっていた。そして、運よく既に兎を二羽、仕留めていた。これで今日はもう、するべき仕事はない。心置きなくあのひとに会いに行ける。私はあの大岩を目指した。
大岩の天辺に腰掛けて、風に吹かれてみる。こうしていると、あのひとがいっていた事がわかるような気がする。まるで全てのしがらみから、解き放たれていくようだ。私は髪をほどいた。そうして、あのひとの前ではなるべく女らしい私でいたかった。
「また、来てくれたのだな。」
あの、低い優しい声。私はゆっくり振り返る。
「ここは、とっても気持ちの良い場所ね。あなたが気に入っている訳が判るような気がする。」
そう言って微笑みかける。彼も微笑みながら頷いた。
「お前にも気に入って貰えたなら嬉しい。今日は狩りの装束なのだな。」
「あ。女の服では狩りに出られないし、第一、村からも怪しまれずに抜け出せないから…。この服の私は、嫌いだろうか…?」
私は、彼に悪い事をしてしまったかのような気分になった。
「いいや、そんな事はない。」
彼は真面目な顔で言った。
「お前のすらりとした手足には、その、丈の短い服が良く映える。お前らしくて、オレは好きだ。初めて会った時もその服だったな。」
私は頬が熱くなった。
「丈の長い、美しい衣裳を着けて、美しく装ってくれるのは嬉しいが、お前はお前らしくしているのが一番美しい、とオレは思う。お前はそのままで良い。オレの『風』。」
また、だ。何故彼には、私の欲しい言葉が判るのだろう?その時々に一番欲しい言葉が。私は思わず彼の顔を見つめた。彼は、そんな私の思いに気付いた風もなく、私の横に腰を降ろした。
「オレは、おまえにそのままでいて欲しい。」
敢えて私の方を見ずに、彼は少し照れたようにそう言った。私も彼の方を見ずに頷いた。
日暮が近づいて、陽射しが和らいで来た。ふと私は、彼が身に着けている装束に気がついた。着古されたみすぼらしい物だった。彼ほどの腕前の狩人が、何故このように貧しい恰好をしているのか。怪訝そうに彼の姿を見つめている私の視線に気付いて、彼が笑った。
「これか?お前はオレの格好が不思議なのだな?お前は、オレの狩りの腕を知っているからな。」
彼は、また笑った。
「この前、お前には両親がいない、と話してくれたが、オレにも両親が、そしてお前とは違って兄弟もいないのだ。だが、オレの父親は族長の弟で、その縁でオレはその伯父に面倒を見てもらって育ったのだ。伯父の家柄のおかげか、オレは流石に食べる物に困るような事はなかったから、こんなにデカくなれたのだろう。だが、やはり所詮は厄介者の身だ。誰も細々とした面倒までは見てはくれない。それは、一人暮しをするようになった今でも変わらない。いや、オレを怖がって、触らぬ神に祟り無し、とばかりに、余計近づいては来ぬ様になったな。」
彼は肩をすくめて見せた。
「それに、オレには伯父に、育ててもらった恩がある。今では年老いてしまった伯父達を、今度はオレが面倒見てやらねばならぬ。オレ自身の細かい事に構っているゆとりはない。」
そして、私を見てにっこり笑った。
「そんな顔をするな。別にオレは、苦労だなどと思ってはおらぬぞ。返って、伯父達の世話が出来て嬉しいくらいなのだ。人の役に立てるというのは、嬉しいものだな。オレが何か役に立った時だけは、皆、こんなオレにも笑いかけてくれるのだ。そう、この間のバッファローも、祭の贄にする為に狩ったのだ。皆、大いに喜んでくれたぞ。」
このひとは…。私は黙って彼の顔を見つめた。彼は誇らしげに笑った。
その日も日暮れには別れを告げたが、彼の人柄を知るにつれ、私はより彼に惹かれていくようだった。確かに一見恐ろしげだが、中身はこれ程優しい人はいない、と思われた。そんな彼に私は何か出来ないだろうか。彼が喜んでくれる何か。私は猛烈にその思いに囚われた。
「姉さん、何かあったの?」
私の様子を不審に思った弟が、そっと尋ねて来た。
「僕達で出来る事があったら、何でもするよ。」
私は、大きく溜息をついて、首を振った。
「何でもないのよ。」
弟は、私の目を覗き込んだ。
「それは、何でもないって顔色じゃないよ。あのひとと何かあったの?」
読まれている。私はもう一度溜息をついて、弟に打ち明けることにした。
あのひとの生いたちをを話し、私の気持ちを相談する。弟も考え込んだ。
「姉さんの気持ちは良く解った。僕も考えておくよ。」
優しい子だ。この子も優しい、いい子に育ってくれた。私はある意味、幸せ者なのかも知れない。あのひとといい、弟達といい、優しい、暖かい気持ちに包まれている。
それから幾日過ぎたのだろうか。私は、相変わらず獲物を求めてうろついていた。この頃はいつも、私の頭の中にはあのひとの事があって、私の成果は芳しいものではなかったが、弟達が一人前となった今では、私の稼ぎなど気にする必要も、ましてやそもそも狩りに出る必要すらなかったのだ。でも私は、窮屈な村に閉じ篭っているよりも、狩りを口実に出歩く事を選んだ。暑い日だった。私は森の泉に足を向けた。泉に水を飲みに来る鳥たちを狙おうと思ったのだ。泉から流れ出ている小川に沿って遡る。しばらく行くと水音が聞こえた。何か居る。私は、そっと気配を消して近寄っていった。木の陰から覗いて見ると、それは一族の老婆だった。懸命に何かを洗っている。ふと好奇心を覚えて、その老婆に近付いて行く。
「何をしているんです?」
隣にしゃがみ込んで、老婆に声をかけた。老婆は手を休める事無く、ちらりとこちらを見やって答えた。
「糸を染めておるのじゃ。お前はこれを見るのは初めてかの?」
手元を見ると、糸の束が振り洗いされている。
「ええ、初めてです。こうやって染めていたんですね。」
「いや、これは最終段階じゃて。糸を染めるには、まず染め粉になる草や花や石を探して、それなりの手順を踏まねばならぬのじゃよ。お前は、狩りばかりしているから、そんな事など知りようがないがの。」
いつもなら、その言葉に反感を持つ私だったが、この時は何故か素直になれた。
「そうですね。私には知らない事が沢山あります。」
老婆はちらりと私の顔を意外そうな眼差しで見た。
「興味があるなら、教えてしんぜようかの?」
老婆がぼそりと言った言葉に、私は驚いた。今までどんな村人にもそのような扱いを受けた事がなかった。皆、いい加減に遇うか、無視するかのどちらかだった。それがこの老婆は、私に関わろうとしてくれている。
「教えてくれるのですか?はい!是非教えて下さい!」
私は、反射的にそう答えていた。いや、確かに興味はあった。しかし、老婆の言葉が、態度が嬉しかったせいでもあった。
「よいとも。見なされ。」
老婆はにっこりすると、水から糸を引き上げた。鮮やかな赤が、目を惹いた。
「綺麗…。」
老婆は嬉しそうに笑った。
「そうじゃろう。これはある花から採った染料で染めたのじゃよ。これだけ鮮やかな色が出せるのは、一族の中でわたしだけじゃ。」
老婆は自慢げに言った。私はおずおずと糸に手を延ばした。この糸で飾り帯に刺繍をしたら、どんなに映える事だろう。そして、その帯をあのひとが身に着けたなら…。
「わたしは糸紡ぎから染め、機織りに刺繍までこなす。お前はこれまでに、そのような仕事を教わらなんだであろう?わたしが全て教え込んでやろうかいな。」
私は喜んでその申し出を受けた。
次の日、私は村外れの天幕を訪った。あの老婆の天幕だ。
「わたしも、一族の変わり者で通っている身じゃて。お前も訪ね安かろう。西の丘の麓の、村外れの天幕がわたしの住まいじゃ。明日からでも訪ねて来るがよい。」
昨日渡れ際に老婆がそう教えてくれた。
「それと、わたしの事は『お婆(おばば)と呼ぶがよい。わたしはお前を何と呼ぼうかの?」
私は少し迷ったが、こう答えた。
「ならば、『風』と呼んで下さい。親しい者はそう呼びます。」
「ほう。わかったよ。では、わたしはこれで帰るが、お前も気をつけて帰るのだぞ。」
「お婆様、私です。仰せの通り訪ねて参りました。」
天幕に声をかけると、老婆の応えがあった。
「おお、丁度良いところに。これから染めに使う草花を集めに行こうと思っていたのじゃ。一緒に来るがよい。」
老婆は天幕を出ると、すたすたと先に立って歩き出した。後について歩いて行くと、道すがら様々な草を採取している。
「よう見て覚えるがよい。これは濃い茶色を染め出す。この花が赤じゃ。そしてこの草の、芋のような根からは黄色が採れる。弟達が一人前になった今、今度はお前が女として一人前にならねばの。」
老婆が、私の顔を覗き込みながら言った。
「お婆様は何故そのような事を…。」
私は少しうろたえた。
「お前達兄弟の事は、ずっと気にかけておった。わたしは実は、お前達の母親の叔母に当たるのじゃ。お前達の両親が亡くなった時には、わたしも身内の殆どを亡くしたばかりで、お前達に何の援助の手も差し延べてやれなんだ。済まないと思っておる。今更、と言われても仕方がないが、わたしももう老い先短い。せめてお前に、わたしの知識や技術の全てを教え込んで、お前が女としての幸せを捕まえる役に少しでも立てたらと思うておる。」
「お婆様…。」
「ほんに、よう一人で頑張って、弟達を育ててくれたの。わたしからも礼を言う。」
老婆は深々と頭を下げた。
「弟達の心配はもういらぬ。お前はお前の幸せを探すべきじゃ。それにはお前が、一族の者達から一人前の女と認めて貰うのが一番のはや道なのじゃ。あれだけの狩りの腕前を身につけたお前じゃ。本気で頑張ればすぐに覚えられよう。」
「お婆様…。」
私は老婆の言葉にひたすら戸惑うばかりだった。
それでも私は、狩りの合間を縫って、老婆を訪うようになっていった。老婆に母親の面影を見ていたのかも知れない。母が生きていたら教えてくれたであろう事を学ぶのは楽しかったからかも知れない。老婆も親身になって教え込んでくれた。そして私の上達は、誰の想像していたものより、ずっと早いものだった。
村の誰にも知られる事なく、私は老婆の元に通い続けていた。そして、糸の材料を手に入れる為、織り機を購う為に狩りをするようになっていったのだ。高価に取引される美しい羽根の鳥や、毛皮の使い道の多い鹿や兎を主に捕らえた。そんな日々の中でも、思ったより成果の上がった日には、私はあのひとに会いに行った。あのひとはいつも必ず私を見つけてくれた。二人きりでやさしい時を過ごした。それが二人を支え、癒し、励ましてくれた。私はいつしかあのひとに、私が自分で作った飾り帯を贈ろうと決意していた。
村人に気付かれぬよう、細心の注意を払って、私は老婆の元で修業を積んでいた。この私が今更そのような事をしているなどと知られたら、恰好の笑い話の種にされてしまう。結局私は、あの老婆の思惑のようには、女としての幸せなど、この村の中では掴めない事だろう。誰も私をそういう対象とは見やしない。私の中でもう一人の私が苦笑いした。
可愛そうに…。そんな私を、私は全く違う自我で上から見ていた。私は知っていた。このあと「私」がどのような道を辿るのかを。しかし私には、映画のスクリーン上の人物に手出しが出来ないのと同様に、何も、語りかける事すら出来ない。わかっている。あれは「私」であって私ではない。全ては過ぎ去った時の幻。私は見つめているしか出来ない。
この時期の私は、とても充実した時を過ごしていた。小さいながらも目標を持ち、生き甲斐も見つけかけていた。そのまま何事もなく時が過ぎて行ったとしたら、私はそれなりに幸せだったかもしれない。可愛そうに…。私はまたそう呟いた。
冬が訪れようとしていた。私達は、冬に備えて食料の確保を始めなければならない時期に差し掛かっていた。木の実を集め、薫製肉を作り、毛皮をなめした。今度の冬は、弟達が先に立って準備をしてくれていて、私達は飢えずに済みそうだった。
村がざわついていた。あまり村の中心までは立ち入らぬ私だ。イヤな思いをするのが判り切っている。しかし、糸を手に入れるには、村の女達に頼まねばならない。その為この頃は度々村の中心に足を踏み入れていた。事のついでにそれとなく女達に様子を尋ねてみる。
「戦が始まるかも知れない。」
年かさの女が教えてくれた。
「お前も知っているだろう?先日族長の一番下の息子が、草原で酷たらしい死体となって見つかった事を。どうやらそれは熊一族の仕業らしいんだよ。あの一族は昔から我等の聖地を欲しがっていた。聖地を護る役目を担っていた、シャーマンでもある族長の息子を嬲り殺しにして、聖霊達の怒りを我が一族に向けようとしているのかも知れない。」
私ははっとした。熊一族。それはあのひとの一族だ。
「そんな!ここしばらくは我々ビーバーの一族と熊一族は良好な関係にあった筈だ!」
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