ゆきには久方ぶりの、平穏な日々が訪れていた。健太郎との軋轢は、考えていた以上のダメージをゆきに与えていた。健太郎のため、正太郎のためを思ってゆきは身を引いたのだが、その決意を告げてからの健太郎の言動がゆきを傷つけていた。それはゆきへの愛情故のものであったとしても、男の身勝手さが浮き彫りになった結果となってしまった。そしてそこからやっと解放されて戻った実家も、最早ゆきにとっては安住の地ではなかった。時が移って行く中、致し方のないことではあった。女、三界に家なし、とも言われていた時代だ。孤独と虚しさに襲われかけていたゆきに手を差し伸べてくれたのは、同じような孤独の中にいらした奥様だった。ゆきは奥様の中に実の母親以上の温もりを見た。

お屋敷で以前のように奥様に仕える日々が始まっていた。それは想像していた以上にゆきに安らぎを与えてくれていた。ゆきは自分がどれほど疲れていたのか、思い知った。何も波風の立たない生活は、ゆきの心を癒してくれた。

 

季節はいつの間にか夏になっていた。

「ゆき!」

呼ばれて振り返ると、背の高い青年が立っていた。

「ゆき。お帰り。」

にこにこ微笑みながらゆきに近づいてくる。

「…史朗様…?」

どことなく昔の面影が残っている。

「ゆきが戻って来ているってお母様からのお手紙で知って慌てて帰ってきたんだよ。良かった、元気そうで。」

ゆきの手を取り懐かしそうに話しかけるのは、立派な青年となった史朗だった。

「史朗様、ご立派になられて…。」

ゆきも感慨深く史朗の顔を見上げた。あの、ゆきの背中で泣いていた赤ん坊が、今やこんなに立派になっている。月日の流れたのをゆきは実感した。

「史朗様は今は学校ですか?」

「ああ。下宿しながら帝大に通っているんだよ。息子が全部手元を離れてしまって、お母様には寂しい思いをさせてしまっている。だから、ゆきが戻って来てくれたことは二重に嬉しいんだよ。」

背は伸びても史朗の中身は変わらないようだった。ゆきを姉のように慕い、母親思いの優しい史朗。

「もう、どこにも行かないでおくれ。」

史朗が真剣な眼差しで言った。

「ゆきが幸せになるのなら、僕はいくらでも喜んで送り出しもする。だけど、こんな風に傷つくだけなら、もうどこにも行かないで。」

その言葉には史朗の心情が込められていて、ゆきの胸に堪えた。史朗もまた、こんなにもゆきの身を案じてくれていた。

「はい、史朗様。」

その気持ちが嬉しくて、ゆきは知らず知らず涙ぐみながら史朗に肯いていた。

史朗は奥様からの手紙でゆきの帰還を知り、夏休みになると同時に帰省したのだった。ゆきが嫁に行ってからも史朗はゆきの消息を知りたがったので、奥様が知りうる限りのゆきのことを逐一史朗に手紙で知らせていたのだそうだ。史朗はゆきの身を案じて、どんな些細な情報も欲しがったからだ。

「でもね、僕もゆきの事が心配だったけど、省吾兄さんはもっと心配していたんだよ。」

史朗のさりげなさを装った言葉にゆきははっとした。

「お母様に直接尋ねる事は、兄さんにも立場があるからね、出来ないでしょう?だから、兄さんったら僕に会いに来て、ついでを装って僕にゆきの消息を聞いていたんだよ。」

「省吾様が…。」

また、ゆきの胸は痛みを覚えた。結局、ゆきの結婚はゆきが省吾を裏切る形になってしまった。しかし省吾は、それでもゆきが幸せならいい、と言ってくれた。それなのに、ゆきは幸せな結婚生活を築く事も出来ずに、こうして奥様の元に戻ってきてしまった。

「兄さんには、ゆきが戻っているって知らせをやったから、仕事が一段落したらきっと急いで駆けつけてくるよ。」

史朗は悪戯っぽく笑いながら言った。ゆきはその時まで省吾のことを完全に思いの外に置いていたことに気付き、愕然とした。

 

あの時、省吾のことは忘れなければならない、と思ったのは確かだった。嫁に行くのだから。そして、嫁になったからには健太郎のことだけを考えるのが女としての務めだと弁えていた。そして、考えていたよりもずっと健太郎が優しく、結婚生活が幸せなものだったから、ゆきはいつの間にか自然に、省吾のことを考えなくなっていた。それが皆の幸福だったのだから致し方のないことだったとも言えようが、今となってはゆきは自分が許せないような気持ちになっていた。だから、省吾が帰宅しても合わせる顔がない、と思った。心の奥底を覗けば、そこには未だ省吾への思いが存在していたから、余計にゆきは自分の心が信じられず、許せなかった。

思い詰めた表情をしているゆきを心配して、夕食の後史朗がそっと台所に立つゆきの許にやって来て声をかけた。

「どうかした?ゆき。顔色が悪いよ。」

「いえ…。」

ゆきは首を振った。史朗は眉を曇らせた。

「ねえ、ひょっとして省吾兄さんのこと?」

ゆきが表情を強ばらせたのを見て史朗はため息をついた。

「どうしてそうなるかなあ。まったく、ゆきといい省吾兄さんと言い、信じられない。」

「え?」

思いがけない言葉を聞いてゆきは、史朗の顔を見つめた。

「ねえ、いい加減素直になったら?」

史朗は優しい表情を浮かべている。

「史朗様…。」

「もう、いいんだよ、ゆき。」

史朗は全て分かっている、と言いたそうな顔で微笑んだ。

「もう、自分に正直に、自分のために生きてもいいんじゃない?」

ゆきはその言葉にはっと息を呑んだ。

ゆきは何も言えず史朗の顔を見つめていた。

「ゆき。ゆきがお嫁に行った時はまだ僕は子供だった。でも、お互いを思い合っている二人が一緒になれない理不尽さに腹が立ったんだよ。だからどうしてこんなことになってしまったのか、僕なりに調べてみた。そして、君や兄さんの立場から見て、仕方のないことかもしれない、と無理矢理納得した。だけど今はあの時とは全く違う。もう、君には何の柵もないし、兄さんにもない。」

「史朗様…。」

「ねえ、ゆき。あの時は僕には何も出来なかったけど、僕ももう大人だ。ゆきの背中を押してあげることぐらいは出来るよ。」

史朗は優しい目でゆきを見つめている。

「省吾兄さんもきっとそのつもりだと思うよ。だって、省吾兄さんはどんなに周りが縁談を勧めようとも決して首を縦には振らなかったんだよ。」

ゆきははっとした。省吾は自分より一つ下の筈。とうに婚期を迎えている。省吾のことだ。良い縁談は降る程あったろう。それを全部断った、と言うのか。

「省吾兄さんの心の中にはゆきしか居ないんだ、と僕は実感している。ねえ、だから今度こそ…。」

「史朗様。」

ゆきは史朗の話を遮った。

「何をおっしゃいます。私と省吾様とでは身分が違いすぎます。昔から身分違いは不幸のもと、と申します。それに、私はともかく省吾様が私のようなものを相手になさるとは考えられません。」

史朗は慌てて首を振った。

「ゆき。そんなことはないよ。省吾兄さんはゆきのことをずっと…。」

「もう何もおっしゃいますな。」

ゆきはくるりと史朗に背を向けた。

「私は出戻りです。省吾様にはもっと相応しい方がおいでになりましょう。」

「ゆき!」

史朗は落胆の叫びをあげた。

「何故?何故そんなに頑ななの?」

「…。」

ゆきはもう何も言わなかった。その後ろ姿に拒絶されたように感じて、史朗はそれ以上何も言えなくなった。

 

ゆきは真っ暗な自分の部屋の布団の上に正座して考え込んでいた。史朗の気持ちはとても有り難く嬉しかった。涙が出るかと思うほどに。しかし、ゆきはその思いに身を委ねることは出来なかった。省吾と一緒になる。それは夢、であった。そうなったら自分はどんなにか幸せだろう。だがそれは、叶えてはいけない夢なのだ。自分のようなものを娶っても、決して省吾のためにはならない。ゆきはそれを知っている。自分は、貧農の娘。金も家柄もない。そして出戻りである。加えて石女(うまずめ)なのだ。省吾にはマイナスにしかならない。

(私の思いを省吾様に押しつけてはいけない。)

ゆきはそう決意している。史朗の話を聞いて、ゆきは一層そう思うようになった。省吾の誠実さが痛い程感じられる。だからこそ省吾には幸せになって貰いたい。良家の子女と結婚して、誰からも後ろ指刺されない幸せな家庭で子供たちに囲まれて…。省吾にはその資格があるのだから。ゆきはじっと暗闇を見つめていた。

 

省吾が帰宅したのはそれから三日後の夕方だった。

「お帰りなさい、兄さん。」

迎えに出た史朗と共に鴨居をくぐって入って来た姿を見て、ゆきは胸を突かれる思いがした。

史朗と肩を並べる程背が高く、広い肩幅。そこにはすっかり一人前の男となった省吾がいた。

「省吾様…。」

省吾はゆきを見ると柔らかく笑った。その眼鏡をかけた目は、限りなく優しい光を宿している。しかしその顔には苦労の証なのだろうか、年齢に似合わない皺が刻まれている。

「ゆき、お帰り。」

 

そう声をかけてくれたその声は、低く深みがあり、ゆきの胸に染み通るように思えた。

「お帰りなさいませ、省吾様。」

ゆきは慌てて頭を下げた。

「お疲れでございましょう。すぐにお茶の用意を致します。奥様のお部屋にお持ちしますね。」

「ああ、頼むよ。じゃあ、お母様のご機嫌を伺いに行くか。」

省吾は軽く手を挙げて廊下を歩いていった。ゆきはお茶の用意に台所へ急いだ。

 

奥様の居間には久しぶりに賑やかな笑い声が響いていた。たわいもない話を交わしながら、奥様は嬉しそうに笑っている。二人の息子達も楽しそうだ。そこにゆきも加わって、奥様の居間には昔日の懐かしい団欒が戻ってきたようだった。

「やっぱり、良いものね。」

お茶を片手にふと話が途切れた時、奥様がぽつり、と言った。

「どうしたの?お母様。」

史朗が母親の顔を覗き込む。奥様はほうっと息をついて首を振った。

「いいえ、どうもしないのよ。ただね、こうしてみんなでお茶を頂いていると、私はしみじみと幸せを感じるのよ。」

「何?それ。」

史朗が可笑しそうに笑った。

「あら、そんなに可笑しい?」

奥様が不満そうに言った。

「だって、史朗さんと省吾さんがいて、ゆきがいて…。この屋敷は一時期誰もいなかったのよ…。私はいつも一人で…。」

奥様はそっと視線を落とした。史朗と省吾は息を呑んだ。

「いやね、こんなことを言うなんて…。私ももう年かしら?」

奥様は滲んできた涙を振り払って、笑顔を作ってそう言った。

「お母様はまだまだ若いですよ。それに、まだ老け込まれては困ります。」

史朗がその母親にそっと寄り添った。

「僕も兄さんもこれから嫁を貰って子供を作るんです。お母様には孫の顔を見て貰わなくては。」

奥様は史朗と省吾の顔を見つめた。

「そうね。あなた達が孫の顔を見せてくれるのよね。」

「ええ。この屋敷にはまた子供の声が響き渡る日が来ますよ。」

省吾が笑顔で肯いた。

「まあ、楽しみね。」

奥様が満面の笑みを見せた。

 

奥様の楽しそうな声を、ゆきは久し振りに聞いた気がした。息子達は手元を離れ、娘のようなゆきは嫁入りしてしまった。長男に嫁は来たものの、嫁姑の仲は良いとは言えず、結局別居されてしまった。奥様はこの広い屋敷に一人だったのだろう。正確には使用人達に囲まれてはいたが、気の許せる相手のいない生活だ。どれ程寂しく心細い毎日だったことか。それを思うとゆきは改めて申し訳なさを味わった。

「ゆき。」

息子達がそれぞれの部屋に引き取った後、後かたづけをするゆきに奥様が話しかけた。

「あなたが戻って来てくれた、と思ったら、史朗と省吾も戻って来てくれたわ。なんて嬉しい出来事なのかしら。」

「よろしゅうございましたね。」

ゆきもにこにこと応じた。

「史朗はまだ学校があるからだけど、省吾さんはこちらに戻って来る気はないのかしらね?どこかで開業するってお話は出ているみたいなんだけれど…。」

奥様の何気なく漏らした言葉がゆきをはっとさせた。

「開業、ですか?」

奥様は肯いた。

「ええ、そうなの。省吾さんは前から開業したい、と言っていたんだけれどもね。もう大学で十分修行も積んだことだし。でもね…。」

奥様は少し不満そうだった。

「この屋敷の近所で、という話じゃなくて、無医村に行きたい、なんて言っているのよ。」

「え?」

ゆきは少し驚いた。

(省吾様…。)

省吾はあの、小さい頃からの自分との約束を守ろうとしてくれている。今でも。それはゆきには嬉しい衝撃だった。

「まったく、何を考えているのかしらね。息子でも大きくなってしまうと母親の手の届かないところに行ってしまうものなのかしらね。」

奥様が寂しそうに笑った。

 

次の日、昼下がりの日差しが燦々と降り注いでいるので、暑さを凌ぐため省吾は団扇を片手に縁側に出ていた。裏庭に面しているこの縁側は、涼しい風が吹き渡る。

「省吾様。」

くつろぐ省吾を認めてゆきが声をかけた。

「冷たい麦茶でもお持ちしましょうか?」

「ああ、ゆき。そうだな、お願いするよ。」

省吾はにっこり笑って肯いた。ゆきはお盆に冷やしておいた麦茶の茶碗を乗せて省吾の前に運び、自分も省吾の隣に座った。

「ありがとう。」

省吾は茶碗を受け取るとゆっくりとそれを口に含んだ。

「うん、旨い。」

「よろしゅうございました。」

ゆきは吾の顔をなんとなくだがまともに見られない。省吾は残りの麦茶を一気に飲み干すと茶碗をゆきに返した。

「ごちそうさま。ところで、ゆき。」

「はい?」

今度は省吾がゆきの顔を覗き込んだ。

「たぶんお母様から聞いていると思うけど、僕は今度開業しようと思っている。」

「はい。」

ゆきは肯いた。

「それで、なんだけど…。」

 

省吾は少し躊躇っているかのようだった。

「はい。」

ゆきは話の先を促すように肯いて見せた。

「…僕の診療所の手伝いをして欲しいんだ。」

「!」

ゆきは驚いて省吾の顔を見た。

 

省吾はじっとゆきの顔を見つめ続けている。

「ねえ、ゆき。覚えているかい?」

ゆきの驚きの表情に、省吾は微苦笑したようだった。そして、ゆきから視線を外すと、遠くの景色を眺めながらゆきに話しかけた。

「もう、ずっと前になるね。僕が医者になるって話した時のこと。君はとても嬉しそうに賛成してくれた。」

「…。」

ゆきがその時のことを忘れる筈もなかった。

「僕は何も知らない坊やだった。だけど君が、世間のこと、貧しい人々のことを教えてくれた。今の僕は、君の言葉がなかったら存在していないんだ。」

省吾の言葉はゆきに沸き上がるような喜びを与えた。こんなに立派な医者になった省吾。それは自分のお陰だと省吾は言ってくれている。ゆきの頬は嬉しさで上気した。

「ねえ、ゆき。だから君には僕の手伝いをする義務がある、と僕は思うんだけどな。」

少し悪戯っぽく省吾が言った。ゆきはその響きに思わず省吾の顔を見上げた。省吾は瞳に悪戯っぽい表情を湛えて優しい笑みを浮かべている。

「やっと僕の顔を見てくれたね。」

省吾は体ごとゆきの方に向き直り、ゆきの瞳を覗き込んだ。

「僕は本気で言っているんだ。ゆき、僕は近々診療所を作る。どんな人でも訳隔てなく診察を受けられる診療所だ。そのために僕はこれまで必死に勉強し、貯金もした。だけど、その理想を実現するには人手が足りない。君に手伝って欲しい。いや、僕の隣にいて欲しい。」

ゆきはその言葉に仰天した。単なる手伝いの話だったはずが…。

「あ、ごめん。先走ってしまったね。」

省吾は恥ずかしそうに笑って頭を掻いた。

「手伝いをお願いするだけのつもりだったんだけどな…。君の顔を見ているとどうしても気持ちが抑えられなくなる。」

ゆきは目を見開いて省吾の顔を見つめた。

「ゆき、冗談なんかじゃないよ。僕は本気だ。あの日から僕の気持ちは変わっていない。」

ゆきにはそれがあの、駅まで見送りに行った時の事だと判っていた。でも反応が出来ない。自分にはその省吾の気持ちに応える資格はない、と思っている。だから、ふい、と省吾から視線を外した。あの後色々なことがあった。そして自分は省吾ではなく健太郎を選んだ。省吾はそれはゆきのせいじゃない、と言ってくれてはいる。だが返ってそれがゆきの重荷になってしまっていた。責めて、そして忘れてくれた方が良かった。ゆきは思う。一度は他人の妻と呼ばれた身なのだ。そんな身体で省吾のもとに嫁ぐなど考えられない。増してやゆきはもう子供の産めない身体になってしまった。女としての価値など何もない。それなのにどの面下げて省吾の隣になどおられるものか。

「ゆき?」

ゆきの沈黙にただならぬものを感じて、省吾はゆきの肩に手を伸ばした。

「…。」

ゆきはつい、とその手を避けた。

「ゆき…。」

ゆきは頑なに省吾の視線を避けている。

「…いけません、省吾様。」

そして振り切るように立ち上がる。

「…お許し下さい。私は…。」

そう言いおいてゆきは小走りに廊下を去っていった。省吾は茫然とその後ろ姿を見送った。

 

それからしばらくの間、ゆきは意識して省吾のことを避けていた。省吾はしかし、敢えてゆきを追いかけ回すことはしなかった。

「ゆき、ちょっといい?」

見かねて史朗が行動を起こした。

「省吾兄さんと何かあった?」

「…。」

何も言おうとしないゆきに史朗は呆れた。

「まったく。君といい省吾兄さんといい、どうしてそうなの?」

史朗の視線を避けるようにして俯くゆきに、史朗は今回は容赦なく畳みかける。

「大体のことは察しが付くけどね。きっと、省吾兄さんの申し込みをゆきが断ったんでしょう?」

ゆきは黙ったまま俯いている。史朗は大きくため息を付いた。

「まあ、この間のゆきの様子からこうなるとは思っていたけど…。」

史朗は苦笑した。

「ゆき、どうしてそんなに遠慮するの?」

史朗は口調を変えて優しくゆきに話しかけた。

「ゆきはどうしてそんなに自分を卑下するの?ゆきはきちんとした一人の女性だ。それで十分じゃないの?」

「…。」

「僕に、君の気持ちは分からない、と思っている?」

俯いたまま背中を向けたゆきに、史朗は悲しそうに問いかけた。

「そうなんでしょ?確かに、僕は男だし、ゆきとは育った環境が違うから、考えの基準が違うんだろうね。」

ゆきはどう言って良いか判らず、黙ったままでいた。史朗の言っているような気持ちでいるわけではない。だが、それをうまく言葉に出来ない。自分の気持ちなのに。振り返って史朗の顔を見る。自分のことを本当に心配しているのが判る。ゆきは無意識に首を振っていた。

「…史朗様…。」「…ごめん…。ゆきはそんな人ではないよね。そんなこと、僕が一番良く知っているのに…。」

史朗は悲しそうに笑った。

「…ねえ、ゆき。お願いだよ。どうか、幸せから逃げないで。君は幸せになっても良いんだよ。いや、僕やお母様や省吾兄さんのためにも幸せになるべきなんだ。」

史朗は真剣にそう訴えた。

「君には幸せになる権利があるんだよ。」

史朗の言葉はとても暖かくゆきの胸に滲みてくる。

「…史朗様…。」

ぽろぽろとゆきの頬を涙が伝う。

「ねえ、ゆき。もう少し考えておくれ。何が君の幸せなのかも。」

史朗はゆきに自分の思いが伝わっていることを確信した。そして、これでみんなが幸せになれる、と胸を撫でおろした。

 

史朗の気持ちはとても有り難く、嬉しいものだった。ゆきは自分の部屋で一言一言史朗の言葉を思い返しながら考えていた。

(省吾様…。)

省吾への思いは、押し殺していた分だけ、今となっては自分でも持て余しそうなくらい大きく重いものとなっている。省吾の帰宅で、その顔を見、声を聞いたことによって、思いは耐え難いほどになりつつある。

(私は…、こんなにも省吾様のことを…。)

ゆきは自分でも意外に思った。自分がこれ程までに情熱的な女だとは思っていなかった。健太郎に女が出来た時とは大違いだ。何故あの時、あんなに冷静でいられたものか。あれは、『健太郎』だったからなのだろうか。

ゆきの思いは千々に乱れる。

自分はこのまま省吾を思い続けて良いものなのだろうか。省吾の重荷にならないだろうか。

そして、いつしか一つの結論に到達していた。

 

翌日、ゆきは奥様の部屋に呼ばれた。

「失礼いたします。」

奥様の居間に入ると、そこには既に省吾と史朗が座っていた。ゆきは少したじろいだ。ゆきの顔を見ると省吾は、一旦止めていたらしい話しを改めて始めた。

「さて、ゆきも来たことですから、お母様にこれからの僕の計画を聞いていただこうと思います。ああ、ゆきもそこに座って聞いていておくれ。」

慌てて内輪の話から席を外そうとするゆきを、省吾は真剣な表情で引き留めた。そして仕方なさそうに座ったゆきに省吾はちはりと視線を送ると奥様に向き直って話し始めた。

「僕は、開業することにしました。」

奥様は軽く肯いた。それは予め予測していたことだ。

「最初、ここよりもっと北の地で、と考えていたんですが、周りを見るとこの辺りでも医者が十分に足りている、という状態からはほど遠い事に気付きました。特に貧しい人達を診る医者が不足している。それならば僕がここで開業する意味もある。そう思いました。」

その言葉に奥様の表情がぱあっと明るくなった。

「ですから、診療所に適した場所が見つかり次第、僕はこの町か、隣村近辺で開業します。賛成して下さいますね?」

「まあ、勿論よ。私は省吾さんがもっと遠くに行ってしまうものだとばかり思っていたんですもの。そんな近くで開業して下さるのなら、私は何の不服もありません。」

嬉しそうに奥様は同意した。

「ありがとう、お母様。それでお願いがあるのですが。」

省吾は、少しおねだりをする子供のような表情で奥様に申し出た。

「なあに?省吾さん。あなたが頼みごとだなんて珍しいわね。私で出来る事でしたら、何でも構いませんよ。」

奥様は軽く請け合ったが、省吾は少し言い難そうにした。

「実は…、僕が屋敷の近辺で開業する、と言ったのは、ゆきに手伝って貰いたい、と思っているからなんです。診療所は僕一人ではどうしても人手不足ですし、そうなると手伝ってくれる人がいる。それはできれば女性が望ましい。そして僕は、ゆきが相応しいと思うんです。」

省吾は目を見開いているゆきの顔をちらりと見た。それからまた奥様に訴えるように向き直った。

「お母様には申し訳ありませんが、僕にゆきをお貸し下さいませんか?勿論、ご用事のない時だけで構いませんから。」

「まあ、そんなことなの。私は全然構いませんよ。」

奥様はにこやかに請け合った。

「そんなことぐらいならゆきだって嫌とは言いませんよ。ね、ゆき?」

奥様はゆきに微笑みかけた。

「私からもお願いするわ。省吾さんの手助けをしてあげてちょうだい。」

ゆきが省吾に断りを入れようと思った途端、奥様からそんな風に頼まれて、ゆきは断るに断れなくなった。もじもじするばかりのゆきにじれたものか史朗が口を挟む。

「そうだね。屋敷から毎日通っていけばいいし。何も診療所に通って病人の面倒を見たり、兄さんの行き届かないことの手助けをするのは、皆のためになることで兄さんのためじゃあないし。」

ゆきははっとして史朗の顔を見た。史朗は笑って肯いてみせる。

「ゆき、これは兄さんの為じゃなくて、病人のためだ。手伝ってあげても良いんじゃない?」

「あ…、はい。」

ゆきは反射的に肯いていた。奥様からの頼まれごとだ。それをあっさりと断る訳にはいかない、というプレッシャーと、省吾の視線、史朗の視線というトリプルプレッシャー。しかし、史朗の言葉がゆきをそこから救い出してくれた。

(省吾様の為じゃない…。)

ゆきの気持ちはそれだけで軽くなっていた。

 

ゆきの返事を取り付けて、省吾は診療所の準備にとりかかった。ゆきは戸惑いながらそれを見守っていた。ゆきには省吾の気持ちが理解できなかった。省吾を後押しする史朗の気持ちも分からなかった。それでも、省吾が診療所に移る前に、自分の考えをきちんと伝えるべきだ、と思っていた。その機会は意外と早くにやってきた。

「お母様、ちょっと宜しいですか?」

ある日の昼下がり、省吾が奥様の居間に顔を出した。

「あら、省吾さん。どうぞ、お入りなさい。」

奥様は刺繍の手を休めて省吾を招き入れた。

「ゆき、お茶をお願い。」

「はい、ただいま。」

奥様の言いつけに従って、お茶の支度をして戻ったゆきを、待ちかねていたかのように省吾は口を開いた。

「診療所に丁度良い物件が見つかりました。」

「まあ。どちらなの?」

奥様が身を乗り出す。

「隣村との境に近いところに、後継の絶えた小名主の家がありまして、そこを少し手直しすれば、診療所として使えそうなんです。」

省吾が説明する。奥様は小首を傾げた。

「そうなの。私にはその家がどこなのかもよく分からないけれど…。ゆき、ゆきはその家を知っていて?」

「はい。省吾様のおっしゃっているのが作左ヱ門屋敷のことでしたら、私、よく知っています。」

ゆきは肯いた。省吾も微笑みながら肯いた。

「うん、確かそんな名前で呼ばれていたよ。」

「それならば、奥様、お屋敷からもそう遠くはございません。下男にお車を出させれば、すぐでございます。」

ゆきは心配そうな奥様に請け合った。

「そう。よかったわ。」

ゆきの言葉に奥様は安心したようだった。

「それでは、お引っ越しはいつ頃になるのかしら?」

そしてもう一つの気がかりを口にする。

「そうですね…。改装に一月程かかるでしょうから、それが終わってからのことになるでしょうね。僕はその間に医療器具や薬の手配をしておかなくては。」

「そうなの…。」

奥様は少し寂しそうな笑い方をした。

 

「省吾様、お時間をいただけませんか?」

奥様の居間を出た省吾に、ゆきの方から声をかけた。

「ああ、いいよ。」

省吾はゆきを庭に導いた。

「なんだい?ゆきから話しがあるなんて珍しいね。」

省吾は優しい笑い方をする。

「…あの、私の考えを省吾様に知っていて貰わなくては、と思いまして…。」

「…。」

瞳を伏せて話し出したゆきに、省吾は少し寂しげな目をした。

「私は、喜んで診療所のお手伝いをさせていただくつもりでおります。奥様のお言いつけですし、人様の役に立つことですから。でも、基本的には私は奥様の使用人です。それ以外の何者でもありません。また、それ以外のものになるつもりもありません。どうか、それをご理解下さい。」

ゆきにしては珍しいくらいはっきりとゆきは考えを口にした。省吾は黙ってゆきの話を聞いていたが、やがて微笑んで肯いた。

「うん、分かっているよ。僕は君がそばにいてくれるだけでいい。」

その言葉の優しさはゆきの胸を締め付けた。

「でも、ゆき。僕の気持ちはずっと変わらない。」

そして付け加えられた言葉は、ゆきをどうしようもなく自己嫌悪に追い込んだ。

「省吾様…。」

「自分を責めることはないよ、ゆき。」

ゆきの思いを察したものか省吾が柔らかい笑顔で言葉を継いだ。

「君は悪くない。君の考えはもっともだよ。だけど、僕は僕の思いを捨てられない。」

省吾の目は真剣だ。

「我ながら未練たらしいとは思うけれども、こればかりはどうしようもない。」

省吾は苦笑している。

「君には迷惑かも知れないけど、勘弁しておくれ。」

ゆきにはもう何も言えなかった。そっとその場を離れるゆきの背中に、省吾の小さな呟きが聞こえた。

『君ならずしてたれかあぐべき』

 

 

筒井筒

井筒にかけし

麿が丈

老いにけらしな

妹見ざる間に

 

比べこし

振り分け髪も

肩過ぎぬ

君ならずして

たれかあぐべき

 

もう、どれ程前になるのだろうか。省吾が教えてくれた相聞歌。あの頃は、ただひたむきに省吾を思っていても良かった。添い遂げられるとは考えてもいなかった。それでも、思い続けるのだけは、自由だったのだ。

(省吾様…。)

ゆきはそっと涙を拭った。何て自分はあの頃から遠くに来てしまったのだろう。気持ちはあの頃と少しも変わらないのに、身体と気持ちを縛り付けるしがらみだけは何重にも巻き付いて、ゆきを身動き取れなくしてしまっている。ゆきは小さく首を振った。いや、これでいい。これでいいのだ。一時の熱情に流されて省吾の未来を潰してはいけないのだ。ゆきは唇を噛んだ。大丈夫。これくらいの辛さにならば耐えられる。省吾の為になら耐えてみせる。

 

省吾の診療所は、予定通りに開業を迎えた。近隣の貧しい農民達は最初胡散臭い目で見ていたが、やがて省吾が金のない者達でも分け隔てなく診てくれる、信頼できる医者だと解ると、徐々に診療して貰いに来るようになっていった。ゆきも毎日のように診療所を訪れ、省吾の身の回りの世話だけではなく、看護人の役割まで果たすようになっていった。ゆき自身が性格的にも看護人に向いていたせいもあるが、診療所が慢性的な人手不足という問題を抱えていたからでもある。そして、貧しい人々を相手にしている以上、資金的にも苦しいことは自明の理であった。

親切で優しく、的確な処置をしてくれる優秀な医者である省吾は、貧しい人々から歓迎された。診療代も、払えない者からは無理して取ろうとはせぬ姿勢は、皆から慕われた。診療代の代わりとして作物を持ち込む農民も多かったが、省吾はいやな顔一つせず、自らの食卓にそれを乗せることによって経費を節約することに勤めた。それで何とかやっていけるほどの収支の、省吾の理想だけが支えとなっている診療所であった。

「省吾様、今夜は白菜のお漬け物と大根の煮物ですよ。」

屋敷に戻る前に省吾の夕食の準備をしながらゆきは、診察室の省吾に呼びかけた。

「ああ、それはうまそうだ。ゆきの煮物はうまいからな。」

省吾も大声で応じた。

「あらま、先生様は大根の煮付けがお好きなのかいのう。」

聴診器を当てられていたばあさんが、嬉しそうに話しかけた。

「僕は好き嫌いがないんですよ。でも、ゆきが作る煮物は格別にうまいんです。」

省吾も笑いながら答えている。

「さあ、いねさん。薬を出すから、きちんと飲んで下さいね。」

「ありがとうごぜえます、先生様。あの、診察料なんですが…。」

ばあさんが言い難そうにしているのに、省吾は軽く首を振った。

「ああ、そんなのはある時払いで構わないよ、いねさん。」

ばあざは深くお辞儀をした。

「いつもすまねえこってす。あとで大根でも持って来ますから、足しにしてつかあさい。」

「あ、ありがとう。助かるよ。」

省吾はにこにこと患者を送り出した。その様子を見ながらゆきも微苦笑していた。まったく商売気というものがない。省吾はまさに医は仁術、を地でいっている。

「では、省吾様。私はこれで戻らせていただきます。」

そう挨拶してゆきが帰ろうとしていると、患者達の声が聞こえてきた。

「先生、ゆきさん、帰っちゃうのか?」

「何で帰っちゃうんだ?先生の嫁さんじゃあないのか?」

「いや、違うよ。」

省吾の声が答えている。

「へえ、嫁さんだとばかり思っとったよ。」

患者達はかなり喧しい。

「意外と先生もだらしないんだなあ。あんなに良い人を放っておくなんて。勿体ないよ。」

「本当だ。さっさと嫁さんにすりゃあいいのに。」

「あ、分かった。告白する勇気がないんだ。」

「そりゃあ、ダメだ、先生。女はきちんと口説いてやらなきゃあ。」

「いやあ、先生には無理だって。」

「こらっ!勝手なことばかり言って!」

患者達の矢継ぎ早なからかいに、さすがに困ったものか、最後に省吾の声が反論するのが聞こえた。

「出来るものならとっくに嫁にしている!」

ゆきは逃げるようにその場を後にした。








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