川はとうとうと流れ行き、留まる事を知らない。今、私が見ているこの流れは、私の記憶の中のものと寸分変わらぬ様に見える。だが、あれからどのくらいの時が流れ去ってしまっているのか、私には知る術とてない。増してやあれが本当に有った事なのかすら定かではないのだ。いや、人に言わせれば『単なる夢』で片付けられてしまうか、一笑に付されてしまう事であろう。しかし、私には何故か断言できる。あれは夢でも妄想でもなく、時や場所が今と違っていようとも、私はあの人生を生きた、と。生まれ、育ち、巡り会い、愛し、そして共に生きた。あの日々を嘘だとは誰にも言わせない。私は確かにあの人生を生きた。

川が流れていた。私は川面を覗き込んでいた。水を飲もうとしていたらしい。水鏡には一人の女が映っている。年の頃は二十四・五。赤銅色の肌に黒いキツい眼差し。長い黒髪を男のように後ろに編んで垂らしている。男のように?そう。男は髪を編み、女は髪をそのまま垂らしている。それが常識だ。水に映る姿を見て、私は軽い暈を覚えた。これが私?しかしそれは一瞬で治まり、私は軽く頭を振った。記憶が怒涛のように押し寄せてくる。今までの人生をなぞるように。
まだ年端もいかぬ頃に、相次いで両親を亡くした。後には自分と幼い二人の弟達が残された。一族は最低限の面倒は見てくれたが、育ち盛りの男の子達が、それで足りよう筈もなく、私は女だてらに弓矢を取って狩りに出るようになった。さすがに体力も経験も無い、まだ少女と言える年頃の女の身では、最初の頃は獲物を手にする事は出来なかったが、弟達を養わねばならぬ、という思いと必要が、私を強く逞しく変えて行った。文字通りに。女としてはかなり大柄に、長い手足にはしっかりと筋肉が付き、今では一族の者達は私を女扱いしなくなってしまった。確かに、普通の女のする事が私には出来ない。機織りも刺繍も薬草摘みも、母親が娘に教え伝えていく事が全て、私には伝えられる事無く、私は野山を駆け回り獣を狩る、名ばかりの女になってしまっている。だが、弓矢を使っての狩りの腕前だけはかなり上達し、一族の者は私を『風を見る女』と呼ぶ。
今日も、弓を手に矢筒を背負い狩りに出て来たのだ。しかし、今日はツイていないらしい。獲物には恵まれず、一族の者ともはぐれてしまった。天を仰ぐ。まだ陽は高い。このまま戻るのは勿体ない。川辺から離れ、再び獲物を求めて草原へと向かう。育ち盛りの弟達を思えば、肉は幾ら有っても困らない。すると、運良く彼方を移動中の鹿の群れを見つける事ができた。走って追い掛ける。かなり距離があるが全速力でいけば間に合うだろう。相手はゆっくりと移動中だし、私の足は速い。
思った通り、群れには程なく追い付いた。だが、このまま走り続けながら弓を射るのは無理だ。私は群れを大回りして追い越し、先回りする作戦に出た。再び全速力を出して一気に群れを抜き去り、前方に見える大岩を目指す。辿り着いて、荒い息を整えながら岩によじ登る。すっくと立ち上がり、弓を構えて矢をつがえる。相手にはまだ気付かれていない。一直線にこちらに向かって駆けてくる。私は、その群れの中の、先頭に近いところを走る一頭に、狙いを定めた。きりきりと弓を引き絞る。すると、やっと私の存在に気付いたのか、鹿の群れは大岩を迂回する方向へ向きを変え始めた。思った通りだ。私の目の前で鹿達は私から遠ざかっていこうとしている。私に急所である腹を向けて。私は弓弦を放った。矢は唸りを上げて獲物目掛けて飛んでいく。次の瞬間、一頭の鹿が悲鳴を上げてもんどり打って倒れ込んだ。狙い違わず命中したらしい。鹿の群れはその一頭だけを残し、速度を上げて遠ざかっていく。私は岩から飛び降り、急いで鹿の元に駆け寄る。相手は怪我した身体を庇うようにして、何とかこの場から逃れようと足掻いている。私は小刀を引き抜き、一気に相手の喉を掻き切ってとどめをさした。苦しみと痛みを長引かせては可哀相だ。血飛沫が飛んで、私の身体に降りかかる。生きていくためだ。厭
うてはいられない。ぴくぴくと痙攣する鹿の死体を見下ろしながら、私は大地の聖霊に祈りを捧げた。これで今日も生き延びられる。飢えずにすむ。私はほっと一つ息をつくと、屈み込んで獲物を肩に担ぎ上げた。このくらいの鹿なら、何とか私一人でも担いで持ち帰ることが出来る。私は苦笑いした。何て逞しい。我ながら女にしておくのは勿体ない、と思う。男であったならば、一族の者達の見る目も違っていただろう。しないで済んだ苦労も有っただろう。私はかぶりを振ってその思いを追い出した。考えても仕方の無い事。それよりも今は急いでこの場を離れなければ。私は狩りに夢中になる余り、一族のテリトリーの境界線を越えてしまったようだ。部族間紛争の火種になってはいけない。
未だ暖かい鹿を両肩に乗せて、出来る限りの速度で歩き出す。早く一族のテリトリーまで戻らなければ。その焦りがいけなかったのだろう。私は普段なら絶対にやらないだろう間違いを犯した。急ぐ余り、足場の悪さの事も考えず、村への最短コースをとったのだ。その結果、私はいくらも歩かぬうちに足元の石につまずいて見事に転んだ。それのみならず、足首を捻挫してしまったらしい。立ち上がろうとしたが、余りの痛みに動けない。どうしよう。私は途方にくれた。取り敢えず手近な岩の所まで這いずって行き、岩に背をもたれかけさせ座り込んだ。やっぱり今日はツイていない。私は空を仰いで溜息をついた。少し休めば何とかなるだろう。空が蒼い。
そうやってどのくらいの間ぼんやりしていたのだろう。いきなり陽射しが遮られた。ぎょっとして振り仰ぐ。見ると、岩の上に誰か居る。他部族の者か?慌てて飛び起きようとして、足首に走る痛みに思わず小さく悲鳴を上げてしまった。再びうずくまる。まずい。動けない。このままでは…。幾つもの不吉な話が私の脳裏を過ぎる。気持ちは焦れども、身体はいう事を聞いてくれない。私はただ相手を睨みつけるしか出来なかった。
相手は太陽を背にしている。私からは黒いシルエットにしか見えていない。その影がゆっくりと動き、私の眼の前に降り立った。でかい。まるで小山のようだ。じっと私を見下ろしている。思わず小刀をまさぐる私に、低い声で話し掛けた。
「動けないのか?」
私は返事もせず後ずさった。途端にまた激痛が走り、うめき声が漏れてしまう。我ながら情けなくなった。相手は私を見下ろしたまま、動こうとしない。何だ?こいつは。一体私をどうするつもりなんだ?私は固唾を飲んで、相手の出方を伺った。やがて男は、微かに苦笑いのような表情を浮かべて言った。
「そんなに怖がるな。何も取って食おうとは思っておらぬ。」
そう言われてもなかなか警戒心の解けない私を、男はまたじっと見つめたが、やがて軽く肩をすくめると一歩後ずさった。そして、私の傍らの獲物の鹿を見つけると、また話し掛けてきた。
「これは、お前が仕留めたのか?」
私は口を開かず、ただ頷いた。
「ほう。女の身でこれ程の腕前とは…。」
男は改めて私の顔を見つめた。それからいきなり私を抱き上げ、自分の右肩に乗せた。
「!なにをする!」
驚いて暴れる私に、男は静かな声で言った。
「耳元で騒ぐな。村まで送ってやるだけだ。」
「え?」
「このままここにいては、いらぬ争いの種にもなる。だから、村まで送ってやる。」
更に驚いて、暴れるのを止めた私に、男は軽く頷くと、傍らの鹿に手を延ばして、今度は左肩にそれを担ぎ上げた。そして一度肩を揺すり上げて私と鹿の位置を直すと、ゆっくりと歩き始めた。何と言う力だ。私と鹿とをその両肩に乗せておいて、何事も変わりはないように大股で歩いて行く。女にしてはかなり大柄で重い筈の私と獲物の鹿。半端な男では手に負えるものではない。私は改めて男を見た。大きい。一族の中のどの男よりも。そして、逞しい。広い肩幅と厚い胸板。無愛想な厳つい顔。小さな子供であれば泣きだしかねない。振り落とされないよう太い首にしがみつき、私は男の真意を計りかねていた。
それきり口を開く事も無く、男は歩き続けた。そんなに急ぐ風でもないのに、かなりの速度が出ているような気がした。足が長いせいもあるのだろうが、肩の上から眺めていると、まるで景色が飛んで行くかのように見える。
私が呆気に取られて目を白黒させているうちに、男は草原をぬけ川を渡り、村の炊ぎの煙の見える木陰まで辿り着いてしまった。そして、まだ事態の変化についていけていない私を、下草の上に座らせると、その横に獲物の鹿を置いた。
「ここならば、大声で助けを呼べば、きっと誰かに気付いてもらえよう。これ以上村に近づけば、今度はオレの身が危うくなる。争い事は避けたいからな。」
私を見下ろしてそれだけ言うと、男はきびすを返してさっさと立ち去ろうとする。私は慌てて声をかけた。
「待って!まだ御礼も言っていない!」
途端、男は振り返り、にっと笑った。
「声はたおやかな女の声だな。いや、礼などいらぬ。女を守るのが男の役割だ。お前は女だ。守られていてよい。」
私を女扱いした?愕然とする私をその場に残して、男は風のように去っていった。

その夜、なんとか村人に見つけて貰い、自分の天幕に帰り着いてからも、私はその男の事を考えていた。私は自分を知っている。どこから見ても女には見えない事だろう。身に着けている物は流石に男の服ではないが、かと言って女物とは言えない程、極端に動き易さだけを考えた物だ。姿形も麗しいとはとても言えない。一族の男どもは、私を得体の知れない生き物ででもあるかのような目で見るばかりだ。
 私は男の言葉を胸の中で繰り返した。
「お前は女だ。守られていて良い。」
今まで一度として味わった事のない複雑な思いが私を満たしていった。

それからどれくらいの時が流れたものか。痛めていた足も完治し、私はまた元通り、狩りに明け暮れる毎日を送るようになっていた。一旦狩りに出掛けさえすれば、それだけに専念する事も出来るのだが、夜一人きりになったおりなどには不思議にあの男の声が胸の奥に蘇って来てしまう。私はそれを無視しようと勤めた。
ある日、やはり獲物に恵まれず、久しぶりに川を越えて遠出せねばならなくなった。ここしばらくの間避けていたというのに。しかし、背に腹は変えられない。
草原に出ると、バッファローの群れがゆっくりと移動していくのに出くわした。流石に私一人ではバッファローは荷が勝ち過ぎている。私は一族の者と逸れてしまった事を残念に思った。しかし、バッファローが相手では、例え男であろうとただの一人では手に負えまい。私には、いかに惜しかろうと黙って見送る以外、成す術とてなかった。
砂煙を蹴立てて移動して行くバッファローの群れ。ただ立ち尽くすばかりの私の視界に、信じられないものが飛び込んで来た。一本の斧を手にバッファローの群れと併走する一人の男。あの男だ。まさかバッファローを狙っている?無茶だ。私は人事ながらハラハラした。しかし、その男は、走りながら斧の柄に縄を結び付けると、ぐるぐると振り回し始めた。本気だ。本気でバッファローを狩ろうとしている。私は息を飲んだ。
男はそうやって斧に勢いを付けると、その斧をバッファロー目掛けて投げ付けた。そして足を踏ん張ると全身全霊の力を込めて縄を引き始めた。見る見る全身の筋肉が盛り上がる。足が地面に減り込んでいく。凄い。群れが走り去って、後には首に縄を巻き付けたバッファローが一頭、やはり足を踏ん張って引き倒されまいと必死になっていた。バッファローと人間の男。一対一の綱引き。常識で考えれば、人間に勝ち目などあろう筈もない。しかし男は、縄を身体に回して一歩も退かぬ構えだ。私は、何時の間にか握り締めていた拳に、思わず力が篭るのを感じた。男は驚くべき事に、バッファローに一歩も退けを取っていない。しかしやはり、体重差から来る体力の差はいかんともし難いものがある。時間がかかればそれだけ不利となる。それを感じ取ったものか、男はいきなり力一杯引いていた縄を緩めた。バッファローはぐらりとバランスを崩す。男はすかさず駆け寄って、角を掴むとバッファローの背にひらりと飛び乗った。そして、首の縄を手繰り寄せると、その先に付いた斧を握って、バッファローの脳天目掛けて振り下ろす。凄まじい悲鳴を上げてバッファローはとうと倒れ込んだ。男はその瞬間、俊敏にその背から飛び降り、我と我が身をその巻き添えから守った。なんという身体能力であろうか。私は唖然としてその姿を見つめた。
やがて男は悠然と獲物に近づいて行くと、その首筋にナイフを当て、掻き切って留めをさした。それだけの事を成し遂げたというのに、男は事もなげで、息一つ乱していない。それどころかバッファローの両足を縄で括るとその巨体を両肩に担ぎ上げた。私は我が目を疑った。あのバッファローを担ぎ上げる男が存在しようとは想像だにしなかった。男は軽く肩を揺すり上げてバッファローの位置を微妙に調整した。そして、自分の村へと帰るべく歩き出そうとして、見つめる私の視線に気付いたらしく、こちらを振り返った。一瞬、視線がぶつかった。私はその何気ない男の眼差しに戸惑ってしまった。どう反応して良いのか解らなかった。男は私の顔を確認すると、バッファローを担いだまま、すたすたと軽い足取りでこちらに近づいて来た。そして、その体力と力強さに目を見張ったままの私に話し掛けた。
「痛めた足はもう良いのか?」
その声に込められた優しさに、私は改めて彼の顔を見た。日に焼けた、決して端正だとは言えないごつい顔。それでいて私に向けられた眼差しは限りなく優しい。そして、返事も出来ずにいる私をどう誤解したものか、ふっと苦笑いのような表情を浮かべた。
「そんなに怯えなくてもよい。オレは何もせぬ。」
私は慌てて強く首を振った。
「怯えてなどいない!私はただ…」
「ただ?」
彼は面白そうに尋ね返した。私は戸惑って下を向いた。彼はそんな私を怪訝そうな眼差しで見下ろしている。私は耳まで赤くなっていくのが判った。
「余りに凄い腕前に見とれてしまって、言葉が出なかっただけだ…。」
私が辛うじてそう告げると、彼は一瞬目を見張って、次の瞬間私をまじまじと見つめた。そして、微かに笑みを浮かべた。
「そんな事を面と向かって言ったのは、お前が初めてだ。大抵の男はオレに一目置くが、殆どの女はオレを化け物じみていると言って怖がる。お前は女なのに男のような考え方をするのだな。」
「私は女扱いされた事などない!」
私は何故かむきになっていた。
「私は!いつも、いつも…。」
不意に涙が溢れて来た。この男の前だと、何故か感情がうまくコントロール出来ない。
「私は…。」
涙をはらはらと零す私をどう思ったのだろう。男は私をじっと見ていたが、突然片手を上げると、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
驚いて目を見張る私に、男は寂しそうな笑みを見せた。
「お前はオレと同じ種類の人間なのだな。お前は女扱いされないのかも知れぬが、オレは人間扱いすらしてもらえぬ事がある。」
私は、男の目を覗き込んだ。哀しい目だ。自らの運命を受け入れ、自然に任せた、水のように静かな目だ。私は、その瞳の静けさに魅せられた。その、心の内を顕しているかのような、澄んだ、優しさをたたえた瞳に。
そんな私の視線を、どう思ったものか彼は言葉を継いだ。
「とは言え、オレは別段、生肉が好きだという訳じゃなし、夜中に月に向かって吠えたりもせぬ。聖霊でもなければ神々の愛児(まな)でもない。ただの人間の男にすぎぬ。少々でかいがな。」
そして、自分でも喋り過ぎたと思ったのか、視線を地面に落とした。それからまた私の顔を見、思い切ったように尋ねて来た。
「お前の名前を教えてくれぬか?」
私は少し躊躇した。なんとなく彼にはこの呼び名を知られたくなかった。
「…そうか…。オレには教える気はないのか。それならそれでよい。」
私の沈黙を完全に誤解して、彼はそう呟くように言うと、きびすを返した。その背中の、訴えるような淋しさが、私を打ちのめした。
「私は!私は…『風を見る女』と呼ばれている…。」
咄嗟に私は、そう叫んでいた。彼は肩越しに振り返ると、にっこり笑った。
「良い名だな。お前の弓の腕前を褒め讃え、しかもお前の清々しい性格をも顕している。似合いの名前だ。」
私はまた衝撃を受けた。そんな風に考えた事などなかった。名付けた一族の者も、そのように深く考えて付けた筈がない。この名前から私が受けたのは、羨望と侮蔑、嘲りと蔑み。聞こえるのは男達の無言の声。『女の癖に!女だてらに!』という声。
彼はそれだけ言うと、呆然と立ち尽くす私をその場に残して立ち去っていった。あの男は私の感情を波立たせる。私はこんなに情けない女だったのか。あの男の一言一言に過敏過ぎる程反応してしまう。いや、あの男が、私の慣れ親しんだ一族の者達と、全く異なる事を言い出すからいけないのだ。私は、誰にも女扱いして欲しいとは考えていなかった。無理な注文だと解り切っていた。だから、諦めていた。生きていく為には仕方のない事。弟達を立派に育て上げる為、必要な苦労の一つなのだ、と信じて来た。だから、私は、女である事をあえて捨てたのだ。なのに…。あの男の言動は私を、私の感情を逆撫でする。

それから幾日過ぎただろうか。ある晩、上の弟が私に言った。
「姉さん。僕はこんなに大きくなって、先日から一族の人達と狩りにも出られるようになりました。そして、かなりの知識と技術を覚えました。ですから今度は、村一番と言われる姉さんから、その弓を教わりたいのです。早く姉さんに追い付いて、一人前の男として皆に認めてもらう為に。」
私はそんな弟の成長を喜んだ。そして次の日から、私の、弟を鍛え上げる日々が始まった。弓の扱い方、風の読み方。教える事は山ほど有った。獲物の見つけ方や追い込み方は一族の男達から仕込まれていたので、基礎はあらかた出来ているとも言えたが。流石に男の子だけあって、私の場合と違い、体力のある分だけでも飲み込みが早い。渇いた砂が水を吸い込むように、私の技術は彼に吸収されて行くようだった。やがて、それを見ていた下の弟も、私達の手伝いをする気になったのか、共に狩りに出るようになった。ある意味、この時期私は、両親を失くして以来初めて、孤独ではない日々を送っていたのかも知れない。兄弟三人、他人を交えず、人目を気にする事もなく、水入らずで過ごす事が出来たのだから。

「姉さん!危ない!」
弟の声に振り返った時には、既に遅かった。巨大な豹が、私目掛けて頭上の木の上から飛び掛かってくるところだった。咄嗟に身体を捻って、致命傷を受けるのは避けたが、鋭い爪に肩を切り裂かれた。傷口を抑える暇もなく、豹は飛び退くとすかさず身構えて、今度は下の弟目掛けて飛び掛かった。弓では距離が無さ過ぎる。私はナイフを引き抜くと、弟を押さえ込みにかかっている豹の背中に体当たりした。
ぎゃあ!豹は一声叫ぶと、私を振り落として弟の上から飛び退いた。距離を少し置くと、物凄い形相でこちらを睨み付ける。背中には私のナイフが刺さったままだ。手負いの獣は余計に獰猛になる。歯を剥き出して唸る豹に、対抗する術はもはや、上の弟の持つ狩猟用ナイフしかなかった。弟は健気にもナイフを構えて、私達を庇おうとしている。だが、彼では無理だ。
「駄目よ!ナイフを私に寄越しなさい!」
私は弟からナイフをもぎ取ると、弟達を背中に庇った。
「私がこいつの相手をしているうちに、その子を連れて逃げなさい!」
「姉さんは?!」
叫び返した弟に私は背中で答えた。
「私の事はいい!その子を死なせたら許さないよ!」
豹と睨み合いながらそう叫ぶ。二人を助ける為なら、私はどうなろうと構わない。
ちょっとでも目を離そうものなら、即座に飛び掛かって来るであろう豹を、私は目だけで殺し兼ねない勢いで睨み付けた。そんな私の覚悟を察して、弟達がそっとその場を離れようとしていた。私は、じりじりと横に動き、何とか弟達から豹を引き離そうとした。低い唸り声を上げながら、豹は油断なく私を睨み付けている。傷を負わせた私を、第一の標的に決めたらしい。それでいい。しかし、ただで喰われてやる気は毛頭ない。私はナイフを握る指に力を込めた。
すっと豹が身体を沈めた。来る。次の瞬間、豹は空中に踊っていた。私も体を沈めて、相手の腹を狙う。一瞬の勝負。私は手の中のナイフに運命を預けた。

 反射神経の差であったろう。間一髪避けた牙の後、腹を狙ってナイフを突き出した私の、隙だらけの背中に、豹の爪が突き刺さった。灼熱の塊が背中に押し付けられたようだった。
「姉さん!」
弟の叫び声が辺りに響き渡った。痛みを感じる間もなく、私の意識が遠ざかって行く。
「逃げて…!」
私は最後の力を振り絞って、弟達に叫んだ。
(せめて私が喰われている間に…)

「姉さん、姉さん。」
私を呼ぶ弟の声に目を開くと、心配そうに覗き込んでいる弟の顔が見えた。
「お前…、どうして…ウッ。」
 全身を貫く激痛に、言葉を紡ぐ事すら出来ない。
「話さぬ方がよい。今、手当をしている。」
静かな男の声にはっとして、声の主の方を振り仰ぐ。まさか、あのひと…?
「あなたは…。」
「話さぬ方がよい、と言ったぞ。オレの事を覚えていたか。」
男は苦笑いしながら言った。間違いない。あのひとだ。
「この方が助けてくれたんだよ。」
弟が、見事に斧で頭を割られた豹を指し示した。
「姉さんが倒された時、この方が間に割って入って、姉さんを庇って豹に立ち向かってくれて、一撃で仕留めなさったんだ。すごい腕前のお方だね。姉さん、お知り合いだったの?」
私は弟に軽く頷いて見せると、そのひとに向き直った。
「助けてもらったのはこれで二度目だ。ありがとう、感謝する。今回は私ばかりじゃなく弟達まで助けてもらった。」
そのひとは軽く首を振った。
「大した事じゃあない。それより話すな、と言ったぞ。傷の手当ができぬ…。」
途端、激痛が再び襲い、私は話すどころではなくなった。
「ほら見ろ。暫く大人しくしていてくれぬか?弟達の為にもオレの為にもな。」
(え?)
このひとは今、何を言ったのだろう?手際よく傷の手当をしてくれる手元をぼんやりと見つめながら、私は考えていた。いや、傷による高熱の見せた幻だ。私の頭が描き出した幻想だ。そのまま再び気を失って、目覚めた時、私はそう思い込もうとしていた。そうとしか考えられなかった。でも…。

「姉さん、お願いだからじっとしていて!」
熱が下がり、傷口が多少塞がると、早速起き上がろうとする私に、弟が懇願した。
「あの後、大変だったんだから。あの方が手当してくれて、そのあと姉さんをだき抱えて村の近くまで運んでくれたんだよ。ご自分の危険も省みずに。それから、熱の高い姉さんに必要な薬草の事や、傷の処置の仕方まで詳しく教えて下さったんだ。だから、姉さんの命が助かったんだと僕は思うよ。本当にあの方のお陰だ。僕達だけじゃ、どうしようもなかったもの。」
弟の尊敬に溢れた眼差し。
「あんなに凄い人が現実にいるなんて思わなかったなあ。」
男の子にはあのひとは類い稀なる戦士に見えるのだろう。恐れるものなど何もない、完璧な勇者に。でも、私は知っている。あのひとの中の深い孤独を。
「お前はあの方が好きなのね。」
弟の勢いに負けて寝床に横になり、私は笑いながら弟に言った。微笑ましかった。弟はにっこり笑い、大きく頷いた。
「ええ、好きですよ。尊敬してます。姉さんは?」
その問いに答えられず、私は横を向いて眠ったふりをした。

私の傷の癒えるまで、弟達は村の男達と狩りに出掛け、腕を磨くことにしたらしい。私が怪我をした理由を知りたがって、色々聞きほじる連中に、弟達もかなり困り果てたようだった。しかし、本当の事を言う訳にはいかない。他の部族の男に助けられた等と、しかも村の直ぐ近く迄送ってもらった等と知られたら、私も弟達も村を追い出されてしまう。村を、一族を危険にさらした事になるのだ。あのひとは決してそんなひとではない、と私達は信じているが、あのひとの事を知らない連中にとっては多大な脅威に他ならぬだろう。あのひとほどの勇者なら尚更そうであろう。情けない男なら、一目見ただけでも恐慌に陥るかもしれない。それほどにあのひとは、ずば抜けた体格と身体能力の持ち主なのだ。味方であれば、これほど頼もしく、敵に回せば、これほど恐ろしい存在もあるまい。だからこそ、あのひとと私達の関わりをしられてはいけない。弟達もそれは百も承知で、敢えて黙っている。私の傷か全快する頃には、連中も忘れてしまう事を私は内心祈っていた。

動けるようになるまでの退屈な日々を、私はどうやって過ごしていたのか、よく覚えてはいない。ただ時をやり過ごしていたのだろう。だから、手足を動かしても痛まなくなった途端に、私は狩りに出られるように準備を始めていた。大人しくしているのは無理らしい。弟は心配するが、身体が鈍って動かなくなってしまうのは御免被りたい。
「まだまだ頑張らなくっちゃね。」
私がそう言うと、上の弟が真剣な顔で言った。
「姉さん。僕達も成長しているんだよ。少しは信用して任せてくれても大丈夫だよ。」
その言葉に私は愕然として弟の顔を見直した。いつの間にかその顔はあどけなさを脱ぎ捨て、私の顔を見下ろす位置にあった。奇妙な感動が私を押し包む。
「あんた…、いつの間にそんなに大きく…。」
弟はにっこり笑った。
「姉さん、男の子は、何時までも子供じゃないんだよ。だから、姉さんももう本当の自分に戻ってもいい頃だと思うよ。」








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