森の中は空気が少しひんやりとしていた。修は、ばあちゃまの家にやってきてからもうかなり経つのに、本当に家の周りしか知らない事にこの時初めて気が付いた。余り興味がわかなかったせいもあるが、体力の無さや持病の喘息の発作の恐怖もあった。都会育ちだから自然の中で遊ぶ術も知らなかった。それらが心の何処かで作用して、外に出る事さえ妨げていたのかも知れない。
「空気がおいしい…。」
ゆっくりと歩きながら修は深呼吸していた。都会の空気の事など意識した事はなかったが、それはかなり修のこの身体にとっては負担になっていたのかも知れない。森の中の清冽な空気は、修の身体に染み渡るようだった。
森の中は様々な命で満ちていた。木の香りが漂い、小鳥の声がする。木の間からは燦々と日の光が降り注いでいる。蝶が一匹ふわり、と飛んでいく。下生えのあちこちには小さな花が咲いている。ハコベ。オオイヌノフグリ。ヒメジョオン…。ふと、ナズナの花を摘んでペンペンと慣らしてみた。かつて母親が教えてくれたものだ。
「ほら、こうして種の入っている鞘を半分はがして茎にぶら下げるの。そしてくるくる回すとぺんぺんって音がするでしょ。だからこの草はペンペン草って言われているのよ。」
母親の顔が浮かんできて、恋しさが甦ってきた。涙がこみ上げてくる。
(ダメだ…!)
修はふるふると頭を振って涙を振り払った。
(こんなことで泣いていちゃダメなんだ。)
緑の天蓋を仰ぎ見て、ふうっと大きく息を吐いてまた歩き出す。どんなに帰りたくてもどんなに恋しくても、今の修の体調では都会では暮らせない。
(太一ぃ、会いたいよぉ。)
修は心の中で太一を呼んだ。
不意に森が切れて草原が姿を現した。風に気持ちよさそうに草がそよいでいる。
(うわあ。)
修は心の中で感嘆の声を上げた。ここを走り抜けたらさぞ気持ちがいい事だろう、と思わせる景色だった。
(ようし!)
その内心の誘いの声に修は従った。小さいかけ声をかけると勢いよく駆け出す。耳元で風が鳴る。心地よい爽快感が修を満たす。
(気持ちいい!)
苦しくなるまで走ってみたい。調子に乗ってそんな事を考えた時。
「あっ!」
足下の地面が消えた。バランスを崩して倒れ込んだのは想像もしていなかった水の中。草原と見たのは、岸に葦が生い茂った沼だったのだ。
(うわっ!)
必死でもがく。足が立たない。手足に水草が絡み付いてすぐそこに見えている水面に手が届かない。
(助けて!)
もがけばもがく程、身体は水中深く沈み込んでいく。水面が遠い。
(く、苦しい…。息が…。)
調子に乗って走った報いか、いつもよりなおさら息が続かない。ゴボッコボボボッ…。鈍い音を立てて修の肺から空気が抜けていく。代わりに冷たい水が口から入り込んでくる。
(チクショウ…。)
このままでは本当に死んでしまう。修は最後の力を振り絞って水面を目指そうと焦った。しかし焦れば焦るほど、手足は思うように動かない。水草のせいもあるのだろうが、まるで重石が付いているかのように自由にならない。とうとう足掻く力も尽きてきた。最後に手を弱々しく動かすと、修の身体からは完全に力が失せてしまった。同時に意識が薄れていく。
(…死に神…?)
意識が途絶える寸前に修は、真っ青な光に満ちた水中を滑るように近づいてくる人影を見たような気がした。黒い髪をたなびかせた黒い影。それは不吉な死に神を思わせた。
ぱちぱちと火が焚かれていた。
(暖かい…。)
朦朧とする意識で、修はうっすらと目を開いた。焚き火が焚かれ、その向こうに誰かが座っている。
「あっ!」
それが誰だか判って、修は飛び起きた。
「…気が付いたか?」
そんな修にむっつりと声をかけてきたのは。
「君、一真君…?」
雪絵の弟の一真。その第一印象はとても悪かったのを思い出す。
「ああ、そうだよ。お前、修、だっけ?太一なら沼に落っこちるなんて間抜けな真似はしないとは思ったんだけど、さ。万が一、太一だったら可哀想だと思って引っ張り上げたんだ。まあ、でも助かって良かったな。」
一真は修の顔を見ずにぼそりと言った。修は一真に助けられたのだ。
「あ、ありがとう。」
修は取り敢えずお礼を言った。一真はそれには答えずに焚き火をつついて火勢を強くした。
「服は乾かしておいた。お前、まだ髪の毛が濡れているから、こっちに来て乾かせよ。そのままの格好で帰ったら、ばあさん、心配するぞ。」
「あ。」
一真の言葉に修は改めて気付いた。修は衣服を脱がされ乾いた布に包まれて寝かされ、服は広げて焚き火にかざされ乾かされている。
「ありがとう。」
一真の心遣いに面食らいながら、修はもう一度お礼を言った。言われた通りに生乾きの髪の毛を乾かすために焚き火に近づく。
「何で沼に落ちたりしたんだ?」
一真が小枝に何かを刺して焚き火にかざしながら修に尋ねた。
「…ん…。原っぱだと思って走ってたら、落っこっちゃった…。」
修の答えに一真は眼をぱちくりさせて修の顔を見た。
「…お前、なあ。見かけに依らず無鉄砲なんだな。」
呆れたように言う。
「普通、原っぱと沼とじゃあ、見分けがつくぞ。」
「…そうなの?僕、良く知らない…。」
修がきょとんと尋ね返す。その言葉に一真は修の顔をまじまじ見直した。
「…お前、都会の子か?」
「うん。この間からばあちゃまのとこに来ているんだ。」
修が答えるのに一真は納得したように肯いた。
「…そうか。なら、仕方ないな。でも、今度から気をつけろよ。誰かが通りかかるとは限らないぞ。」
「うん、わかった。ありがとう。」
修は素直に肯いた。一真はそんな修ににっこり笑って見せた。その笑顔を見て修は、自分の抱いていた一真のイメージが間違いだったのに気付いた。実際の一真はもっとずっと良いヤツだ。そう思ったら何故か頬がゆるんできた。無性に嬉しい。
「?何だ?」
そんな修の様子を訝しく思ったのか、一真が尋ねる。
「ううん、何でもないよ。」
修はにこにこしながら首を振る。
「助かって良かったな、と思っただけ。」
「…変なヤツだな。」
一真はまた笑った。雪絵に似たやわらかい笑顔。
「ま、いいけど…。それよりお腹空いてないか?」
「お腹…?」
修が自分のお腹に手を当てた時、そこはぐうっと大きな音を立てた。二人は顔を見合わせて笑い出した。
「すごいタイミングだな。まさかお腹で返事をするとは思わなかった。」
一真が笑いながら言った。そして小枝に刺して焼いていた小さなお餅を修に差し出してくれた。
「ほら、食べなよ。丁度焼けたところだ。」
「うん。ありがとう。」
ちょっとばつが悪かったが修は遠慮なく手を伸ばした。確かにお腹はぺこぺこだった。
「熱いぞ。」
「うん。」
二人して焼きたてのお餅を頬張る。いつの間にか二人は仲良くなってしまっている。一真はぶっきらぼうで無愛想だが、親切で優しい。修にはそれがわかってきていた。友達がまた一人増えた、と修は嬉しくて仕方なかった。
その日は結局、修は一真と一緒に夕方まで過ごした。一真は口数が少ない方で、太一や一郎とは違って冗談の一つも言わないが、物知りで、説明がうまかった。
「また沼に落っこちたら大変だからな。家まで送ってやるよ。」
やがて一真が言い出すまで、修は帰ることなど思いつきもしなかった。
「うん、ありがとう。でも、また遊べるよね?」
素直に一真に従いながら、名残惜しい修は食い下がった。
「ああ。いつでも遊びに来ると良いよ。姉さんもきっと喜ぶ。」
一真は珍しく笑顔で肯いた。修も満面の笑顔で肯いた。
「うん!」
その日の夕食の席で修は、ばあちゃまに楽しそうに一真の事を話していた。流石に沼に落ちたことは慎重に隠していたが。
「修はいい友達がいっぱい増えたんじゃのう。」
ばあちゃまはにこにこと嬉しそうに修の話を聞いてくれた。
「明日も遊びに行くのかいの?だったら皆で食べられるようにお弁当を拵えようかの?」
ばあちゃまの親切な提案に修は目を輝かせた。
「うわあ、遠足みたい!いいの?ばあちゃま!」
「修の母さんみたいな訳にはいかないがの。卵焼きぐらいは作ってやれるがの。」
「わーい!僕、ばあちゃまの卵焼き、大好き!嬉しいな!」
ばあちゃまの言葉に修は大喜びだ。ばあちゃまも修の喜びように目を細めている。
「明日が楽しみだなあ。」
修はうきうきと、まるで遠足を前にしているように眠りについたのだった。
次の朝、修は台所から漂ってくる卵焼きのいい匂いで目が覚めた。ばあちゃまが約束通りにお弁当をこさえてくれているのだ。
「おはよう、ばあちゃま!」
顔を洗って台所に行くと、丁度ばあちゃまが重箱の蓋を閉じるところだった。
「ばあちゃま、お弁当、作ってくれたんだね!」
元気良く入って来た修にばあちゃまはにこにこ笑顔で答えた。
「おはよう、修。今日はまた随分と早起きだの。お弁当、沢山こさえといたから、ちょっとばかし重いかもしれんよ。」
修は思わずばあちゃまの手元の重箱に目をやった。確かに大きい。五、六人分はしっかりありそうだ。
「…ばあちゃま、ありがとう。でも。こんなに?」
「修の話では友達は全部で五人。修を入れて六人じゃろ?」
「うん。それはそうだけど…。」
「食べ盛りの子ばきり六人なら、これぐらいかと思っての。」
「…うん。」
修は嬉しさ半分、どうやって持って行こうか、思案半分でやはり嬉しそうなばあちゃまの顔を見た。もう、重たそうだから持って行かない、などと言える雰囲気ではない。
(先に太一を見つけて手伝ってもらおう。)
修はそう心の中で決めて、ばあちゃまの親切に素直に感謝した。
「ありがとう、ばあちゃま。みんなで食べるからね。」
ばあちゃまはにこにこ顔で肯いた。
そそくさと朝食を済ませ、修はばあちゃまに
「友達とお弁当を取りに来るね。」と言い残して太一を探しに外へ出た。
今日は土曜日で学校も休みだから、運が良ければすぐに見つかるはずだ。
今日も良い天気だ。風が心地よい。家の裏手の森の中で修は一つ深呼吸をした。緑の匂いが胸一杯に広がる。それから声を張り上げる。
「おーい!太一ぃ!」
昨日一真から、このあたりで呼べば大概太一は見つかる、と教えてもらっていた。
「おーい!太一ぃ!」
ザザザザ!
梢を鳴らして風が疾る。
「呼んだか?」
不意にいつかのように近くの木の上の方から太一の声が降ってきた。
「太一!」
修は嬉しくなった。
「降りて来てよ!探していたんだ!」
修がそう呼びかけると、声だけが返事を寄越した。
「あいよ。今、行く。」
太一の姿は全く見えない。修は上を向いてきょろきょろ見回した。
「ばーか。こっちだよ。」
また笑いを含んだ声がして一陣の風が目の前で渦を巻いた。
「太一!」
風が消え失せた後にはやはり太一の姿。
「よお。」
片手を上げて見せる。
「んで、何か用か?まあ、もう少ししたらおいらの方から誘いに行こうと思っていたんだけどな。」
「わあ!今日、遊べるんだ?!嬉しいな!」
修は太一の言葉に舞い上がった。太一はそんな修を見てにっこりした。
「それはそうと、だから、なんか用があったんじゃないのか?」
太一が突っ込んでくれたので、修はやっとばあちゃまのお弁当のことを思い出した。
「あ、あのね。ばあちゃまが友達と一緒に食べられるように、ってお弁当をこさえてくれたんだ。」
太一の顔が輝く。
「お弁当!?」
「うん。だけどね、僕一人じゃあ、とても運べそうもないんだ。だからみんなで食べられるところまで太一に運ぶのを手伝って貰おうと思って。」
修がにこにこ説明する。
「そうかあ。総代のおばあがおいら達のために作ってくれたのかあ。そりゃあ、ありがたくいただかなくちゃな。」
太一は今にも涎を垂らしそうだ。
「早速取りに行こうぜ。雪ねえのところで食べようや。途中で一郎と合流して、一郎にはさきを迎えに行って貰おう。」
「うん!」
こうなると話は早い。もう計画は決まった。二人は連れだって修の家に向かった。
「ばあちゃま、ただいま!行ってきます!」
修は台所に駆け込むとばあちゃまにそう声をかけ、重箱の風呂敷包みをよいしょとぶら下げて家を出た。
「行ってらっしゃい。気をつけるんじゃよ。」
ばあちゃまの気遣いが後を追ってきた。
「わおっ!本当にでっかいな!」
修が引きずるようにして持って来た風呂敷包みを見て、太一が感嘆の声を上げた。
「これだけあれば、六人で食べてもみんなお腹いっぱいになるな。」
太一は見るからに嬉しそうに言った。
「見ていないで手伝ってよ!」
修はもうへとへとになりかけていた。
「あ、悪い、悪い。」
太一が慌てて手を貸す。風呂敷包みを二人でぶら下げる形になる。
「こりゃあ、本当に重たいな。総代のおばあはかなり頑張ってくれたんだなあ。」
その重みに変なところ感心して太一が呟く。
「うん。ばあちゃまの卵焼き、とっても美味しいんだ。僕、一杯入れてくれるよう頼んどいたんだよ。」
修が自慢げに言う。
「へえ。卵焼き、かあ。おいらの大好物だよ。楽しみだなあ。」
「みんなも喜んでくれるかな?」
「うん。みんなも卵焼きは好きだと思うぞ。早くこのお弁当、見せてやろうぜ。」
「うん!」
二人はいつかのように風の道を辿り、一郎を迎えに行った。一郎も風呂敷包みを見ると大喜びした。そこからは疲れ始めた修に代わって、一郎が太一と包みを持ってくれた。三人は遠足気分で雪絵達の家に向かった。
「雪ねえ!一真!」
太一が小屋に駆け寄って扉を開けながら呼んだ。
「あら、太一。いらっしゃい!」
中から雪絵の声がする。
「よいしょ。」
一郎と修は風呂敷包みを持って風の道から飛び降りた。雪絵の小屋の近くの大木が一本だけ生えている根本にそれを運ぶ。ここなら日陰で涼しいし、お弁当を広げるには絶好のロケーションだ。
「あら、すごい!なんて立派なお弁当!」
小屋から出て来た雪絵が手を叩いて喜んでいる。
「うちのばあちゃまがみんなで食べるように、って拵えてくれたんだよ。」
修が鼻高々で言った。
「お昼が楽しみね。あ、一郎。さきを呼びに行くのよね?だったら途中で一真を一緒に連れて来てちょうだい。」
「一真、出かけているの?」
「そうなの。蜂蜜を取りに行っているのよ。」
「じゃあ、レンゲ畑のとこだね。わかった。一緒に戻ってくるよ。」
雪絵と一郎の会話を聞いていた太一が口を挟んだ。
「蜂蜜?雪ねえ。いいなあ。」
雪絵が笑いながらそれに応じる。
「一真が持って帰ってきたら、何か作ってあげましょうね。」
「わーい!」
一郎と太一が歓声を上げる。
「今日は良い日だなあ。美味しいお弁当に美味しいおやつ。」
太一はしみじみと言った。その言い方が可笑しくて、その場の皆が笑いこけた。
一郎が二人を迎えに行っている間、雪絵はおやつの準備を始めた。
「お手伝いしてね。」
そう言われて修も太一と手伝い始める。
「何作るの?」
「蜜豆と白玉団子よ。」
雪絵の返事に太一は舌なめずりをした。
「太一はほんとに食いしん坊ね。」
雪絵が可笑しそうに言う。
「いーじゃん。おいら食べ盛りだもん。」
太一が唇を尖らせて不満そうに言う。
「あら。悪いなんて一言も言ってないわよ。太一がいっぱい食べてくれるから、私も作り甲斐があって嬉しいのよ。」
雪絵が手だけは休めず言い返した。
「さあ、その美味しいおやつの為よ。手を休めないで十分にこねてね。」
修と太一は白玉粉と格闘している。雪絵は手慣れた様子で寒天を溶かし、型に流し入れた。
「こっちはこれでいいわ。白玉もだいぶ良いようね。後はお団子の大きさに丸めてちょうだい。そしたら私が茹でるから。」
茹で上がった白玉団子を雪絵は冷たい水に晒し、さいころ状に切った寒天と家の裏の冷たい湧き水が流れ出ている場所に浸して保管した。
「あとは蜂蜜が来てからね。」
雪絵は満足そうに微笑んだ。
それからしばらくはする事もなくなったので、三人は小川で遊ぶことにした。
「雪ねえ、笹舟競争しよう。」
太一が提案した。
「あら、太一。また負けたいの?いつだって私には適わないくせに。」
雪絵が笑って応じる。
「太一、笹舟って?」
修が太一の袖を引っ張った。
「ん?なんだ、修は笹舟を知らないんか?」
こっくり肯いた修を太一は呆れた顔で見た。仕方なさそうに修を近くの茂みに連れて行く。
「ほら、これ。笹の葉っぱ。」
笹を見つけてその葉を千切る。
「これの両側を折って、こうやって切れ目を入れて…。」
手先を器用に使って笹舟を作り上げる。
「へえ…。」
修は目を丸くして見つめる。
「んで、こうやって川に浮かべて競争するんだ。」
いつの間にか雪絵が自分で作った笹舟を手にして隣に立っている。
「雪ねえ。」
太一が肯いて雪絵を促す。雪絵と太一は呼吸を合わせて笹舟を川面に浮かべる。
「行くぞ。よーい…。どん!」
かけ声と共に二人は笹舟を手から離した。小舟は水の流れに乗って流されて行く。それでも流れの速いところがあるものか、笹舟の作り方に違いでもあるものか、流されていく間に二艘の小舟の距離は開いていく。
「あーあ。」
川の真ん中に石の突き出ているところを先の船が通り過ぎた時、太一ががっかりした声を上げた。雪絵がクスクス笑っている。
「ほーら、やっぱり私の勝ちだわ。」
雪絵の言葉に太一は頬を膨らませた。
「ちぇっ。どうして勝てないんだろうなあ。」
不満そうに呟く。
「だって、私にはこの川の流れが判るんですもの。」
にこにこ笑いながら雪絵が言う。
「だから、負ける訳がないのよ。」
「う〜。」
太一はいかにも悔しそうに唸っている。
「さあ、今度は水車を作りましょうよ。」
雪絵が提案する。
「競争するのはもう止めましょう。修に水遊びの楽しさを教えてあげましょうよ。」
「…うん。」
太一は少し諦め切れない様子で流れていった笹舟を見ていたが、修の方をちらりと見ると気持ちを切り替えたらしく素直に肯いた。修はちょっとほっとして太一に話しかけた。
「水車ってなあに?」
「うん。やっぱり葉っぱを組み合わせて作るんだよ。でも、おいらより雪ねえの方が断然上手だ。ほら、見てごらん。」
太一が指さした方を見ると、雪絵が小刀を使って器用に小さな水車を作りにかかっていた。二股の枝を支柱にして、小枝に葉っぱを互い違いに刺したものを水面すれすれの位置になるように置く。それは流れに従ってゆっくりと回り出した。
「うわあ。」
修は瞳を輝かせて見つめている。
「お前って、ホント、何にも知らないのな。」
太一が笑いながら言った。
「うん。笹舟の作り方、もう一度教えて。僕も笹舟流してみたい。」
修は素直に認めて太一にねだった。
「ああ。」
太一はそうやって頼られることに気分を良くして、二人してもう一度茂みに戻っていく。雪絵はそんな二人を微笑ましく見ながら、もう一組水車を作れるように材料を用意し始めた。次はたぶん、水車の作り方を教えて、と言い出すのだろう、と察しを付けたのだ。
修は太一と雪絵から色々な遊びを教えて貰った。そうしているうちに一郎がさきと一真を連れて戻って来た。
「たっだいまあ!腹減ったよお!」
一郎が叫ぶ。
「はい、はい。お昼にしましょうね。」
笑いながら雪絵が支度を始める。
「私、手伝うね。」
さきが敷物を敷き、取り皿を並べる手伝いをする。
「さあ、みんな手を洗ってきて。」
「はあい!」
雪絵の指示に従って皆一目散に手を洗いに行く。そして我先に敷物の上に座った。みんな揃ったのを見届けて雪絵がおもむろに重箱の蓋を開けた。
「うわあ!」
歓声が上がる。
「すげえ…。」
そこにはばあちゃまの心尽くしのご馳走が並んでいた。卵焼きは勿論のこと、野菜の炊き合わせと鶏の唐揚げ、たこさんのウインナーにピーマンと椎茸の肉詰め、フレンチサラダ。そして季節柄を考えてなのか、太巻き寿司といなり寿司、五目いなり。
一郎が唾を飲み込む音が聞こえた。
「さあ、頂きましょう。」
雪絵が音頭をとって皆が両手をあわせる。
「いただきます!」
声を揃えてあいさつして皆一斉に箸を取る。そして各々目当ての物に手を伸ばした。一郎は唐揚げにかぶりついている。太一は卵焼きを口一杯頬ばった。さきはウインナーを摘んでいる。雪絵と一真は太巻き寿司を頬ばった。修はおいなりさんを取り分けて自分でも一口頬ばりながら皆の食べる様子を嬉しそうに見つめていた。
「うまい!」
ゴクリと飲み下すと一郎が嬉しそうに言った。
「こんな旨いの久しぶりに食った!」
「うん、うまいなあ。」
太一もしみじみと言った。
「なんだか懐かしい味だよなあ。さすが、総代のばあちゃんだよ。」
「本当に。とってもおいしい。」
みんな口々にばあちゃまのお弁当を褒めちぎりながら、それでも箸は止まらない。
「みんなで食べるから余計においしいんだね。」
いつになく修も沢山の量を食べながら笑っている。食べ盛りの子供達の胃袋に、重箱に詰められた大量のご馳走もきれいさっぱり吸い込まれていった。
「ふうっ、食った、食った!腹一杯!」
一郎がそう叫ぶなり、その場に仰向けにひっくり返った。
「一郎、お行儀が悪い!」
さきが笑いながら注意する。
「食べてすぐ寝ると牛になるんだから!」
「そんなの迷信だよぉ。」
一郎が馬鹿にしたように言う。
「まあ。」
呆れたようにさきが言ったのに、雪絵がクスクス笑いながら取りなした。
「放っておきなさいよ、さき。一郎、好きなだけそうやってなさい。そのかわり食後の甘い物はなしよ。」
「えっ?!」
一郎が反応した。雪絵はしれっとして言葉を続ける。
「残念ねえ、一真が蜂蜜を持って帰って来てくれたから、蜜豆とみたらしを作るつもりで用意していたのにねえ。」
それを聞いて一郎はがばっと飛び起きた。
「蜜豆!」
涎を垂らさんばかりの勢いだ。
「食べる!」
「あら、お腹一杯じゃなかったの?いいのよ、無理しなくたって。」
さきがお返し、とばかりに笑顔で言いはなつ。
「そうね、お腹を壊されたら困るものね。」
雪絵が追い打ちを掛ける。
「一郎の分も私達でいただきましょうね。」
「うわあ!勘弁!ごめんなさい!俺が悪かった!」
一郎が降参した。「いくらでも謝るから、俺にも蜜豆食べさせて!」
「まあ!」
さきと雪絵は呆れて笑い出す。
「いいわ、わかったわ。じゃあ、さき、手伝ってね。もう、しっかり寒天も冷えていると思うの。」
雪絵はまだ笑いながら、さきを連れて支度に取りかかりに行った。そしていくらも待たないうちにお盆に小鉢を人数分と大皿を乗せて戻って来た。小鉢には蜜豆、大皿にはお団子が乗せられている。雪絵はそれぞれに小鉢を配り、大皿は真ん中に置いた。それから小振りの壷に入った蜜をそれぞれに回してよこす。
「蜂蜜と糖蜜を混ぜた蜜よ。好きな分だけかけて召し上がれ。」
「わあい!いっただきまーす!」
みんな一斉に食べ始める。さっきお腹一杯食べたはずなのに、甘い物は別腹、とはよく言ったものだ。程良く冷えた蜜豆は絶品で、つるんとお腹に滑り込んでいく。お団子も蜜が絡んで格別のおいしさだ。
「う〜ん、満足!」
きれいさっぱりたいらげると、今度は一郎のみならず太一も一真も修も仰向けにひっくり返った。
「まあ!なあに、みんなお行儀の悪い!」
雪絵が軽く睨む。
「ゆきねえ、勘弁。お腹が苦しくて座ってられない…。」
太一が言い訳する。
「まあ!」
雪絵は呆れた。
「何も、そこまで食べなくたって…。」
「だって、おいしかったんだよ!」
太一が言い訳する。
「うん!とってもおいしかった!」
修が同意した。
「だから、ちょっとだけ…。ね?」
太一が雪絵に甘えた声を出した。
「仕様のない子達ねえ。」
雪絵は微苦笑しながらそんな男の子達の様子を眺めた。
その日の夕暮れ、修は空になった重箱の包みをぶら下げて、にこにこ顔で帰宅した。
「みんながごちそうさまでした、って言っていたよ。とっても美味しかった、って。」
修が嬉しそうに報告した。ばあちゃまはそれを聞くと満足そうに笑った。
「それは、よかったのう。楽しかったかい?修。」
「うん!とっても!僕、笹舟の作り方や水車の作り方を教えて貰ったんだよ。」
修は土産話が尽きない様子で、今日あったことを次から次へと話している。ばあちゃまはそれを微笑ましく聞きながら、重箱を片づけようと蓋を開けた。しかしそれは既にきれいに洗われており、一番上の段には笹の葉に包まれたお団子が入っていた。
「あら、まあ。」ばあちゃまは驚いて声を上げた。
「あ、それはゆきねえがばあちゃまにお土産、だって。美味しいお弁当のお礼だって言ってたよ。それ、ゆきねえの手作りだよ。僕達も手伝ったんだけど。」
修が説明した。
「それはまた、きちんとしたお嬢さんだの。」
ばあちゃまは感心して肯いた。
「今時にしては珍しいのう。修は友達を選ぶ目を持っておるようだの。どれ、お団子は夕飯の後でご馳走になりましょうかの。修もお茶を付き合ってくれるだろうし。」
「うん、お団子も貰っていい?」
「よいともさ。ばあちゃま一人では食べきれないほどたんとあるからの。」
夕食から床に就くまで修は、幸せな気分で過ごした。こんなに楽しかったことは今までなかった。そしてほんわかと暖かな気持ちのまま眠りに落ちたのだった。
雨が降っている。外に遊びに出られないので、修は仕方なしに部屋で本を読もうとしていた。太一達と会えないのがこんなにつまらないなんて、修は思ってもみなかった。友達一人いなかった修だ。それが一旦友達を得て、楽しい時間を過ごすことを覚えてしまうと、それがないということがこんなに辛く悲しく寂しい。
(つまんない…。)
修はため息をついた。前までの修なら、雨の日も雨粒に見とれたり本を読んだり、退屈を感じたりはしなかったのに。
雨は降り続いている。
(止まないかなあ…。)
修は恨めしげに空を眺めた。それから手近な材料でてるてるぼうずを作り始めた。そんな迷信を信じている訳ではないが、何もしないではいられなかった。
「てるてる坊主、てる坊主。明日天気にしておくれ。」
軒先に吊して、小さい声で歌ってみた。以前、お母さんに教えて貰った歌。
「お母さん…。」
修はふるふると頭を振った。お母さんの顔を思い出したら涙が出そうになってしまった。
(泣くもんか…。)
修は両手を握りしめた。ホームシックだなんて認めたくない。自分がそんな弱虫だなんて認めたくない。それでも涙が一筋、ぽろりと落ちるのを止められない。とうとう堰を切ったように涙がこぼれ始めた。修の年を考えれば、それは仕方のないことであろう。誰も見ていない部屋の中だ。修はそれでも声を押し殺して啜り泣いた。
梅雨入りした空は重たくどんよりしている。
「…今日も雨かあ…。」
修はつまらなそうに呟いた。縁側に出て空を見上げる。今日は掃除をするばあちゃまにくっついて奥座敷の方に来ていた。茶殻をまいて箒で掃き清める。それから堅く絞った雑巾で拭き掃除をする。ばあちゃまは年を取ってはいるが達者だ。足腰もまだまだ丈夫だ。てきぱきと仕事をこなしていく。
「修、つまらなそうじゃの。」
ばあちゃまは修の顔を覗き込んだ。
「…うん。」
修は小さく頷いた。
「友達と遊べたら、楽しいんだろうけど…。」
「そうじゃのう。だったら、修の友達をこの家に呼んでも構わんよ。この家は広さだけはたんとある。修のお父さんの本もある。昔のじゃがおもちゃも少しはとってある。修と友達が少しぐらい暴れても困らんよ。」
ばあちゃまは優しく申し出てくれた。修はそれを聞いて一瞬笑顔になったが、太一達の家の場所さえ知らないことにはたと気付いて戸惑った。
「どうかしたのかいの?」
そんな修の顔色を見てばあちゃまは尋ねる。
「…あのね、ばあちゃま。僕、太一の家がどこなのか知らない…。迎えに行きたくても行けない…。」
ばあちゃまは修の頭をぽんぽんと叩いた。
「あれ、ま。修は迂闊だの。じゃあ、しょうがないの。晴れるのを待つか、向こうから来てくれるのを待つしかないの。」
「…うん。」
修はしょんぼりと肯いた。
雨は降り続いている。修は空を見上げながらため息をついた。庭の紫陽花の花が恨めしく思える。広い庭にはそれぞれの季節に応じて色々な木々や草花が植えられている。
「この家のご先祖様には、体の弱い息子がおって、その子を慰め楽しませるために、庭に出来る限り多くの種類の草木を植えたのだそうな。」
ばあちゃまが話してくれた。修も体は弱かったが、その子のように庭の花々だけを楽しみにして家に閉じこもっていなければならないほどではない。しかし今日はその子の気持ちが分かるような気がする。雨に打たれていても外で咲き誇っていられる紫陽花すら恨めしい。修は照る照る坊主を睨みつけた。
しかし、雨の音は眠気を誘うものか、本を眺めていたはずの修はいつの間にか眠りに落ちていた。
うつらうつらしながら見る夢は、とても楽しいものだった。太一と一郎と一真と、鬼ごっこをしたり缶蹴りをしたり。空き缶の竹馬で競争をしたり。男の子らしく体を思いっきり使って遊んだ。本当なら修には出来ないことだった。
目が覚めると修はがっかりした。それが楽しい夢だと知って。自分の体がそこまでの運動に耐えられないことはよく分かっていたが、太一達とそんな風に遊べたらどんなに楽しいだろう、と思った。そんなことを考えていたら、悲しくなって涙がこぼれそうになった。
「おい、修。」
呼ばれたのに驚いて振り返ると、窓から太一が覗き込んでいた。
「あ、太一!」
「なんて顔してるんだよ…。また、べそかいてたんだな。」
太一は呆れたように言った。実際、修の眼にはいっぱいに涙が湛えられていた。
「ち、違うよ!」
慌てて修はぐいっと眼を拭った。どうしてこんな風な時に限って太一は現れるんだろう。思わず真っ赤になってしまう。
「ま、いいけど、さ。それより、遊ぼう。雨に降られてくさくさしてるんだ。」
太一は少し虫の居所が悪いらしい。イライラした様子で顎をしゃくる。
「あ、うん!」
修は元気良く返事をした。太一と遊べる事が嬉しくて仕様がない。
「あれ?まだ雨、降っている?」
玄関を一歩出て、修は空を見上げた。太一が傘をさしていなかったので、雨が止んだものと思い込んでいた。でもまだ、霧雨のように細かい雨がぱらついていた。
「修、こっち。」
太一の声のする方を振り返ると、太一は大きな木の下に待っていた。
「太一。」
修はそこまで一気に走った。
「太一、傘は?僕、取ってこようか?」
「傘?んなものいらないよ。これで十分さ。」
太一が笑いながら取り出したのは。
「うわあ。何、これ?」
修は目を丸くした。
「里芋の葉っぱだよ。」
大きな葉っぱが長い茎のうえについている。まるで傘のようだ。
「な。丁度良いだろ?」
太一が頭に翳してみせる。修はぷうっと吹き出した。父親の本にあった挿し絵を思い出した。
「太一ったら、コロボックルみたい!」
「コロボックル?なに、それ?」
太一はコロボックルを知らないらしい。
「うん。父さんの本にあったんだ。北海道のアイヌって人たちの神様で、蕗の葉っぱの下に住んでいるんだって。ちいちゃな神様なんだよ。」
修は太一に教えられることが嬉しくて、にこにこしながら答えた。
「ふーん。その神様がこんな風にしているのか?」
「うん。」
修は得意げに頷いた。
「へえ。面白い神様もいるものなんだな。」
太一はにやりと笑った。
「修はおいらに教えられることがあってえらく嬉しそうだな。」
「うん。」
「ま、たまには良いけど。泣き虫の修が笑ってくれるとおいらも嬉しいからなあ。」
太一の機嫌も少しは治ったらしい。コロボックルの話が気に入ったのかも知れない。
「山の上まで行ってみよう。きっと夕焼けが見られるはずだ。明日はきっと晴れるよ。」
太一が促す。
「うん。」
修は太一の後に続いて駆けだした。