暑い。木の間から差し込む陽射しがまるで刺すようだ。まだ、初夏の筈なのに、何故こんなに暑いんだろう。息が切れる。汗が額に伝う。
(暑っつい…!)
修(しゅう)は既に後悔していた。ほんの気まぐれに、今朝、ばあちゃんが話していた、野苺の群生する場所を見てみたい、と思ったのだ。裏山から沢を伝って隣の山に抜ければすぐだ、とばあちゃんは言っていたのに、都会育ちで山歩きに慣れていない修には荷が勝ちすぎていたらしい。
(だから、田舎は嫌いなんだ…!)
修はぶちぶち言った。
(あんなにイヤだって言ったのに…。父さんも母さんも、こうするのが僕のためだ、なんて言って、僕を一人でばあちゃんに預けた…。)
修は鼻を鳴らした。
(母さん…。チクショウ、寂しくなんかないやい!)
迷子になった心細さと、一人で家から離れている寂しさで涙が出てきた。汗が目に入ったせいにして、ぐいっと一緒に手で拭う。男の子は簡単に泣いたりしてはいけないのだ。尊敬する父さんにそう言い聞かされていた。例え、やせ我慢でも。
(泣くもんか…!)
ぐっと唇を噛みしめた。でも、ひしひしと心細さが募ってくる。
(負ける…もんか。)
修はぐいっと頭を持ち上げて、また歩き出す。取り敢えず、人のいる所まで行かない事にはどうしようもない。
(誰か、人を捜さなきゃあ…。)
修がそう思って辺りを見回した瞬間、木の枝を揺らして一陣の風が吹いてきた。それは何故か修の回りで葉っぱを巻き上げくるくると渦を巻いた。そして修を包み込むと、修を中心としたつむじ風に変わった。
(うわっ!)
驚く修を尻目に、風は吹いて来た時と同様にいきなり去って行った。
(なに?今の…?)
呆然とする修の耳に聞こえてきたのは…。クスクスクス。笑い声。うふふっ。あははは。それは、本当に可笑しそうに、愉しそうに笑う、笑い声。
「誰?!」
修は自分が笑われたのだと悟った。思わず顔が赤らむ。
(そんなに笑わなくても良いじゃないか。いくら僕がアホみたいな顔をしたからって…。)
内心腹を立てながら辺りを見回し、笑い声の主を捜す。でも、何処にいるのか皆目見当がつかない。
「誰?何処にいるの?!」
なかなか止まない笑い声に、たまりかねて修が怒鳴る。途端、ぴたりと止んだ笑い声に、修の方が逆に戸惑った。辺りに静寂が漂う。
(なんなの?)
修の心を怯えに似たものがよぎる。その時。
ザザザザッ!大きく枝葉を揺らしながら、目の前の大木の上から何かが降ってきた。
「ひっ!」
驚いて腰を抜かしかけて座り込んだ修の目に飛び込んで来たのは、一人の男の子の姿。
「…え?」
そこに立っていたのは、いかにも愉しくて堪らない、といった表情を浮かべた、修に瓜二つの男の子。
「な…に…?どう…して?」
動転してまともに口も利けなくなっている修に、その子は片手を差し出して引き起こしてくれた。その間も愉しくて仕方ない、という表情はそのままだ。
「…誰?」
やっと落ち着いてきて、修はかすれ声で彼に尋ねた。
「おいら、太一(たいち)っていうんだ。お前、修、だろ?総代のおばあのとこの。」
「え?あ、うん。」
修は、おばあちゃんの家が『総代』と呼ばれている事を思い出して頷いた。
「友達がお前を見かけて、さ。おい等によく似てるって驚いてた。」
太一は顔を修の顔に近づけると、しげしげと穴のあくほど見つめた。
「ふ〜ん、ホント、おいらによく似てる。驚いたなあ。こんなに似ているなんて。」
太一が感心したようにそう言うのに、修もこくこく頷いて同意した。
「…ね、どうしてこんなに似てるのかな?」
戸惑いから抜け出して、修は太一に問いかけた。こんなにそっくりな顔があるなんて信じられない。途端、太一はにやっと悪戯っぽく笑った。
「それは、お前がおいらの右半分だからさ。お前はおいらの片割れだ。」
「え?」
面食らう修に太一は畳みかける。思いっきり真面目な顔を装う。
「実はな、お前とおいらは、本当は双子で生まれるはずだったんだ。だから、お前とおいらは切っても切れない縁で結ばれている。」
修は話の展開についていけない。
「…う、嘘…。」
「うん。嘘だよ。」
修の戸惑う顔を見て、太一はしれっと言った。
「え?」
思わず修は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。それを見て太一は吹き出した。
「バーカ。騙されてやんの。んな訳ないだろ!」
太一の笑い声を聞きながら、修はやっと事が飲み込めた。同時に怒りがこみ上げてくる。
「酷いよ、騙したんだ…。」
ふるふる震える拳を握りしめ、ぷい、とそっぽを向く。その様子に、今度は太一が慌てた。
「ご、ごめん。怒ったか?悪かったよ。でも、全部が嘘って訳じゃないんだぞ。お前とおいらは本当に血が繋がっているんだ。嘘じゃない。遠い親類なんだ。」
必死で言い訳をする。
「へえ。」
修はそっぽを向いたまま答えた。まだ怒っている。
「だから、ごめん、ってば。」
宥めようとする太一に、修は背中を向けたまま返事もしない。
「…わかったよ。こんなに謝っても許してくれないなら、いいよ。おいら、もう帰るよ。」
とうとう太一も臍を曲げた。
「あ…。」
修は慌てた。ここで太一に行かれたら、迷子の修に為す術はない。
「太一君、待って…。」
引き留めようと振り返った修だが、そこには既に太一の姿はなかった。
「あれ…?太一君?嘘…。」
修は軽いパニックに陥った。今までそこにいたはずなのに、太一は何処に行ってしまったんだろう?辺りを見回してみる。誰もいない。修は独りぼっちになっていた。
「太一君…。帰っちゃったの…?」
修の心に、一人きりになった心細さがひしひしと押し寄せて来た。
「…意地悪…。キライだ…。」
辺りはしんとして鳥の鳴き声すらしない。とうとう堪えきれなくなって、修の目から涙が一粒零れ落ちてきた。思わず嗚咽があふれ出る。
「修?」
いきなり頭上から声が降ってきて、修はびくりと身を震わせた。
(え?)
面食らう修の前に再び、ザザザザッと枝葉を騒がせて太一が降り立った。
「修、お前、大丈夫か?」
太一は修の顔を覗き込んでくる。
「…びっくりした…。」
修はくたくたと座り込みながら呟いた。
「驚かせないでよね、もう。」
必死に笑うのを堪えた顔で、太一は修に謝る。
「悪い、悪い。でも、お前、また腰を抜かしたんだ?男のくせにそんなに気が弱くちゃ、父ちゃんに笑われるぞ。そんなんでいいんか?」
結局、一言多い。修の顔が強ばったのを見て、慌てて両手で口を塞いだが、遅かった。修の顔が赤くなるのと一緒に、その目から涙がぽろぽろ零れ落ちた。
「修、修、ごめん!言い過ぎた。」
慌てて謝るが、修の涙は止まらない。
「…意地悪!僕は…、僕は、本当に…お、置いて行かれたと…思ったんだぞ。…んで、僕…、どうしたらいいか、わかんなくて…。」
修は泣きじゃくりながら、太一に一生懸命訴える。張りつめていたものがぷつんと切れてしまっていた。
「…驚いたんだからな…。寂しかったんだからな…。笑うな…。僕は…。」
そんな修を、太一は口元に微笑みを浮かべて見ていた。微笑ましくて仕様がない、といった表情だった。
「また笑ってる…!…笑うな!」
太一の表情に気付いて、修が怒る。バカにされるのはごめんだ。
「あ、ごめん!そういう意味で笑った訳じゃないんだ!ただ…。」
太一の表情が一瞬で、遠くを見ているように変わった。
「ただ…?」
修はその表情に興味を引かれて、泣くのも忘れて尋ね返した。
「…いいや。何でもない。」
太一はそう答えると、ふるふると首を振って思いを振り切ったようだった。
「それより、泣きやんだんだな。じゃ、おいら、お前を泣かせちまったから、代わりにいいことを教えてやるよ。」
太一が片目をつぶって見せた。
「え?なに?」
修は、太一の策略に乗ってしまった。すっかりベソをかいていたのも忘れている。
「ん?まあ、見てろって。」
太一は曖昧に言って、修の両手を両手でしっかりと掴んだ。
「さあて。修、びっくりしすぎて腰を抜かすなよ。」
そう、修に告げると、太一は口笛を吹き出した。掠れて長く引くその音は、冬の木枯らしを思わせた。
(なに?)
わくわくしながら待っていた修の足下に、一陣の風が吹き寄せた。
「来たな。修、しっかりおいらに掴まってなよ。」
太一は念を押すように言った。そして今度は短く口笛を吹いた。
「え?!」
修が目を見張っているうちに、足下に吹き寄せていた風が渦を巻き始める。そして見る間にそれは強く、激しくなっていく。やがてそれは、修と太一を中心としたつむじ風になった。
「太一君は、風が呼べるの?」
唸りを上げて渦巻く風に、どきどきしながら修は尋ねた。
「うん。でも、これだけじゃないぞ。いいか、しっかり掴まってろよ。」
太一は修の手を掴み直すとまた、ひゅう、と口笛を吹いた。途端、風は二人の足の下に潜り込むように動いて、ふわりとその身体を持ち上げた。
「えっ?!」
呆然とする修に、太一がにこにこと笑いながら言った。
「どうた?すごいだろ?ほら、もっと高いとこまで昇れるんだぞ。」
太一の言葉通りに、風に乗った二人の身体はゆっくりと上昇して、森の木の天辺と同じ高さになった。
がくがくと修の膝が震える。こんなの信じられない。足の下には何もない。風が渦巻いているだけだ。
(…嘘…。)
修の頭から血の気が引いてゆく。同時に意識も遠のいていく。太一の顔が見えなくなっていく。
ふと気が付くと、修はおばあちゃんの家の風通しの良い縁側に横たわっていた。
「何?今の…?夢…?」
口に出して呟いてみた。
「夢じゃなきゃあ…、僕、熱射病にかかっちゃったのかな…。」
修は傾きかけた陽射しを見つめた。
「バカみたいな夢だったな…。」
日が暮れて、夕食をおばあちゃんと食べながらも、修はぼんやりと考えていた。一旦は『夢』で片ずけようとはしたのだけれど、さっきの事はとてもそうとは思えない。余りにもはっきりし過ぎて、余りにも鮮やか過ぎて。
心ここに在らず、といった感じで、機械的に箸を動かしている修に、ばあちゃまが心配して話しかけてきた。
「どうかしたのかいの?修。縁側で昼寝から起きてから、ずっとぼんやりしておるよ。」
「…ん。なんだか変な夢、見てたから…。」
修はばあちゃまに心配をかけたくなくて、口を濁した。
修はこのばあちゃまが大好きだ。正確には修のお父さんのおばあちゃんで、修の曾祖母に当たる人だ。優しくて、元気で、頼りになって、何でもよく知っている、この村の中でも一目置かれる存在だ。だから修達家族は尊敬を込めて『ばあちゃま』と呼んでいる。
修はそれでなくとも身体の事で心配をかけている。これ以上、自分の事で心配かけられない。
「ほう。それはまた…。」
しかしばあちゃまは、修が思ってもみない反応を返した。にこにこ笑いながらこんな事を言い出したのだ。
「修、お前さんは『座敷童子(ざしきわらし)』というのを知っているかの?」
「え?座敷童子?」
修は戸惑った。ばあちゃまの言おうとしていることが判らなかった。
「座敷童子っていうのはの、うちみたいに古くから続いている家に住み着いている、子供の妖(あやかし)さね。その家の守り神じゃと言われとるが、たまに悪戯や悪さをしよる。我が家にも住み着いておっての。昔、修の父さんも、見た事のあるそうな。じゃから修も、座敷童子に悪戯されたんかも知れんの。」
修は驚いてばあちゃまを見た。その顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。修はからかわれている、と思った。だいたい今の世の中、そんなものがいるはずもない。
「ばあちゃま、今時そんな話、流行らないよ。」
修はあっさりかわしたつもりだった。
「修は、信じないんじゃなあ。今の子供はつまらんの。」
ばあちゃまが寂しそうに言った。それからまたにこにこして修に言い出した。
「じゃかの、家の離れの奥座敷に座敷童子が出る、という噂は本当にあるんじゃよ。そんな風に言うのならいっそのこと、修、お前さんが今晩その奥座敷に一人で寝てみてはどうかの?まあ、無理にとは言わんがの。修は、恐がりじゃから。」
修はぐっと詰まったが、反抗心を奮い起こした。このまま引っ込んでは男の面子が立たない。
「判った。僕、今晩奥座敷で一人で寝るよ。」
「ほう。」
ばあちゃまは一言そう言うと、いかにも愉しげに奥座敷に修の布団を用意した。
眠れない。ばあちゃまにあんな風に強がって見せはしたが、電気を消して横になってみると、この古い、人気のない奥座敷はとても恐ろしい場所に思われた。田舎のこと故、どこかで梟が鳴いているのも不気味だ。
(あんな風に意地を張らなきゃよかった…。)
修は内心後悔しながら、布団に潜り込んだ。それでも、ここから逃げ出してばあちゃまに助けを求めようとは思わなかった。
(早く寝てしまおう。朝になれば怖くない。)
頭まですっぽりと掛け布団を被って、修は眠ろうと努力した。
どのくらいの時間が流れたものか、いつの間にか修は、それでもうとうとしていたらしい。
「修。」
ふと、名前を呼ばれたような気がして、目が覚めた。きょろきょろと辺りを見回してみる。誰もいない。いるはずもない。
(よかった…。気のせいだ…。)
修はほっとして呟いた。ばあちゃまの言っていた座敷童子なんかいる筈がない、と思っていても、微妙に気にかかっていた。
障子から月の光が射し込んでいる。外は明るい月夜らしい。
「修。」
声がした。修は飛び上がらんばかりに驚いた。確かに名前を呼ばれた。
「修。ここだよ。こっち。」
声のする方を恐る恐る振り仰ぐ。
「え?太一君…?」
天井の板をはぐって逆さに身を乗り出していたのは、修に瓜二つの顔。修が見分けた、と思って、太一は身軽に天井から飛び降りてきた。
「よお、修。いい月夜だな。」
にこにこ笑いながら太一は修にそう挨拶した。
「太一君…。夢じゃあなかった…んだ…?」
修は信じられない思いで太一を見た。まだ、あれを夢だと思いたい気持ちがあった。
「ばーか。当たり前じゃん。おいらがお前を家の縁側まで運んでやったんだぜ。重かったんだぞ。」
太一がくすくす笑いをしている。修は、その笑顔から、あの後の事を薄々想像出来た。同時に恥ずかしさが込み上げてくる。薄暗がりでお互いの表情がよく見分けられないのが救いだった。
「太一君、どうして天井なんかにいたの?僕、座敷童子かと思って、すごく驚いたんだよ。」
修がわざと話題を変えたのに、太一は少し引いたようだった。
「なんだよ、それ。それより、太一、って呼べよ。気持ち悪い。」
それから、声の調子をがらっと変えて、こんな事を言い出した。
「修、でも、本当においらが座敷童子だったら、お前、どうする?」
修はぎくっとした。怖がっているのを見透かされている、と思った。それから、太一にからかわれているんだ、と判断して、笑い出して見せた。
「やだなあ、太一君ったら。僕、ちょっと本気にしちゃったじゃない。僕だって、そう何度も騙されないよ。」
修が笑い飛ばすのに太一は苦笑いを返した。
「そうかあ。もう騙されないんかあ。別に、それならそれでいいんだけど、さ。」
そして、すたすたと障子の所まで歩いて行くと、それをからりと引き開けた。煌々とした月明かりが差し込んでくる。
「今日は、お稲荷さんの夜祭りなんだ。お前を連れて行ってやろうと思って、迎えに来たんだよ。一緒に行くだろ?」
月を見上げながら太一が言った。
「行く!」
修が即答した。太一はにやり、と笑うと、修に手招きした。
「じゃ、こっちから行くぞ。お前、こんな時間に寝床から抜け出したなんて判ると、マズいんだろ?」
「あ…。」
修はいつも修の身体の事を心配してくれているばあちゃまの顔を思い出した。こんな風に、夜になってから外に出たなんて知ったら、心配の余り卒倒してしまう。
「総代のおばあは、心配性だからな。なるべくそっと出かけようや。面倒なのもお目玉も、お小言もイヤだからな。」
太一は全部心得ているから任せろ、というように、修に目配せした。そして、自分から先に立って老化に出、誰もいない事を確認すると修に合図した。なにか、悪戯する時のどきどき感に似たものを感じながら、修も足音を忍ばせて後に続く。廊下の角を曲がり、縁側に出る。太一は器用に雨戸を外して開けてくれた。ひょい、と地面に飛び降りて、修を促す。修も月の明るい外に飛び出した。思っていたよりずっと明るい。
「修、こっちだ。母屋は避けて行くんだ。おばあはまだ起きているから。」
太一に導かれるまま、修は家の裏手から山道に入っていった。さすがに山道には月の光も届かないらしく、かなり薄暗い。
「修、ちょっと待ってろ。」
太一は修を待たせておいて、道端に寄ってなにやらごそごそやっていたかと思うと、修の見慣れぬ物を引っ張り出してきた。
「提灯(ちょうちん)っていうんだよ。」
しげしげと物珍しそうな顔をして見つめる修に、太一は説明してやった。
「中の蝋燭(ろうそく)に灯を燈して、明かりとして使うんだ。夜道は暗いから、さっき用意しておいた。」
太一は、手際よく火を灯すと、提灯を持ち上げて見せた。優しい灯りがぼんやりと辺りを浮かび上がらせる。明かりが揺れる度、影も揺れる。電気の明かりのように鋭く闇を切り裂くのではなく、光と影が調和している。修はその、光と影の乱舞に、暫し見取れた。
「さあ、行こう。」
提灯をぶら下げた太一が先に立ち、二人はまた歩き出した。
少し歩くと、田圃の中を行く道に出た。再び、月が明るく田圃の水面を照らしている。蛙の合唱が賑やかだ。
「どこまで行くの?」
太一の後をついて歩きながら、修は尋ねた。修はあんまり長いこと歩いて行けない。
「あそこだよ。」
太一が指さす方には、明るい星空を背景にこんもりとした杜がシルエットで見えていた。
「お稲荷さんの鎮守(ちんじゅ)の杜だ。あそこでやっているんだ。」
近づくにつれ、笛の音が聞こえてきた。お囃子の音だ。杜に入って行く。石畳を踏み締め、赤い鳥居を潜る。お社に続く参道を歩いて行くと、提灯の明かりに浮かび上がる第二の鳥居が見えてきた。その先に、多くの人影が見える。
「修、これ。」
うきうきと心逸らせて、第二の鳥居を潜ろうとした修を引き留めて、太一が修に手渡した物。
「何?これ?」
それは、昔風の狐のお面。
「お稲荷さんの夜祭りだからな。みんな、面を着けて狐に化けるんだ。狐以外は参加できない。そういう掟りになっている。」
「へえ…。」
見ると、篝火に浮かび上がる人影はすべて、それと同じような面を着けている。修も太一に手伝ってもらって、狐の面を身につけた。
お社の前の広場の真ん中に、キャンプファイヤーのように焚き火を燃やして、その周りを狐面の子供達が、独特の振り付けの狐踊りを一列の輪になって楽しげに踊っている。炎に照らされて踊るその姿は、妙に幻想的で美しい。
夜店も少し出ていた。子供達が群がっている。金魚掬いにヨーヨー釣り、林檎飴にかるめ焼き…。昔懐かしい、素朴な物ばかりが並んでいる。それがかえって修には新鮮だった。
「修、金魚、掬ってみるか?」
あんまり物欲しげに見ていたので、太一が笑いながらそう声をかけてきた。
「僕、お金、持ってない…。」
修がしょんぼりと言った。
「それなら、大丈夫。」
その言葉に太一は、笑って手にしていた袋を差し出して見せた。
「おいら、ちゃんとこれを持ってきたんだ。これが今夜はお金の代わりになる。」
「何?それ?」
不思議そうに修が問う。
「ん?油揚げ、さ。」
「あぶらあげ?!」
修が素っ頓狂な大声を上げた。
「修、修!しいっ!」
慌てて太一が諫める。
「声が大きすぎ!みんな驚いてこっちみてる!」
修が両手で口を塞いで目だけ動かして辺りを見回すと、確かに狐の面が一斉にこちらを見ている。一瞬、何ともいえない気まずい空気が漂ったが、皆、またすぐに自分達のしていたことの続きに戻っていった。二人はほっと息を付いた。
「ったく、もう、修ったら…。空気読めよ…。」
太一が一気に力が抜けた様子で文句を言った。
「…ごめん。」
修は一応謝って見せて、すぐに自分の疑問を口に出した。
「でも、何で、油揚げ?」
「ばーか。お狐さんには油揚げ、って昔から相場は決まっているんだよ。狐の大好物なんだってさ。」
太一は少し呆れたように言った。
「へえ…。」
修は逆に関心の眼差しで太一を見た。
「太一は、何でもよく知っているんだねえ。すごいな。」
「お前が知らなすぎるんだよ。まったく、都会の子はみんなそうなの?」
太一がつっこみを入れてくるのに、修はちょっと困った。
「他の子の事は…、僕、判らない…。ずっと身体が弱くて、あんまり学校にも行ってないし…。」
太一は一瞬、しまった、という顔をした。それから慌てて誤魔化した。
「そんな事はどーでもいいや。それより、金魚掬い、やろう!」
太一は修を急かすと、金魚掬いの香具師(やし)の狐面に声をかけた。
「オジさん、二人分ね!油揚げ、二枚でいい?」
それを聞いた狐面の目が、キラリ、と光ったように見えたのは、修だけだったのだろうか。香具師の親父は、太一が差し出した二枚の油揚げを黙って受け取ると、引き替えにぽいをふたつ、太一に手渡した。太一は一つを修に渡すと、自分は早速腕まくりをして金魚に向かった。
「よーし、掬うぞ!」
修はさっきの親父の様子がどうしても気になって、金魚を掬うふりをしながら、横目でこっそり様子を窺っていた。すると親父は、誰も見ていない、と思ったのか、受け取った油揚げを一枚、ひょい、と抓み上げて、狐面の口のところの大きな裂け目に放り込んだ。
いや、狐があんぐりと大きな口を開けて、油揚げを飲み込んだのだ。そして、とどめに赤い長い舌が出てきて、ぺろり、とその口の周りを舐めて引っ込んだ。
(えっ?)
修は目をぱちくりさせた。今、自分が見たのは何だったんだろう?思わず太一を見ると、太一も修を見ていて、静かに首を横に振って見せた。
「あーあ、破れちゃった!」
それから大袈裟にそう言うと、修の腕を掴んで立ち上がり、急いでその場を離れた。そのまま修を木陰まで引っ張っていく。
「太一ぃ、痛いよ。」
修が音を上げる。それに太一は真面目な顔で、修の目を覗き込むようにして言った。
「修。お前、見なくてもいいものを見たからって、騒ぐなよ。今日はお稲荷さんの夜祭りなんだ。何が起きても不思議じゃない夜なんだ。お前が騒げば、このお祭りは台無しになる。お前はそうしたいのか?そうじゃないなら、お前は楽しめばいいんだ。余計な事は気にしなくていい。お祭りを楽しむんだ。いいな。」
太一には妙な迫力があった。
「う、うん。わかった…。」
気圧されて修は頷いた。勿論、修にもお祭りを台無しにする気は更々ない。
修は深呼吸を一つすると、覚悟を決めた。こんなことは大したことじゃない。生まれてからずっと、何事も満足いくまで楽しめたことはない。お祭りだってそうだ。身体が弱いせいなのだが、遊び盛りの男の子には辛い事だった。心のどこかで、お祭りをこころゆくまで楽しんでみたい、と思っていた。
「太一。僕、あんまりお祭りって来たことがないんだ。だから、太一の言う通りにする。僕も、楽しい方がいい。」
それを聞いて、強張っていた太一の顔がほころんだ。
「よーし、任せとけ。うんと遊ぼう。」
それから二人は次々と夜店を回った。一緒に林檎飴にかぶりつき、射的で、達磨(だるま)の貯金箱を当てた。かるめ焼きに目を見張り、薄荷パイプに顔をしかめた。香具師の狐面達の反応は、皆、似たり寄ったりだったが、修には最早気にならなかった。喩え、相手に大きな尻尾が生えていようと、開いた口に牙が生えていようと、それがいたって自然に見えたのだった。楽しむ気になれば、どんなことでも楽しめるものなのかも知れない。そしてそれだけ修が楽しんでいる、という証拠なのかも知れない。
ヨーヨーを二つ釣り上げた頃には、修はもうお祭りに夢中だった。他のことは頭から吹っ飛んでいた。楽しかった。太一と一緒だから余計に楽しかった。同じ事で笑い、同じ事に驚き、同じ事に感動する友達が一緒にいる。その事がこんなに楽しいなんて、修は子の時まで知らなかった。修の楽しそうな顔を見て、太一も満足そうに笑った。
その場に出ていた全ての夜店をひやかし、踊りの輪に加わって、見よう見真似で狐踊りも踊った。修にはほとんどが初めての経験で、驚きの連続でもあったのだが、太一が上手にカバーしてくれた。
「ねえ、太一。」
踊り疲れ、はしゃぎ疲れて一息ついた時、思わず修は太一に尋ねていた。
「どうして僕に、そんなによくしてくれるの?」
太一は思いがけない言葉を聞いた、という顔をした。
「どうして、って、お前…。おいら達、友達、だろ?」
「あ…。」
修は予想外の答えを聞いて戸惑った。
「友達と楽しく遊んじゃ、悪いのか?」
太一は少し不機嫌な口調で言った。修は口籠もった。
「ううん、そうじゃない。だけど、僕達、まだ会ったばかりだから…。」
「お前、やっぱりバカだな。」
太一がため息を一つついて、修の顔を覗き込むようにして言った。
「え…?」
「お前、なあ。友達になるのに時間は関係ないんだぞ。おいらが友達だと思えば、それでもう友達なんだ。それだけのことだ。」
それから太一はわざとらしくにやり、と笑った。
「一緒に遊びたかったのは本当だけど、さ。おいら、お前を驚かせてばかりだから、そのお詫び、って事もあるかな。なんちゃって!」
「あ。」
修は、またからかわれている、と思った。太一はいいヤツなんだけど、しょっちゅうそうやって人をからかうのだけは困る。まるで、年下の幼稚園児ででもあるかのように扱われる。確かに、太一は年の割にはしっかりしている、とは思うのだが。
「太一ぃ。あんまりからかわないでよ…。」
修は恨めしげに太一を見た。太一はくつくつと笑っている。
「お前が変な事を言うから悪い!」
そして、突然真面目な顔になって、修のほっぺを軽く抓った。
「もう、そんなバカみたいな事、言うなよ。」
「ん…。」
修は嬉しくなってにこにこしながら太一を見た。太一もやはり、嬉しそうに笑っていた。
しゃん!
突然、鈴が鳴った。お社の大鈴が鳴ったのだ。途端に狐面達が一斉にお社を目指して駆け出して行く。
「お出ましだ!急げ!」
「お出ましだぞ!」
あちこちからそんな声が聞こえる。
「修、おいら達も行こう。急がないと見逃す。」
太一が修の手を引いて、お社の前まで走る。しかし、既にそこには狐面達の人垣が出来ていた。
「何?ねえ、何が始まるの?」
人々の中の妙な緊張感と期待感に、修は自然と声を潜めて太一に囁いた。
「まあ、黙って見てなよ。」
太一は目をきらきらさせて、その期待に満ちた眼差しをお社に向けている。周りの狐面達も皆、同じ目をしているのに気付いて、修も興味を引かれてお社に注目した。
やがてまた、しゃん!と鈴が鳴り、お社の周りに篝火が燈された。大きな軋み音をたてて、お社の大扉が開け放たれる。
ぽうっ、ぽうっ、ぽうっ。青白い狐火が灯る。それとともに、神官装束に頭に烏帽子(えぼし)を乗せた狐が何匹も、厳かな雰囲気を身に纏ってしずしずと歩み出て来た。観衆の狐面達の期待度がピークに近づく。そいつらが扉の左右に分かれてお行儀よく澄まし顔で階(きざはし)に並んで座った。
しゃん!しゃん!しゃん!
鈴が打ち振られた。途端、静寂がその場を支配する。そして、全ての視線が扉に注がれた。瞬間、そこにスポットライトが当てられたような気がした。勿論、そんなものがあろう筈もない。しかし、闇の中に浮かび上がったように見えたのは事実だ。そして、澄んだ鈴の音が何処からともなく聞こえて来る。それは、遙か遠くから聞こえて来るようにも思えたが、やがて開け放たれた扉の、そのまた奥から聞こえるのだと判った。黄金の鈴の、うつくしく、そしてこよなく澄んだ音。しかし、その社殿に、そのような奥行きがあるはずもない。
ちりん。ちりりん。観衆の見守る中、突然、戸口に人影がたった。それはまさに、いきなり、といった感じだった。金色(こんじき)の、輝くばかりに美しい毛並みに、巫女装束の狐達。
おおうっ、と低い歓声が上がった。
「どうだ?修。綺麗だろう?お稲荷様にお仕えしている、位の高い巫女達だ。こうやって彼女達に拝謁してお祓いを受ければ、この一年、無事に過ごせるんだ。健康も、金運も、全ての幸運をもたらしてくれるとも言われている。」
太一が囁く。修は巫女狐達の美しさに、息を呑んで見守っているばかりだ。だが、そのままお祓いを始めるかと思われたその巫女達は、やはり扉の左右に分かれ、神官達同様に階に並んで座った。観衆の中からどよめきが起こる。しかし、その時また、黄金の鈴の音が、扉の奥から響いて来た。皆の視線が一斉に集まる。
ちりん。ちりりん。
それはやはり、不意に現れた。そして、より一層の感嘆の声を上げさせたのだった。
白と金の、炎のようなオーラに包まれて、滑るように階に進み出てきた。
それは、美しい、という言葉だけでは言い表せない『美』だった。
白地に金糸銀糸で木の葉模様を刺繍した十二単(じゅうにひとえ)に、鮮やかな朱赤(しゅあか)の長袴(ながばかま)。そして、その華麗で優雅で雅やかな装いよりもなを美しいのは、その衣装を纏うその人自身。いや、『人』ではない。純白の、内側から仄かに輝いているかのような毛並みに、それこそ神々しいまでに威厳に満ちた黄金の瞳。それは、人型を模倣した狐。白狐(びゃっこ)だ。
「伏見様だ!伏見の二位の姫様だ!巫女姫様だ!」
「こんな所に巫女姫様が御自らお出ましになられるなんて!」
「巫女姫様にお目通り叶うなんて、身に余る幸運!」
「信じられん!巫女姫様のお姿を拝見できるなんて!」
「お美しい!なんたる眼福(がんぷく)だ!ありがたや!ありがたや!」
あちこちから、感極まった囁きが聞こえて来る。
「修。巫女姫様だ。伏見大社からわざわざお出ましになられた。滅多にない幸運だ!お目にかかれる機会なんてそうあるものじゃない。」
太一も興奮して修に囁いたが、修の耳には最早入らなかった。修は一心不乱に巫女姫の姿に見入っていた。他のものは何一つ目に入らなかった。他の事は何一つ耳に入らなかった。ただひたすら修は、その類い希なる美に見惚れていた。
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