気持ちよいお天気だ。走っていても風が心地よく頬をなぶる。

山々の濃い緑が目に優しく、鳥の声が耳にうれしい。

修はいつの間にか自然に笑顔になっていた。太一達と一緒にいると、自分が無意識のうちに笑顔になっていることに気付かされる。

それだけ自分が彼らといることを楽しみ、喜んでいるのを、修は嬉しく思った。

 

雪絵達の小屋に向かって風の道を辿り、一山超えたところまで来た時だった。カーブを曲がる時、修の目の端に何か奇妙なものが映った。やはり風の道を、砂煙をもうもうと蹴立てて、何かがこちらに近づいて来る。

修は太一の肩をつついて注意を促した。

「太一、あれ、何だろう?」

「ん?」

何気なく振り返った太一だったが、次の瞬間顔色が変わった。

「や、やば…。」

そして修の手を掴むと一郎に切羽詰まった声で叫び、同時に全速力で走り出した。

「一郎、やばい!風親父だ!」

「いっ!」

一郎は瞬間的に後ろを振り返り、素っ頓狂な声を上げた。そして尻に帆かけて、という表現が思い浮かぶような勢いで走り出した。

そのあまりの速度に最初に修が音を上げた。

「た、太一…、もう…、息が、続かない…。」

引きずられるようにして走りながら、修が苦しい息の下、太一に訴える。しかし太一は速度を弛めようとはしない。

「もうちょっと頑張ってくれ。この山の麓まで行けば、隠れる場所があるんだ。あいつに今、捕まるわけには行かないんだ!」

太一は懸命に走りながら修を励ました。その太一の様子から、ただならぬものを感じて、修はもつれる足に再び力を込めた。

やがて太一の言っていた山の麓に辿り着いた。その辺りは鬱蒼とした藪と下生えの草に覆われて、隠れ場所に事欠かないように修にも見て取れた。

その藪に、まず身軽に一郎が飛び込み、太一が修を引きずりながら這い込んだ。

外から見えないように下生えの枝を寄せて、なるべく小さく体を縮めて腰を下ろすと、ようやく少し落ち着いたらしく、太一は大きく息を吐いた。

「これで、もう大丈夫だ。」

それでも囁くように小さい声で修に言った。かなり気をつけているらしい。

それにつられて修も小さい声になって太一の耳元で尋ねた。

「ね、太一。あれ、何?」

「しいっ!」

それでもその声が大きすぎると感じたらしく、太一は唇の前に人差し指を立てて見せた。それから手招きをして修を藪の外が見える位置まで導いた。そして修の耳に唇を付けるようにして囁いた。

「そこからそうっと覗いていると良い。面白いものが見られる。」

その太一の囁きが、かき消されるかと思えるほど、もうもうと土煙を上げてびゅうびゅうと風をはらみながら、謎の物体が近づいて来る。その勢いが恐ろしくて、修は思わず首を縮めた。その隣でやはり太一も身を縮めていた。

 

 

(あれは…、風神様…?)

急速に近づいて来たのは、ばあちゃまに連れられて行ったお寺で見た絵にあった風神様にそっくりな大男だった。ぼさぼさの髪を振り乱し、大きな目玉をむき出して、小山ほどもありそうな大男が疾走してくる。

修はその様子を引きつけられるように見つめていた。ある意味、怖いもの見たさもあったのだろうか。

隣では太一と一郎が首を竦めて嵐が通り過ぎるのを待っている。

やがて荒ましい風圧を伴い、お腹に響くような足音をたてて、大男は三人のすぐ傍らを通り過ぎていった。

その大きな足音が聞こえなくなった頃、やっともぞもぞと太一が動き出し、修の隣からそおっと顔を出して外の様子を窺う。

「行った…?」

一郎が太一の背中にこわごわ尋ねる。

太一は入念に左右を見回し、やがて大きく息をついて肯いた。

「行った。行っちまった。」

そして一気に力が抜けてしまったように、その場にへたり込んだ。一郎もその場に腰を抜かしたように座り込んでいる。

「ねえ、太一。」

二人が落ち着いた頃を見計らって、修が太一の腕をつついた。

「ん?」

「あの人、誰?」尋ねるに尋ねられずにいた疑問を口にする。

「ああ、あれは『風親父』さ。」

太一はむっつり答えた。

「ここいらの風の道の管理人なんだ。そして、おいらたちの後見人。」

「おっかない奴なんだ。何かというとすぐ拳骨が飛んでくる。」

一郎がしかめっ面で付け加える。

「おいらたちが修を連れて歩いている、ってバレたんだな。あいつが出張ってくるなんて。」

太一が一郎の顔を見て言った。

「うん。誰かが告げ口したんだ、きっと。チクショウ。犯人が分かったらただじゃおかない。」

一郎が悔しそうに応じた。

「だけど、これからどうする?」

太一と一郎が額を集めて考え込んだ。

「ん〜と…。」

太一がこめかみを指でとんとん叩きながら呻いた。そして突然、ふうっと息を付いた。

「止めた。」

「え?」

思わず修は太一の顔を見た。

「ああ、止めた、止めた!考えるのは苦手だ。大体、おいらが考えても良い考えが出てくる訳がない!」

「おい、太一。そこは威張るとこじゃあないだろう。」

一郎が突っ込む。

「まあ、確かにその通りだけど、な。」

そして付け加えるのを忘れない。

「う…。」

太一が目一杯イヤな顔をした。途端、修が思いっきり吹き出した。笑いの発作に襲われたかのように、お腹を抱えて笑い転げる。

「…おい、修。」

太一と一郎は面白くもなさそうに修をみている。修の笑いはなかなか収まらない。何かのタガが外れてしまったかのようだ。太一と一郎は呆れて、顔を見合わせて暫く放っておくことにした。

 

 

「いい加減、気が済んだか?」

笑い過ぎて息も絶え絶えになっている修に、渋い顔で太一が聞いた。

「…ん。」

修はお腹をさすりながら答えた。笑い過ぎてお腹が痛い。太一や一郎といると修はよく笑う。何故か、ちょっとしたことでもツボにはまってしまうのだ。

「んじゃ、そろそろ行くか。」

一郎が腰を上げる。修の笑いの発作は目くじらをたてるほどのことではない。自分達が意図せず漫才を演じているらしいことを薄々一郎も太一も気付いている。

「ま、取りあえず初志貫徹。雪ねえのとこに行くベ。」

「ん。そうだな。雪ねえに相談するのが一番早いし、いい方法だろうな。」

太一も同意して行き先が決まった。

 

念のため、先に一郎が一人だけ風の道に出て様子を窺う。もうそこはいつもの静かな風の道だった。一郎は太一に向かって肯いて見せる。

「よっしゃ。」

太一が修の手を引いて、風の道に飛び上がる。そしてまた三人は走り出す。雪絵達の小屋を目指して。

 

「雪ねえ。」

小屋の前で野菜を洗っていた雪絵に、太一が嬉しそうに呼びかけた。雪絵は手を休めることをせずに、首を回してこちらを見た。

「あら、太一。いらっしゃい。一郎も修もよく来たわね。ちょっと待っていて、これを済ませちゃうから。」

雪絵は手早く仕事を片づけ、野菜を入れたカゴを手に立ち上がる。

「丁度良いところに来たわね。もうじき一真も戻ることだし、そうしたらおやつにしようと思っていたのよ。」

小屋の台所に野菜を片づけながら言う雪絵の言葉に、太一と一郎は敏感に反応した。

「おやつ!食べる!」

二人が声を揃えて叫ぶのに、雪絵と修は思わず笑い声をあげた。

 

 

まもなく一真も戻り、みんなで賑やかにおやつの時間が始まった。雪絵の手作りの草餅だ。

「きな粉もあるわよ。」

すごい勢いで食らいついている食べ盛りの男の子達をにこにこと眺めながら、雪絵が言う。その手は甲斐甲斐しくお茶の用意をしている。

「ほらほら、そんなに急いで頬張らなくても、お餅は逃げやしないわ。」

雪絵がそう注意するそばから一郎が喉を詰まらせた。

「う…んぐっ!」

慌てて胸をとんとん叩く。

「ほら、言わんことじゃない。」

雪絵はその手に茶碗を渡してやりながら笑った。

目を白黒させながらやっとのことでお餅を飲み込んだ一郎を横目で見て、太一が難しい顔で茶を啜っている。取りあえず一口餅を飲み込んで気が済んだ途端、厄介な相談事をせねばならないことを思い出したのだ。さて、どうやって切り出そうか、と考えながら、それでも食欲に負けて、太一にしては珍しく、ごくゆっくりと餅を口に運んでいく。

「太一、何かあった?」

雪絵はそんな太一の様子にすぐに気が付いた。その言葉に、今度は太一が喉を詰まらせた。

「んぐっ…!」

慌てて茶碗の茶を飲み干す。雪絵はその茶碗に茶を注ぎ足してやる。そのお茶を一気に流し込んで、やっと人心地つける。

(うわあ、さすが雪ねえ。)

思わず内心舌を巻く。

「え…、どうして判ったの?」

口ごもりながら尋ねたのに雪絵はにっこり笑って答えた。

「だって、太一が食欲をなくすなんて、よっぽどのことじゃない?」

それを聞いて、修も一郎も一真も、温和しくお餅を頬張っていたさきも、思わずうんうんと肯いていた。それを見た太一はちょっとばつの悪そうな顔をしたが、話をする方が大事だ、と考え直して雪絵に向き直った。

「あのさ、雪ねえ。」

やっぱり言い出しにくそうだ。

「実はね…。」

「なあに?悪戯がバレたの?」

雪絵がにこにこと応じたのに、太一は目を見開いた。

「わかった?」

「太一のことだから、ね。ある程度は予想がつくわよ。」

もじもじする太一に苦笑しながら雪絵が言う。

「で、今度は何をやらかしたの?」「ん…。あのね、さっき三人で風の道を走っているところを『風親父』に見られた…。」

その言葉にさすがの雪絵も一瞬黙った。

「ねえ、どうしたらいい、と思う?」

太一が考え込む雪絵を上目遣いで伺う。雪絵は軽く顎に手を当てて考え込んでいる。そしてやがて大きくため息をついた。

「もう。仕様がないわね。それって完全にバレちゃった、ってことじゃない。まあ、まだそこで捕まらなかっただけマシかしら、ね。」

太一がしょんぼりとしている。自分の失策の酷さが身にしみる。雪絵はいきなり太一の背中をぽんと叩いた。

「バレちゃったんなら仕方がないわ。だとしたら、こっちから先手を打つ、って方法が有効かもよ。」

「え?」

太一は何も解らず戸惑っている。

「いっそのこと、修を風親父に紹介する、って手段はどうかな?」

雪絵がにんまりと笑う。

「ほら今夜、夜祭りがあるでしょ?そこでみんなのいる前で、修を風親父に引き合わせるの。ちゃんと紹介する分には、風親父はみんなの手前、すぐに怒ることは出来ないわ。」

「成る程。」

太一はうんうんと頷いた。

「みんなの前ならいきなり拳骨を振り回すことも出来ない、ってことだよな。みんなには理由が解らない。」

「そう。」

雪絵はにっこりした。

「でも、油断は禁物。あんまり風親父を刺激しないでよ。」

雪絵は片目をつぶって見せながら釘を差した。

「うん。気を付けるよ。」

まじめな顔で太一は肯いた。

 

 

雪絵に名案を授けてもらった太一は、それからは一気に食が進み、みんなして美味しくおやつをすませることが出来た。修には何が相談され、何が決定されたのか、てんで解らなかったが。それでも楽しいおやつであったのは間違いない。

それからみんなで仲良く遊び、あっと言う間に日暮れが近づいていた。

「帰るぞ。」

珍しく太一が修をせかす。

「もうちょっと…。」

渋る修に太一はニヤリと笑って袖口を引っ張った。

「早く帰って支度をしておくんだよ。今夜は夜祭りに行くんだ。でも、ばあさんにはないしょだぞ。」

太一の瞳はきらきらしている。その表情が楽しさを物語っていた。

「夜祭り?」

その言葉をやはり楽しそうだ、と受け取った修の瞳も煌めいた。

「連れて行ってくれるの?」

「もちろん。だから早く帰って支度、なんだ。浴衣は持っているか?」

太一が尋ねる。

「持っているけど、ばあちゃまに言わないと…。」

修が考えながら口にすると、太一は顔をしかめた。

「それじゃあ無理だ。」

それから軽く修の肩をぽんと叩いて言った。

「まあ、しょうがないか。普段着でも良いさ。それで楽しくなくなる訳でもなし。」

それで話は決まった。

 

修は太一の命令通り奥座敷で眠る宣言をして、布団を敷いて貰い、早めに眠る準備をして引っ込んだ。ばあちゃまは修の気まぐれにも慣れっこになって、何の疑問も抱くことなく、言う通りにしてくれた。

修は暗がりでわくわくしながら太一が来るのを待っていた。それでも待ちきれなくてうとうとし始めた頃になってやっとしんと静まった奥座敷の畳に軽い足音が降りたった。

「修、修。」

そっと呼びかける声に修は目覚めた。

「…太一?」

寝ぼけ眼で尋ねる。

「さあ、出かけよう。」

修の手を取った太一が布団から引き起こすようにして言う。修は静かに肯いた。

以前のように足音にも気を付けて、縁側から外に出る。

月が明るい。青い光が辺りを包んでいる。

 

 

そうっと裏庭を抜け、山へと道を辿る。昼間とは夜の山はまた違った表情を見せる。

(一人じゃあ絶対歩けないだろうなあ。)

シルエットになっただけで巨大なお化けにも見える木々を見上げて修は思った。

(夜の森は怖いや…。)

そして隣を歩く太一の頼もしさをありがたく思った。

太一に導かれるまま暫く山の中を進むと、やがて笛の音が聞こえてきた。

「もうすぐだ。」

その言葉の通り少し歩くといきなり森が開けて広場のようになった草原に出た。その真ん中には櫓が組まれ、太鼓が打ち鳴らされている。そこかしこには篝火が焚かれ、鉢巻きをしたり面を着けたりした子供達が輪になって踊っている。その周りには夜店の屋台も出て、子供達が群がっている。

「うわあ!」

修は思わず歓声を上げた。そして無意識に踊りの輪に加わろうとするところを太一に肩をつかまれて引き留められた。

「ちょっと待った。」

見ると太一はいつになく真剣な表情をしている。

「え?」

その表情の意外さに少し驚いて、修は素っ頓狂な声を上げた。

「悪い。ちょっと付き合ってくれ。」

太一は相変わらず真剣な表情を崩さない。

「いいけど…。何?」

少し修はたじろいだ。ここまで真剣な太一を見たことがない。

「うん…。会って欲しい人がいるんだ…。」

太一は言いにくそうに口にした。修は肯いた。

「いいよ。誰?」「風親父。」

「え?」

ぶっきらぼうに答えられた返事に聞き覚えがあって、修は思わず太一の顔を見直した。

「風親父、って確か昼間…、僕達、逃げ出したんじゃあなかったっけ?」

「うん、そうなんだけど…、さ。」

太一は少しもじもじしている。

「逃げているばかりじゃ埒があかない、からさ。」

ちらりと修を見る。

「雪ねえに知恵を借りた。」

修は妙に納得した自分を発見した。

「わかった。」

修がもう一度肯きながら答えると太一はやっと微笑みを浮かべた。

そうして夜店のとぎれた一角をめがけて修を導く。

「こっちだ。」

そしてちょっと不安げな修の気持ちを解すかのように手を繋いで、太一は足を運んだ。

見るとそこには離れた所から見ても充分に大きな、小山ほどもありそうな大男が、子供達を辺りに侍らせて座っていた。子供達はその男の大きさに怯えることもなく、まとわりついたり甘えたりしているのが見て取れる。それが風親父だと修にもすぐ判った。

 

 

(怖くないのかなあ…。)

修にはその体格だけで威圧感が感じられる。でも、周りの子供達には笑顔が溢れている。

太一の足取りにも躊躇はなかった。すたすたと風親父の前に進み出る。それに気付いて風親父が視線を向けてきた。

「やあ、太一。楽しんでいるか?」

気軽に声をかけてきた。

「いや、今来たとこ。こいつを紹介しようと思って連れてきた。」

修の手をひっばって前に出す。

「修、だ。この頃一緒に遊んでいるんだ。」

風親父は満面の笑みで迎えてくれた。それは優しさに満ち、慈愛に満ちていた。

「そうか。修、よく来たな。楽しんでいけ。」

風親父は修にそう声をかけると、楽しげに手にしていた杯からぐびりと飲んだ。太一はその様子を見て少し表情をゆるめると修に言った。

「修、もう良いよ。あっちで遊んで来いよ。」

「太一は?」

修が心配そうに尋ねる。

「おいらはまだ用事があるんだ。大丈夫だから遊んでな。後で合流するよ。」

太一は笑顔を向けた。修はやっと安心して肯くと風親父にぺこりとお辞儀をしてから踊りの輪の方へと駆けだした。太一はそんな修の後ろ姿を見送ると、改めて風親父に向き直った。風親父はただ黙ってその様子を見つめていたが、おもむろに口を開いた。

「そうか。連れて歩いていたのは修か。何故だ?太一。」

太一の表情が一瞬にして引き締まった。

「…。」

視線を落として何も言えなくなった太一を、風親父は手にした杯をあおりながら横目で見ていた。

「何故、修なんだ?」

再び問い直す。

「修は総代本家の人間だろう?それぐらいはわしにも判る。」

風親父は淡々としている。

「お前がそれを知らないはずもない。知っていて、そしてその上で修を連れ回しているんだろう。何故だ?」

太一は唇を噛んだ。

「そして、修は人間だ。本来なら付き合うどころか顔を合わすことすらたばかられる。」

太一は拳を握りしめている。

「…判っている…。」

それは絞り出すような悲痛な声だった。

「そんなことは…百も承知だ…。だけど…だけど見ただろう?修は、修はおいらなんだ!おいらの右半分なんだ!だから!」

太一は絶叫し絶句した。風親父はそんな太一をただ黙って痛ましそうな目で見ていた。

 

(楽しいなあ。)

踊りの輪に加わって一緒に踊りながら、修はその場の雰囲気を存分に楽しんでいた。

(太一達と会えて本当に良かった。楽しいことばかりだもの。)

修は幸福を噛みしめていた。病弱で友達の一人もいなかった修には考えられないほどの幸福だった。そしてこの幸福がこれから先も続いていくことを疑わない今の修だった。

 

 

楽しい時は過ぎてゆくのも早い。

踊りの輪に加わっていた修の肩を叩いた太一は多少慌てていた。

「修、もうそろそろ戻らないと。明日、起きられなくなる。そうすると総代のおばあにばれる。」

そう太一に告げられてふと空を仰ぎ見ると、月は西の空にあって夜半はとうにすぎてしまっていることが察せられた。

「もう帰らなくちゃ駄目?」

それでも修は少し駄々をこねた。

「駄目。」

太一は素っ気なかった。一言の元に否定する。

「また連れてきてやるから。今日は帰ろう。」

それからそれでは可哀想だと思ったのか、そう付け加えた。

「本当?」

修は上目遣いに太一を見た。

「ああ。」

太一はそんな修に笑いながら請け合った。

「んじゃあ、帰る。」

修は納得して肯いた。

 

「修、朝だよ。起きなさい。」

雨戸を開けにきたばあちゃまに起こされるまで、修はぐっすり眠っていた。やはり夜更かしがたたっているらしい。

「ばあちゃま、おはよう。」

眠い目をこすりこすりやっと起き出した修を見て、ばあちゃまは心配そうに言った。

「夕べはよく眠れなかったのかのう。ひどく眠そうだ。それともどこか体の具合が悪いのかの?」

「そんなことないよ。ただ眠いだけ。」

修は慌てて否定した。夜中に抜け出していることを知られてはまずいし、心配かける気は毛頭ない。

「なんともないなら良いんじゃが。」

ばあちゃまは気がかりそうな顔で言った。それからふと思い出したように付け加えた。

「そうだ。今日は村の総会があるんじゃった。午前中に終わるだろうから修は留守番を引き受けてくれないかの?」

「うん、いいよ。丁度、ドリルをやらなくちゃ、と思っていた所なんだ。」

修は笑顔で肯いた。

 

朝ご飯が済み、その後かたずけを終わらせてから、ばあちゃまはおもむろに出かけていった。修は宣言通り机に向かってドリルと格闘していた。ここしばらく太一達と遊び回っていたせいで、かなり予定より遅れてしまっている。このままでは両親をがっかりさせてしまう。修はそんなことは望んでいない。だからやるべきことは出来るだけやらねば、と考えている。午前中の涼しいうちに一生懸命やればかなり遅れを取り戻せるだろう。そうして一心不乱に取り組んでいたためか、気が付くと昼近くになっており、ばあちゃまが帰宅した。

「お帰り、ばあちゃま。」

修は嬉しそうにばあちゃまを出迎えた。

「ただいま、修。何もなかったかいの?」

そんな修にばあちゃまは笑顔を返した。ばあちゃまはいつも修の心配をしてくれる。

「僕は大丈夫だったよ。ばあちゃまは疲れた?」

疲労の色を滲ませたばあちゃまの表情に、修は労いの声をかけた。

「いや、なあに。大丈夫じゃよ。総会が荒れての。」

ばあちゃまは深いため息をついた。

「何かあったの?」

修が心配そうに尋ねるのに、ばあちゃまは首を振った。

「修は何も心配することはないんじゃよ。」

「でも、村のことでしょ?僕も知りたいよ。」

大人びた修の言い分に多少びっくりしてばあちゃまは話す気になってくれた。

「実はの、村に高速道路が通るという話が持ち上がっておるのじゃよ。誘致賛成派と反対派とでごちゃごちゃ始まっての。まだ決まった訳でもないのにルートの地権がどうのとかまで言い出す始末。いやさ、呆れるやら何やら。」

「そうなんだ。高速道路が通ると、山や森はどうなっちゃうの?」

真剣に修は尋ねる。

「今のままではいられなくなろうの。」

ばあちゃまは寂しそうに答えた。

「村のためには誘致をして開発の波に乗るのが悪いとは言い切れぬところがあっての。かといって、この自然豊かな土地を壊してしまって良いものか、とも思うしの。」

自分でも答えが見つからない、と言いたげにばあちゃまは額に手を当てた。

「修には難しすぎる問題じゃの。わしもよう考えんとの。修の父さんとも相談せねば。」

ばあちゃまは修に苦い笑いを見せて腰を上げた。

「お腹が空いたろう?昼ご飯の支度をせねばの。」

 

 

その日も修は遊びに出かけた。太一達と虫取りをする約束をしたのだ。このところ毎日のように元気に外で遊ぶ修を、ばあちゃまは目を細めてみていた。ここしばらく発作も起こしていないし、陽に焼けて本当に元気になった。良い友達にも恵まれたようだし、ばあちゃまはいたって満足していた。

午後になってから修の母親が訪ねてくると連絡があり、ばあちゃまは夕方になる前に修を迎えに行こうと思い立った。しばらくぶりの親子対面だ。一刻も早く修を母親に会わせてやりたい。

「虫取りに行く、と言っていたから、山の方かの。」

あたりを付けて探してみる。しかし、ばあちゃまの勘は大当たりだった。山道を少し歩いて行くと、森の木々の間から聞き覚えのある声がする。どうやら大きな声で歌を歌っている。こちらに向かっているらしい気配に、ばあちゃまはその場で待つことにした。やがて木の間にちらりと修の姿が見えた。ばあちゃまは声をかけた。

「修!修!迎えに来たよ。」

その声に応える修の声。

「ばあちゃま?!うん、今行く。」

やがてがさごそと下生えをかき分けて修がこちらに降りてきた。そしてぴょんと道に飛び降りる。それから後ろを振り返ると大きく手を振り呼びかけた。

「じゃあ、僕、帰るね。また明日、遊ぼう!」

そしてばあちゃまのもとに駆け寄る。ばあちゃまはそんな修の行動を不思議に思った。ばあちゃまには修以外の人影は見えなかったからだ。

「お待たせ、ばあちゃま。何か用があったの?迎えに来てくれるなんて、僕、吃驚したよ。」

しかし、上機嫌でまくし立てる修に、ばあちゃまはそんな思いを横に置いて、にこにこと報告した。

「修の母さんが来ると連絡があっての。一刻も早く会いたかろうて、迎えに来たんじゃ。」

「そうなの?!母さんが来るの?!」

修は嬉しさの余り上気した頬でばあちゃまに重ねて問いかけた。

「そうじゃよ。さあ、早よう帰ろう。そろそろ着きなさる頃じゃて。」

ばあちゃまの答えを聞くなり修は見るからにそわそわしだした。

「うん。早く帰ろう。」

そうしてばあちゃまを急かすようにして修は一人駆け出しかねない勢いで家路についた。

 

その夜、久しぶりに母さんに甘えられて、修は大満足だった。話も弾んだ。修は太一達の話を事細かに母さんに報告した。太一達のことを母さんにも知っていてもらいたかった。ばあちゃまはそんな修を微笑ましく見ていたが、さっき抱いた疑問に引っかかりを覚えていた。

次の日には修の母さんは町に帰り、修はまたばあちゃまとの生活に戻らざるを得なかった。もう少し、せめてこの夏休みの間だけでもばあちゃまのもとで元気な体を作るのが、修の父さんと母さんの願いだった。そしてばあちゃまの悲願でもあった。

幸い、良い友達を得て修は、元気に外遊びをするようになった。この傾向が長く続けば、秋には町に戻れるやも知れない。修の母さんとばあちゃまはそんな期待を抱いた。

 

次の日、出かけようとした修をばあちゃまは呼び止めた。

「修、迎えに行った時、誰かと一緒だったかの?」

わだかまっていた疑問を口にする。

「うん。太一と一郎と一真と一緒だったよ。どうして?」

何でそんなことを聞くのかと不思議そうに首を傾げる。

「いや、なあに。ばあちゃまにはおまえが一人で歩いて来たようにしか見えなかったのでの。確か、友達と一緒だと聞いていた殻の、不審に思ったのじゃよ。」

ばあちゃまが説明すると、修はきょとんとして次の瞬間吹き出した。

「やだなあ、ばあちゃま。目が悪くなったんじゃないの?みんな、僕の後ろを一緒に歩いていたよ。」

「そうかの。ばあちゃまも年じゃから、見間違えたかの。」

ばあちゃまが微笑みながら答える。

「きっとそうだよ。老眼なのかも知れないね!」

可笑しそうに修は応じて、もうせかせかと出かける準備をしている。

「目と耳は達者なのが自慢じゃったのだがのう。」

その背中を見ながらそれでもばあちゃまは少しばかり食い下がった。

「今日はどこまで行くんじゃ?」

「ん?たぶんまた山の方だと思うよ。太一は行動半径が広いし、この辺の地理に詳しいんだ。だから、僕も行ってみるまで何処に連れて行かれるか判らないことがあるんだよ。」

にこにこと修は答えると、靴の爪先をとんとんして元気に玄関を飛び出していく。

「じゃあ、行ってきます!」

ばあちゃまは微妙な感情の混じった眼差しでそんな修を見送った。

 

 

胸にわだかまるものを抱えたまま、ばあちゃまは家の仕事をこなしていく。長年の習慣で、頭が別のことを考えていても体はてきぱきと仕事をこなしていく。掃き掃除、拭き掃除。食事の後かたづけ。

ふと気が付くと、細かい雨が降ってきていた。慌てて洗濯物を軒下に移し、空を見上げる。

「通り雨じゃなさそうじゃの。」

ため息を付く。これから本降りになりそうな雲行きだ。

「ばあちゃま!」

いきなりそこに修が裏山から飛び出してきた。

「修、お帰り。濡れなんだかの?」

ばあちゃまがタオルを差しだそうとすると修は、首を振って縁側のばあちゃまに訴えた。

「家の近くにいたから、雨がひどくなる前に帰ってきたんだ。太一がもっとひどい降りになるって言うから。ねえ、太一に傘を貸してもいいよね?」

「ああ。それは構わないがの。」

応じながらばあちゃまは裏山からの道を見渡す。そこにはやはり誰の姿もない。修は縁側から玄関に急いで傘を取りに走った。眉をひそめてじっと裏山からの道を凝視するばあちゃまの傍らをすり抜けて修は、傘を持って山道の入り口の木立に急ぐ。

「太一、傘、使って。」

傘を広げて木の一番下の枝にひっかけると駆け戻ってきた。

「じゃあね。また明日!」

縁側に上って傘の方を振り返るとそう怒鳴って手を振った。ばあちゃまはその様子を真剣に眺めている。修はにこにことそのまま座敷に向かう。いつもの、友達との軽い別れの挨拶。また明日遊ぼう、との約束。単にそれだけの意味しかない普通の会話。だが、ばあちゃまには異常にしか見えなかった。相手がいない。

頭から血の引いていく思いを味わいながら、ばあちゃまは修の後に続いて座敷に戻っていった。もう一度、きちんと確かめなくては。

 

鼻歌を歌いながら本を開きだした修に、ばあちゃまはさりげなさを装って声をかけた。

「修、今日は誰と遊んでいたのかの?」

「うん?いつものみんなだよ。太一と一郎と一真と雪ねえとさき。」

もう半分読んでいる本に気を取られながら、修は答える。

「楽しかったかの?」

慎重にばあちゃまは質問を重ねる。

「うん。」

読みかけの本の世界に没頭し始めて、修の返事はかなりおろそかだ。

「それで、さっきは誰と一緒に戻ってきたと言ったかの?」

「ん?太一だよ。一緒にいたのは。」

本当に修の返事はのんびりしている。

「いや、雨に濡れなんだかと思うての。風邪をひかぬと良いが。」

「傘を貸したから大丈夫だと思うよ。」

ばあちゃまの話に投げやりな返事を返し、修は完全に本の世界に没頭してしまった。ばあちゃまはそれ以上の追求を諦め、縁側へと向かった。はたしてさっき修の差し掛けた傘はどうしただろう。そこにそれがそのままあれば、修は頭の中でこさえた空想の友達と一人遊びをしていることになる。それは哀しい病気の一種で大変な問題だが、それ以上に問題なのは…。

おそるおそる、といった気分でばあちゃまは縁側から裏山への道を仰ぎ見た。傘はなかった。

ばあちゃまの頭から血の気が引いていく。パズルのピースがはまっていくように、ばあちゃまの頭にはある推理が組み立てられていった。

ばあちゃまはお寺の書庫を借り切った。