しゃん!
鈴が鳴らされた。それを合図のように巫女狐から姫君に、厳かに榊の枝が手渡された。巫女姫はそれを捧げ持ち、軽く目を閉じた。祈りを込めているようだ。一同、その様子を感嘆と憧れに満ちた目で見守っている。やがて、その祈りに応えるかのように、榊の枝が淡い金色の光を帯びていく。枝全体が金色の光に満たされたとき、時至れり、とばかりに巫女姫はゆっくりと目を開けた。そして、巫女狐達にその裳裾(もすそ)をさばかせながら、階の前の方に進み出てきた。そのぎりぎりのところまで来ると、巫女姫はまた改めて榊の枝を捧げ持ち、空の遙か彼方にもう一度祈りを捧げた。伏見の方角だ。祈りが済むと巫女姫は、期待に胸をときめかせている群衆と向かい合った。穏やかな視線を投げかける。この時修は、じっと見つめていた自分の目と姫君の視線が、一瞬合ったような気がした。しかし、それは修の思い違いであったらしい。何故なら巫女姫は、何のリアクションもなく次の動作に移っていたからだ。
姫君は、捧げ持った榊の枝を群衆の上に差し出した。そして、その頭上にゆっくりと振り始める。すると、枝に宿った金色の光が雫となって皆の上に降り注いでいく。
歓声が上がる。皆、その雫を浴びようと無我夢中になっている。先を争うようにして手を空中高く差し伸べる。より一層多くの雫を浴びようとして。
姫君は分け隔てのないように大きく腕を振って、隅から隅まで雫が降り注ぐようにと気を使って下さっている。雫を浴びた皆の頭や手は、やはり微かな光を放っているように見える。
(綺麗だなあ。なんて綺麗なんだろう。僕、こんな綺麗なの、初めて見た。)
そんな事を思いながら、口をぽかんと開けて姫君に見とれていた修の頭にも、金色の雫が降り注ぐ。ほんのりと体中が暖かい。
やがて、榊の枝から全ての光が失われると、巫女姫はまた、その場に集う群衆を見渡すようにした。その威厳溢れる美しい眼差しにあうと、歓喜にざわめいていた群衆もぴたりと静まりかえった。姫君に、皆の尊敬と賛美の視線が集まる。それを感じ取ったものか、巫女姫は微かに目元を緩め、微笑んだようだった。そして同時に。
『ありがとう、人の子よ。そなたの賛美は心地良いものである。数多(あまた)の人は、我等を妖魅(ようみ)よ、妖(あやかし)よ、と蔑みこそすれ、褒める事など決してせぬ。故にそなたの純粋な賛美の気持ちは、妾(わらわ)にとって甘露そのものであった。「思い」を糧として生きる我等には何よりの捧げもの。嬉しく思うぞ。』
不意に修の頭の中だけに響いた声なき声。修ははっとして巫女姫の顔を見上げた。確かに彼女の瞳は修に向けられ、しかも優しく和んでいる。修は口をぱくぱくさせた。剰りの驚愕に声も言葉も出ない。しかし巫女姫はそんなメッセージを送ったなどとは露程も気取らせることなく、群衆を見渡し終えると、これですべき事は全て済んだ、とばかりに踵を返すと静かに扉の中に消えていった。巫女達と神官達があとに続く。それら全てが消え去ると、また大きな軋み音をたてて大扉が閉じた。狐火も篝火もふっと消える。修は夢から覚めたような気がして、体中から力が抜けてしまった。
「修、大丈夫か?」
半分腰を抜かしたように座り込んでいた修に、太一はそう声をかけた。
「う…ん。」
修はまだ、狐につままれているような気分だった。自分が体験したことが信じられない。
「多分…、大丈夫。」
「そうか。いきなり巫女姫様のご登場だもんなあ。刺激が強過ぎたよ、おいらにも。でも、お前って本当に運の良いヤツなのかも知れないな。」
太一は変に感慨深げだ。一人で頷きながら、修の手を取り引き起こしてやる。
「さあ、お祭りはお開きだ。帰るぞ。」
太一のその言葉に辺りを見回すと、既に夜店の明かりも消され、人影も殆どなかった。
(あれ?何時の間に?)
「お前、完全に呆けてたろ?」
修の顔を見て、太一はため息をついた。
「巫女姫様の祝福を受けられるなんて、何百年に一度、有るか無いかの大事なんだ。みんな、ここに来られなかった連中に、その祝福を分けてやりたくて、急いで帰って行ったんだよ。それに気付かずに腰を抜かしていたなんて、すごくお前らしいけど、さ。」

明かりらしい明かりも無くなって、神社の境内は、闇に飲み込まれようとしていた。さっきまでの賑わいは何だったのだろう。
そうしてぐずぐずしているうちに、最後の明かりも消され、辺りは鼻を摘まれても判らぬ程の暗闇となった。何の物音もしない。すぐ隣にいた筈の太一の気配も感じられなくて、修は慌てた。暗闇が怖い。思えば修は、今まで真の暗闇というものを経験したことなど無かった。その中に何を潜めているか判らぬ暗闇というものに出会ったことはなかった。得体の知れぬ何物かに取り巻かれているような気がして、修はぞっとした。無性に恐ろしかった。背筋がゾクゾクする。
(助けて…。助けて、太一!)
両手で自分の肩を抱き締める。声にならない声で太一の名を呼ぶ。恐ろしさに押し潰されそうだ。

「修?」
声に振り返ると、太一がこちらを覗き込むようにしていた。
「どうかしたのか?」
その手には提灯がぶら下がっており、その仄かな明かりが修を安堵させた。突然涙が込み上げる。
「おい、おい。一体どうしたんだ?ベソかいてるんか?」
太一が心配そうに言う。
「怖かった…。」
太一に縋り付くようにして囁く。
「怖かったよ…。太一が来てくれて…良かった…。」
「ばーか。」
太一は修の頭をぽんぽんと叩いた。
蛙が鳴いている。月も沈んで、星が綺麗だ。天の川がくっきりと見えている。修は、こんなに沢山の星を見るのは初めてかも知れない、と思った。都会の空では決して見られない光景だ。
「ねえ、太一。夜空って、黒くないんだね。」
感動して修が言った。
「濃い青色なんだね。う〜ん、藍色って言うのかなあ。それとも群青(ぐんじょう)?」
太一はそんな修が微笑ましいのか、にこにこ笑いながら応じている。
「おいらには、色の名前なんか判らないけど、お前の言う通り、黒には見えないなあ。うん。」
二人して他愛もない話をしながら歩いていく。修はかなり疲れていたが、それも気にならないほど、太一と過ごす時間は楽しかった。
そんな時、突然ふっと提灯の明かりが消えた。修はぎょっとした。さっきの恐怖が蘇る。でも、今度は真の暗闇になることはなかった。仄かな星明かりがある。
「あーあ。蝋燭が燃え尽きちゃったんだ。」
提灯を覗き込んで、太一が言った。
「もうちょっとだけ保ってくれると良かったんだけどなあ。仕方ないか。修、ここでちょっと待っててくれ。おいら、明かりを何とかしてくる。」
そう 言いおくと太一は身軽に駆けて行った。修は星を見上げながらその場に佇んだ。
(夜はホントは怖くないんだな。月明かりや星明かりもあるし。それに、なんだかやさしいや。でも、闇は怖い。ねっとりとまとわり付いてくるようで、イヤな感じだし、怖い。)
修は思いに沈んでいった。夜が更けていく。


「修、お待たせ。」
戻って来た太一の手にはしかし、明かりらしいものはなかった。
「あれ?明かりは?」
修が問いかけるのに、
「うん?あ、これで何とかなるんだよ。」
そう言って太一が差し出したのは一本の花。
「なに?それ?どうするの?」
怪訝そうな修に、太一はただ笑ってみせる。
「まあ、細工は隆々、仕上げを御弄じろ、てな。修も手伝ってよ。こっちだ。」
太一が田圃の横の土手を降りて行くのに修も続いた。
そこは、小さなせせらぎになっていて、星が瞬いていた。いや、星ではない。
「…綺麗…。」
それは、乱舞する蛍の群。
「修は蛍を見るのは初めてか?」
太一が面白そうに尋ねる。
「うん。ばあちゃまの家には何度も来てるんだけど、夜は家の外に出して貰えなかったんだ。だから、初めて。ねえ、蛍って綺麗だねえ。」
修の反応に太一は半分呆れている。
「おい、おい。何時までも見とれてないで、手伝えよ。帰れないだろ。」
「あ、うん。何すればいい?」
やっと現実に引き戻されて、修は太一に尋ねる。
「そっちの川下から、蛍をこっちに追って来てくれ。」
太一が指示する。
「うん、わかった。」
修は両手を広げて川下から蛍を追う。
「ほーい、ほい。」
太一が小さい声で蛍を招く。例の花を差し出している。すると、その花のところに蛍が寄り集まっていき、やがてその釣り鐘型の花の中に、数匹の蛍が入り込み、止まった。花の中に留まり、明滅を繰り返している。花はぽうっと小さな提灯のように明かりを放った。
「どうだ?」
太一が得意げに修に花を翳して見せた。
「この花、ホタルブクロっていうんだよ。」
修は目を丸くして花を見つめた。まさかこの花にそのような使い方があるなんて想像も出来なかった。
「さあ、用意が出来た。帰るぞ。」
白い花の仄かな可愛らしい明かりに先導されて、二人は家路を辿る。


先程抜け出したのと逆の道筋を辿って、二人は無事に離れに帰り着いた。太一は雨戸をきちんとはめ直し、修を布団に寝かしつける。
「これで証拠隠滅だ。修、今夜のことは誰にも内緒だぞ。」
最後にそう念を押す。
「抜け出したのがバレたら、おばあはえらく心配する。そしたらおいらはお前と遊べなくなる。だから、いいな。」
「うん。わかってる。」
枕に頭が着いた瞬間から、とろとろと眠りに落ち掛けながら、修は辛うじて返事をした。もう、半分夢の中だ。そんな修を見て太一は笑いながら軽く肩を竦めた。そして今度は掛け声と共に開けっぱなしにしていた天井に飛び上がる。きちんと自分が来た証拠の天井板も元に戻し帰って行く。まだ梟が鳴いている。


「お早う、修。良う眠れたかいの?」
ばあちゃまが雨戸を開けながらそう声をかけてくるまで、修はぐっすりと眠り込んでいた。太一が何時帰ったのかも判らない。
「ばあちゃま、おはよ。」
まだ眠たい目を擦りながら、ばあちゃまに返事する。朝の光が眩しい。
「あれま、修。いやに眠そうじゃの。よう眠れんかったかの?ひょっとして座敷童子が現れたんかの?」
ばあちゃまはにこにこしながら修をからかうのが趣味らしい。
「ううん。何にも出なかったよ。僕、ずっと楽しみに待っていたのにな。」
修は胸を張って答えた。自分は、そんなものを怖がったりしない強い子なんだと、ばあちゃまに認めて欲しかった。
「そりゃあまた、残念だったの。じゃあ、今晩もここで眠るかいの?」
ばあちゃまが茶化すようにそう応じたのに、修はちょっとたじろいだ。
「え、う〜ん。でも、いいよ。僕、せっかくばあちゃまと一緒にいられる機会なのに、一人で居たくないもん。つまんないし。ばあちゃまだって寂しいでしょ?」
我ながら苦しい言い訳だな、と思った。
「そうかいの。まあ、部屋はいっぱい空いておるし、修の好きなようにすれば良いわの。」
相変わらずにこにことばあちゃまがそう言ったのに、修は微妙に安心した。もうこれで、ここで一人っきりで眠らなくても良いのだ。そう思った。でも、太一と夜中に抜け出すことは不可能になる。そこに考えが及んで修は、次の瞬間、しまった、と思った。しかしもう遅い。ばあちゃまはとっくに母屋に引き上げた後だった。


気持ちの良い風が吹き通る。
修は、修の父親が小さい頃に使っていた部屋で、昼間は過ごすようになっていた。そこにはまだ勉強机があり、本棚には沢山の本が詰め込まれている。
「修の父さんは、本が大好きな子じゃったからの。」
ばあちゃまが誇らしげに言った。
この午前中、修は机に向かって算数の計算練習ドリルを広げていた。学校を長期欠席して、ばあちゃまのところに療養に来ている修である。学校の勉強も遅れがちなのだ。それ故、体調の良い時には勉強するように、と父さんからきつく言われていた。男は文武両道でなければ、将来大事な人を守れない、というのか持論なのだそうだ。修にはまだよくわからないが、父さんは修の憧れの人だ。あんな風になりたい、と思っている。だから、父さんの言うことにはなるべく従う。でも、今日の修は完全に勉強する気分ではなかった。鉛筆を持って、勉強しているフリはしていても、頭は昨日の夜のことでいっぱいだった。
不思議な夜だった。古(いにしえ)の薫り漂う、厳かで雅やかな、そして微かに恐怖をはらんだ、奇妙で美しい夜。
修はその美に魅了されていた。どんなに振り解こうとしても、修はその不思議な夜に思いは引き戻されていく。
「修、根を詰めてはいけないの。今日はもう、勉強はお終いにおしな。なんだかひどく疲れているように見えるがの。」
修の体を心配して様子を見に来たばあちゃまがそう言ったのに、修はあっさり便乗することにした。
「うん。」
鉛筆やドリルをかたずけにかかる。
「今日はこの部屋で昼寝でもしておるといいがの。良い風が入る。」
ばあちゃまが言う。
「うん。ここで父さんの本でも読んでることにする。疲れたらそのまま昼寝するよ。」
修の応えにばあちゃまは肌掛けのタオルケットを用意してくれた。


風が緑の匂いを運んで来る。良い天気だ。
修は本棚から本を一冊抜き出して、ごろんと横になっていた。夕べのことに思い馳せる。しかしそれは、どう考えても、現実に起きたこととは思えない。自分は夢でも見ていたのだろうか。そう考えた方が、自分でも納得がいくのだ。そうすると、太一の存在すらも夢だったような気がしてくる。修は混乱していた。信じたい。太一と友達になったのだ。夢だなんて、余りに哀しい。

ひゅう。風が吹き込んでくる。かたたん。軽く窓硝子を揺する。
修は寝転んだまま、ぼんやりと窓の外を見ている。とうの昔に本を読むのは諦めた。目は文字を追ってはいても、内容は全然頭に入ってこないからだ。そうして修は、いつのまにかとろとろと微睡んでいたらしい。夕べの疲れが残っている。

「修。」
名前を呼ばれて飛び起きた。辺りを見回すが誰もいない。
(あれ?気のせいかな?)
「修、こっちだってば。」
笑い混じりの声がした。と、同時に。
ひゅう。一陣の風が部屋に吹き込んで来て、部屋の真ん中で渦を巻く。そして、目を見開いて見守る修の目の前でひゅん!と音を立てて消え失せた。
「よお!」
「太一?!」
あとには太一が立っていて、修に軽く手を挙げてみせた。
「びっくりした!太一ったら僕を驚かせてばかりいる!」
修は笑いながら文句を言った。
「なんだよ、それ。せっかく遊びに来てやったのにご挨拶だな。おいら、来ない方が良かった訳?」
太一が不満そうに言うのに、修は慌てて首をふるふると振った。
「誰もそんなこと、言ってないじゃない!もう、太一ったら、また僕をからかってるでしょ?」
「わかるか?」
太一がニヤリと笑った。
「わかるよ。」
修は苦笑いを返す。
(よかった…。太一が僕の夢じゃあなくって。)
内心、修はほっとし、無性に嬉しかった。
「それで、今日は何して遊ぶの?」
わくわくしながら修が尋ねる。
「ん?ああ。今日はお前に、おいらの友達を引き合わせてやろうと思って、さ。」
太一がにこにこと答える。
「えっ!ほんと?!」
修は飛び上がらんばかりの勢いで喜んだ。
「うん。お前、友達少ないだろ?あいつらはみんな良い奴だから、友達になるといい。」
太一は修の嬉しそうな顔に満足そうに頷いた。
「うん!これから行くの?早く行こうよ!」
修の方が今や、太一を急かし始めている。
「はいよ。じゃあ、ついて来い!」太一が勢い良く窓からひらりと飛び出したのに、修も続いて飛び出してから気が付いた。その部屋は二階だった。
(落ちる!)
修は瞬間、きつく目を閉じた。落下の衝撃を覚悟した。しかし、いつまで待ってもそれはやって来なかった。
「ばーか。何やってるんだ?」
太一の笑いを含んだ声。
「落ちやしないよ。目を開けてごらん。手を掴んでいてやるから。」
声に促されて修は、恐る恐る目を開けた。目の前には太一の顔。両手はしっかりと太一に握られている。修はごくりと唾を飲み込んだ。そっと足下に目をやる。
「!」
やはり足元には何もなかった。修は二階の窓の僅かばかり下の空中に浮かんでいるのだった。
「な、何で…?」
やっと声を絞り出す。
「何で、ってお前。ここは『風の道』って言う道なんだよ。」
太一が意外そうに言った。
「え?」
「おいらと友達は、この道を使うのを許されてるんだ。お前、疲れてるみたいだから、今日はこっちの道から行こうと思って、さ。こっちの方が近道だし。」
修の反応に太一は少し戸惑っているようだった。
「でもお前、恐いか?この道を行きたくないか?無理、か?」
そう聞かれて修は、改めて足元に注意を向けた。どう見ても、そこは何もない空中だった。理屈に合わない現象に恐怖を覚えるためか、足の裏がムズムズする。でも太一は『風の道』だと言った。瞬間的に修は、太一を信じることに決めた。
「だ、大丈夫。今はちょっと恐いけど…。こんなのすぐに慣れるから…。ちょっとだけ、待っててくれる?」
「ん。」
太一はこっくり頷いてくれた。そしてその場に腰を下ろして落ち着いてしまう。
「まだ日は高い。急ぐ必要はないよ。まあ、ゆっくりやるさ。」
太一の達観したような言葉に、修も取り敢えず落ち着いてみることにした。こんな状況下では、じたばたしても始まらない。深呼吸して、太一のようにその場に座ってみた。
お尻の下に感じたのは、想像していたより堅くも柔らかくもない感触だった。
(あれ?まるでコルク材の床みたい。しっかりしてるんだな。だから僕らが乗っていても落っこちないんだ。あれ?じゃあ、どうして僕には見えないんだろう?)
落ちる心配はない、と確信した途端、修の興味は別のところに飛んでいる。
「ね、太一。どうしてこんな道が、こんな空中にあるの?」
太一は肩を竦めた。
「さあな。おいらも知らない。だけど、便利だろ?使うのにはそれだけで十分だ。この道は風の通り道だ。風の吹くところなら何処までも行けるんだ。」
太一は遙か向こうを眺めやりながら言う。思わず同じ方を見やった修の目にも、果てしなく続く一本の道が映った。
「あ!」
修の口から小さな驚きの声が漏れた。太一がにっこり笑う。
「見えたか?そうさ、それが『風の道』さ。」
それから何故か、しみじみとした口調になった。
「世の中には、思いもしないものや出来事がわんさかあるもんさ。いちいち気にしていたら身が持たないよ。気にするな。それに…。」
そして笑いながら付け加える。
「そんな理由なんぞ考え込んでいたら、お前、ハゲるぞ!」
修は思わず頭に手をやった。ハゲた自分を想像してしまった。太一はぷうっと吹き出した。修もそんな自分の動作に自分で吹き出した。そうして二人は暫し笑い転げた。
やがて笑いが落ち着くと、太一はひょいと立ち上がり、修の手を引いて立ち上がらせた。
「さあて。そろそろ行こうか。」
「うん。」
二人は仲良く並んで歩き出した。心地よい風が吹いている。
麗らかな日差しが降り注いでいる。鳶があちらの山の上でくるりと輪を描いた。
最初、ゆっくり歩いていた筈の二人だったが、気付かぬうちにいつの間にか駆け足になっていた。
(身体が軽い?)
太一の速度に合わせて走りながら、修は不思議に思っていた。病気のせいで力一杯走ったことなどなかった修だ。それなのに、こんなに早く、こんなに長い時間、走り続けていられる訳がない。
(太一と一緒だからかなあ?太一といると不思議なことがいっぱい起きる。)
そう思って太一の方を見やる。太一は走るのに夢中らしい。修は、さっき太一が言ったように全て気にしないことにした。なによりこうして太一と共にいることがとても楽しい。なんだか太一と一緒ならどんなことでも出来そうな気がしてくる。何が起きても対処できそうな気がする。
(不思議だな…。)

道は果てしなく続いている。風は何処までも吹いて行くものだから。
二人はさながら疾風のように走っていた。
(気持ちいい!風になった気分…。)
修は今までに経験したことのない感覚を楽しんでいた。普通に健康な子供なら、こんなのは当たり前のことなのに。修は自分の身体が普通と違う、ということを思い知った。

「修、あの山を目指すぞ。」
太一が指差したのは、その辺りで一番高い山。
「多分、この時間ならあそこにいる筈なんだ。」
「え?何?誰のこと?」
勢い込んで修は尋ねた。
「ん?内緒。会ってみてのお楽しみってね。」
太一はにやにや笑うばかりだ。その様子に修は答えを聞くことを諦めた。

遙か遠くにあるかと思われた山だったが、二人で走っていたためかあっという間に辿り着いた。道はやがて山肌に沿い、木の間を縫って地上へと降りていく。
「あーら、よっと。」
目的地に近づいたのか太一は、ある地点で地上一メートル程の高さから地面へ、掛け声諸共飛び降りた。修もあとに続く。
「ほら、あそこだ。」
太一が指し示した所にはぽっかりと口を開けた洞窟があった。太一はその入り口に立つと、中に向かって声を張り上げた。
「おーい!一郎!」
途端、洞窟から突風が吹き出してきた。
「なあんた、太一かあ。」
風の通り過ぎたあとには背の高い少年が立っていて、間延びした声でそう言った。
「おい。それはないだろ?折角修を紹介してやろうと思って連れて来てやったちゅーのにさ。」
太一が不満そうに唇を尖らせた。
「えっ?修?」
一郎は、その時初めて太一の隣の修の存在に気が付いた。修の顔をしげしげと見つめる。
「あ、やっぱり太一と同じ顔だ!な、太一!俺の言った通りだったろ?修はお前にそっくりだって!」
興奮して太一に自慢げにそう言った。太一はそれに軽く頷いて見せ、修に向き直って彼を紹介した。
「修、こいつは一郎。一番最初にお前を見つけて、おいらに教えてくれた奴なんだ。」
一郎がにこにこしながら修に右手を差し出した。
「修、よろしくな。俺のことは一郎、って呼んでくれ。」
修はそんな一郎に太一と同じ親しみを覚えた。
「こちらこそ。」
笑顔で握手する。いい友達になれそうだ。
「こいつは気楽な奴だから、気を使わなくて済むぞ。」
太一が注釈を加える。
「おいら、それでかなり助かってる。時々、悪口言っても気が付かないし。その辺が間抜けで笑えるし。」「なんだよ、それ。」
さすがに一郎も聞き咎めた。
「それじゃあ俺がよっぽどのアホみたいじゃないか!」
「あれえ?アホみたい、じゃなくて、完全にアホなんだろうが!」
太一が突っ込む。
「う…。お前なあ、せめていいボケ役、ぐらいにしとけよ。それじゃあ、身も蓋もないじゃん…。」
修は吹き出した。漫才コンビみたいな二人だ。
「それより、さ。今日は修においらの仲間を全員、会わせたいんだ。」
「あ、そうか。じゃあ、次は雪ネエの所か?勿論、一緒に行ってもいいよな?」
「えー!行くのかよ!」
「太一ぃ。そんな意地悪を言ってると、千恵にチクるぞ。」
「う…。わかったよ。連れていきゃあいいんだろ。」
二人のやり取りを聞いていると可笑しくてたまらない。太一の言っていたように本当に良い仲間なのだろう。修はそんな二人を羨ましく眺めていた。

「さあ、行くぞ。」
話が纏まったらしく、太一が修に合図した。結局、一郎も一緒だ。
「こっちだ。」
さっき飛び降りたところとは違う、大岩の上に修を招く。
「あらよっと。」
太一がかけ声をかけて空中に飛び出す。大分慣れてきたとはいえ、修は一瞬、ぎょっとする。太一は空中に浮かんでいた。いや、「風の道」の上に立っているのだ。一郎もすぐあとに続く。どうやら二人はこの道を使い慣れているようだ。修も一瞬の躊躇のあと、一郎に続いて飛び移る。
(…!)
まだ無意識に落下の衝撃に備えてしまう。
「大丈夫だよ。」
一郎がそれを察して言った。
「俺達と一緒の時は、この道はお前を受け入れてくれる。だから、安心していていいんだよ。」
笑顔でそう言った一郎に、修も笑顔を向けた。
今度は三人で風の道を疾走する。

道は森の木の上を通り、山の頂上を掠め、谷間に向かっていく。地上からかなりの高さがある場所もあったが、修は恐いとも思わなかった。ただ爽快な気分を味わっていた。物事をあるがままに受け入れる事に慣れてきたのかも知れない。どうやら太一達と付き合うには、それがなくてはならないものらしかった。





戻る