風が吹く。冬の野原に。風が吹く。思い出を誘うように。彼は、あの少年は確かにいたのだ。私に微笑みかけたりもしたのだ。あれは…、晩夏のことだった。
ふと、歌が聞こえた、と思った。風に乗って、微かな歌声。私はあたかも導かれて行くかのように、そちらにひかれていった。そこにいたのは少女かと見まごうばかりの髪の長い少年。白い服を着ている。ただ無心に歌う姿に、私はそっと近寄っていった。彼の邪魔にならぬよう、ある程度の距離を保ち、私は彼の歌に耳を傾けた。もの悲しい、妙に耳に残るメロディ。少年の声変わり直前の、透き通る声と相俟って、私の心を鷲掴みにして虜にしてしまった。私はしばし呆然と彼の歌に聞き惚れていた。
やがて、彼が歌うのを止めた時、私は迷わず彼に声をかけていた。
「君、ちょっと、君。」
私の声に、彼はまるで夢から覚めた、という表情で私を見つめた。そして次の瞬間、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
少年が目覚めるのを、どれ程私は心待ちにしたろうか。白い頬に長い睫毛が影を落としている。あまり色を帯びていない長い髪は枕に散らばり、幻想的に彼の顔を縁取っている。
あの辺りには人家もなく、取りあえず私は彼を私の宿へと運び込んでいた。
彼はいつ目覚めたのだろう。気が付くと彼は、彼の横顔に見とれていた私を逆に見つめていた。
「気がついたかい?君は気を失って倒れたんだよ。君の家は何処?名前は何というの?」
彼の視線に戸惑いながらも、私は彼に尋ねた。しかし彼は、目を伏せたまま何も答えようとしない。
「君…?」
私はどうしようもなく、彼の面倒を見ることになった。
それから何日かして、私が自分の街に戻る日になった。彼は軽い散歩が出来るほど回復していたが、歌を歌う以外私とも最低限の話すらしないままだった。日常生活は差し障りがないようだから、目や耳に障害がある訳でもなさそうだった。それなのに私とも、ましてや他の誰かともコミュニケーションを一切取ろうとはしない。
「私は街に帰らねばならない。君はどうしたいの?」
私は彼に問いかけた。彼は目を伏せたまま返事をしない。私はため息をついて、もう一度問いかけた。
「ここに預けて行っても良いんだよ?」
途端彼はすがるような眼差しで私を見つめ、首を横に振った。
「?イヤなの?」
彼は私の袖口を掴み、頷いた。
「じゃあ、私と一緒に来る?」
彼は一瞬の躊躇の後、頷いた。
私が彼に惹かれていたのは事実だった。彼のあまりに現実離れした存在感の無さが、私の中の何かを刺激するようだった。それでいて彼の歌声は神聖なものを崇めたくなる人の心を揺さぶる。そのアンバランスが、私を彼に固執させ他のだと思う。
多分彼には身寄りはなかった。宿に彼を保護している間、私は一応手を尽くして彼の身元を探ってみたが、手掛かりは無かった。だから私は思い切って、彼を誘ってみたのだ。結果、彼は私と行く事を選んだ。
しかし、私のマンションに移り住むようになっても、彼は変わらなかった。私と打ち解けようともしなかった。ただ日々を過ごし、気が向くと歌を歌った。
どれ程の時が過ぎたのだろうか。彼は私の部屋に住み着いた。まるで人に懐かぬ小鳥のように生きていた。 私は敢えて彼に話をさせようとはしなかった。少しずつでいい。彼がこの部屋に馴染んだように、私にも馴染み、打ち解けていく事を望んでいた。私に向かって歌を歌ってくれる日が、いつか来るだろう事を。だがしかし…。運命の日が来た。
その日彼は、私の部屋のバルコニーに立ち、風に吹かれながら歌い続けていた。聞き覚えのある流行り歌や賛美歌、童謡、果ては即興なのだろう、脈絡のない歌詞をつけた意味不明の曲。私は時が経つのも忘れて、彼の歌に聞き惚れていた。
秋の空は高く、果てしなく蒼い。彼は空に向かって歌う小鳥のようだった。真白い、籠の中の小鳥。空に憧れる。
急に突風が吹いてきて、彼の周りに渦を巻いて去っていった。何を思ったのだろう。彼はその風を目で追って、果てしない深さを宿している空を見上げた。そして、ふっと小さく吐息をつくと、私が彼に初めて会った時に歌っていたメロディを口ずさみ出した。あの、美しくも悲しい歌。だが、その歌詞は全く違っていた。
「ねえ、母さん。僕を愛していたの?僕は愛していたよ。僕の全てで。だから全部僕のものにしたんだ。母さんの血は暖かかったね。母さんの僕を見る目は冷たかったけど。でもやっと、僕だけを見てくれるんだね。もう、僕だけのものだね。」
私ははっとした。イヤな想像が頭を支配する。振り解こうとするがどうにもうまくいかない。彼は歌い終えると、手すりにもたれ掛かって空を見ている。そこに何か得難いものでもあるかのように。私は彼の手を掴み、部屋の中に引き入れた。彼はされるがままで抵抗しなかった。いや、私のことなど元から眼中にないのだ。私は少しカッとして、彼の顔を両手で挟み込んで私の方を向かせ、彼の目を覗き込んだ。そこには深い空の青が映っているだけだった。
(この子は…。)
私は彼の頬をひっ叩いた。正気な彼と話がしたかった。二・三回叩くとやっと、彼の目が私を捕らえた。
「何があったんだ?今の歌は何だ?」
畳み込むように尋ねるが、彼は答えようとしない。
「今、おまえは正気だ。答えろ。私には聞く権利がある!」
彼は私をじっと見つめた。私は血相が変わっていたのだろう。それほど真剣だった。何が彼をここまで追い込んだのか知りたかった。知って、彼を救いたかった。この子が、ごく普通の少年のように、笑ったり走ったりするのを見てみたかった。
彼は目を伏せると、一瞬ふっと微笑んだ。それから挑戦的に私を睨みつけた。
「放っといてよ。あなたには関係ない。」
私は再びカッとなった。思わず手を振り上げる。
「やめてよ!あなたまで僕をぶつの?母さんみたいに!」
私は咄嗟に振り上げた手を下ろして、彼を見つめた。彼は自分で自分の身体を抱きしめ、後ずさった。その目の中には、恐怖と共に深い悲しみがあった。私は思わず彼を引き寄せ、抱きしめていた。まるで寄る辺ない孤児のように頼りなげで、儚げだった。
「何があったの?話してごらん。もうぶったりしないから…。」
私はやさしく彼に囁きかけた。彼は私の顔をじっと見つめた。それから私の胸に自分から縋りついた。まるでその温もりを確かめるかのように。そして懐かしそうに目を閉じたまま、大きく吐息をつくと話し始めた。
「本当に小さい頃には、母さんもこうして抱きしめてくれた。僕は、母さんに抱きしめられるのが好きだった。歌も、母さんが喜んでくれたから、歌うことを覚えたんだ。僕は母さんが好きだった。」
頬を私の胸に押し当てたまま、彼は小さな声で、私に話すと言うよりも独り言を言っているかのように話した。
「でも、母さんはそうじゃなかった。僕は、母さんの僕に向ける目が冷たいのを知っていた。だから、僕は母さんに愛してもらおうと一生懸命だったよ。母さんの気に入るように髪も伸ばした。役に立つ子だと思ってもらえるように、何でもした。子供が嫌いな母さんだから、友達も作らなかった。母さんが僕の全てだった。」
彼の閉じた目から涙が一筋零れ落ちた。
「僕は僕に出来る全ての事をしたんだ。母さんの言う通り、男の人のお酒の相手やそれ以上の事もした。いいお金になったって母さんは喜んでくれた。」
私は驚いて彼の顔を見つめた。彼は相変わらず目を閉じたまま、私の胸に頬を押し当てている。
「でもね、あの男が現れてから、母さんは僕に見向きもしなくなった。毎日あの男の所に通い詰めた。朝から晩まで、あの男の所に入り浸った。それでも僕は母さんを待っていた。滅多に帰ってこない母さんを。だけど母さんは、帰ってきては僕をぶつようになっていた。『お前がいるから私はあの人と暮らせない!』『お前がいるから私はあの人と一緒になれない!』って言ってね。そうやって僕をさんざんぶってから母さんは、あるだけのお金を持って出ていってしまうんだ。あの男の所へ。」
彼の指に力がこもる。余程痛い目にあったのだろう。表情にも苦しみが滲んでいる。
(とんでもない母親だな…。)
彼の髪を撫でながら、私は彼を気の毒に思った。
(そして、母親に捨てられたか…。それなら…。)
そんな辛い事は忘れて、このまま私と暮らそう、と口に出そうとした時。
「母さんを殺したんだ。」
彼はぼそりと言った。
(え?)
私は耳を疑った。
「今、何て言った…?」
「母さんを殺した…。ナイフで刺した。血がいっぱい出て、母さんは動かなくなった。」
私は絶句した。彼はきつく手を握りしめ、言葉を続けた。
「その夜、母さんはお酒を飲んでいたようだった。家に入るなり僕の髪を掴んで引き倒した。目が血走っていた。母さんは僕に馬乗りになって僕の首を絞めた。『お前のせいで私はあの人について行けない!あの人に捨てられる!お前なんかいらない!お前なんか死んでしまえ!』母さんは僕に向かってそう言った。僕は苦しくてもがいた。必死でもがいた。そして気がついたら母さんを刺していた…。」
「それは、君のせいじゃない!正当防衛だ!」
私は思わず彼を抱きしめて叫んでいた。彼はぽろぽろと涙をこぼしている。
「不可抗力だ。君が悪い訳じゃない。忘れるんだ。忘れて、私と暮らそう。」
私は言い聞かせるように彼に囁きかけた。彼はじっと私の声を聞いていた。だがやがて、ゆっくりと首を振って私を見上げた。
「でも、僕は前から、母さんがいつか僕を殺そうとするだろうと思っていた…。そうだ。知っていたから、テーブルの上にいつも果物ナイフを乗せておいたんだ。勿論、母さんを刺すつもりなんかじゃない。それを見せて、母さんを冷静に戻す気だった。だけど、僕はそいつで母さんを殺してしまった…。苦しくて何がなんだかわからなくなって…。」
彼は自分の両手を見つめた。
「母さんは物凄い顔で僕を睨みつけた。シャワーのように血が飛び散って、母さんは倒れ込んだ。ねえ、信じたくないけど僕は、母さんが死んだことがわかって、ひどくほっとしたんだ。もうぶたれないんだ、と思った。そして、これで、母さんはどこにも行かない、僕だけのものになったんだ、と思った…。」
彼はそっと私から離れた。バルコニーに歩み寄り、空を見上げる。
「でも、そうじゃなかった…。母さんは僕を抱きしめてくれない。笑いかけてくれない。話してもくれない。母さんはどこにもいない。いなくなったんだ。僕が殺したから…。」
(可哀想に…。)
私の心の中は哀れみでいっぱいになった。この、愛情に飢えた子供をどうやったら救えるだろう。私は深い海に沈んで行くような絶望感に襲われた。
「あ…」
不意に彼は小さく声を上げると、空に向かって手摺を飛び越した。両手をめいっぱい伸ばして、まるで何かを捕まえようとしたかのように見えた。 私が駆け寄った時には既に遅すぎた。一瞬空中に浮かんだ身体は、吸い込まれるように地上に向かって落下していった。
茫然と立ちすくむ私の目の前に、一枚の真っ白い羽がふわりと舞い落ちてきた。空を見上げたが、澄んだ蒼い空が広がっているばかりだ。彼はそこに何を見たのだろう。何に手を差し伸べたのだろう。はたしてその手は、それに届いたのだろうか。空の青さが目に染みる。私は軽く頭を振った。いや、彼は望んだものを手に入れたのだ。そうじゃなければ余りに悲しすぎる。そしてその優しい腕に抱かれて彼は空へ飛び立っていったのだ。空へ…。