静かで穏やかな日々が流れていった。

省吾のいる診療所にゆきは毎日のように通い、省吾の世話をしたり患者の面倒を見たり、忙しいが幸せな日々が繰り返されていた。診療所に寝泊まりすることはなかったが、ゆきは診療所にはなくてはならぬ存在になっていた。お屋敷の仕事でたまにゆきの姿が見えない日には、診療所は火の消えたような寂しさが漂っていた。そうした日々のうちに患者や近隣の人々は、省吾とゆきの関係を、何か訳があるのだろうと理解してくれたようだった。ゆきはこの平和で平穏な日々を神に感謝していた。できることなら、この日々が永遠に続くことを祈った。しかし、時代は激動を迎えていた。

「大変よ、ゆき。戦争が始まったわ。」

ある日、新聞を見ていた奥様が、深刻な顔でそう告げた。太平洋戦争の開戦である。

「満州事変の時に、ひよっとしたら、と思っていたのだけれど…。」

「奥様、これから一体どうなるのでしょう?」

不安にかられてゆきが言うのに、奥様は悲しげに首を振った。

「私にも分かりません。でも、酷い時代になりそうね…。」

 

その知らせは日本中を駆け巡り、やがて日本人を戦争一色に染め上げていく。

それでもゆき達の住む田舎では、一見何事も変わらないような日々が続いてはいた。だが、そうであっても戦争の悲惨な影は確実に日本中を覆い尽くそうとしている。

「徴兵検査の通知が省吾さんに来たわ。ゆき、知らせてちょうだい。」

開戦からどれぐらい経ったものだろうか。そんなある日、政府からの通知を見ながら奥様が重いため息をついた。平和な田舎にもそうして戦争の足音は確実に迫っていた。

「はい。」

ゆきはその知らせを持って診療所に向かった。

「そうか。」

省吾は意外なほどあっけらかんとしていた。ゆきの青ざめた顔を見て、微笑んでみせる。

「大丈夫だよ、ゆき。成人男子は皆、徴兵検査を受ける義務があるんだ。なあに、僕は医者だ。すぐに徴兵されることはないよ。」

省吾の言う通り、近隣の村々の男達が全て役場に集められ、徴兵検査が行われた。そして優秀な成績で検査を合格した者には、やがて赤紙(徴兵令状)がきて戦場に投入されることになるのだ。しかし、省吾は甲種合格したにも関わらず、すぐには召集されずにすんだ。

「お偉方にも分かっているんだよ。」

省吾は心配顔のゆきに笑って言った。

「国内にも医者の手が必要だ、ってことがね。戦況が悪化しない限りは、僕みたいな医者は出兵しないで済むと思うよ。」

事実、戦争も初期の時点では大日本帝国軍は連戦連勝を飾り、大東亜共栄圏を目指している軍部、政府は、戦域を拡大していった。

やがて、農家の次男、三男を中心に、この地方からも召集される男達が出始めた。『お国のため』『天皇陛下の御ため』を大義名分として、彼らは出征していく。村人達の「万歳!」の声に送られて。当時は、日本国中が全て、この戦争は日本に正義があり、神国日本は負けるはずがない、と考えていた。

 

 

戦争は徐々に暗い影を落としていく。新聞は相変わらず連戦連勝を報じていたが、南太平洋での日本軍は一気に敗色を濃くしていった。政府は真実をひた隠しにし、被害を一行も公表しようとしなかった。故に日本国民の大多数は、大日本帝国は近いうちに鬼畜米英を討ち滅ぼすものと信じ込まされていた。

戦時下のため贅沢は敵、とされた。欧米の文化は頭から否定され、流行していた女性のパーマヘアは、電力の無駄遣い、敵性文化、と目の仇にされた。

村からは若い男の姿が消えていった。皆、召集され、南方インドネシア、マレーシア、フィリピン、ビルマ、そして中国北部、満州へとかり出されていったのだ。そのため食糧事情は悪化の一途を辿り、配給制度が開始された。食料は商店で買うのではなく、政府が家族の人数に応じてそれぞれの家庭に配る制度だ。しかし、十分な量が配給されるわけはなく、政府を通さずに取り引きされる食料が横行していた。ヤミ、と呼ばれるものだ。

それでも田舎はまだマシだった。ゆきは実家のつてを辿って奥様や省吾にひもじい思いだけはさせまいと必死だった。ゆきのお陰で農地を増やしていた弟は、ゆきの願いを無碍に断れなかった。

「ゆきには苦労をかけて悪いと思っているわ。」

食卓に並べられた白いご飯を見て、ある日、奥様はぽつりと言った。

「このご時世に白いご飯をいただけるなんて。ゆきには感謝してもしたりないわね。」

いいえ、奥様。私のせめてものご恩返しです。奥様には山ほどのご恩がございます。」

ゆきが恐縮して頭を下げるのに、奥様は少し悲しげに微笑んだ。

「ごめんなさいね、ゆき。私があの時、あなたの気持ちに気付いてあげられていたら良かったのよね…。」

奥様の言葉にゆきははっと顔を上げた。奥様はじっとゆきの顔を見ている。

「あなたの親代わりだと自負していたのにね。あなたと省吾には本当に悪いことをしてしまったわ。なんて迂闊な母親なのかしらね。あなた達の気持ちに気付かなかったなんて。ごめんなさいね。」

「奥様…。」

奥様は、ゆきの縁談のことを言っている。ゆきはそれに気付いて慌てて首を振った。

「奥様は、私のことを思ってして下さったのですもの。私は感謝しております。」

奥様は小さくため息をついた。

「ありがとう、ゆき。ねえ、だったらもう、私に遠慮しないでね。省吾の気持ちは分かっているのでしょう?あなただって気持ちは変わらないのでしょう?だったら…。」

ゆきは奥様の顔を見た。涙がこみ上げてくる。

「もう何もあなた方の間を邪魔するものはない筈よ。ねえ、ゆき。あなたには幸せになってほしいの。こんなご時世だから言う訳じゃないけど、明日のことは分からないから…。その気持ちがあるのなら、急いでちょうだい。」

「奥様…。」

ゆきはぽろぽろと涙をこぼしていた。胸の中のつかえが取れたような気がした。今まで一人で突っ張っていたことが、とても莫迦らしいことに思われた。わだかまっていたものが一気に溶けていく感覚に包まれて、ゆきは気持ちよく涙を流していた。

 

全てのしがらみは消え失せていた。

奥様の言葉一つで、ゆきの胸の奥に凍り付いていた固定観念、『ゆきは省吾に相応しくない』という思いは、あっけなく溶けていった。

「こんなご時世だから、明日のことは分からないのよ。」

奥様は言った。そうだ。この戦争はまだ続く。甲種合格した省吾は、いつ召集されないとも限らないではないか。そして、こんな田舎でもB29の爆撃や機銃照射が決してないとは言い切れない。実際、東京では空襲が始まったという。

(省吾様…。)

一瞬、背筋が寒くなった。省吾が召集されたら、自分は冷静でいられるだろうか。お国のためだから、と笑って見送ることが出きるのだろうか。いや、出来ない。非国民となじられようが、憲兵隊に捕まろうが、自分は省吾にしがみついて泣き叫ぶだろう。だが、何をしようと省吾は戦場に連れて行かれるだろう。お国のため、天皇陛下の御ため、日本を守るため、そんな大義名分のために。たかがそんな事のために省吾は、村の男達は死んでいくのか?

ゆきは今まで自分は何も考えていなかったことを思い知った。

 

しかし、その前にもう一つの悲しみが待っていた。

「ゆき!」

奥様が悲鳴を上げていた。

「奥様、どうなさいました?」

慌てて駆けつけたゆきに奥様はおろおろとすがりついた。

「史朗さんに赤紙が!史朗さんが召集されたわ!」

「えっ?!でも、史朗様はまだ学生では?」

ゆきは驚いて問い返した。

「先日、学徒動員の令が下ったのよ。兵隊さんの数が足りないからって…。」

奥様が茫然と呟く。

学徒動員。十八歳以上の男子には徴兵検査が義務づけられている。しかしそれは、学生は猶予されていたのだ。それが今回、十五歳以上に引き下げられ、猶予もなくなったのだ。

「それでもこんなに早くなんて…。」

ゆきも頭を殴られたようなショックを覚えた。戦争はそこまで酷くなっている。女達の許から、夫が、恋人が、息子が奪い去られていく。それなのにそれを嘆くことは許されない。そんなことをすれば非国民として憲兵に捕まって牢に入れられる。そうなると、村八分にされ、戦場に赴く男達を余計に心配させる。生活すら出来なくなる。配給もなくなる。この戦争に理不尽さを感じている者は、やはりいたことだろう。だが、面と向かって反対を口にする者はほとんどいなかった。一度でも非国民、というレッテルを貼られたら、爪弾きにされるのだ。集団の中で孤立させられてしまう。軍部は巧妙に人身を掌握して操っている。日本国民は今や全て戦争に巻き込まれてしまっていた。

 

召集された者は一度故郷に戻り、そこから召集令状に従って各連隊に配属される。史朗も知らせによって急遽帰宅した。

 

「お帰りなさい、史朗さん…。」

どの母親でもそうであろう。おろおろと奥様は史朗を迎えた。明日にはもう、部隊に合流するため出征せねばならない。

「史朗さん…。」

色々と持ち物の世話を焼き、準備を自ら整えながらも、奥様は動転している。息子が戦地へ赴くのだ。平気でいられる親がいるはずもない。

「大丈夫です、お母様。僕は運が強いですから。」

それでも史朗は健気に笑って見せた。

「手柄を立てて、お母様に誇ってもらえるよう、頑張ります。」

その言葉に奥様は史朗の頬をぴしりとぶった。

「!?」

史朗は驚いて母親の顔を見つめた。奥様は目に涙を一杯にたたえて史朗を見つめていた。

「人を殺して手柄と思うような人間に、あなたを育てた覚えはありません。」

「お母様…。」

「戦時中だから戦争に行くのも仕方ないのでしょう。でも、殺し合いなんてして欲しくありません。」

奥様は涙声で淡々と言う。

「臆病者、卑怯者、と蔑まれようと構いません。弾丸から身を隠し、敵兵から逃げ回って下さい。そして、生きて、生きて還って来て下さい。私の許に。」

「お母様…。」

史朗はそれきり絶句した。母親のその思いは胸に突き刺さるようだった。世の母親達は全てその気持ちであったことだろう。しかし、この時代、そうやって自分の気持ちを表に現せる母親がどれ程いただろうか。世間体をはばかり、人様の目を気にして、ほとんどの母親は無理矢理笑みをたたえ、万歳の声で息子を送り出しているのだ。お国のために死んでこい、と心にもない言葉を口にしながら。それがどんなに悲惨なことか、想像できるだろうか。

 

次の朝、出征する史朗を見送りに、奥様はおいでにならなかった。駅はやはり出征する少年達を見送りに多くの人々が集まっていた。皆、手に手に日章旗や日の丸の小旗を振って、万歳の声を張り上げている。

(どこがおめでたいの…?)

ゆきは眉をひそめた。たすきを掛けた少年達が悲壮な思いに顔をひきつらせながら、それでも笑顔で皆の声援に応えている。史朗はそれを見て苦笑した。

「お母様がここに来なかったのは正解だね。まあ、取り乱しはしなかったろうけれども、どうしたって批判される態度だったろうからね。」

「…そうですね。」

ゆきはそっと同意した。

「お母様は裏表のない人だから。どうしたってこのご時世に順応していないのがバレると厄介だからね。」

史朗がやはりこっそり耳打ちした。それから真面目な顔でゆきに言った。

「お母様を頼むね、ゆき。」

「はい。」

ゆきは真剣な顔で頷いた。

「あんな性格だから、ゆきには苦労をかけるけど…。僕にはたった一人のお母様なんだ。」

史朗はゆきの手を握りしめて最後の気がかりである母親の先行きを頼み込んだ。

「はい、私にとっても大切な方ですから。」

「うん。」

史朗は微笑んで頷いた。それから急いで付け加えた。

「ゆき、この分では省吾兄さんもいつ召集されてもおかしくない。どうか、後悔しないで。君には幸せになる権利がある。」

ゆきは小さく頷いた。史朗はもう一度、今度は満足げにほ微笑んだ。

汽車の発車時間が迫ってきたらしい。わらわらと出征兵士達が列車に乗り込んでいく。史朗もそれに漏れず車中の人となった。ゆきはちぎれるかと思うほど手を振った。口に出せなかった言葉を心の中で叫んだ。

(史朗様!きっと還って来て!きっと、生きて戻っていらして!)

 

 

勝って来るぞと勇ましく

誓って国を出たからは

手柄立てずに還らりょか…

 

街角には軍歌が鳴り響いている。戦争は激しさを増し、軍部は本土決戦を覚悟したようだ。銃後を守る婦女子も竹槍を構えて軍事訓練にかり出されるようになり、沖縄が危ない、との噂が流れ初めていた。

「…ゆき、とうとう省吾さんにも赤紙が来たわ…。」

史朗が出征して一月も経たぬある日、奥様が絶望的な表情でゆきに告げた。

「省吾さんを呼んで来てちょうだい。」

ゆきは鉛のように重い足を無理矢理動かして、省吾の許に向かった。

 

「…そう。来るべき時が来たか…。」

省吾は静かに話を聞いていた。かえって騒ぎ立てたのは診療所に来ていた年寄り達だった。

「先生が出征なさる!万歳!お国のために頑張ってきて下され!」

「憎き鬼畜米英をやっつけて下され!」

「先生、万歳!天皇陛下万歳!」

「送別会じゃ!千人針を用意しろ!」

(他人事だと思って…。)

大騒ぎする連中を横目に見ながら、ゆきは複雑な思いだった。そんなゆきをそっと後ろから慰めるように寄り添う老婆がいた。

「ゆきさん、腹が立つかのう?」

ゆきは思わず老婆の顔を見た。老婆はゆきの視線に頷く。

「大事な人を持って行かれるんじやからのう。だが、じいさん達を許してやってくだされ。じいさん達も分かっておるのじゃ。息子や孫を戦争に取られておるのじゃからのう。でも、ああやって大騒ぎせにゃあ、やっておれんのじゃ。送り出す悲しみとなくしてしまうかも知れん不安に押し潰されそうになってしまう。だから、それを隠すためにも、悟られぬ為にも大騒ぎが必要なのじゃ。許して下され、ゆきさん。」

ゆきは改めて大騒ぎしている老人達を見直した。いくら悲しくとも、いくら寂しくとも、涙を見せる訳にはいかない。どれ程面倒を見て貰い、世話をされていることか。だが、ご時世が泣くことを許さない。すがって引き留めることを許さない。だからせめてバカ騒ぎをして誤魔化そう。悲しみも寂しさも、不安も何もかもを忙しさに紛らわそう。

(…ごめんなさい…。)

ゆきは目頭を押さえた。彼らも自分と全く同じ思いなのがその表情から見て取れた。そうだ。皆、同じ悲しみを背負っているのだ。戦争とは悲しみと苦しみ以外をもたらすことはない。ゆきはそっとその場から離れた。

 

医師であり、軍医として召集される省吾は、一般召集とは違い、連隊と合流するまで三日間の猶予が与えられていた。

その夜は近隣の人々が送別会を開いてくれた。この食料の不自由なご時世に、どうやって工面してきたものか、そこには赤飯や卵焼き、焼き魚などこのところ滅多にお目にかかれない贅沢品が並べられていた。集まった人々にどんなに省吾が慕われているか、一目で分かるようだった。そこにまた貴重品となっている酒が振る舞われ、人々は送別会の名のもとにどんちゃん騒ぎをしている。陰に涙をのみながら。ゆきは彼らの思いに胸が痛んだ。死地に赴く者に最後に贅沢をさせてやりたい。満足に食べることさえ出来ないご時世に、最後にお腹一杯食べさせて送り出したい。悲しい親心がゆきにもわかる。戦争にかり出されたならば、靖国神社に祀られる身になることを覚悟せねばならない。それはお国のために命を捧げることを意味する。それは、大事な人がその手に戻らない、ということなのだ。ここにいる皆が、その辛さを知っている。

 

 

次の日、省吾はお屋敷に戻った。奥様は史朗の時よりなをいっそう暗い顔をしている。

「史朗さんに次いで省吾さんまで…。」

奥様は重いため息をついている。

「長男は徴兵されないことになっているけれども、この分ではどうなることか分からないわね…。」

暗い気持ちのあまり呟いたであろう奥様のその言葉だったが、その後すぐに現実となった。戦況はそこまで悪化していた。

「お母様、やっぱりこうなりましたね。」

省吾はあくまで冷静だった。

「僕は、たぶん南方にやられることでしょう。あちらはもう駄目です。でも軍部はそれを認めようとはしない。いや、この戦争自体が最初から勝てるはずもなかったんです。それを、神国日本が負けるはずはない、と精神論を振りかざして無理矢理突入してしまった。」

省吾は肩をすくめた。

「無理に無理を重ねて、先があろう筈もない。この戦争は日本が負けます。」

「省吾さん!」

はっきり言い切った省吾を奥様はたしなめた。

「誰かに聞かれたら…。」

「…そうですね。お母様やゆきに迷惑がかかる。」

省吾は苦笑した。

「しかし、この国はどこへ向かうのでしょうね。この分だと軍部は本土決戦をも辞さぬつもりでしょう。そうなったら、日本は滅亡しかねない。」

話を黙って聞いていたゆきの顔からも、血の気が引いていた。

「何を言うの…。」

奥様はさすがにそこまで悲惨な結末を否定したかったらしい。

「軍部だってそこまで愚かではない筈…。」

「どうでしょうね。」

省吾は顔を歪めた。

「国民のことを考えているようなら、そもそもこんな戦争は始めないでしょう。軍部の連中の頭の中には自らの面子のことしかないんです。」

悲しげに省吾は言い切った。奥様とゆきは顔を見合わせた。

 

静かにその夜は更けていった。

「省吾様、お寒くありませんか?」

縁側に佇む省吾にゆきが声をかけた。

「…ゆきか…。そうだね。ちょっと冷えてきたかな。暖かいお茶が欲しいな。」

省吾は月を見上げたまま答えた。何か考え事をしているらしい。

「はい。お部屋にお持ちしましょうか?」

気遣ってそう言ったゆきに背を向けたまま、省吾は首を振った。

「いや、ここでいい。ここに持って来ておくれ。あと、ゆき。」

「はい?」

「少し、話がしたい…。」

ゆきは省吾の広い背中を見た。

「はい。」

そこには今話さなければ後悔する、という悲壮な決意が表れているような気がした。

 

「省吾様?」

ゆきがお盆にお茶を乗せて戻ると、省吾はずっとあのまま月を睨みつけていたようだった。

「ああ、ゆき。」

しかし振り返った顔は笑みを浮かべていた。そのまま暖かい茶碗を受け取り、一口啜る。

「うん、うまい。」

ほうっと一息ついて改めてゆきに笑いかける。

「ゆきの煎れてくれるお茶が一番うまいよ。」

そして茶碗に目を落として呟くように言った。

「でも、もうこれで最後かも、な。」

「省吾様。」

咎めるようなゆきのその口振りに、省吾は真顔で首を振った。

「勿論、簡単には死なないさ。でも、何が起こるか分からないのが戦争だ。」

「…。」

泣き出しそうに歪むゆきの顔を、省吾は悲しげに見つめた。

「…戦争、か。ねえ、ゆき。僕は、決してこのままで良いとは思っていなかったんだけどもね。いつかはもう一度、君にきちんと申し込んで、正式に結婚したいと考えていた。だけどこの召集で、僕にはその機会すら与えてもらえないらしい。それが心残りだ。」

月明かりに照らし出された省吾の顔。それがかなり青ざめて見え、ゆきはぞっとした。まるで幽鬼のように見えたのだ。

「省吾様…。」

ゆきは思わず手を伸ばして省吾の袖に触れた。省吾が確かにそこに存在していることを確かめたかったのだ。その袖口は冷たく冷え切り、ゆきは小さく震えた。

「…ゆき。」

省吾はそのゆきの手をそっと手に取り、両手で包み込むようにした。

「ゆきの手は暖かいね。生きている証、そのものだ。」

省吾は悲しげに微笑んだ。

「君を幸せにするのが僕の役目だと思っていたんだけど…。戦争のお陰で先送りになってしまった…。」

そしてその手を自分の頬に持って行ってそっと当てた。冷たい頬だった。ゆきはそんな省吾を切ない思いで見つめていた。

「…ゆき。僕はきっと帰ってくる。決して死んだりしない。だから、還って来たら僕と結婚しておくれ。」

ゆきの手を握って、真剣な顔で省吾はゆきに告げた。その言葉には、これが最後だ、という覚悟が感じられた。

「ゆきの気持ちも考えも承知の上で言っている。これから戦地に赴く者が言うべき事ではない、とも思う。だけど言わずにはいられない。もう二度とその機会はやってこないかも知れないんだ。だから…。」

ゆきの瞳に涙が溢れてきた。

「ごめん…。こんな時にこんなことを言うなんて卑怯だね。」

省吾が苦笑しながら謝った。

「自分でもわかっているんだ…。この状況でこの言葉を口にすれば、優しいゆきは断ることが出来ない、って。それを承知で、百も承知で敢えて口にする。僕も戦地で死ぬかも知れない、という恐怖に耐え兼ねているんだ。情けない…。だから、君との結婚という、僕の最大の望みを先々の希望として戦地に持って行きたい、と思っているんだ。まったく、男らしくないね。」

ゆきはゆっくり首を振った。省吾が戦地に赴く。その現実の冷たさはゆきの心をも冷たい手で鷲掴みにしている。このまま別れてしまったら、もう二度と会えないかも知れない。もう二度と触れ合うこともない。

「ゆき、返事はいいよ。還って来てから聞くことにする。」

省吾はゆきの手を名残惜しそうに離すと小さく吐息した。

「もう寝すむよ。明日はもう行かなくてはならない。」

そして背を向けて自分の部屋へ歩き出す。ゆきはどうしたらよいのかも決めかねてその場に立ち尽くした。

 

暗い廊下の向こうに消えていく後ろ姿を、ゆきは眺めていた。それは、ゆきの手の届かないところへ、ゆきのついて行けないところへと一人で行ってしまうように思われた。ゆきは目眩がした。全身の血が引いていくような感覚に襲われた。戦争が省吾を連れ去ってしまう。ゆきのもとから。そして二度とは戻らぬ。暗闇に溶けるように見えなくなっていく背中。

(ゆき、それでいいの?)

不意に史朗の声が頭の中に響いた。どんな時もゆきを姉のように思い支えてきてくれた史朗。その声がゆきに尋ねる。

(ゆきはそれで後悔しないの?省吾兄さんをこのまま一人で行かせてしまっていいの?)

ゆきは唇を噛んだ。もう何のしがらみもない。奥様のお陰で既にゆきの心の足枷も消えている。それでも思い切れないでいたのはゆきの女心なのか。そんなゆきを史朗の声が後押しする。

(幸せになるのに尻込みしちゃ、駄目だよ。さあ、勇気を出して。)

それでもゆきは足を踏み出すことが出来ない。

(ゆき。兄さんは戻らないかも知れないんだよ?明日の朝、汽車に乗れば、それが最後かも知れないんだよ?)

ゆきの足元から地面が消えてしまったような感覚がした。絶望的な喪失感。省吾を失ってしまう?

(ゆき、さあ、勇気を出して。ここで行かなくては一生後悔するよ。)

優しく背中を押す史朗の手のひらの暖かさを感じたような気がした。

(失ってしまう…?そんな…。)

ゆきはやっと理解した。そして、自分を叱咤した。これまでの人生、自分のためを思ったことはなかった。しかし今、このまま立ち尽くしていれば、自分はずっと後悔するだろう。省吾が戻らなければなをさらだ。一生に一度だけ、幸せになりたいと思うのは悪いことではないはずだ。省吾を失いたくはない。

(省吾様…。)

ゆきは床に貼り付いた足を無理矢理引き剥がした。そして、暗い廊下を小走りに省吾の後を追う。

「省吾様!」

 

「省吾様!」

ゆきは丁度省吾の部屋の前で省吾に追いついた。

「?ゆき、どうしたの?」

息を切らせて走ってきたゆきを省吾は笑顔で迎えた。「省吾様…。」

ゆきは弾む息に胸を押さえながら言葉を探した。告げたいことがたくさんあるのに言葉にならない。ただ唇が微かに震えるばかり。

「ゆき?」

省吾は相変わらず優しく微笑んでいる。その顔が涙に滲んで見える。ふと、また優しい手がゆきの背中を柔らかく押した。ゆきはその優しさに後押しされて、思い切って省吾の腕に飛び込んだ。省吾はがっしりと受け止めてくれた。その温もりがゆきを包んだのを感じると、ゆきの涙はもう止まらなかった。省吾の胸に頬を押し当てたまま涙にむせぶ。

「ゆき、ゆき。いったいどうしたの?」

省吾は優しくゆきの髪を撫でながらあやすように言う。ゆきはその優しさに暫し酔った。省吾もゆきの温もりを愛おしむようにその体を抱き寄せていた。

 

どれくらいの時間を二人はそうしていたのだろう。多分、そう長い時間ではなかっただろう。やがて省吾はゆっくりとすがりつくゆきの体を自分から引き剥がした。いかにも名残惜しげに。

「…ゆき。」

ゆきは涙の乾かぬ目で省吾を見上げた。二人の視線が合う。

「…ゆき…。」

省吾の顔が苦しげに歪む。ゆきをいつまでも抱きしめていたい衝動と戦っていた。津波のようなその衝動を押さえ込むことは、今の彼には難しすぎた。身近に命の危険を感じている省吾にとって、身の内に宿るその衝動は今や生きている証そのものだ。しかし省吾は歯を食いしばると、ゆきの体から我が身をもぎ離すと自分から一歩後退さった。ゆきの温もりから距離を取るために。

「省吾様…。」

ゆきは悲しげに省吾を見た。自分がそうであるように省吾もけじめを大切にする人間だ。こんな状況に於いてさえ、それは変わらない。ゆきをそれほど大事に思ってくれている。中途半端な行動はゆきを不幸にする、と思っている。

「省吾様…。」

それを感じてゆきは最後の決意をした。もう一度自分から省吾の胸に飛び込む。

「…ゆき?」

省吾は戸惑いながらも再びゆきを受け止めてくれた。ゆきはしかし、今度は泣き出したりはしなかった。泣いていては思いは伝わらない。今、この時を逃しては、二度と伝えることは出来ないかも知れないのだ。ゆきの胸の中を省吾との日々が横切る。幼い時に出会ってからずっと、省吾は優しかった。自分だけを見ていてくれた。そして改めて思った。省吾がどれ程失いたくない存在なのか。かけがえのない存在なのか。

「省吾様、私…、私、省吾様と結婚します…。いえ、私を、貰って下さい。」

ゆきの言葉に省吾は一瞬目を見張り、次の瞬間ゆきを抱きしめた。

「ゆき、ゆき…。」

命の限りを込めてゆきの体を抱きしめる。そしてそれから少し体を離すとゆきの顔を覗き込んだ。

「ゆき、いいの?本当に…?」

真剣な目の色。ゆきはこっくりと頷いた。自分からこんなことを口にした恥じらいに頬が染まる。桜が散ったゆきの顔はしかし、省吾にはこよなく美しく見えた。この、初々しい少女のようなゆきを抱きしめられる喜びを省吾は体中で感じていた。なんて長い間待ち望んでいた瞬間だったろう。ゆきを抱きしめて省吾は、深く息をついた。ゆきの髪の匂いが甘く香った。

 

「…省吾様…。」

小さくゆきが喘いだ。

「苦しい…。」

耳元で囁かれたその言葉に、省吾はやっと自分がどれ程強くゆきを抱きしめ続けていたのかを知った。

「…ごめん…。」

やはり耳元で囁いて、省吾は少し腕を弛めた。しかしゆきを抱きしめるのを止めようとはしなかった。長い間、どれ程このぬくもりに焦がれたことだろう。一度はゆきの幸せのために無理矢理諦めようとした。だが、諦め切れぬうちにゆきは再び、今度は何の支障もしがらみも無くなったかたちて省吾の前に現れた。残るはゆきのわだかまりだけ。省吾はそれが消え失せるまでゆっくりと待つつもりでいた。ここまで待ったのだ。こんなに近くにいてくれるのだから、待つのは苦しくない。そう考えてじっとゆきを見守っていた。何よりゆきの気持ちを優先したかった。そして今、召集令状が舞い込んだという非常事態がゆきの心を動かしてくれた。省吾の命の危機が、二人に切羽詰まった状況を作り出し、ゆきに心の垣根を飛び越えさせた。

「…ゆき。」

ゆきのぬくもり。抱きしめたゆきの体は小さく頼りない。しかし何よりも確かな生命の鼓動を感じる。省吾は目を閉じ、ゆきとこのまま解け合いたい、と願った。

「ゆき、離したくない。」

省吾がゆきの耳元で囁く。

「省吾様。」

ゆきは省吾の胸に頬を寄せ、うっとりと目を閉じている。ゆきにとっても省吾は初恋の人であり、添い遂げたい、と一度は望んだ相手である。そんな乙女の願いは様々なしがらみの果て、叶えることを断念せざるを得なかった。しかし今、やっと二人は全てを乗り越えて結ばれようとしている。

「僕は、必ず戻る。そうしたら、式を挙げよう。身内だけで祝って貰って、僕の診療所で所帯を持つんだ。」

夢見るような口調で、省吾は未来を語る。ゆきはそれを夢の中で聞いている。

「史朗も喜んでくれる。ゆきは僕のために綿帽子を着けておくれ。きっととても似合って、綺麗なんだろうなあ。」

二人は夢の中を漂っている。束の間の夢の中を。悲しいほど短い夢だ。「二人で病人達のために働いて、仲良く暮らそう。村の人達がみんな家族だ。村の子供達が全部僕らの子供だ。そして、仲良く年を取り、共白髪の年寄りになるんだ。」

くすり、と省吾が笑う。ゆきもつられて笑った。

「ゆきは可愛いおばあちゃんになるよ。」

「まあ。だったら省吾様は頑固なおじいさんですか?」

「ああ。頑固で意地悪で偏屈なじいさんになるだろうな。」

ふふふ、と省吾は可笑しそうに笑った。それからもう一度ゆきを抱きしめる。

「…離したくない。このまま…。」

夢はいつか覚める。省吾は深く吐息をつくとゆっくりと頭を振った。そんなことが出来ないことは百も承知だ。夜が明けたら省吾は出征する。戦争に行くのだ。そしてそっとゆきの体を押しやった。

「だめだ。僕は君を傷つけてしまう。」

ゆきは省吾の顔を見上げた。省吾が何を考えているのか分かった。離れたくないのはゆきも同じだ。いや、省吾を失ってしまうかもしれない、という危機感は、余計にゆきのその思いを強めていた。

「省吾様…。」

ゆきは省吾の袖を掴んだ。

「私も離れたくない。離さないで…。」

「ゆき、だめだよ。」

省吾は苦しそうに首を振った。

「私がふしだらな女だと世間様から後ろ指を指されるから…?」

ゆきはじっと省吾の目を見つめた。省吾は黙ったまま見つめ返してくる。やはりそうなのだ。

「人様がどう思おうと、私はもう構いません。このまま離れてしまったら…。」

ゆきはごくりと唾を飲んだ。

「私はもう、あの時のような娘ではありません。約束だけを抱えて生きては行けません。増してや必ず戻る保証もないのに…。」

ゆきは袖を掴む指に力を込めた。

「…だから、私をあなたのものにして下さい…。あなたのご無事を信じて待てるように!」

省吾は目を見開いた。おとなしいゆきがこれほど思い切ったことを言うとは思ってもいなかった。ゆきはそれほどに真剣なのだ、と悟った。

「…ゆき。」

省吾も心を決めた。ゆきの健気さに応えねば男ではない、と思った。一度ゆきに頷いてみせるとゆきを軽々と抱き上げた。ゆきは目を閉じ省吾の胸に抱かれた。省吾はそのまま自分の部屋に入って行く。

夜は深々と更けていく。月が誰もいなくなった廊下を煌々と照らし出していた。







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