太一の言っていた通りだった。二人が山の上に着いた時にはすっかり雨は止んで、雲の切れ間から青空が覗いていた。雲の端っこが茜色に染まり始めている。

「うわあ。」

地平線がぐるりと見渡せる。三百六十度の大パノラマだ。

「どうだ?いい眺めだろう?」

隣で太一が満足そうに言う。

「うん!」

そんな会話を交わす間にも太陽は刻一刻地平線に沈んでいき、空や雲もオレンジ色から茜色紅色、そして紅蓮の炎の色に染まり、やがて静かに闇に落ちていく。

「…綺麗…。」

修はやっと口が利けた気分で呟いた。なんだか口に出すことさえ畏れ多いような、そんな厳かな雰囲気があった。

「…夕焼けが…、こんなに綺麗だなんて…。」

「…そうか…。」

見入ってしまっている修に、この時ばかりは太一も混ぜっ返したりはしない。静かな声で邪魔にならないように返事をした。そしてすっかり日が地平線へと沈み、一番星が輝き始め、夕焼けの名残が全て消え去ってしまうまで二人はそこにそうしていた。

 

「修。そろそろ帰らなくちゃ。」

まだ、ぼうっと西の空を見つめている修に、気の毒そうに太一が声をかけた。

「え?あ、うん。」

やっと我に返って修が太一を振り返る。

「あれ?もう真っ暗だ。」

意外そうに言う修に太一は呆れたように笑った。

「ほら、もう星が出ているよ。あんまり遅くなると、総代のおばあが心配する。急いで帰るぞ。」

「うん。」

修は素直に返事をして太一の後に続く。

「修、この分だと明日は晴れるぞ。きっと思いっきり遊べる。」

急ぎ足で歩きながら太一が言う。

「遊んでくれるの?」

修が期待を込めて尋ね返した。

「ああ。迎えに行くよ。」

太一が背中で返事をした。

 

 

明くる日は久方ぶりに良い天気で、ばあちゃまはいそいそと外出の支度をしていた。

「ばあちゃま、どこかに行くの?」

朝食を終え、いつものようにドリルを広げながら修が尋ねた。

「ああ、お墓にいくのさね。」

ばあちゃまが手も止めずに答える。

「お墓?なんで?」

「お盆を迎える前に一度、草取りに行かないとすごいことになるんじゃよ。」

不思議そうな顔をしている修にばあちゃまが説明する。

「この時期は草の勢いも強いからの。お彼岸からこっち、お参りに行っていないから、お参りがてら草取りと掃除をしてこようと思っての。」

「ふーん。」

いかにも興味なさそうな返事をした修にばあちゃまは少しがっかりしたようだ。しかし気を取り直して誘いかけた。

「修も一緒に行かんか?そうしてくれると助かるんじゃが…。」

「え?」

意外な言葉を聞いた、という感じで修はドリルから顔を上げた。ばあちゃまと一緒にお墓にいったとて、修が何かの役に立つとは思えなかった。それでもばあちゃまの顔を見ると、ばあちゃまが修に一緒に来て欲しい、と真剣に思っているのが分かった。

「行ってもいいよ。でも僕、邪魔にならない?」

おずおずと言った修にばあちゃまは満面の笑顔で肯いた。

「ああ、大歓迎じゃよ。じゃあ、修も支度せにゃあ。」

「うん。」

修は返事をするとドリルを閉じて帽子を探しに部屋に戻った。

 

墓地は驚くほど草が生い茂っていた。

「すごい、草ぼうぼうだね。」

思わず修がそう口にしたほどだった。

「そうじゃろ?だから草取りに来にゃあならんのじゃよ。」

ばあちゃまが苦笑しながら言った。早速、鎌を手にしてそのあたりの草を片っ端から刈り始める。

「修も、ゆっくりで良いから、そのあたりの草を抜いておくれ。」

ばあちゃまが忙しそうに声をかける。

「うん。」

修も軽く請け合って手近の草に手をかける。

 

雨上がりの良いお天気で、気温も上がってきている。蒸し暑い。

「帽子、被ってきて良かったな…。」

ばあちゃまに言われた通り、しゃがみ込んでゆっくりと草を引き抜きながら修は独り言を言った。こんなに良い天気になるとはばあちゃまだって思っていなかっただろう。

「…暑いなあ。」

修はぶつぶつ言った。なんでばあちゃまに付いてくる気になったものか。自分の気まぐれを後悔する。多分、一人で家に残って勉強するということに耐えられなかったからだ。だが修は、それを認めたくはない。男の子はそんな、寂しいだの、一人が怖いだの、思ってはいけないのだ。だから認められない。男の意地だ。修はふるふると頭を振って目の前の太い草を掴んだ。もう後ろを振り返るのはやめだ。目の前の仕事に専念しよう、と思った。そしてそんな思いに神様がご褒美をくれたものか、手を動かしているうちに修は、この草取りという仕事が楽しくなってきた。大きいのや小さいの、太いのや細いの。きれいな花を咲かせているものや変わった実を付けているもの。そこには多種多彩な雑草が群生していた。修はその一本一本を興味深く観察した。都会育ちの修がそんなに草花をじっくり見たのは初めてだった。

「修、あかざやはこべはこっちのかごに集めて入れておくれ。」

ばあちゃまが大きな声で注意した。

「あかざとはこべ?どれのこと?」

修はばあちゃまに聞き返す。

「こっちにおいで。この草がそうじゃよ。」

「ふうん。でも、どうして?」

「食べるんじゃよ。」

「え?食べるの?」

修は驚いた。

「そうじゃよ。おひたしや天麩羅、和え物にすると美味しいんじゃよ。」

「へーえ。」

修は手にしたはこべをじっと見つめた。こんな草が食べられる物だとは考えたこともなかった。都会にいると道端に生えている草になど関心がむかないのだ。

「修、良い物があったよ。ちょっとおいで。」

ばあちゃまが手招きしている。

「なあに?」

修が近づいていくとばあちゃまはにこにこして言った。

「あーんしてごらん。」

修は言われた通り口を開けた。そこにばあちゃまが赤い実を放り込む。

「甘い…。」

「美味いじゃろ?ばらいちごじゃ。」

見ると、とげとげの枝に小さい赤い実が房になって付いている。

「とは言っても、修のよく知っている薔薇の実ではないがの。」

ばあちゃまは皺の間に目が埋まってしまいそうに笑う。修と一緒にいろいろなことをし、知っているいろいろなことを教えたりすることが、ばあちゃまには楽しくて仕様がない。田舎での一人暮らしを寂しいと思ったことなどないが、やはり心の奥底では人の温もりを求めていたのだろう。

(ひとりでないとは良いことじゃ。)

ばあちゃまは感じていた。そしてこの曾孫を手元に導いてくれた運命に、少なからず感謝した。

 

たかが草取りに奇妙な楽しみを見つけて、修は少し驚いていた。面倒くさい作業だと思い込んでいた以前の自分が、なんだかすごく損をしていたように感じる。

ばあちゃまに教わりながら食べられる草を集め、花の名前を教わり、ちなんだ小さいお伽話を聞いた。ばあちゃまは本当に物知りだ。

「ばあちゃまはすごいな。」

修が感心して言うとばあちゃまは嬉しそうに笑って言った。

「なあに、だてに年は取っておらぬだけさね。昔からよく言う、亀の甲より年の功、ってことよ。」

「へえ。」

その言葉に修はまた感心した。そして諺をもう一つ覚えた。

 

さすがに昼が近づくにつれ、日差しはますます強くなり、暑さも否応増してくるようだった。ばあちゃまとしては、昼までに作業を終えて帰るつもりであった。酷い暑さは修の体に障る。もうそろそろ潮時かと考え始めていた。その時。

「…ばあちゃま。」

修のばあちゃまを呼ぶ声がした。ばあちゃまが気づいてその姿を探すが見あたらない。

「修。どこかいの?」

声が聞こえたのだから、そう遠くに行っている筈はない。ばあちゃまは深い茂みの方へ行ってみた。案の定、修はそこにしゃがみ込んでいた。

「修、大丈夫かいの?」

ばあちゃまの声にふり仰いだ修の顔は真っ青だった。

「うん…。ちょっと気持ち悪い…かな?」

それでも少しはやせ我慢して見せようとする。

「そっちの日陰で少し横になりなさい。」

ばあちゃまが促すのに修は頷きながらも気遣わしげに茂みの奥を指さした。

「うん…。あのね、ばあちゃま、あそこ…。」

修の体調を心配しながらもばあちゃまは修の指し示した方に目を向けた。そこには石の固まりがあった。

「?あれかの?」

修に尋ね返すと頷く。ばあちゃまはその石に近づいていった。傍まで行くとそれはただの石の固まりではないことが判った。古い古いお地蔵様だった。あまりにも古くて全体的に苔むし、そのお顔立ちすら最早良く判らない。ばあちゃまは手を合わせて拝んで敬意を表し、次にその背後に回った。

「…ほう。こりゃあまた随分と古い…。」

お地蔵様の背中にはその由来が彫り込まれていた。それはかなり判別が難しかったが、ばあちゃまにはかろうじて読みとれた。

「これは…、天明の飢饉の頃じゃのう。間引きされたり事故で死んだりした子供達を供養するためのお地蔵様じゃ。修、よう見つけてあげんなさったの。」

こんな草深い茂みの中で、どれほど長い時間、誰にも敬われることもなく、供養されることもなく放っておかれていたのだろう。

(お気の毒に…。)

ばあちゃまはお地蔵様とその供養される子供達を可哀想に思った。

「ばあちゃま…、間引き、って何?」

そこへ修が座り込んだまま尋ねてきた。ばあちゃまは自分の思いから引き戻された。

「…間引き、とはの…、食べる物がなくて、産まれてきた赤ん坊を育てられないから、そのまま天に返したのじゃよ…。」

ばあちゃまは酷く言いにくそうだった。

「天に返した…?何、それ…?」

修が訳も分からず問い返す。

「…。」

ばあちゃまはしかし、敢えてそれ以上説明しようとはせず、黙って辛そうに修の顔を見つめていた。その表情に修はふと思い当たった。

「…天に返した、って…、それ、ひょっとして、殺した、ってこと…?」

修が否定して欲しい、という思いを込めてやっと口にした言葉に、ばあちゃまは俯いて修から視線を外してしまう。それは明らかに肯定だと受け取れた。

「…お母さんが、生んだばかりの赤ちゃんを…、殺した、って…こと?」

驚愕と信じられない思いに修の目はまん丸く見開かれていた。ばあちゃまはそんな修の顔をまともには見られないでいる。

「そんなの…、あんまりだ。自分の子供を殺すなんて…。」

「修。仕方なかったのじゃよ。」

ショックを受けて泣き出しそうな修に、ばあちやまはため息をついて首を振った。

「何処の世界に自分の子を殺したい親がおる?この時代は何年も不作が続いて、大人達は既に産まれている子供達に食べさせるのに必死だったんじゃ。自分は食べなくとも子供達には少しでも何かを食べさせたい、そう思って本当に必死に働いたんじゃ。それでも飢えて死ぬ子はおったのじゃよ。その上にまた赤ん坊が増えたらどうなる?一家全員が共倒れになってしまう。だから、親は親の責任で、既に産まれて生きている子供達だけでも生かすために、泣く泣く赤子を手にかけたんじゃ。それは悲しい、可哀想なことじゃが、その時は他にどうしようもなかったのじゃよ。だからこうしてこのお地蔵様がいらっしゃるのじゃ。親達の気持ちが込められておる。すまなさと嘆きと悲しみと…。」

修はぽろぽろと涙を流している。ばあちゃまの言葉は理解できる。だが気持ちは別物だ。甘えん坊でお母さんっ子の修にはどうしても納得できない。

「それでも…酷いよ…。可哀想だよ…。」

ばあちゃまにもそんな修の気持ちは良く分かっている。修の頭を撫でてやりながら慰めるように言った。

「そうじゃの。だから修がこのお地蔵様を見つけたのはとても良いことなのじゃよ。ずっと供養もしてもらえなかった可哀想な子供達をこうして供養してやることが出来るのじゃからの。」

ばあちゃまは手早く辺りの草を刈り、掃除をし始める。

「このお地蔵様を修が見つけたのも何かの縁七日も知れんよ。修も拝んであげなされ。可哀想な子供達の冥福を祈ってあげなされ。」

修はその言葉にこくりと頷くと涙を拭ってお地蔵様に手を合わせた。

 

 

結局、ばあちゃまはお地蔵様の周りの草を全部刈り取り、掃除をし、出来る限りお地蔵様本体の苔なども取り除いた。修は少し離れた木陰でそれを見つめていた。気分は最悪になりつつあったが、まだ仕事の途中であるばあちゃまの邪魔をしたくなかったので、修はかなり無理をしていた。

「修、もうちょっと我慢できるかの?」

ばあちゃまが心配そうに声をかけてきた。

「掃除はあらかた終わったが、きれいなお水ぐらいお供えして差し上げたいんじゃ。ちょっとお寺さんまで汲みに行って来るから…。」

「…うん。僕なら大丈夫だよ…。」

修はやせ我慢した。可哀想な子供達のためのお地蔵様なのだ。大切に扱えばそれはその子供達の供養ともなる。

「それじゃあ、行ってくるよ。」

ばあちゃまは小走りに駆けていく。修はその後ろ姿をぼんやりと見送った。

 

暑い。頭がぼうっとする。修はいつの間にか喘ぐように呼吸していた。発作を起こしかけている。こちらに来てから初めてのことだ。空気の良い田舎暮らしは、修の体には良い効果をもたらしていた。

(薬…、持ってくるの、忘れた…。)

修は自分の迂闊さに呆れた。家にいる時は手放したことすらなかった薬。それをしっかり忘れて来ていた。余りに体調がよいのでその存在すら頭の中から消えていた。

(…お地蔵様、助けて…。)

咳が激しくなっている。苦しさは増してくる一方だ。修は我知らずお地蔵様に助けを求めていた。咳込んで咳込んで、息をする度喉がヒューヒュー鳴っている。まるで冬の北風のようだ。

(…吸引機…。)

あまりの苦しさに無意識に手を伸ばして薬の吸引機を求めた。そこにあるはずもないのに。求める手は何も掴まぬまま空を掻いた。意識が遠ざかっていくのが分かる。

(…助けて…。)

最後にお地蔵様のお顔が哀れんでくれているように見えた。

 

 

シュウ…。気がつくと口にお馴染みの感触があった。薬の吸引機だ。やがて薬が効いてきて、だんだん修の意識もはっきりしてきた。ゆっくりと目を開くと、心配そうに覗き込んでいる太一の顔があった。

「…太一…?」

修が呟くと、太一はほっとした様子でにこっと笑った。

「気が付いたか?良かった、薬が間に合って。」

「太一、どうして…?」

修は太一が修の病気のことや薬のことを知っていて、この場に持ってきてくれたのを悟って不思議に思った。

「ん?ああ。お地蔵様が教えてくれたんだよ。修が大変だ、って。そんなことを気にしてないで、もう少し休んでな。」

「…うん。」

まだ苦しかったので修は、言われた通り大人しく目を閉じた。

 

「修、修。」

呼ばれて再び目を開けると、ばあちゃまが心配そうな顔で修を見ていた。

「…ばあちゃま…。」

「発作を起こしたのかの?でも、良く薬の準備を忘れなかったの。」

ばあちゃまが修の頬を撫でながらほっとした様子で言った。

「その用心のおかげで、今回は大事にいたらんで済んだの。よかった。」

「…ばあちゃま…、…ちが…。」

すっかり誤解しているばあちゃまに、修は太一が薬を持ってきてくれて、それで助かったのだと説明しようとした。しかし、まだ発作の余波でうまく声も出せず、結局何も話せずに、大事を取ろうとするばあちゃまに再び横にさせられてしまった。

しばらくぶりの発作は、思ったよりずっと修の体力を奪ってしまっていたらしく、修は目を閉じるととろとろと眠りに落ち、次に気がついた時には修は、ばあちゃまがお願いした副住職の背中に負ぶわれていた。

「このまま家まで運んでもらうから、修は眠ってなさい。」

目を開けた修に気遣うばあちゃまが言った。

「うん。」

瞼の重い修はそのまま目を閉じた。副住職の背中は暖かく、修の身体を気遣ってゆっくりと歩む歩調は気持ちの良い振動を伝えてくる。修は幼い頃に父親に負ぶさって眠った時のように安心しきって眠りに落ちた。

 

 

その日は大事を取って、ばあちゃまは修が布団から起き出すことを許さなかった。

確かに、ばあちゃまの家に来てからの修はとても元気で、発作を起こすこともなく、ばあちゃまは安心して様子を見ていられたのだ。それがいきなり調子を崩した。

「悪かったの。この暑いのに無理をさせてしもうた。」

ばあちゃまは後悔しきりで、心配そうに修の枕元につききりになっている。

「大丈夫だよ、ばあちゃま。このくらいの発作は大したことないんだ。よくあるんだよ。もう、起きあがったって平気なんだよ。」

かえってばあちゃまを慰めるように、修は弁解した。余りに心配するばあちゃまが可哀想になってしまう。

「本当に平気なんだよ。」

とは言え、修は言いつけ通り、ちゃんと朝まで布団で過ごした。

 

朝になり、しっかり朝御飯を平らげ、元気な様子をアピールすると、やっと安心したばあちゃまは、修に布団から出ることを許してくれた。しかし、さすがに今日一日は家の中で過ごすよう、念を押すことを忘れなかった。仕方なしに修は、お気に入りの本を持って、風通しの良い奥座敷に移動した。

 

良いお天気だ。どうやら梅雨も明けたらしい。本格的に夏がやって来る。

日が燦々と降り注ぐ中庭を恨めしく眺めやって、修はひとつため息をついた。自分の体が弱いことを、ここしばらく忘れていた。太一達と遊んでいても、不思議なことに一度も発作を起こさずに済んでいたからなおさらだ。余りに楽しく、余りに一生懸命遊んでいたから、修は自分が病気持ちの身であることを、頭の中から消してしまっていた。まあ、誰もがそんなことは忘れていたいと思うだろうから仕方ない。

そうやって本を開きながらも一文字も読むことなく、修は物思いに耽っていた。都会の家の自分の部屋で、一人で寝かされていた時が思い起こされてしまう。空気清浄機だけが小さな音を立てる殺風景な部屋で、修はただぼんやりと時をやり過ごすしか出来なかった。通学路に面した窓からは、登下校時の子供達の賑やかな声が漏れ聞こえてきた。ろくに学校に行けていない修には、友達もいなかったが、楽しそうに笑い合う声は、羨ましさと嫉妬を抱かせた。

ふるふると修は頭を振った。悲しく寂しい思いに支配されてしまう。いくら体調が悪いからといって、そんなものに取り込まれてはいけない。それに今の修には沢山の友達がいる。明日になればきっと、また一緒に楽しく遊べるのだ。

「太一に会いたいなあ…。」

そんなことを思っていたら、ふと思いがそのまま口に出た。

「呼んだか?修。」

修はがばっと飛び起きた。自分がそれを口に出していた自覚もなかったが、同時に間近で返事が聞こえてきたことに驚愕した。

 

 

「また、べそかいていたのか?」

ちょっとからかいの笑いを含んだ声が天井から降ってきた。修はぐるりと上を見渡した。予想した通り、天井裏から逆さまに身を乗り出して太一が笑っている。

「太一!」

嬉しくて修の声が弾む。

「よいしょ、っと。」

かけ声をかけて太一が飛び降りる。

「ん。元気そうだな。昨日はずいぶんと辛そうだったけど。」

つい、と修の額に手を伸ばして触れてみながら太一が言った。ひんやりとした手のひらが心地よい。

「うん。もう大丈夫なんだ。発作は慣れているし。」

修は太一に心配されたくなくて言い訳した。

「慣れてる?」

しかしその言い訳は墓穴を掘った。修の言葉尻を太一は捉えた。

「おい、そんなにしょっちゅう、あんな発作を起こしているのかよ?!」

太一が修の肩を掴んで詰め寄る。

「あんな酷い発作を?!おいらはお前が死んじまうかと本気で思ったんだぞ!」

しまった、と修は内心舌打ちした。太一は本気で修の心配をしてくれている。だからこそその心配が、そうやって太一を怒らせる。修には良く分かっている。父さんや母さん、そしてばあちゃまが、やはりそんな風に無茶をする修を叱る。

「…ごめん。」

修は素直に謝った。そんな風に心配させざるを得ない自分の弱い体が恨めしかった。

そんな悲しげな様子で下を向いた修に、太一は慌てた。決して修を責めたい訳ではなかった。

「ち、違う!」

ぶんぶんと首を振る。

「おいらは怒っているんじゃない!おいらは、ただ…。」

目を逸らした太一に修は今度は笑顔を見せた。

「うん。分かってる。ありがとう。」

すると太一はほっと安心した表情になって次の瞬間、無理矢理真面目な顔を取り繕った。

「もう大丈夫なんだな?」

改めて念を押す。

「うん。」

修が笑顔で頷くと、太一はやっと心からの笑顔で笑った。

 

 

ばあちゃまの言いつけを守って、修はそのまま太一と離れで遊ぶことにした。修の昨日の様子を知っている太一は、仕方なしに同意した。

「ゲームでもする?」

修が訊いた。

「ゲーム、って、おい…。都会の子はすぐそれだ。」

太一が鼻で笑った。

「他にもいっぱい楽しいことがあるんだぜ。」

「え?何?」

修はその話に飛びついた。

「家の中でする遊びは、ほんとは女の子の方が得意なんだ。だけど、おいらだって良く知っているよ。」

「ふーん。」

わくわくしながら太一の顔を真剣な目で見つめる修に、太一は得意げに説明し始める。

「ほい、これ。」

ポケットから取り出したのは色とりどり、大きさも様々なガラス玉。

「これはビー玉。」

そしてもう片方のポケットからはやはりガラスで出来た小さな丸い平たい欠片達。

「こっちはお弾き。」

「きれい。」

修はビー玉を手に取って透かして見た。きらきらと中で光が踊っている。

「あとは…。」

ごそごそとポケットの底を探る太一。

「あった、あった。」

見ると赤い毛糸。

「何?これ?」

修が不思議そうに尋ねる。

「あやとり、さ。」

 

「へーえ。」

並べられた物を修は興味津々で見比べた。太一はそんな修を呆れて見ている。

「ほんとに、何にも知らないんだなあ。他にも色んな遊びがあるけど、今日はこれでいいな。」

「うん。」

修はうきうきと肯いた。何が始まるのだろう。太一と付き合っているといつもこうだ。修の知らない世界をいとも簡単に見せてくれる。

「ビー玉からやるぞ。ほんとは地面に円を書いて…。あ、この畳でいいか。」

太一がルールの説明を始める。

「この枠の外に出たのを自分の物に出来るんだよ。」

ざっと説明して修に一個、自分でも一個取ると、残りを畳の上に広げた。そして枠の外から軽く構えるとひょいと投げ込む。

かちん。堅い音を立ててビー玉同士がぶつかり散らばる。その中の幾つかが枠の外に転がり出た。

「よーし。これがおいらの取り分。ほら、次はお前だ。やってみろよ。」

枠の外に出たビー玉を拾い上げて、太一が促す。

「うん。」

先ほど手渡されたビー玉を修は見よう見まねで構えて投げ込む。

「うまい!」

かちん。狙い違わずビー玉は見事に他のビー玉を弾き出した。

「初めてにしちゃあうまいよ。でも、残りが少なくなると難しいんだ。」

「うん。」

修は枠の外に出て自分の分になったビー玉を握りしめて肯いた。なんだか面白い。

「よーし。おいらはあのでかいのを狙うぞ。」

太一が本気を出し始めた。

 

 

結局、太一はそうやって夕方近くまで一緒に遊んでから、またひらりと天井裏から帰って行った。おかげで修は寂しい一日を過ごさずにすんだ。

そして次の日には修の元気な顔を見たばあちゃまが、外で遊ぶ許可を出してくれた。しかし、くれぐれも無理はしない、という約束のもとに、であった。

 

さっさと日課のドリルを終えると、修は午前中の清々しい空気のもとに飛び出した。

深呼吸を一つしてみる。大丈夫。新鮮な空気は素直に肺を出入りしている。全然苦しくなんかない。

思わず笑みが浮かんできた。元気なことが嬉しい。ばあちゃまの家に来るまでは、じっと家にいても何ともなかった。外に出られなくても何ともなかった。友達がいなくとも何ともなかった。でも今は…。

(太一、どこかな?)

太一は裏山のこの辺りで大声で呼べばいつでも現れてみせる、って大見得を切っていた。それを大袈裟だな、と話半分には聞いていた修だったが、完全に否定する気になれないのは、太一の普段の思いがけない登場の仕方故であったろうか。

修は大きく息を吸うと口の周りに手を当てて力の限り叫んだ。

「たーいーちー!」

その声は山々に木霊して、やがて緑に吸い込まれていく。

(やっぱり、無理だよね…。)

しんと静まった森の木々を見上げて、修は独り言を呟いた。そして自分の言葉に苦笑した。期待していた訳じゃあないのに。それでも太一なら、と心のどこかで思っていたらしい。

「…太一…。」

不思議なほど寂しくなって修は再び声に出して太一の名を呼んだ。心細くてどうしたらいいのか分からない。

そんな修の心のざわめきを映したものか、静まりかえっていた木々がざわざわと騒ぎ出した。

(風…?)

上空を強い風が吹き通った、と思った。途端。

「修、呼んだか?」

すぐ側の木の上の方から声が降ってきた。

「太一!」

上を見上げて太一の姿を探す。その修の目を何かが塞いだ。暖かい掌。

「太一、やめてよ。」

修はその手を掴んで振り返る。予想していた通り、悪戯っぽく笑う太一の顔がそこにある。

「バカ。ちゃんと来ただろう?そんな泣きそうな顔をするな。」

太一が修の頬を軽くつねる。どうやら修の不安はまたもや顔に表れていたらしい。

「ん。」

ほっとして修は頷く。太一さえいれば大丈夫。全てうまく行く。そんな思いが修を満たしている。太一の笑顔を見ていると、不思議にそう思えるのだった。

 

 

「さあて、今日は何して遊ぼうか。」

太一がにこにこ笑いながら修に問いかける。

「何して遊ぶ?」

逆に修がわくわくしながら問い返す。太一はにやっと笑った。

「そうだなあ。まず、一郎を誘って雪ねえのところに行くか?どうせなら大勢で遊ぼう。」

「うん!」

太一の提案に修は飛びついた。

「よっしゃ!じゃあ、また風の道を行こう。」

太一が修の手を掴んで走り出す。修もそれに遅れないように足を動かした。

 

近くの風の道にひょいと飛び乗ると、太一は修に手を差し伸べた。修には相変わらず風の道は見えていない。太一に引っ張り上げられて初めて、自分がその上にいることを認識できる。

「不思議だよねえ。」

思わず呟いた言葉を太一が聞きつけた。

「何が?」

「うん。風の道だよ。どうして僕一人だと見えなくて、太一や一郎と一緒だと見えて、上を走ったり出来るのかなあ?」

「まだそんなこと考えているんか。」

太一は呆れたように言った。

「世の中にはどうしようもなく不思議なことがわんさかあるものなんだよ。あんまり考えてばかりいると禿げるぞ。」

修の疑問を太一は簡単に切り捨てた。

「さあ、走るぞ。」

そして先に立って走り出す。

「あ、待って!」

修は慌てて後を追った。

 

いくらも走らないうちに、尖った山の頂が見えてきた。そう、以前もあそこの山の洞窟に、一郎を迎えに来たのだった。

太一は見覚えのある道筋を辿り、見覚えのある洞窟の前で足を止めた。そして目顔で修に合図する。二人で呼吸を合わせて洞窟に呼びかける。

「おーい!一郎!」

その声に返事を返すかのように一陣の突風が洞窟の中から吹き出してきた。

「よおっ。」

そして風の吹き過ぎた後には一郎が立っていた。

「修、お前、体はもう大丈夫なのか?」

どうやら太一から話を聞いていたらしい。開口一番修を気遣ってくれる。

「うん、もう平気。」

その気遣いが嬉しくて修は笑顔で頷いた。

「これから雪ねえのところに行こうと思って、さ。」太一が誘う。

「行く。」

一郎が即答した。

簡単に話はまとまり、今度は三人で風の道を走り始めた。