桜の木の下には、死体が埋まっているという。だから、あれ程鮮やかに美しい。だから、あれ程にはらはらと舞い落ちる。
ある夜、山奥の村外れの廃校になった分校に、流れ星が落ちた。だが、それは音も光も伴わない落下であったので、誰にも気付かれる事はなかった。やがて時は移り、ある年の春、桜の咲く季節にそれは始まった。

「先生様。」
「あ、慎吾君のお祖父さん。どうかその、先生様っていうのは止めて下さいってお願いしているでしょうに。」
真田涼一は、苦笑いして村びとの呼び掛けに答えた。
「そんな事を言われてもなあ。大学のお偉い先生様じゃのに、他に何と呼べば良いとおっしゃるのかの。」
不満そうに老人は言った。
「だから、真田、でいいんですってば。」
涼一は、かなり強く訴えた。
「そげにおっしゃるだば、真田先生。」
涼一は、溜息をついて妥協した。
「それで、何か御用ですか?」
「ああ、それがのう、慎吾の事なんじゃがな。あの悪ガキ、近頃悪さが過ぎるようでの。」
「はあ…。」
「知っとるかの?村長の足を引っ掛けて、肥溜めに落っことしおった。それから、シゲさんとこの鶏の羽根を、全部毟ってしまいおった。インディアンごっこをするんだとか言いおっての。」
涼一は、思わず吹き出しそうになった。目を白黒させて必死にこらえる。
「そげな悪さばかりするのでの、村の衆もさすがにもう勘弁ならんとウチにねじ込んで来たがです。」
涼一の表情など全然お構いなしに、老人は話続けている。
「それでじゃがのう、先生様。慎吾とその仲間の雄太と拓也の悪ガキ三人組をいっぺん懲らしめてやろうという話になっての。これからが先生様に相談なのじゃが、手伝うて下さらんかのう。」
「はい?」
 涼一は少し驚いた。まさか、こちらにお鉢が回って来ようとは思いもしなかった。
「いや、何も難しい事をお願いしようという訳じゃないがです。話ば聞いて下され。」 涼一は老人に促されるまま、老人の家に足を踏み入れた。

「それでじゃがのう、先生様。」
田舎の常のお茶と漬物を前に、囲炉裏端に腰をおろして涼一は、とうとう老人の計画に加担させられる事になった。
「雄太のとこと拓也のとこ、それからウチとで示し合わせて、悪ガキ三人組をそれぞれ叱り飛ばして家出させる。じゃが、村中がみんなこの計画ば知っておるよってに、連中には村の中に居場所がないし、誰も庇ってやらない。それで、連中はきっと、奴等の言う秘密基地に逃げ込むじゃろう。なあに、秘密基地言うても、山の上の廃校の事じゃ。こちらにはよう解っておる事じゃで。」
「はあ…。」
涼一は曖昧に頷いた。
「あの悪ガキどもは、ちょっとやそっとの事じゃあびくともせんじゃろうから、まあ、ある意味、短期間じゃが村八分にしてやろうという事なんじゃ。」
老人はひとつ溜息をついた。
「本当はあんまりこういう事はしたくないのじゃがのう。やはり孫は可愛いからのう。じゃが、あの根性はなおしてやらんといかん。」
老人は涼一に向き直り、改めて頭を下げた。
「済まんのう、先生様。あんたには、子供達の見張りと保護をお願いしますだ。連中は村中から総すかんを食らうがです。でも、先生様は余所のお人、子供等の味方をしてやって下され。そうでなければ、連中があんなり可哀相じゃからのう。」
涼一は、頷いた。
「はい。そういう事でしたら、お任せ下さい。元々大学の講師をしているくらいですから、子供達の見張りとお世話程度は何とかやれると思います。それに、僕は子供好きだし。」
「いやあ、快く承知して貰えて大変助かりますだ。」
老人はまた丁寧に頭を下げた。
「んだば、また詳しい事ば連絡しますだ。」
涼一は老人の家をあとにした。

見るからに長閑な風景の中、涼一は滞在中の宿をお願いしている村の唯一の寺に向かって歩いていた。
思い出すと自然に顔がほころんでくる。まったくしようのない悪戯坊主共だ、とは思うが、何故か憎めないのも本当の事だ。しかし、村人の対応もまたユニークだ。確かにこの、『村』という閉鎖地域では、人間関係を絶たれる事は死活問題であろう。だから、そうする事によって、ここで生きていく術を教えようというつもりでもあるのだろう。まさに、懲らしめるためと教えるための一石二鳥という訳だ。
涼一は村人の思慮深さに舌を巻いた。このように大自然に抱かれた山村では、生きるための知恵というものがしっかりと根付いている。大学で民族学を学び、民話や伝承を研究している涼一にはとても興味深いものだ。この事をきっかけに、村人と親密になれたら、研究もはかどる事だろう。涼一にとってもこの話は渡りに船だ。涼一は空を見上げた。地平線がぼんやりと霞んでいる。長閑でうららかな春の日だ。

それからニ三日後、あの老人が涼一の元を訪れた。
「先生様、明日あれを実行しますだ。丁度春休みに入ったところだし、正月の小遣いも使い果たした頃合じゃで、村から出ようにも出られまいてに。」
「はあ…。」
涼一は口元に笑みを浮かべた。いよいよ始まるらしい。
「先生様は明後日の朝、差し入れの握飯でも持って、連中の様子を見に行って下され。」
涼一は快諾して老人を送り出した。

「せんせー!」
村の郷土資料を調べるため、小学校を訪れた涼一に声をかけたのは慎吾だった。
「やあ、慎吾君。こんにちは。」
「こんにちは。ね、先生。今朝、ウチのじいちゃんが先生のとこ、行ったでしょ?」
「え?ああ、うん。みえたよ。」 涼一は少しどぎまぎした。
「何の話をしたの?」
慎吾は何気なさそうに尋ねてくる。
「うん?僕の探していた資料が小学校の図書室に有るかもしれないって教えに来てくれたんだよ。」
「ふーん…。」
慎吾は上目使いで涼一の顔色を伺っている。
 「オレ、てっきりオレ達の愚痴でも零しに行ったんかと思った。」
涼一は微苦笑した。当たらずとは言え遠からず、だった。
「そういえば、また悪戯仕出かしたって言ってたなあ。今度は何をやったの?あんまりおじいちゃんを困らせちゃいけないよ。」
慎吾はぷうっと頬を膨らませた。 「別に困らせたくてやった訳じゃあないよ。村長がくどくどとお説教を垂れて、なかなか解放してくれんかったから、ちょっと足を引っ掛けてやったら自分から肥溜めに突っ込んで行ったんだよ。」
涼一はくすくす笑い出した。
「それだけ?ほかにも色々やったって言っていたようだけど…。」
慎吾はぺろりと舌を出して見せた。
「だって、テレビで見たんだもん。少しぐらいやってみたっていいしゃん!」
涼一はまた苦笑した。困った事に悪気はないのだ。
「ね、せんせ。じいちゃん達さ、なんか企んでるんじゃない?様子がヘンだと思わない?」
慎吾が上目使いにかまをかけて来た。
「え?」
思ったより勘の良い子だ。
「だってさ、いつもならナタを持って追い掛け回されてるとこなのに、なんか知らんぷりしてるんだよね。」
涼一は思わず吹き出した。
「へえ、意外と厳しいおじいちゃんなんだ。」
「先生、笑い事じゃないよ。この間はこーんなでっかいたんこぶできたし、その前は痛くて座れないほどケツをひっぱたかれたし。」
慎吾はいたって真剣だ。
「なんだか気味が悪いんだよね。まとめてお説教ならまだましだけど、お寺で座禅なんて真っ平だし。」
涼一は笑いが止まらなくなって来た。
「そうだねえ。そりゃあ、大変だろうねえ。」
「でしょう?だからさ、余計に気になってさ。」
慎吾は真面目な顔をして、涼一の目を覗き込んだ。
「まあ、そんなに気にする事は無いと思うよ。」
答をはぐらかしながら、涼一は慎吾の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「うん…。」
慎吾は不満そうに頷いた。涼一は微笑みながら頷いて見せた。
「まあ、いいや。どっちみち怒られるのは同じだもん。」
 吹っ切るように慎吾は言った。そして、ぺこりとお辞儀をひとつするとニッコリ笑った。
「じゃ、またね、先生。オレ、雄太と約束があるから行くよ。」
「ああ、またね。」
去って行く慎吾に涼一は手を振った。

その日の夜は満月がおぼろに霞んで見える、穏やかな夜だった。慎吾達はどうしていることだろうと、涼一は気にかけながら過ごしていた。明日の朝にならねば手出ししない約束だ。ともかく、三人へのお仕置きが目的なのだ。大事にならぬ内に素直に反省して謝ってくれるのが、村人の為にも当の子供達の為にも、一番良い事なのだけど、と涼一は苦笑しながら思った。あの慎吾に望むのは、少し難しいかもしれない。

次の日の朝早く、涼一は慎吾の家を訪れた。どうしても慎吾達の事が気になってしようがなかった。慎吾の祖父はかなり難しい顔で出迎えた。計画通り、一気にまとめて叱り飛ばして家から追い出しはしたらしいが、思ったより抵抗も悪あがきもせずに、あっさりと追い出されたという事だった。老人は、子供達への差し入れのおにぎりの包みを手渡しながら、涼一に言った。
「あやつら、感づいていたのかも知れん。また何かとんでもない事を仕出かさんとええが。」
「まあ、僕が様子を見て来ますよ。分校への道を教えてください。」
涼一は、老人の不安をも携えて子供達の元に向かった。

まだ舗装されていない田舎道を暫く歩き、今度は山道を登りにかかる。昔はこの山の中腹に集落が有って、小さいながらもそこに分校もあったのだ。そこが今や子供達の秘密基地になっているらしい。結構きつい山道を小一時間ほど登って行くと、行く手にピンクの塊が見えて来た。桜の木の群れだ。
「あそこが分校かな。そういえば学校には桜がつきものだもんな。」
荒い息をつきながら涼一は独り言を呟いた。
「僕も、自分の分のおにぎりを用意してくれば良かった。そうしたらお花見も出来たかな。」
辿り着いてみると、分校に続く道の両側にずらりと桜の木が植えられてアーチを成していた。そして、可愛らしい校舎と猫の額ほどの校庭を囲むようにして、また桜。それが今やほぼ満開に咲き誇っている。
「これは…、凄いなあ。」
この集落の人達はよっぽど桜が好きだったのだろう。山桜、染井吉野、八重桜。涼一には余り桜の種類は判らなかったが、これほど見事に何種類もの桜がいっせいに咲き競う様を見たのは初めての事だった。
風が吹くと、はらはらと花びらが舞い散る。青い空を背景に、まるで夢のような美しさだ。
校庭を校舎に向かって歩いて行くと、先に涼一の姿を見つけたらしい慎吾が、手を振りながら駆け寄って来た。
「せんせー!」
「やあ、慎吾君。おはよう。調子はどうだい?」
顔を見た限りでは変わりなく元気そうだ。
「追い出されたんだって?お腹空いているだろうと思って、おにぎり持って来たよ。」
「わあ、嬉しいなあ!みんなを呼ぶね!」
ぱあっと表情を明るくして慎吾は、校舎の方へ大声で呼びかけた。
「おーい!雄太、拓也!メシだぞぉ!」
声を聞き付けてわらわらと駆け寄ってくる悪ガキ達。涼一の持参した弁当箱に歓声が上がる。育ち盛り、食べ盛りの男の子ばかりだ。すごい勢いでお握りは胃袋に吸い込まれていく。
「うんめー!生き返ったぜ、おれ。」
「うん。ゆうべはメシ抜きだったもんなあ。」
「まったく母ちゃんたら、晩飯を目の前にしていきなり怒り出すんだもんなあ。おれ、逃げ出すだけで手一杯だったよ。」
「うちの父ちゃんもだよ。機嫌良く飲んでいたと思ったら、いきなり成績がどーの、手伝いがどーのって言い出して、一人でキレてやがんの。」
「うちのじいちゃんなんかもっとヒドイよ。後ろから人のケツを蹴り上げて、『お前みたいな悪ガキは、もうウチの子にはしておけん!出ていけ!』だもんな。これって『有無を言わさず』って言うんだろ?この間習ったヤツ。」
食べ物を飲み込む隙が良くあるものだと思えるほどに、子供達は良く喋った。よっぽど大人達のしうちに腹を立てていたのだろう。そして、かなり寂しい、人恋しい思いをしたのだろう。涼一は微笑ましく子供達の話に耳を傾けていた。
「おれさ、」
突然神妙な顔になって雄太が言った。
「確かに悪い事したなあって思っているんだ。しげばあさんとこの鶏、あの後全部死んじまっただろ?ばあさんあれで、卵を売れなくなっちゃって、困り切っているって聞いたよ。ばあさん、一人暮しで、卵を売ったお金で生活していたんだよね…。」
雄太の言葉に、さすがの悪ガキ共もしゅんと下を向いて黙り込んだ。やはりこの子達は、そんなに悪い子ではない。後先考えずにしてしまった事をこんなにも後悔している。
「うん。おれさ、帰ったらしげばあさんに謝る。そして、畑の手伝いして勘弁してもらう。」
慎吾がきっぱりと言った。
「おれが面白半分言い出したことで、迷惑かけちゃったんだもんなあ。おれ、責任取るよ。そうじゃなきゃ男じゃない。」
慎吾は胸を張った。
「男は女子供を泣かせちゃいけないんだ。じいちゃんが言ってた。おれ、一応男だもんね。」
ちょっと恥ずかしそうに笑う。雄太と拓也も頷く。
「そうだよな。俺達、男だ。やったことの責任はとらなきゃ、ダメなんだ。」
思わず握った拳に力が入っている。純真で一途な男の子達だ。村人達の育て方に間違いはない。皆、良い子に育っている。涼一はにっこり頷いた。
「みんな偉いぞ。それでこそ男だ。それじゃあ、まずはご両親達に謝りに行こう。僕も付き合うから。」
途端に慎吾の顔が強張った。
「いやだ。」
「え?」
涼一は思わず慎吾の顔を見直した。慎吾の目が据わっている。
「しげばあちゃんの事は、おれが悪い。それは認める。」
「じゃあ、とうして?」
「だって、有無を言わさず、だよ。お前が悪い、男としてきちんと責任を取れ、って言ってくれれば、おれだってもっと早く気が付いたんだ。おれ、馬鹿だから気が付くまでえらく時間がかかるんだ。」
慎吾はぷいと横をむいた。
「馬鹿なのはしょーがないじゃないか。じいちゃんの孫だもん。それなのに、この事が悪い、って叱られるなら判るけど、いきなり『出て行け!』は納得が行かない!」
雄太と拓也もうんうんと頷く。
「だから、おれ、謝りたくない。しげばあちゃんには謝りに行くけど、じいちゃんにはいやだ。」
涼一は内心頭を抱えてしまった。確かに慎吾の言う事には一理ある。誤りを認めさせたのは大人達の思惑通りである。しかしこの素直な子は、そのやり方が気に食わないで逆にイジケてしまった。これには慎吾の気持ちも解るし、大人達の考え方も良く解る涼一は、完全にお手上げ状態になってしまった。
「…じゃあ、どうするんだぃ?このままじゃあどうしようもないよ…?」
「おれは、このままここに残る。雄太と拓也は家に帰れ。」
「やだよ!慎吾!俺達も一緒にいる!」
雄太と拓也が同時に叫んだ。
「俺達はいつも一緒だ!そう誓ったじゃないか!」
「だけど、これはもう、おれとじいちゃんの問題なんだ。お前達には関係ない。」
「俺達だって、今度の母ちゃん父ちゃんのやり方は気にくわねえ!だから慎吾と一緒に残る!いっそ親達の方が謝りに来るまで立て篭もろうよ!」
「おい、おい!」
涼一は慌てた。話がとんでもない方向へと進んで行っている。
「そんな!こんな所に立て篭もってどうなるって言うんだ?」
子供達の目はいたって真面目だ。そして、自分達の新しく発見した計画に既に夢中になってしまって、涼一の言葉なんか全く耳に入った様子がない。
「じゃあ、まず問題はメシだな。う〜ん、米は未来に頼んで少しずつ差し入れしてもらって、野菜は畑から失敬してくればいい。なんとかなるか。」
慎吾がにっと笑う。完全に悪戯っ子が新しいいたずらを見出だしてご満悦な時の表情だ。
「ふふっ。なんだかキャンプみたいだ。楽しくなってきた。」
拓也がはしゃいで言う。
「ばーか。サバイバルだよ。親達とおれらの戦争だ。」
決意に満ちた口調で慎吾が言った。涼一は青くなった。

「そうですか。奴等は立て篭もると言うてますか。」
慎吾の祖父が重い溜息をついた。
「どうせウチの馬鹿が焚き付けたんでしょう。済まん事じゃ、皆の衆。」
そこには雄太の両親、拓也の両親、そして慎吾の祖父と小学校の校長、雄太と拓也の担任の吉野先生が集まって、涼一の話を聞いていた。
「困りましたね。子供達の気持ちがこじれてしまいました。これは、簡単にはすまないかもしれない。」
校長が言う。
「みんなウチの慎吾が悪いがです。両親ば亡くしてからあいつのイタズラはえらくひどうなった。わしの躾が行き届かんかった。皆の衆には本当に申し訳ないと思うとります。」
慎吾の祖父は深々と頭を下げた。 「そんな、お祖父さんがそんなに謝られる事ではないと皆思っていますよ。」
雄太の父親が困った顔で言った。 「少しばかり、わしたちの考えが甘かった、という事でしょう。あの子達の正義感を見くびっていた…。まあ、あいつらにそういう考え方ができるということは、わし達にとっては喜ばしいことですわ。」
そして、ちょっと誇らしげに笑った。
「ええ。年の割にはしっかりしたお子さん達だとぼくも思いました。」
涼一も頷いた。
「それだけに、問題がこじれていくのが残念で…。」
「そうですな。それは私も同感です。」
吉野教諭が頷く。
「どうでしょうか。少し時間を置いてみては?あの子達は今、何を言っても聞かないでしょうし、面白がってもいるようです。それを考えれば、親元を離れての生活で、親の有り難みを知るのも良い経験でしょうし、親の言う事に耳を貸す気にもなるでしょう。」
「おお、そうですね。それが一番良いかも知れません。では済みませんが涼一先生、また子供達の保護をお願いします。」
雄太と拓也の母親に丁寧に頭を下げられた。こうなると涼一はイヤとは言えない。
「あ、はい。無茶をしないよう、しっかりと見張ります。」
「何かありましたら直ぐに報告して下さい。私たちも直ちに対応できるよう待機しています。」
吉野教諭が言った。

ほぼ、とんぼがえりするような感じで、涼一は分校へと戻る事になった。母親達から缶詰やパンを託され、自分でも懐中電灯や蝋燭、マッチ、固形燃料等、サバイバルに必要な物を大きなリュックに詰め込んで、難儀な山道をまた上って行く。辿り着いた時にはもうへとへとに疲れていた。
「あれ?センセ、どーしたの?」
見つけた拓也がのほほんと尋ねた。
「帰ったんじゃなかったの?」
「君達の事が心配で戻って来たんだよ。ほら、食料も持って来たよ。」
リュックの中身を示すと、子供達から歓声が上がった。そろそろ夕方になろうとしていた。育ち盛りの男の子達である。しっかりと空腹に陥っているらしい。涼一は思わず微笑んだ。
「君達は僕の顔なんかより食料の顔を見られた事の方が嬉しそうだねえ。」
「えへへ。だって腹減ってるんだもん。」
涼一は溜め息をついて固形燃料を取り出して、晩飯の支度にかかる事にした。
飯盒でご飯を炊き、レトルトのカレーを温めて晩御飯にする。まるで本当にキャンプに来ているようだ。楽しげに子供達はスプーンを口に運ぶ。普段と違う環境は食欲を増進させるらしい。よく食べ、よく喋る。
「ねえ、センセ。ひょっとして、親達から俺達の事、頼まれたんと違う?」
しれっと慎吾がスプーンを舐めながら言った。思わず涼一はむせ返った。
「見え見えなんだよね。センセ、すぐ顔に出るタイプだし。」
いやに勘の良い子だ。涼一はどう答えて良いのか迷った。
「ってことは、俺達の考えや行動は筒抜け、ってことだよね?」
慎吾が目を覗き込むようにして言った。
「う…」
涼一が詰まると慎吾はニヤリと笑った。
「それならそれで、別に問題はないよ、センセ。俺達は親公認のキャンプに来ている事になるだけたもん。そうと解れば楽しまなきゃ損かもね。」
慎吾はまた楽しそうな顔をして笑った。

「ねえ、肝試しをしようよ。」
後かたずけをしながら慎吾が言い出した。
「キャンプには肝試しがつきもの、っていうじゃない?」
見るからに楽しそうに言う。
「えっ?!やだよ、俺!」
慌てて雄太が反対した。
「なんでだよ?楽しいじゃん。」
慎吾が唇を尖らせた。
「気味悪いよ!俺、さっき野良犬の死骸を見ちゃったんだ!」
 「なんだい、野良犬くらいで。」
慎吾は鼻で笑った。
「笑うな!一匹や二匹じゃ、俺だって騒がないよ!沢山死んでるんだ、あっちにもこっちにも!」
「え?」
「裏の、桜がいっぱい咲いているとこに、骨だの腐りかけたのだの死んだばかりみたいのだのが、ゴロゴロ転がっているんだ。」
「え?うそ!」
「嘘なもんか!嘘だと思うんなら行って見ろよ!校舎の裏手を入って行った所だよ!」
涼一と慎吾と拓也は顔を見合わせた。
「解ったよ。そんなに言うなら、そこに連れて行けよ。」
慎吾が言った。

「こっちだよ。」
雄太が皆を導く。こころもち声が震えている。やはり、怖がっているらしい。話が本当ならば、かなり気味の悪い話だ。涼一も怖がりの方だから、我ながら少し腰が引けている。
暗い夜空にぼうっと桜が白く浮かび上がる。ろくな明かりもないのに、星明かりだけではらはらと花びらが舞い落ちる様が、夢見るように美しい。
「ほら、あそこ。」
 雄太が恐る恐る指をさす。見ると、一本の桜の根方に半分花びらに埋もれるようにして、茶色い毛皮がのぞいている。
「うげぇ。」
慎吾が奇妙な声を上げた。
「マジかよ。」
花びらが覆い隠していて目立たないが、注意してよく見てみると、確かにあちらの根方、こちらの根方に、動物の死骸が転がっている。
「俺の言った通りだろ?」
雄太が少し震える声で言った。
「うん…。何だろう…?気味悪いな…。」
さすがの慎吾も腰が引けてきた。
「やっぱ、止めようよ、肝試し…。」
雄太が言うのに、慎吾も頷いた。
「うん、解ったよ。ともかく戻ろう。気味が悪い。」

校舎の中に戻っても、変に沈んだ空気が皆を押し包んでいた。
「やだなあ、何であんなにいっぱい死骸があるんだ?」
拓也がぶちぶち言った。
「そうだよなあ。村の爺さんの誰かが農薬でも仕掛けたんじゃないかな、野良犬駆除のために。」
慎吾が考えながら言った。
 「ああ、そっかあ!そう言えば、うちの隣の池田のじいちゃんが、鶏を野良犬にやられた、とか言って怒ってた!あのじいちゃんならやりかねないよ!」
拓也が興奮して言う。
「ちぇっ、そーだったらべつに騒ぎ立てる事じゃあねーじゃん。」
冷めた眼差しと口調で、慎吾が言った。一気にその場はシラけた。

次の朝、経過を報告しに涼一は村へと降りて行き、お気楽三人組は食料調達に行く事にした。食べ盛りの子供達が三人では、涼一の持ち込んだ食料はいくらも持たない。親公認で遊べるとなれば行動は素早い。さすが悪ガキ三人組だ。今日も良い天気だ。桜の花も今が盛りと咲き誇っている。
とりあえず経過を報告し、また引き続き監視と保護を頼まれて、涼一はついでに自分の論文の書きかけの原稿も携えて分校へと戻っていった。多分、あとニ三日で決着がつく事だろう。そうすれば自分もそれでお役御免だ。それまでは自分もこの生活を楽しむ気だった。
「せんせー!しげばあちゃんのとこに誤りに行ってきたよ!ばあちゃん、許してくれたよ。俺達来週から畑の手伝いをするよ。」
顔を見るなり慎吾が嬉しそうに報告してきた。
「そりゃあ良かった!これで堂々と村に帰れるね。」
「うん!あとはじいちゃん達が迎えに来るまで楽しく過ごすだけだね。」
慎吾はすごく嬉しそうに笑った。
「あ、未来が晩飯作りに来るっていってたよ。あと、食い物を持って光彦と康太と新一郎が合流するって。美弥と亜里紗とさやかも来るかもしんない。賑やかで楽しくなるぞ。」

昼を回ると次々に子供達が合流してきた。
「二泊三日のキャンプなんてすごいよなあ。しかも親の見張りもないなんてさ。あ、でも夜には吉野先生が付添に来るんだって。」
体の大きい新一郎が、自転車に食料を沢山乗せて来てそう言って笑った。
「こう人数が増えたんじゃあ涼一先生一人じゃ大変だろうって。おれ、伝言頼まれたんだ。夜までには子供達の夜具を用意して合流するって伝えておいてって。」
事態は本格的な児童キャンプと化してきた。
「おーい!」
 「あ、吉野先生!」
夕方が迫る頃、二dトラックに毛布を積んで吉野教諭が合流した。
「みんな揃っていますか?やまびこ学級全員に声をかけたんだけど。」
「全員?」
慎吾が素っ頓狂な声を上げた。
「そうですよ。楽しい事はみんなで楽しむべきですからね。」
吉野教諭がニッコリ笑って言った。
「うわっ。学校行事かよ!」
そうツッコミを入れながらでも慎吾も嬉しそうだ。
「まずは晩御飯の準備ですね。それから教室に寝床の用意をして、定番のキャンプファイアーとまいりましょうか。」
「はーい!」
子供達は声を揃えて返事した。

吉野教諭がカセットコンロや発電機を持って来てくれたので、かなり本格的な晩御飯ができそうだ。女の子達が張り切って腕を奮っている。やがておいしそうな匂いが漂ってきた。
「さあて、みんなご飯ができましたよ!教室にテーブルの用意をして下さい!」
吉野教諭の号令で子供達が一斉に駆け出す。涼一は微笑ましく眺めていた。

「あれえ?康太は?」
誰かがふと言い出した。
「え?あれ?新一郎といっしょにいたよね?」
さやかが新一郎に聞く。
「うん。さっきまで一緒だったんだけど…。どこ行ったんだろう?」
不思議そうに新一郎が首を傾げた。不安を覚えてさやかが大声を出した。
「せんせー!康太がいないよ!」

もう夕闇が降りて来ようとしていた。
「しようのない子ですねえ。探検にでも行っているんでしょうか。わかりました。みんなはこのまま晩御飯にしていて下さい。涼一先生、すみませんが一緒に探して下さい。」
「はい。」
涼一は簡単に頷いた。すぐに見つかる事だろう。男の子の好奇心故の行動。そうたかを括っていた。
念のため懐中電灯を手に、分校の回りを探す。
「おーい!康太!メシだぞう!」
育ち盛り食い盛りの男の子だ。この声を聞けばすぐに出て来るだろうと思っていたのだ。しかし、康太は一向に姿を現さない。
「おーい!康太君!どこですか?!」
あちらから吉野教諭の声が聞こえる。あちらでもまだ見つからないらしい。一体どこに潜り込んでいるのだろうか。
「先生!康太、見つかった?」
懐中電灯を持って慎吾達が駆け寄ってくる。
「あれ?晩御飯を食べているよう言われていたんじゃなかったっけ?」
心配かけまいとわざと涼一は茶化して言った。
「んなもん、とっくに腹ん中だよ!それよか康太が心配だよ!」
真面目な顔だ。
涼一はため息を一つついて頷いた。
「わかった。じゃあ、手分けして探そう。分校の中は探した?」
「今、未来達が探してる!どっかの戸棚にでも入り込んで出られなくなっているんじゃないかって、さやかが心配してさ。」
「上出来だね!じゃあ、分校への上り道の方を探してくれないか?僕は吉野先生と校舎の裏を見てくるよ。」
「うん、新一郎、雄太、拓也、行こう。」

みんなでいくら手分けして探してみても、なかなか康太は見つからない。
「涼一先生、私は一度村へ戻ろうと思います。これだけ探しても見つからないなんて、ひょっとして家に帰ったのかも知れないですし。すぐにまた帰って参りますので、その間子供達をお願いします。」
吉野教諭が決断した。
「はい、わかりました。ここでは携帯電話も使えませんしね。」
涼一は頷いた。全く今時信じられない不便さだ。
「先生、僕も行くよ。」
 新一郎が言い出した。
 「僕、自転車で村までの道を探しながら家まで戻ってみる。それで康太を見つけたら、連れて帰って先生に連絡するよ。」
吉野教諭と涼一は顔を見合わせた。もう夜も更けてきた。康太も心配だが新一郎を危険に晒す訳にもいかない。でも…。
「わかりました。新一郎君、お願いします。ただし、村の入口までは私の車と並走していきましょう。目が四つの方が探し物は見つけ易いでしょう。」
吉野教諭が笑って言った。
 話は決まった。

吉野教諭と新一郎が出発して行く。不安げな顔でみんなが見送る。そんなみんなを桜が見下ろしていた。ほのかに白く浮かび上がる花影は、それ自体が発光してでもいるかのようだ。
「康太、家に帰っているといいな…。」
未来が小さく呟いた。
「うん…、大丈夫だよ、きっと…。」
慎吾が自分に言い聞かせるかのように言った。
「さあ、みんな。中に入ろう。もう今日はキャンプファイアーも延期だから、教室で大人しくゲームでもしようか。」
不安な思いを抱きながら、それでも子供達は元気だ。はないちもんめやだるまさんがころんだ。昔懐かしい遊びをしてみる。結構ウケている。体を動かしているという事も、気を紛らす役に立っているのだろう。
「涼一先生、吉野先生遅いね。わたし、ちょっと見に行ってくるね。」
不安に耐えかねたのかさやかが廊下を駆け出して行った。
「おい、ちょっと…。」
涼一が止めようとした時。
「涼一先生!美弥が怪我した!」
振り返ると美弥がうずくまっている。
「美弥ちゃん、大丈夫かい?」
慌てて駆け寄ってみると、足首を軽く捻っただけらしく、美弥は痛そうにしながらも頷いて見せた。
「ごめんなさい。ちょっとはしゃぎ過ぎちゃった。」
涼一はほっと息を着くとさやかの消えた闇を見つめた。イヤな予感がする。
「みんな、悪いけどここでじっとしていてくれないか。僕はさやかちゃんの様子を見に行ってくるから。」
大きな声で言い置いて、さやかのあとを追って駆け出す。
玄関まで来てみたのだが、さやかの姿はない。どこまで行ったのだろう。外に出たのだろうか。外の闇を透かしてみても何も見えない。桜が白く咲いているばかりだ。
「おーい!さやかちゃん!どこだい?!」
涼一の声はまるで桜に吸い取られるかのように闇に消えていく。涼一は校庭に出てさやかを探した。見つからない。ひょっとして校門の外まで行ったのだろうか。それにしても呼び声が聞こえぬ筈はない。
涼一はゆっくりと校門へ向かった。静かだ。子供達の声もここまでは聞こえない。少し風が出て来たのか桜の花びらがはらはらと舞っている。それは鬼気迫る美しさだ。ふと視線を感じたような気がして、涼一は頭上を振り仰いだ。誰もいない。いる筈もない。思わず涼一は背中に悪寒を感じて身震いした。
(なんだ…?この感じは…?)
「さやかちゃん…、どこだい…?」
自然と声が震えてくる。
「さやかちゃん…。」
校門に辿り着いても、さやかの姿はない。村への道へ向かったのだろうか。ここから先は懐中電灯が必要だ。涼一は一度校舎に戻る事にした。さやかもだが、残した子供達も心配だ。吉野教諭はまだだろうか。携帯すら使えないこの状況が恨めしい。

「センセ、さやかは?」
教室に入ると未来が駆け寄って不安そうに尋ねた。
「うん…。見つからないんだ…。今、懐中電灯を取りに来たんだ。あ、みんなはここで大人しく待っていてくれないかな。」
「ヤだよ!」
とたん、慎吾が怒鳴った。
「康太も見つかってないんだよ!今度はさやかまでいなくなるなんて!オレも絶対探しに行く!」
「私も行く!」
未来が叫ぶ。
「僕も!」「私も!」
こうなると皆口々に言い出してこっちの言うことなど聞こうとしない。
「わかった!わかったから、ちょっと待って。」
涼一は必死に押し留める。
「吉野先生が戻られるまで、勝手な行動を取っちゃだめだよ!」
「だけど、さやかが…。」
「わかってるってば!だけど君達まで危ない目には遭わせられないんだ!お願いだからわかってよ!」
「だって!」
慎吾と睨み合いになる。その迫力に涼一はたじろいだ。
「オーケー。」
 軽く首を振って、涼一は譲歩することにした。
「じゃあ、男の子は僕と一緒にさやかちゃんを探しに行く。女の子は教室に残って大人しく待っている。これでどうだい?これ以上の案があったら出してくれ、こっちが聞きたい。」
「どうして女の子がダメなの?」
未来が不満そうに言う。
「心配なのは私達も同じなのに。」
「わかっているから、未来ちゃん。ても、僕にはさやかちゃんを探している間の、君達の安全を確保しなきゃならない義務があるんだ。だから、女の子達は一番安全なここにいてくれると、僕が安心できるし、さやかちゃん探しにも没頭できる。お願いだからここにじっとしていておくれ。」
「うん…。」
仕方なさそうに未来は頷いた。
「じゃあ、男の子達は懐中電灯を持って出発だ。」
慎吾は少し意気込んで言った。

 「おーい!」
「さやかー!」
闇の中に声だけが響く。
(さやかちゃん、何処へ行ったんだ?あんな短い時間でそんなに遠くまで行けるはずはないし…。それなのにどうして見つからないんだ?)
涼一の頭は混乱した。男の子達の手を借りてこんなに探し回っても見つからない。
「センセ、オレと雄太と拓也はもう一度校舎の裏をみてくる!」
痺れを切らしたように慎吾が叫んで、三人で駆け出して行く。
「あ、慎吾君!待って!別行動は…!」
慌てて引き止めようとしたが間に合わなかった。涼一は、闇に溶け込むように見えなくなっていく三人の背中を祈るような気持ちで見送った。
(無事で戻ってくれ…。)
あれからかなり時間が経っているのに、吉野教諭は戻ってこない。康太は無事に家に帰っているのだろうか。
(何で僕がこんな目にあっているんだ?)
涼一は、ふと恨めしい思いに捕われた。

慎吾達は校舎の裏に向かっていた。微かな風に乗って桜の花びらがひらひらと舞い落ちてくる。しかし、雄太は少し及び腰になっていた。あの、犬の死骸の件が引っ掛かっているのだ。
「ねえ、慎吾。なんだか気味が悪いよぉ。」
思わず口に出てしまう。
「何言ってんだよ。さやかが心配じゃないのかよ!」
慎吾はプリプリ怒りながら、先に行ってしまう。
「待ってよ!」
 慌てて後を追おうとした雄太の耳に、ふと何か聞こえたように思った。
(あれ?何だろう?)
雄太は立ち止まって辺りを見回した。だが、何も変わったことはない。ただ桜がはらはら散るばかり。
(気のせいかな…?)
雄太がそう思い始めた時、
(……。)
(あ、やっぱり気のせいじゃない…。誰か、呼んでいる…?)
雄太は惹かれるようにそちらに向かって行った。

「先生!雄太がいない!」
慎吾が息を切らせて報告する。
「え?!雄太君が?慎吾君が一緒に痛んじゃなかったの?!」
涼一は、頭から血の気が引いていくのが感じられた。
「うん…。途中までは一緒だったんだけど…。気がついたらいなくなってた…。」
慎吾はうろたえている。
「どうしよう?!オレの責任だ。」
さやかに次いで雄太までも。一体何が起きているんだ?
「探したの?校舎に戻っているんじゃないの?」
現実を直視できずに、涼一はそう慎吾に尋ねていた。
「探したよ!教室にも行ってみた!どこにもいないんだよ!どうしよう!」
慎吾はパニックに陥っている。涼一も混乱している。
「先生…。」
光彦が涼一の腕に縋り付いた。
「恐いよ…。」

涼一はみんなを連れて校舎に戻っていた。みんな怯えている。わずかな時間の間に仲間が二人、消えてしまった。理由がわからない。ワケがわからない。
「先生、なんだか恐い…。」
女の子達が涼一の横で寄り集まってお互いの手を握り合っている。
「先生。さやかと雄太、どこに行っちゃったんだろう…?康太は見つかったのかな…?」
しょんぼりと慎吾が呟いた。
「何か変だよ。どうしてみんないなくなっちゃうの…?」
「……。」
 涼一は、答える事が出来なかった。そして、そんな空気をどうにかしようと、ラジオの電源を入れてみた。いつもなら軽快な音楽が流れ出すはずなのに、そこからはザーザーと雑音が響いて来るばかり。みんなの間に気まずい空気が漂う。途端、美弥が泣き出した。
「わたし、お家に帰る…!もう、こんなとこ、いや…。」
それが引き金になったのか、女の子達が次々と泣き出した。気丈な未来までがべそをかいている。涼一は女の子達をなだめながら途方にくれた。

「先生、みんなで村に戻ろう。おれ、それが一番良いと思う。」
普段大人しい信行が言い出した。
「もう無理だよ。吉野先生も戻ってこないし、キャンプ取りやめにして村に帰ろうよ。」
「先生、そうしようよ。」
女の子達が涼一を縋るような目で見て言った。
「…。わかった、そうしよう。」
涼一は決断した。

とりあえず手に手に懐中電灯を持っただけで、ひとかたまりになって出発することにした。荷物など、明日車で取りに来ればよい。今は村に戻ることが先決だ。どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。もうかなり夜も更けてきた。子供達が集まった。女の子は未来に美弥、祥子、早紀。男の子は慎吾に拓也、信行、光彦。大人は涼一ただ一人。今日の午後に集まった時には、吉野先生や康太、新一郎、さやか、雄太もいて、あんなに賑やかで楽しかったのに。どうしてこんなことになったんだろう。
校舎の出口に立つと、いやに外の闇が濃いように見えた。桜の花だけがぼうっと白く浮き上がって見える。涼一はぶるっと身震いした。何故だろう。イヤな予感がする。自分一人なら逃げ帰ってしまうシチュエーションだ、などと考えながら、子供達の顔を見る。みんな不安と恐怖でいっぱいいっぱいの顔をしている。何とかみんなを無事に村まで送り届けなければ。涼一は自分を奮い立たせた。
「さあ、行くよ。みんな離れ離れにならないようにね。」

暗い。桜の花びらがハラハラと散る中を、懐中電灯の明かりだけを頼りに歩いて行く。校門を出て桜並木に入る。みんなびくびくしている。とたん、一陣の突風が吹いて花びらが舞い散り、桜吹雪となった。
「うわー!」
思わず歓声が上がる。みんな我を忘れてうっとりと見上げている。それほどに素晴らしい眺めだった。
やがて風が収まり、涼一はため息を一つついて現実に戻ってきた。みんなを村まで連れて帰らねば。子供達はまだぼうっとしている。
「さあ、先を急ぐよ。みんないるね?」
慌てて子供達はお互いの顔を確かめているようだった。
「せ、先生!美弥がいない!」
未来が金切り声を上げた。
「えっ?!」
「さっきまで私の隣にいたのに!美弥がいない!」
涼一は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「美弥!美弥!どこ?!どこ行ったのよ!」
未来はパニックに陥っている。咄嗟に涼一は未来を抱きしめた。
「落ち着いて!未来ちゃん!大丈夫だから!僕がついているから!」
子供達は皆そこに立ちすくんでいる。あまりのショックに真っ青になりながら、何もできずただ立ちすくんでいる。
涼一は未来を安心させようと懸命になりながら、子供達に呼び掛けた。
「みんな、なるべく僕の近くに来て。女の子は内側に入って、男の子は女の子を庇ってあげて。」
「拓也、信行、光彦。円陣を作れ。懐中電灯を外側に向けて。異常があったらすぐわかるように!」
それに応じて慎吾が的確な指示を出した。男の子達は自分の恐怖を押さえ込み、健気にも女の子を守ろうと懸命になってくれている。そんな思いを汲み取っているせいか、女の子達はパニックに陥りそうな自分を必死に押し留めているようだ。やっと未来も落ち着いて来て、泣きじゃくりながらも暴れるのをやめた。
涼一は未来の背中をポンポンと叩いてやりながら、男の子達の懐中電灯に照らし出された辺りを見回した。明かりの届く範囲には何もない。誰もいない。ただ、風に乗って花びらが散るばかり。美弥は何処に行ったのだろう。何故いなくなったのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃになって来た。
(どうしたらいい…?)
涼一は考えた。美弥を探すべきか、それとも…。
「みんな、行くよ。村に帰ろう。」
涼一は決断を下した。
「え…?」
未来が涼一の顔を信じられないという顔で見上げた。
「美弥は…?」
「ごめんね、未来ちゃん。今はみんなで村に帰るべきだと僕は思う。一体何が起きているのか全然解らないんだ。この状態で、更にみんなを危険にさらしてまで美弥ちゃんを探すメリットはないよ。君達全員を村に帰してから、村の大人達総動員して探してもらった方がいい。美弥ちゃんもさやかちゃんも雄太君も。」
未来は目に涙を貯めながらも、渋々頷いた。
「よおし、僕が先頭に立つから、男の子は女の子を気遣ってあげて。行くよ。」
恐る恐る一行は歩を進めて行く。
「ひっ!」
突然、祥子が悲鳴を上げた。
「どうした?!」
「何かが顔に…。」
懐中電灯で祥子の顔を照らしてみる。ふっくらした可愛い頬に何か付いている。涼一は手を延ばして触れてみた。赤黒い、少し粘つく液体。
「これは…血?」
涼一の背筋をぞっと冷たいものが走った。咄嗟に懐中電灯を上に向けてみる。
「!」
照らし出されたのは男の顔。一瞬、見開かれた目と視線が合った、と思った。恐怖に見開かれ、そのまま凍りついた瞳と。引き歪んだ唇からは、ぽたりぽたりと血が滴り落ちている。
「吉野先生…?」
それは変わり果てた姿となった吉野教諭だった。
「きゃあ!」
「吉野先生!」
子供達が一斉に叫ぶ。一体どうして?何故?
「いやあ!吉野先生!」
突然、パニックに陥った祥子が泣き叫びながら一目散に校舎の方へ駆けだした。
「祥子ちゃん!待って!」
呼び止めたが聞こえていない。咄嗟に安全な場所を求めたのだろう。
「うわー!」
集団心理というものか、拓也と光彦と早紀までもが祥子のあとを追うように駆け出す。もう歯止めが効かない。この現状から逃げ出したい。気付いたら、涼一も駆け出していた。
前方を子供達が何か叫びながら無我夢中で走って行く。すぐ傍を慎吾が走っているのが判る。やはり引き吊った表情で。でも涼一は自分で自分を制御する事すら出来ない。思考が停止している。
ひゅん!
何か鋭い音がして、先頭を走っていた祥子の姿が消えた。
「!」
「祥子!?」
一同不意をつかれ、足を止めて辺りを見回す。どこを見ても祥子の姿はない。未来が祥子の走っていた辺りの地面にペタリと座り込んで、拳で地面を叩き始めた。
「祥子…、今出してあげるからね…。こら、地面。祥子を離せ。」
完全に我を見失っている。
「未来、しっかりしろ!」
慎吾が駆け寄って未来の肩を揺する。
「祥子はそんなところに居やしない!祥子は…。」
慎吾の懐中電灯が、ぐるりと光りの円を描き出す。それを一同目で追う。
「!…祥子…!」
満開の桜。その中程の枝に祥子はいた。無数の細い枝に全身を貫かれ、首には細い蔦状のものが巻きついている。やがてぽたりぽたりと血が滴り落ちて来た。
「なに…これ…?」
さっきの吉野教諭の姿と重なる。
「みんな、死んでる…。」
「いやー!」
誰が叫んだのか、もはや判らない。てんでに叫びながらただ闇雲に走る。どこか、安全なところ。誰か、この状況から救ってくれる人。
「助けて!お母さん!」

気がつくと、分校の教室の中にいた。子供達は涙で顔をグシャグシャにして、ガタガタ震えながら教室の隅に固まってしゃがみ込んでいる。
「恐いよ…、お母さん…、恐いよ…。」
「助けて…助けて…。」
耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じて、そうしていれば全ての恐ろしい物事が通り過ぎていってしまうとでも信じているかのようだった。涼一は自己嫌悪に陥った。この中で大人は自分だけなのに、余りの恐怖に我を忘れて逃げ出してしまった。このいたいけな子供達を守ってやらねばならない立場なのに。でも、何が起こっているんだろう。何故、吉野先生や祥子ちゃんは死んだのだろう。いや、今はどうしたらみんなを無事に家族の元に戻せるかを考えるべきだ。これ以上の犠牲は、もう出してはいけない。涼一は覚悟を決めねばならなくなった。
その時、身を寄せあって震えていた子供達の中で、いきなり慎吾が立ち上がった。
「雄太が呼んでる…。」
「え…?」
涼一はごくりと唾を飲み込んだ。さっきいなくなった雄太なのか?
「雄太だ!雄太がオレを呼んでる!助けてくれって呼んでる!」
慎吾はそう叫ぶと脱兎の如く教室を飛び出した。
「慎吾君!」
涼一の声は慎吾には届かない。一気に廊下を駆け抜けていく。
「慎吾君!」
涼一は慌てて後を追った。
慎吾は脇目も振らず校舎を飛び出した。
「雄太!どこだ?今助けに行くぞ!」
玄関先で大声で雄太を呼ぶ。そしてまたいきなり駆け出した。慎吾には涼一には聞こえない雄太の声が聞こえているのか。校舎の裏に向かっている。
「慎吾君!」
桜の群れ咲く所で、慎吾は急に立ち止まった。涼一は慎吾にやっと追い付くと、そっと慎吾の肩に手を置いた。
「慎吾君…。」
慎吾はそんな涼一には目もくれず、ひたすら耳を澄ましている。そして、涼一の手を振り切るように、今度はゆっくりと歩き始めた。やはり慎吾には何かが聞こえているのか?やがて慎吾は、見事に咲き誇っている一本の桜の下で立ち止まった。
「雄太、そこにいたの…。」
桜を見上げて呟くように言った。
「ひっ!」
そこに、雄太はいた。やはり細い枝に全身を貫かれ、太い枝に引っ掛かるようにして。間違いなく死んでいる。
ぽたり。血が滴り落ちて来た。しゅるん。微かな音を立てて、どこからともなく細い蔦のようなものが伸びて来てその血を掬い取った。見ると、雄太の身体のあちこちに、その蔦状のものが食い込んでいる。
「血を…啜っている…?」
涼一は戦慄を覚えた。桜が血を吸っている?人の血を吸って咲き誇っているのか?まさか…?
「雄太…。」
慎吾が桜を見上げてうっとりと呟いた。
「ああ、綺麗だなあ。お前、桜に食われて桜になったんか…?」
ひゅん!また微かな音がして、今度は慎吾の両手首に蔦が巻きついた。
「慎吾君!」
慎吾の身体が空中高く持ち上げられていく。涼一が飛び付いて引き戻そうとするが、振り落とされてしまった。
「慎吾君!」
あっという間に梢の天辺まで持ち上げられた慎吾の身体に、無数の蔦が絡まり着いていく。だが、慎吾の表情は変わらない。うっとりと夢でも見ているかのようだ。
「慎吾君!」
涼一は成す術もなく慎吾を見上げる。慎吾には涼一の声は聞こえていない。でも、涼一には聞こえない何かが聞こえているようだ。
「なあ、雄太。オレ、いつもお前とつるんで遊んでたよなあ。楽しかったなあ。いたずらもしたけど、お前はいつもオレを庇ってくれたよな。それなのにオレは、お前が一番助けて欲しい時に、何にもしてやれなかったんだなあ…。雄太…、ごめんよ…。オレ、お前の友達だと思ってたんだよ。だけど…間に合わなかったんだね。お前、こんなになっちゃって…。」
慎吾の頬につうっと涙が一筋流れた。
「雄太…、また、一緒に遊んでくれるかなあ…?」
ひゅん!途端、唸りを上げて一本の蔦が伸び、慎吾の身体を貫いた。
「!」
瞬間、慎吾の全身が硬直し、やがてぐったりとした。涼一は目を逸らした。酷い。蔦はすごい勢いで慎吾の血を吸っていく。辺りの桜がうっすらと光っていた。この蔦は桜から伸びているのか?桜に蔦?しかも吸血蔦!?馬鹿な!涼一は混乱の極みだ。慎吾が死んだ。雄太も吉野教諭も祥子も。殺された?そうだ。殺されて…血を吸われた。『桜に食われた』と慎吾は言った。桜が人を食っている?この桜が?涼一は桜を見上げた。ざわざわと枝がざわめいている。涼一はぞっとした。桜が自分を狙っている。次なる獲物として、じっとこちらを伺っている。
「うわー!」
涼一は一目散に逃げ出した。

校舎の中に入って、涼一はやっと自分を取り戻した。さっき自分の目の前で起きた事が、今だ冗談だとしか思えない。しかし、事実だ。目の前で慎吾は殺された。どうしよう?あの桜が慎吾達を食った、というのなら、自分はどうすべきなのだ?
「逃げなきゃ。」
涼一は震える手を握り締めた。
「子ども達を連れて、逃げなくちゃあ…。」

急いで教室に駆け戻る。子ども達は教室の片隅に震えながらかたまってうずくまっていた。
「みんな、急いで逃げるよ!」
その声にはっと顔を上げるが、その顔は一様に真っ青だ。
「先生、慎吾は…?」
震える唇で、それでも友を心配して拓也が尋ねた。
「…死んだ…。」
涼一の答に子供達の顔が引きつる。
「だから、逃げなきゃあならないんだ…!早く!今度は僕等の番かもしれないんだ!」
子供達も事の重大さが理解できたらしい。逃げなければ死んでしまうという事実。
「逃げよう、急いで。」

濃い闇の中を、子供達を連れて歩く。懐中電灯の明かりだけを頼りに。怯え切った子供達。気は焦れども、震える足はなかなか進もうとはしてくれない。少し吹き始めた風に、桜吹雪が舞い踊る。その桜にじっと見られているような気がする。
涼一はぐっと歯を食いしばった。恐い。だが、進まねばいずれ殺される。自分も子供達も。吉野教諭の恐怖に満ちた死に顔が浮かぶ。祥子や雄太や慎吾の顔が。 逃げ切らねばならぬ。

校庭を抜けて校門まで辿り着いた。確かこの辺りだった。祥子が死んでいたのは。恐る恐る懐中電灯の明かりを桜の木の方へ向けてみる。一同緊張して見守る。しかし、そこにあるはずの祥子の酷たらしい姿はどこにもなかった。なんとなく安堵感のようなものがみなの間に漂った。さっきの事は夢だったのだろうか?夢ならばどんなに良いだろう。
(桜に喰われた…。)
涼一は思った。
(あの犬達のように祥子は肉体も喰われた…。)
 しかし、涼一はその考えを口に出すのはやめた。みなを余計に怯えさせるだけだ。
 桜が見ている。また歩き始めた一行を。恐怖に戦きながら、その恐怖から逃れる為にも、歩を進めるしかない一行を。今はもう、あの酷い死体達は見当たらない。ただ、異常なくらいに美しく咲き誇る桜だけが、うっすらと輝いているかのように見える。
 (チクショウ…。みんなを養分にして、より綺麗になりやがったのかよ…。)
涼一の中に恐怖とは違う感情が生まれようとしていた。
(なんだっていうんだよ…。何で桜が人を襲うんだよ…?人を襲って喰っちまうんだよ…?冗談じゃあないよ…!殺されてたまるかよ…!)
それは怒りに似たものだった。不条理なものに対する。しかし、行き場のない哀しみでもあった。
(何で俺達がこんな目に会わなきゃならないんだよ…?!)

懐中電灯の明かりの輪の中に、道路の端に寄せて止められた一台の車が浮かび上がった。どうやらその車で吉野教諭は戻って来たのだろう。
(わざわざ殺される為に戻って来たようなものだ…。)
涼一は口の中で呟いた。
(戻らなかったら、あんな酷い姿にならなくても良かったのに…。それにしても、探しに行った康太君は見つかったんだろうか…?無事ならいいけど…。)
ふと、康太の事に思いを馳せた時。
「康太!」
 拓也が叫んだ。見ると、少し前方の桜の木陰に、小柄な人影が佇んでいる。いなくなった康太だ。
「康太!」
わらわらと皆で駆け寄って問い掛ける。
「康太、お前、今まで何処で何してたんだよ!皆、探したんだぞ!お前がいなくなったりしなければ、吉野先生もあんな…。」
詰め寄る拓也に康太は何の反応も示さない。ただぼうっとそこに立ち尽くしているだけだ。
「おい!何とか言えよ!」
無表情な康太にキレて、拓也が康太の肩を軽く突いた。途端、ぐらりと康太の身体が揺らいで、次の瞬間地面に倒れ込んだ。
「康太!」
「きゃあ!」
悲鳴が上がる中を涼一が慌てて康太の体を抱き起こす。
「!」
その体は氷のように冷たく硬かった。
「康太君…、死んでる…。それもかなり前に…。もう死後硬直が始まっている…。」
「え…?だって今までそこに立って…。」
信行が震える声で指をさす。
しゅん!鋭い音がして無数の蔦が子供達の体に絡み付いた。悲鳴を上げる暇すら与えられず、蔦は子供達を締め上げ、貫き、その血を吸い始めた。
 「信行君!未来ちゃん!光彦君!早紀ちゃん!」
 涼一は子供達の方へ必死で手を延ばした。しかし、その手は虚しく空を掴んだ。涼一の体にも蔦が絡み付いている。
「チクショウ!子供達を離せ!」
夢中でもがくと蔦は堪り兼ねたように涼一を放り出した。
「う…。」
打ち所が悪かったらしい。あまりの痛みに動けない。子供達の顔からみるみる生気が失われていく。とうとうその首ががくりと垂れた。
「!」
涼一は顔を背けた。子供達を救えなかった。
「みんな…。」
涼一は唇を噛んだ。唇が切れて血が滲んだ。悔しい。口惜しい。何もできなかった。
「くそっ!康太を餌にして誘き寄せやがったな!」
既に殺していた康太の体を操って、皆を捕まえられる所まで誘き寄せ、まんまと獲物をせしめた訳だ。
ゆらり、と涼一は立ち上がった。背中を強打していて動ける筈もないのに、怒りが涼一の体を突き動かしていた。
「この吸血桜め…!みてろよ…、絶対子供達の仇を取ってやるからな…。」
そして、何を思ったのか足を引き摺りながら分校へと戻り始めた。眼は据わり、顔からは血の気が引き、まるで幽鬼のようだ。桜の森を幽鬼が行く。

分校に戻ると涼一は、吉野教諭が発電機を動かす為に持ち込んだガソリンのポリタンクを引き摺り出した。
「燃やしてやる…!全部燃やしてやる…!吸血桜でも木は木だ。火には弱い筈だ。まず分校に火を付けて、燃え広がったところを手当たり次第にガソリンを掛けて燃やし尽くしてやる…!」
ふ、ふ、ふ、と涼一は笑った。その眼には既に狂気が宿っていた。
古い木造の校舎はよく乾燥していて火の回りが早かった。ぱちぱちと紅蓮の炎を上げて燃え盛っている。涼一が手近い所から手当たり次第に桜の木にガソリンを振り掛けていく。火は次々と花盛りの桜の木を飲み込んで燃え広がっていく。桜の木の声にはならない悲鳴が聞こえる気がする。涼一は笑った。腹を抱えて哄笑した。
「ざまあみろ!燃やしてやったぞ!皆の仇を取ってやったぞ!」
笑いすぎて涼一は自分の体にも火が燃え移っているのにも気がつかなかった。ガソリンタンクに火が入った。ぼん、と鈍い音を立てて爆発が起こる。炎が飛び散り辺り一面火の海と化した。
燃える。燃える。巨大な火柱を上げて桜の森が燃え尽きていく。火の粉と花びらが一緒に舞い上がって夜空を彩る。涼一の狂気が生み出した幻想的な美。今や吸血桜の森は清めの炎に舐め尽くされようとしている。

その炎は村からもよく見渡せた。子供達がキャンプしている分校のあたりの大火に、村人達は上を下への大騒ぎとなった。消防車が駆け付け、村人総出の消火活動に入る。しかし、火の勢いが強すぎるのと、山の中腹で水の便が悪いのとで消火活動は遅々として進まない。あたりがすっかり明るくなった頃、やっと鎮火する事が出来た。かなりの広範囲に渡って、全てのものが燃え尽きていた。
桜の木がまだ燻っている中、村人達は子供達の姿を探した。何人かの子供は、校門の外の炭化した桜の木の下で黒焦げの状態で見つかった。校庭の隅では炭のように燃え尽きた青年の遺体が見つかった。他には何も見つからず、残りの子供達の生存も絶望的に思われた。村人はあまりの悲劇に衝撃を受けた。一体何故こんな事になってしまったのだろう。原因すら掴めず、子供達の親も泣く泣く諦めざるをえなかった。やがて事件は風化し、人々の記憶も薄れていくことだろう。しかし、誰も知らなかった。涼一の狂気に依って一掃されたかと思われた人喰い桜。その焼け跡で秘かに新たな桜が芽吹いたのを。それは通常の桜とは桁外れの速度で成長している。いつの日か前のように、いや、もっと多くの桜が咲き誇るようになるであろう。その時には…。


  End







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