「…話し辛いのは解るけど、私には聞く権利があるわ。」
ゆきはさよの顔を見て、はっきりと言い切った。その語気にさよは気圧された。
「す、済みません!申し訳ありません!」
いきなりがばっと平伏する。ゆきはまたため息をつくしかなかった。いったい何度目のため息だろう。話がなかなか進んでくれない。
「さよさん。止めて下さい。私は話が聞きたいの。」
ゆきはなるたけ優しい口調で、諭すように言った。怯えているさよにはその方が効果的であろう。ゆきには本当にさよを責める気持ちはなかった。
「お、奥様には本当に申し訳ないと思っています。」
さよが平伏したまま蚊の鳴くような声で言った。
「私みたいな者が健太郎様のお子を産むなんて、さぞや奥様はお腹立ちの事と…。」
ゆきは天を仰いだ。それからゆっくりと首を振った。
「…だから、私はあなたを責めに来た訳ではない、と言っているでしょう?それに、私は多分、あなたと同じように、水呑み百姓の娘です。健太郎さんの妻だからといって、そこまで恐縮する必要はないのよ。」
さよはその言葉にはっと顔を上げた。
「私と同じ…?」
ゆきはゆっくりと肯いた。
「そうよ。私は勤めていたお屋敷の養女として嫁いで来ただけ。所詮は水呑みの小作農の娘なの。だから、もうそんなに怖がらないで。」
さよは一瞬、ぽかんとした。話が飲み込めていないらしい。
「私とあなたに違いはないの。健太郎さんを大切に思っているただの女。だから、お願い。話して。あなたと健太郎さんがどうして出会い、正太郎君を授かる事になったのか。」
さよはまだ戸惑いの中にいたが、そこからだんだんと怯えの色は消えていった。
「話してくれますね。あなたのことも…。」
ゆきはなるべく語調が強くならないよう気をつけながらさよに言った。ゆきのこれからのことを決めるためにも話を聞かねばならないのだ。

「…私は、奥様の仰る通り、水呑み百姓の娘です。」
覚悟が決まったものかさよは目を伏せながらもゆっくりと話し始めた。
「もう一昨年のことになります。とうとう小作料どころか食うにも困って、私が身売りすることになりました。それまでにやはり二人の姉が身売りしていたんですが、私の下にはまだ二人の弟と一人の妹がいるんです。一家全員が飢え死にするより私が実を売る、と私がおっとうに言ったんです。」
ゆきもその話には身につまされた。それはかつての自分と同じだった。


「おっとうは姉二人を身売りさせたことを後悔してました。だから、私まで身売りさせることをなかなか承知しませんでした。でも私は、おっとうやおっかあ、弟や妹たちを死なせたくなかった。私一人が我慢すれば、家族全員が死なずに済むんです。私はおっとうを説得して、そのままこの町の遊郭に売られて来たんです。」
さよの話しにゆきは共感を覚えていた。それはかつての自分自身。自分の思い。でもゆきはその寸前にお屋敷の旦那様に助けていただいた。しかし、このさよは…。
「そして、初めてお店に出た晩、通りかかった健太郎様にお会いしたんです。」
さよはやっと視線をあげてゆきを見た。
「奥様は本当にお綺麗な方なんですね。こんな私が奥様と似ているはずはないのに、健太郎様は、妻に似ていたから放っておけなかった、と仰ってました。ぼんやりと外を見ていた私が、とても奥様に似ていたから、と。」
ゆきは目を見開いた。その時健太郎はどんな思いでさよを見ていたのだろう。
「そしてまだお客のつく前の私を、健太郎様は買い切って下さいました。」
どうやら、店に出されてしょんぼりと客のつくのを待っていたさよを健太郎が見つけて、その夜はさよの身を買い切ったらしい。健太郎は座敷に上がってもさよを相手に酒は飲んだが、決してそれ以上のことをしようとはしなかった。さよの身の上話を肴に酒を飲み、この時さよがゆきに似ている、と話したそうだ。そして、持っていた金を全て投げ出すと、店の主人に「この金のある間は、この娘を店に出すな。私がこの娘を買い切る。」と言ったのだそうだ。さよはそのお陰で、しばらくの間、何処の誰とも知れぬ男達にその身を自由にされることから免れられたのだ。健太郎はそれから三日に一度ほどの間隔でさよの顔を見に現れた。しかし、いつも酒を飲むばかりでさよの体に指一本触れることがなかった。そして一月ほど経った頃、お店の女将が健太郎に「預かったお金はもぅ今日で終わりになります。明日にはさよに客の予約が入っていて、客を取らせることになります。」と告げた。
「私は既に諦めがついていたんです。でも、その時、明日にはこの身が見知らぬ男に汚されてしまうのだと思うと、どうしても塞ぎ込んでしまいました。そして思ったのです。どうせ汚されてしまう運命ならば、このお優しい健太郎様に最初の人になって欲しい、と。申し訳のないことですが、何度も会ってお話をするうちに、私は陰ながら健太郎様をお慕いするようになっていました。」
さよはまた目を伏せた。
「ですから私から健太郎様にお願いしたんです。私を抱いて下さい、と。」
ゆきは息を呑んだ。さよの気持ちは痛いほど分かった。女の身としては当然、とも言えた。しかし、健太郎の妻、としては…。


「奥様には、本当に申し訳なく思ってます。」
さよはまた頭を下げた。
「私の我が儘なんです。それなのに健太郎様は…。」
ゆきにはその場面が大体想像できた。健太郎の性格はゆきが一番良く知っている。
健太郎はさよの言葉に最初戸惑い、それから縋り付くようなさよの眼差しに気が付いたのだ。女にとってその身を許す、ということは、一生をかけるほどのことだった時代だ。今後、春をひさいで生きねばならないさよの、その最初で最後の女としての思い出になって欲しい、と健太郎は請われているのだ。その、切ないほどに悲しい思いを、健太郎は受け止める決心をしたのだろう。それを断れるほど健太郎は強くない。
ゆきは俯いてため息を付いた。さよの気持ちも健太郎の気持ちも理解できる。
「その夜、健太郎様は私を抱いて下さいました。私は幸せでした。私はその思いだけを抱いて、その後の辛い運命を生きていこうと思っていました。それなのに…。」
さよの頬が少し赤らんでいた。
「後朝(きぬぎぬ)の別れの時、健太郎様は女将に私を身請けする、と仰いました。そして夜になる前にお戻りになり、身請けのお金を女将に叩きつけたのです。」
ゆきにはそれがいつのことなのか思い当たった。その時健太郎は、滅多にないことだったが、纏まったお金を懐にして、そそくさと出かけていったのだった。普段から、出かける理由も場所も聞かないことが妻としての嗜み、と教えられ、実行していたゆきだったが、その時ばかりは健太郎を引き留め、問い質したい欲求に刈られたのだっだ。
「健太郎様はその場から私を連れ出し、この家に連れて来て住まわせて下さいました。そしてやはり三日に一度ほど、私の顔を見に通って下さるようになりました。そうです。その時から私は、健太郎様のお世話を受ける身になったんです。」
さよは急にゆきの目を覗き込むようにした。
「奥様、健太郎様には何かお辛いことがおありでしたでしょうか?その頃の健太郎様はいつも暗い目をなさっていて、何かを忘れるために私を抱いているような気がしていました。」
ゆきは胸が痛かった。やはり華子の死によって傷ついていたのは自分だけではなかったのだ。だがゆきには、健太郎を気遣う余裕はなかった。ゆき自身が心を病んでいたからだ。健太郎は、ゆきを気遣い思いやってくれたが、ゆきには健太郎を癒して抱き留める包容力がその時なかった。ゆきは唇を噛んだ。全ては自分自身が招いたことだったのだ。ゆきはじっと自分を見つめているさよに首を振って見せた。
「あなたには関係のないことよ。」
さよはその言葉に少し顔を強ばらせた。そしてもうそのことに触れず、黙り込んだ。ゆきはさよに話を続けるよう促した。


「もうお話出来ることはあまりありません。私は身籠もったのに気付いた時、健太郎様に打ち明けるべきか悩みました。でも、そのうちに悪阻が始まって、そんな私の様子を見て健太郎様は私の妊娠を察したご様子でした。私は奥様や健太郎様のことを考えれば産むべきではないと知っていたのに、健太郎様がお困りになると解っていたのに、健太郎様のお子を産みたくて…、お慕いしている健太郎様のお子だからこそ産みたくて、健太郎様にまた、我が儘を言ってしまいました。健太郎様はやはり困った顔をなさりましたが、結局黙って認めて下さいました。」
ゆきは微かに笑みを浮かべた。いかにも健太郎らしい。
「赤ちゃんを堕胎したりしなくて、本当に良かったわ。赤ちゃんには何の罪もないのですもの。」
ゆきは心からそう言った。自分の気持ちや世間体や諸事情はどうあれ、かけがえのない命。せっかく授かったものを無駄に天に返してはいけない。二人の子を亡くしたゆきだからこそ、余計にその思いは強かったのかも知れない。
さよの表情が明るくなった。この女も決して悪い人間ではない。それどころか偏に健太郎を慕っている健気な女だ。結局、誰も悪くはない。運命に踊らされただけなのだ。
奥からまた赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。話をしている間中、泣き止んでいたのだが、お腹でも空かせたものか激しく泣いている。さよがそわそわしだした。ゆきはそれを見て取って笑顔でさよに言った。
「お腹を空かせている泣き方よね?こちらに連れて来てもらってお乳をあげたら?」
さよはもじもじと少し考えていたが、意を決したらしく奥に向かって声をかけた。
「おみっちゃん!正太郎をこっちに連れてきて!」
「はーい!」
奥からほっとしたような返事が返ってきた。どうやら手を焼いていたらしい。ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「おお、よし、よし。」
さよが慌てて赤ん坊を受け取る。母親の手に移った途端、赤ん坊は泣き止んだ。さよは急いで乳を含ませる。赤ん坊は一心不乱に乳を吸っている。ゆきは思わずその光景をうっとりと見つめた。そうやって乳を吸われていた頃の幸福感を思い出していた。しかしすぐにそれは深い喪失感に取って代わった。ゆきはそっと自分のお腹に手をやっていた。ほんの数日前まではそこに小さな命が宿っていたのだ。
赤ん坊は一生懸命生きていた。その顔を覗き込んでいるさよは母親の喜びに溢れていた。ゆきは胸がちりちりと痛むのを感じていた。なくしたもののあまりの大きさを思った。ゆきは軽く首を振るとその思いを追い出した。
「正太郎君は健太郎さんによく似ているわね。」
見ているだけで微笑ましい。赤ん坊の力は偉大だ。
「私もそう思います。」
さよが嬉しそうに言った。赤ん坊を挟んで二人の女の間には奇妙な和が出来ている。


「さよさんは、健太郎さんのことを本当に大切に思ってくれているのね。」
ゆきはそんなさよが羨ましかった。
「正太郎君もとても大切なのよね。」
さよははっとしてゆきの顔を見た。
「す、済みません、奥様。私…。」
さよの目にも分かるほど、ゆきの表情には悲哀の色があった。ゆきはさよの反応からそれを察して慌てて首を振った。
「違うのよ、さよさん。私はちょっと羨ましかっただけ…。」
ゆきは微笑んで見せた。しかしその笑みにはやはりどことなく哀しみが滲んで見えた。さよは何も事情を知らないので、それを健太郎と自分のことを憂いているせいだと誤解しているのだ。
「私はあなたと赤ちゃんに会いに来たかっただけなの。今日、こちらに伺って良かったわ。あなたの事を話していただけたお陰で、あなたがどのような方か知ることも出来たし、こんなに可愛らしい正太郎君をみることも出来たもの。」
ゆきはもう一度正太郎を見て微笑んだ。目元が良く健太郎に似ている。
「奥様…。」
さよにはゆきの真意がいまいち分からない。でも、正太郎や自分に敵意を持っていないことは分かったらしい。
「奥様、もし宜しかったら、正太郎を抱いてやってくれませんか?」
お乳を飲み終えて満足げに欠伸をしている正太郎を、さよはゆきによく見えるように傾けてみせた。すると正太郎は何故かゆきの方を見てにっこりと笑った。
「あ…。」
それは、まるで天使の微笑みに見えた。全てを許してくれる天使の笑みに。ゆきは思わず両手を差し出していた。
そっと渡された小さく柔らかい赤ん坊の身体。乳臭く頼りなげな重み。温もり。
(赤ちゃん…。)
ゆきはその懐かしい重みを愛しんだ。もう二度と手にすることはないかも知れないこの重み。
正太郎は大人しく抱かれている。それどころかゆきを見つめてにこにこと笑っている。子供には相手が自分を愛おしんでくれている存在がどうか、本能的に分かるのだろう。
不意に正太郎を見つめるゆきの目から涙が一滴零れ落ちた。
「奥様…?」
さよは驚いて声をかけた。
「あ、ごめんなさい。何でもないのよ。ただね、亡くした娘のことを思いだしたの。」
「お嬢様を…。」
さよはふと思い当たったらしく、気の毒そうな表情になった。ゆきはさよの手に正太郎を返すと、涙を拭って微笑んで見せた。
「もう諦めがついているつもりでいたんですよ。でも、だめ、ね…。」
ゆきは深いため息を付いた。
「私はこれで失礼します。今日は本当に良かったわ。さよさん、ありがとう。」
狼狽えているさよを後目に、ゆきはその家を後にした。ゆきの心の中にはある決意が芽生えていた。


ゆきはさよを訪ねたことを誰にも言わなかった。しかし四、五日経った或る夜、健太郎が顔色を変えて帰宅した。
「ゆき、さよのところへ行ったのか?」
夫婦の部屋に入るなり健太郎はゆきに詰め寄った。ゆきはそんな健太郎の顔をじっと見つめた。先日の家族会議で、女とは金をやって別れる、と約束していたはずの健太郎だった。しかし未だに別れてなどいない。その主たる原因は、正太郎の存在なのだろう、とゆきは思っている。健太郎は子供好きだ。しかも相手は自分に良く似た男の子。可愛くない訳がない。そして、もうゆきには健太郎に子供を産んであげられない。いかに健太郎がゆきをまだ愛してくれているとはいえ、健太郎には余計、さよと正太郎は捨てられはしない。ゆきには分かっていた。
「ゆき!返事をしないか!」
健太郎は苛立って声を荒げた。
「一体どういうつもりなんだ?!」
その健太郎の怒り方から、ゆきは健太郎の自分への愛情を感じ取れた。ゆきを傷つけたくないのだ。さよや正太郎に会えば、どれほどゆきが傷つくか、健太郎には想像できたのだろう。ゆきはその思い遣りが嬉しく有り難かった。そして、ずっと考えていたことを健太郎に告げようと覚悟を決めた。
「そのことで、あなたにお話があるんです。」
ゆきの改まった口調に、健太郎はたじろいだ。内に込められたゆきの決意を悟ったのかも知れない。
「な、なんだい?改まって…。」
健太郎は狼狽を隠すことも出来ずにゆきの前に座った。ゆきは健太郎の一挙手一投足を見つめている。ゆきは決して健太郎を見限ったという訳ではない。浮気をしたから、それによって酷い目にあったからといっても、ゆきが健太郎を愛していることに変わりはない。今でも心から健太郎の幸福を願っている。それだからこそ…。
「あなた。私、さよさんにお会いしてきました。正太郎君も抱かせて貰いました。」
健太郎はごくりと唾を飲み込んだ。ゆきは少し微笑んで首を振った。
「いいえ、あなた。私は焼き餅を焼いて押し掛けた訳じゃあ、ありません。私なりに色々考えてさよさんに会いに行ったんです。」
「…。」
ゆきの言葉に健太郎は心を無理矢理落ち着かせた。そして目顔でゆきに話の続きを促す。
「…あなた。私を離縁して下さい。」
「えっ?!」
ゆきの口から飛び出した言葉に、健太郎は仰天した。「ゆき!君は僕を捨てるのか?!」
健太郎は驚くほど狼狽している。
「そんなに僕を許せないのか?!」
「…あなた…。」
ゆきは悲しい目で健太郎を見つめた。


健太郎はおろおろとし、いきなりゆきに両手をついて頭を下げた。
「ほら。こうして謝るから許しておくれ。君の気が済むなら、さよとも別れる。だから、離縁だなんて言わないでくれ。」
「あなた!」
ゆきは情けなくなった。
「そんな真似はなさらないで下さい!どうか私の話を聞いて下さい。」
健太郎は顔を上げたが、その両手はまだ畳についたままだ。ゆきはそっとその手を取った。
「私は怒ってなどいないんです。あなただって悪くないんです。」
健太郎はゆきの顔をじっと見た。ゆきの本意が分からない。ゆきは小さく首を振った。
「誰も悪くないんです。あなたも私も、そしてさよさんも。」
ゆきは悲しい目をしている。
「でも、強いて言えば、私が一番悪いんです。」
ゆきの頭には華子の死がある。自分がもう少し気をつけていたら、華子は死なずに済んだのだ。そうであればその後のことは全て起こっていなかったであろう。
「だから、私が決めなくてはならないんです。」
「ゆき…。」
健太郎は痛ましい思いでゆきを見た。ゆきが何をその思いの中心に置いているのか察しがついたのだ。
「ゆきは悪くないよ。華子が亡くなったのは運命だ。」
「…ありがとう、あなた。でも、ね。あなたのためを思うと、私はその方法が一番だとしか思えないの…。」
ゆきは健太郎の手をそっと握った。
「…ゆき…。」
健太郎はそんなゆきに自分への愛情を感じた。
「ゆきは、僕を嫌いになったのではないと言うんだね?それなら何故、離縁なんて言うんだい?そんなことを言わないで、僕と一緒にいておくれ。ずっと、一生、一緒に。」
健太郎は逆にゆきの手を取って握りしめた。ゆきはそんな健太郎を愛しく思った。
「あなた…。健太郎さん。でも、さよさんには正太郎君がいるのよ。あなたの子供が…。健太郎さんはあんなに可愛い息子をあっさりと捨てられるの?もう二度と会えなくても平気なの?」
しかしゆきは健太郎にそう尋ねるしかなかった。健太郎はぐっと詰まった。返事が出来ない。
「さよさんも正太郎君も私も、なんて、男の人の身勝手だわ。」
ゆきは悲しく唇を噛んだ。
「日陰の身で生活するさよさんは辛くないとでも仰るの?妾の子、と呼ばれる正太郎君はどれ程悲しい思いをしながら生きていくのか、あなたは知らんぷりが出来るの?」
ゆきは強く言った。健太郎は黙り込んでいる。
「あなたには選べない。だから、私が決めるしかないでしょう?」
ゆきの言葉に健太郎は悪足掻きを見せた。
「男の甲斐性だ!めかけや妾腹の子供の二人や三人、とやかく言うな!君が本妻なんだ!どんと構えていればいい。」
「あなた!」
ゆきは激しく首を振った。
「違います。私はそんな言葉を聞きたい訳じゃありません。本妻、なんてものがなんだと言うんです?そんな本妻だめかけだ、という世間様の目が私のみならずさよさんや正太郎君を傷つけているんです。あなたがそれを知らない訳はないでしょう?」
「ゆき…。」
「それに、あなたには跡継ぎが必要です。正太郎君は立派な跡継ぎになることでしょう。さよさんも良い方です。お父様やお母様によく仕え、この家を取り仕切ってくれることでしょう。」
「ゆき!」
「…だって、健太郎さん。もう私にはあなたに跡継ぎを産んであげられない…。」
とうとうゆきの目から涙が溢れ出した。


ゆきは健太郎に思いの全てをぶつけたのだった。その重さに健太郎は考え込み、時間をくれるようゆきに言うしかなかった。
ゆきの決意は堅い。自分のことではなく健太郎や正太郎のためを思って下した決断だからこそ、なおさら堅いのかも知れない。
しかしそんなゆきの思いとは裏腹に、健太郎はゆきと別れるなどとは考えもしなかった。た。さよや正太郎を手放す気もなかった。この時代、浮気は男の甲斐性、とされ、その経済力の許す限り何人でも愛人や妾を囲うことが常識として世間から黙認されていた。しかし、その愛人達は世間から認められることなく、一生を日陰の身として暮らしていくしかなかった。子供達も正妻の子とは区別され、扱いにも差別があり、そして蔑まれていた。
男は自分勝手に浮気をするが、女の立場はとても弱く、それに目くじらたてることは恥ずべき子ととすら言われていた。健太郎も所詮はその時代の男にすぎない。妻とは跡継ぎを産む資格を持つ女。妻が子供を産まないのなら他の女に産ませるのは常識。そんな封建時代の理不尽な思想が根強く支配していた頃であった。

「ゆき、僕は君と別れなければいけないのか?」
数日経って、健太郎は暗い表情でゆきに問うた。ゆきは小さくため息をついて健太郎に向き直った。
「もう私は私の考えをあなたに全て申し上げました。」
健太郎は大きなため息をついた。
「じゃあ、正太郎を家に引き取って君が自分の子供として育てる、というのはどうだろう?そうすれば家に跡継ぎは出来るし、君はまた子供を育てられる。」
その健太郎の提案は、正直、ゆきの心を揺さぶった。愛らしい正太郎の笑顔が瞼に浮かぶ。あの、健太郎によく似た男の子を自分の手で育てられたらどんなに幸せだろう。華子と過ごした日々が甦ってくる。しかしゆきはその誘惑を振り払った。
「あなた。子供を実の母親の手からもぎ離すおつもりですか?それは母親のみならず子供にとっても不幸です。」
「でも、ゆき。」
健太郎は食い下がる。
「君の方が教養もある。育ちだってかなり良い。さよに比べたら君の方がどんなにか良い母親になると僕は思うよ。正太郎にはこの家に相応しい教育と教養を身につけさせねばならない。それには君の方が適任だ。」
「あなた…。」
ゆきは心底情けなくなった。健太郎が言っていることが分からない訳ではない。常識としても世間の目から見たとしてもその通りだろう。だからこそその世間の目が情けないのだ。
「あなたは…女を何だとお思いなんですか?子供を産む道具ですか?自分のものにしておきたい玩具ですか?」
ゆきは悲しい目で健太郎を見た。健太郎は意外そうな顔をした。
「どうしてそんなことを言うんだい?僕はただ君と別れたくないだけだ。」
その言葉を聞いてゆきは、終わりだ、と思った。


結局、どれほど話し合おうとも、健太郎は理解しようとしなかった。理解できなかったのかも知れない。理解したくなかったのかも知れない。だが、ゆきの意志も変わることがなかった。自分が身を引くことで、全てが丸く収まる。ゆきにはそう見えていた。
二人の間がぎくしゃくすると同時に、また健太郎の足はさよの元に向かうようになった。ゆきは複雑な気持ちでそれを見ていた。健太郎の弱さも含めて愛していたゆきだったが、今となってはその狡さが恨めしい。
「あなた。」
そうして数カ月が過ぎたある日、朝帰りをした健太郎にゆきは、最後の話し合いを持ちかけた。
「うん…。」
健太郎は意外なほどあっさりと話し合いに応じた。
「…わかったよ。」
思い詰めたゆきの表情に、健太郎は全てを投げ出すかのように言った。
「君の思う通りにすればいい。僕はもう疲れた…。」
「あなた…。」
ゆきは健太郎の顔を見つめた。
「さよは優しいよ。僕の言うことを黙って聞いていてくれる。正太郎も可愛いしね。嫌がる君を引き留めていても、虚しいだけだ…。今の僕にはこの家に居場所がない。自分の家だというのにね。」
健太郎は苦く笑った。ゆきは胸が痛んだ。決してそんなつもりで行動していた訳ではない。だがそうやって健太郎を余計に傷つけてしまった。
「済みません…、あなた。でも、あとあとになってからあなたもきっと、これで良かった、と考えて下さると思います。」
ゆきは三つ指をついて深々とお辞儀をした。

それからの話は早かった。舅と姑も薄々感づいていたらしく、ため息をついて了承してくれた。そして、ゆきがさよの家を訪ねてから一年も経たぬうちに、ゆきはこの家を去ることになり、さよが新しくこの家の嫁として入ることになった。

そして、ゆきは実家に戻った。何もいらない、とゆきは断ったのだが、舅は健太郎の対面を考えてくれ、と懇願した。非の打ち所のない嫁を、浮気相手かわいさに追い出した、と世間は噂するだろう。例えさよがどんなに良い嫁であろうと、ゆきとどんな小さなことも比べられてしまうのは避けられないことだし、健太郎の不貞の事実もまた陰口の材料となることだろう。舅はそれを少しでも押さえるため、ゆきに慰謝料を無理矢理受け取らせたのだ。そのお金を見る度にゆきがどれほど傷つくか、考えてなどくれなかった。
ゆきの母は、黙ってゆきを受け入れてくれた。詳しいことを話そうとしない娘を、母親は抱きしめてくれた。小さい時から苦労ばかりかけてきたこの娘がまた悲しい思いを重ねたのだ、という不憫さが母親の涙を誘った。ゆきはその母親の胸で、心ゆくまで涙を流した。やっとここに帰ってこられた。小さい時からの積み重ねられた寂しさが涙と一緒に流れ出ていくような気がした。


ゆきの実家は、ゆきの結婚の時健太郎からもらった結納金で自作農となっていた。家も新しくなっており、上の弟が亡き父親の跡を継いで農業を営んでいた。数年前には弟も嫁を迎え、子供も産まれていた。もう母親も嫁に台所を譲り、隠居しているも同然になっていた。
「ゆき、済まないね。」
嫁に気を使って母親は、ゆきに一部屋すら与えられず、自分の部屋に一緒に寝起きすることを娘に謝った。ゆきのおかげで楽な生活が出来るようになったというのに、そのゆきが戻って来た今となってはゆきのために何もしてやれない。それどころか嫁の手前、ゆきに惨めな思いをさせねばならない。
「いいのよ、おっかあ。出戻りの姉なんて厄介者以外の何者でもないもの。豊作はまだしもお嫁さんにとってはうるさい小姑なんでしょうし。」
ゆきは母親を慰めた。そして早々に自分のこれからの身の振り方を考えねば、と思った。
しかし元来働き者のゆきが、実家でのんびりしていた訳ではなかった。朝早く起きると嫁の代わりに生まれたばかりの甥っ子のおむつを洗い、朝飯の支度をし、皆の食事が終わると後かたずけを済ませ、拭き掃除をし、その後は野良仕事に出て暗くなるまで働いていた。その働きぶりにはさすがの嫁も文句の付けようもなく、夫の豊作に愚痴もこぼせなかった有様だった。だがゆきは、自分が邪魔者であることを知っていた。だから、母親に心配をかけぬ為にも、なんとか自立せねばならないと考えていた。

そんなゆきに、一通の手紙が届いた。それはゆきの身を案じたお屋敷の奥様からの暖かい思いに満ちた手紙だった。
ゆき様。実家に戻っておられると聞き及び、お手紙を書くことにしました。事の経緯は健太郎様から伺っております。実家も世代が代わっておりましょうから、そちらに差し障りがあるようでしたら、一度、久しぶりに私の顔でも見に来て下さい。今後のことを相談するためにも、ぜひ一度、屋敷を訪ねて下さい。
手紙は要約するとそんな内容だった。ゆきは有り難く、そして懐かしく、手紙を胸に抱いた。

奥様からの手紙の内容に従い、ゆきは屋敷を訪ねた。屋敷はゆきの居た時とは様変わりしていた。女中頭と執事は引退しており、長男の朔の嫁の好みなのか、離れとして洋館が新築されていた。しかし、朔と嫁はこの屋敷ではなく主に東京の屋敷に住んでいるという。若く、気心の知れない使用人達に囲まれて、奥様は寂しい暮らしをなさっているように見えた。
「奥様…。」
数年ぶりに対面した奥様は、年を取り、疲れた風に見えた。
「お帰りなさい、ゆき。」
奥様はそっとゆきを抱き締めてくれた。ゆきは奥様もまた母親以上に自分を思っていてくれたことを知った。涙が溢れ、ゆきはここが自分の帰る場所だったことを悟った。ゆきはまたお屋敷で、奥様の間近で仕えることになった。






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