幸せな日々は、足早に通り過ぎていくものなのであろうか。
初孫の誕生を待つようにして、ゆきの父親は息を引き取った。長くは持たないと言われ続けていたのだが、娘の幸せをとことん願いながら孫の誕生まで長らえてきたのだ。苦労をかけた娘の幸せを見届けねば気が済まなかったのだろう。覚悟を決めていたはずだったが、ゆきは悲嘆にくれた。最愛の父親の死は、それほどの大事だった。だが、華子の存在がゆきをそこに止まったままにはしておかなかった。泣き、笑い、日々育っていく幼子は、ゆきを現実世界に引き戻し、生きる喜びを与えてくれた。華子はゆきの心を癒してくれたのだ。
華子は、その名の通り、小さな愛らしい花のような子供だ。柔らかい頬に刻まれたえくぼは誰をも笑顔に変える。ゆきに似た漆黒のつやつやとした髪、健太郎譲りの育ちの良さから来る物怖じしない態度、天使のような笑顔を持っていた。ゆきが華子を抱いて健太郎に寄り添う図は、「幸せな家族」と題する絵を見ているようだった。
全ては順風満帆のように見えた。ゆきはこのまま、幸せな家族に囲まれて幸せに生きて行くものと思われた。父親の願い通りに。しかし、そんな幸せに不幸の影が忍び寄っていることに誰も気付く事はなかった。

華子はすくすくと育っていった。可愛らしいその姿は一家の中心にあって、さながら太陽のごとく皆を引きつけていた。
立ち上がった、といっては喜び、歩いた、といっては歓声を上げる。初めて話をした日には、使用人達に酒が振る舞われた。三歳になり、華子はちょこちょことゆきの後をついて回り、ゆきの仕事を手伝いたがるようになっていた。その様子が健気で、また可愛らしく、皆の笑みを誘う。かなり利発な子で、商用にみえたお客人の話相手をして、健太郎を驚かせたりしている。そうして華子はご近所でも看板娘としてかなり有名になりつつあった。秋には、祖父母も一緒になって盛大に七五三のお祝いをした。その可愛らしさに皆が目を細めているのを、ゆきは幸福感に包まれながら眺めていた。母親となった喜びが押し寄せてくる。ゆきは幸せだった。

好事魔多し、とはこの事だろうか。
師走に入ると、後を追いかけてくる華子が時々咳をしていることにゆきは気が付いた。しかし、暮れの商家は忙しい。その忙しさに紛れて、あまり気遣ってやることが出来ずにいた。華子は、いつものようににこにこと愛想良く、機嫌良くお手伝いをしてくれていた。大したことはないのだろう、とゆきは軽く見てしまった。
「華子?」
夜になってふと気付くと、華子は真っ赤な顔をしてだるそうにうずくまっていた。嫌な予感がして額に手を当てると、熱い。
「華子!」
ゆきは慌てて華子を布団に寝かせると健太郎を呼び、健太郎は自ら医者を呼びに走った。


華子はその夜から高熱を出した。ゆきは一睡もせずに付き添った。
(私が迂闊だったばかりに…。)
額に冷たい手ぬぐいを乗せてやりながら、ゆきは後悔していた。
「子供はよく熱を出したりするものさ。」
責任を感じてしまっているゆきに健太郎はそう声をかけた。
「知恵熱かも知れない、とお医者も言っていたじゃないか。なあに、すぐ良くなるよ。」
「あなた…。申し訳ありません…。」
「大丈夫だよ。華子は元気な子だ。明日には熱も下がって君の後をいつものようについて回るさ。」
不安に押し潰されそうなゆきを健太郎はそっと抱きしめた。
しかし、華子の容態はなかなか良くならなかった。高熱が三日ほど続き、やっと熱が下がっても食欲が出ず、一日中うつらうつらしている状態が続いていた。華子もみるみる痩せていったが、ゆきも日々やつれていった。家事はもとより家業もこなし、少しでも手が空けば華子の世話をし、夜は一晩中付き添っていた。そんな生活をしていたら、どんな人間でも参ってしまう。健太郎は、華子の心配もしていたが、そんなゆきの身体も気遣った。
「ゆき、無茶だよ。僕が夜は華子を見ているから、今夜だけでもしっかり休んでくれないか?」
その提案にゆきは首を振った。
「いいえ、大丈夫です。私が母親として至らないせいで華子は…。せめて私が看病しなくては…。」
ゆきの鬼気迫る口調に健太郎は引き下がるしかなかった。
その夜半のことだった。
「あなた!健太郎さん!華子が!」
隣の部屋から響くゆきの悲鳴のような呼び声に、健太郎は飛び起きた。
「どうした?!」境の襖を蹴破るように開けて飛び込むと、ゆきは真っ青な顔をして華子を抱き起こしていた。華子も青白い顔をし、その呼吸は浅く早い。
「ひきつけを起こしました。呼吸が一度停まって…。抱き上げて揺り動かしたら呼吸は戻ったんですが、身体が燃えるように熱い…。」
ゆきは蚊の鳴くような声で説明した。唇が震えている。そのゆきの様子に、華子の容態の只ならぬ事を察した健太郎は、医者を呼びに駆け出した。

「ゆき!お医者を連れてきたぞ!」
医者を引きずるようにしての手を引いて駆け込んで来た健太郎が目にしたのは、やはり華子を抱き上げているゆきの姿だった。ゆっくりと健太郎の方を振り返る。その瞳は焦点が合っていない。
「!」
健太郎はぞっとした。嫌な予感が背筋を駆け抜けた。医者も気配を察して、慌ててゆきの腕の中の華子に近寄る。
「これは…。」
華子の脈を取り、瞼をひっくり返し、医者は難しい顔をして絶句した。
「…先生、どうなんですか?」
健太郎は掠れた声で尋ねた。
「華子は…、娘は大丈夫なんでしょうね?」
しかし医者は目を伏せ、それからゆっくり首を振った。
「残念ですが…、既に亡くなられています…。」
「!華子!」
健太郎はゆきと華子に飛びついた。ゆきはしっかりと華子を抱きしめたまま感情をなくしてしまったかのように無表情で宙を見続けている。
「華子!華子!目を開けておくれ!ほら、お父さんだよ!」
声をかけながら華子の小さな頬を撫でてやる。華子は健太郎がこうしてやると喜んで笑顔を見せてくれたのだ。しかし今は、何の反応も示さない。白い小さな顔は笑わない。目を開けない。小さな唇は動かない。
「華子…。」
健太郎の目から涙が溢れた。突っ伏して号泣する。部屋の中に健太郎の慟哭が響き渡った。


それからどのくらいの時間が流れたものか。
「奥さんに、娘さんをもう寝床に休ませてやるように言って下さい。あのままでは…。」
泣き崩れた健太郎が落ち着くのを待って、医者がそっと言った。健太郎が顔を上げるとゆきはさっきと同じ体勢で、冷たくなりつつある華子の身体を抱きしめ続けている。
「…ゆき…。」
声をかけるが反応がない。
「ゆき。」
肩に手をかけてゆさぶってみる。
「ゆき!」
その声にぼんやりと健太郎の顔を見上げるが、それが夫だと認識しているとは思われない。
「!ゆき!しっかりしろ!ゆき!」
ゆきまでなくしてしまうのでは、という恐れが健太郎を貫いた。
「ゆき!先生!ゆきの、妻の様子が!」
その叫びに医者が敏速に行動した。
「奥さん、わかりますか?奥さん。」
ぺちぺちとゆきの頬を叩く。
「…あ…。」
ゆきはやっと医者の顔を見た。しかし目の焦点は合っていない。
「娘さんを休ませてあげましょうね。」
優しく言い聞かせるように告げて、医者はゆきの手から華子の身体を受け取ろうとする。しかしゆきの手はずっと同じ姿勢をしていたためか強ばっていて動こうとしない。
「奥さん、このままでは娘さんが疲れてしまって可哀想でしょう?」
再び医者が優しく声をかける。
「…あ、そうね…。華子、疲れるわね…。」
やっとゆきは、その言葉に反応してくれた。そしてその強ばった手を弛めようと動かしかける。医者はすかさずゆきの手から華子の体を引き離し、健太郎に預けた。健太郎は愛し子の亡骸をそっと布団に寝かせてやった。つやつやした髪を整えてやる。今にも目を開けて笑いながら
「お父さん!」と跳び着いて来そうだ。健太郎はまた溢れてこようとする涙をぐっとこらえた。今はゆきの事が心配だ。医者はゆきの隣に座り込み顔を覗き込んでいる。
「先生、妻は…、大丈夫でしょうね…?」
健太郎のその問いかけに、医者はまた難しい顔をした。
「…ご主人、離れた部屋に奥さんの寝床も用意して下さい。どうやらショックが強すぎたらしい。心が壊れてしまったのかも…。」
「!そんは…。」
健太郎の顔からは血の気が引いていった。
「静かな所でそっと休ませてやるのが最上の治療でしょう。時が心の傷を癒してくれるのを待つ以外、為す術はありません。」
その言葉に健太郎は思わずゆきの顔を見た。蒼白で無表情のその顔は、虚ろな眼を宙に漂わせている。
「ゆき…。」
健太郎はそんなゆきがを哀れに思った。自らも悲しみに打ち拉がれてはいたが、母親としてのゆきの悲しみは、その心を壊してしまうほどに深いのだろう。
そして健太郎は、奥の座敷に寝床の用意をすると、医者の薦めに従ってゆきを抱き上げて運び、そっと寝かせてやった。


華子の葬儀の席に、ゆきの姿はなかった。ゆきはあれきり寝付いてしまっていたのだ。あの日、ゆきは正気に戻ることなく、次の日の夕方になってから、ご近所の子供の泣く声に反応して自分を取り戻した。
「…あなた…。華子は…?」
枕元に座る健太郎に、おぼつかない口振りで尋ねる。
「…ああ、大丈夫だよ。向こうで母さんが見ている。」
咄嗟に健太郎は嘘をついた。ゆきは何が起きたのかをその意識から締め出してしまっているようだ。衝撃はそれ程大きかったのだ。再び同じ衝撃を受けたら、ゆきはどうなってしまうのだろう。その危惧故に健太郎は一瞬にそう判断したのだ。
「…そう。」
ゆきはほっとしたように眼を閉じ、眠りに落ちた。

葬儀を終え、しんと静まり返った奥座敷で、健太郎は眠っているゆきの横顔を見つめていた。ゆきは何も知らずに眠り続けている。このまま、眠り続けていられたら、その方が幸せかもしれない。そう思えるほど穏やかな寝顔だった。真実を目の前にして、ゆきは正気でいられるのか。健太郎は苦悩に満ちた眼差しでゆきを見つめていた。決断しなければならない。ゆきが目覚める前に。

三日三晩眠り続けて、ゆきは目を覚ました。夜明けだった。柔らかい日差しが窓から差し込んでいる。ゆきはしばらくその陽光をうっとりと眺めていた。今が何時か、自分が誰かも意識していなかった。現実は未だゆきを捕らえてはいなかった。
「ゆき、目が覚めたのかい?」
静かに健太郎が部屋に入って来たのは、そんな時だった。
「お腹は空いていない?何か持ってこさせようか?」
気遣う健太郎をゆきはぼんやり見ていた。健太郎を認識したとは思えない眼差しだ。
「ゆき?」
健太郎はゆきの枕元に座り、改めてゆきの顔を覗き込んだ。
「ゆき。僕がわかる?」
優しく頬に触れる。ゆきはびくりとし、初めて健太郎の存在に気付いたように健太郎を見た。
「…あなた…。」
健太郎はほっと息をついた。
「うん。大丈夫かい?三日三晩眠り続けていたんだよ。」
「…三日三晩…?」
ゆきは驚いた風に目を見開いた。
「私…どうして…?」
無意識に記憶を探ろうとする。健太郎は慌ててそれを遮ろうとした。
「疲れが溜まっているからさ。それより何か食べなくちゃあ。お粥で良いかな?」
健太郎の様子が妙に可笑しくて、ゆきは微笑みを浮かべた。
「あなた…。何をそんなに慌ててらっしゃるの?華子は?華子はどうしています?」
ゆきの問いかけに健太郎は詰まった。咄嗟に答えが出てこない。ゆきの顔が強ばった。
「…あなた…。華子の具合が悪いのですか?そういえば、夜中に引き付けを起こして…あなたをお呼びして…、あなたはお医者様を連れに行って下さって…。あなたのお帰りを待つ間に華子が咳をして…、もう一度引き付けを起こして…、そうしたら…。」
記憶を辿りながらゆきの顔色は青ざめていく。健太郎は為す術もなくおろおろと見守るばかりだ。
「…それから…、私はまた華子を抱き上げて…、何とかして上げなくちゃ、って名前を呼んで…。それなのに突然華子の呼吸が…、呼吸が止まって…、どんなに呼んでも、頬を叩いても呼吸は戻らなくて…、いくら焦っても…華子はぐったりして…、呼吸は戻らず…、小さな鼓動はだんだん弱くなって…、そして…とうてう…。」
ゆきは絶叫した。
「ゆき!ゆき!落ち着いて!」
必死にゆきを宥めようとする健太郎の声はゆきに届かない。ゆきはひたすら絶叫し続けた。


力尽きて気絶した事が、ゆきにとっての救いだったのかも知れない。疲れ果てて眠るゆきを健太郎は痛ましく見ていた。結局、自分には何も出来なかった。自責の念が健太郎を苦しめている。華子を亡くした悲しみと共に、健太郎を苛んでいる。やがて健太郎はそっとゆきの側を離れた。針のむしろから逃れようとするかのように。

例えどんなに悲しくとも、人は生きていかねばならない。
打ち拉がれたゆきの気持ちを支えてくれたのは、健太郎の優しさであり、舅や姑の気遣いだった。ゆきの人柄にすっかり満足している姑は、殊にゆきに優しかった。
「大丈夫よ、ゆきさん。あなたの責任じゃないわ。華子は余りによい子で可愛かったから、仏様が早めにおそばにお引き取りになったのよ。あの子は菩薩様なのよ。」
悲しみの中に優しさを込めて、姑はゆきに話した。その言葉はゆきに対する慰めと共に、自分自身への慰めともなっているようだった。そのように考えねば自分自身がこの悲しみに耐えられない。そう感じているのかも知れない。姑は同じ母親の立場から、ゆきの心情を汲み取ってくれたのだろう。ゆきは皆の優しさに触れて徐々に癒されていくのを感じていた。

華子が逝って一月経つ頃には、やっとゆきは以前のように家業に精を出す事が出来るようになっていた。しかし、いつも自分の後をついて回っていた小さな影がない。後追いをする小さな足音がない。その事に気付く度、ゆきの表情は曇る。重たい喪失感。口には出さぬがその悲しみは、かけていた愛情の分だけ深い。ゆきのその表情に気づかされる度に、健太郎は健太郎で傷口に塩を塗られている気分になった。健太郎の悲しみを癒してくれる者こそゆきであるべきであったのだ。夫婦とは互いの痛み、苦しみを分かち合うものなのだから。しかしゆきにはそんな余裕はなかった。この時、健太郎の気持ちが他に捌け口を求めたとしても致し方のないことだったのかも知れない。
そのころからであろうか。忙しく仕事を終えた夜になって、健太郎はふらりと家を空けるようになった。多い時でも週に一度ほど、夜半過ぎに酒の匂いをさせて帰宅する。そして夜具の上で暗い目をして宙を見つめてため息をつく。ゆきはその事に気付いていたが何も言わなかった。自分にも話せない何かが健太郎にもあるのだろう、と寂しく思いながらも。


穏やかに過ぎていく時は、誰の心の傷をも癒していくかのようだった。季節は巡り、華子の存在がないことにようやくゆきも慣れてきた。そうしてゆきの気持ちが落ち着き、以前のようにやわらかい笑顔を湛えながら誰とも接するようになって、健太郎の夜遊びもぴたりと止んだ。健太郎は結婚当初のようにゆきを大切にし、二人の仲の良さは姑に次の孫の期待をさせるほどだった。やっと全ては順調に元の軌道に戻りつつあった。
もうじき春が訪れようとしていた。華子の一周忌を無事に終えたゆきは、日溜まりに座って実家からの手紙に目を落としていた。実家では、ゆきの結納金で田畑を買い、小さいながらも自作農となり、暮らしもかなり楽になっていた。おかげで妹も隣村の自作農に嫁に行くことが出来、下の弟は街で商家に勤め、上の弟は去年、嫁を貰い、この夏には子供が産まれるという。ゆきの結婚が実家の皆の幸せに繋がっている。母親も穏やかに元気で暮らしているらしい。ゆきは満足そうに微笑んだ。それだけでも自分は幸福だ、と思った。家族を幸せに出来たのだから。そして健太郎の愛情を思った。この優しさに包まれている自分は幸せ者だと思った。そして健太郎と結婚して良かった、と心から思った。

「ゆき、ちょっと来てくれないか?」
ある夜、健太郎が思い詰めた顔でゆきを呼んだ。
「はい。」
返事をして健太郎について行くと、離れの姑達の部屋に導かれた。中に入ると、やはり暗い顔をした舅と姑が座っていた。
「?どうかなさいましたか?私が何か粗相を致しましたでしょうか?」
思わずゆきは二人の顔を見比べながらそう尋ねていた。舅と姑は一瞬お互いの顔を見合わせた。舅が困った顔で姑に軽く顎をしゃくる。姑は重いため息をつくと改めてゆきに向き直った。いつの間にか健太郎もゆきの隣に座っている。
「いいえ、ゆきさん。まずはそこに座って頂戴。」

「はい。」
ゆきは訝しく思いながらも素直に従った。
「…ゆきさん、何て言ったら良いのかしら…。」
姑は口ごもる。よほど話しにくいことらしい。ゆきは黙ってじっと待った。
「…あのねえ…、健太郎に子供が産まれたのよ。」
「はい?」
ゆきには言葉の意味が解らなかった。ゆきは健太郎の妻である。その自分が子供を産んでいないのにどうして健太郎に子供が出来ようか。
「落ち着いて聞いてね。」
きょとんと狐に摘まれているような表情をしているゆきに姑は一拍置いて話し出した。
「健太郎は外に子供を作ったの。つまり、余所の女に子供を産ませたのよ。」
姑はいかにも腹立たしげに吐き捨てた。
「え?今、何と…?」
ゆきはまだ飲み込めていない。姑は目を伏せ、再びため息をついた。
「…だから、ね。健太郎の浮気相手に子供が産まれてしまったのよ。」
「えっ?!」
ゆきは思わず健太郎の顔を省みた。その言葉が信じられなかった。健太郎に限って、と思い込んでいた。健太郎は目を逸らし、じっと黙り込んでいる。その表情からゆきは、その話が真実だと悟った。ゆきの上に蒼天が落ちてきた瞬間だった。


ゆきは健太郎を見ていた。
「まったく、ゆきさんて人がありながら、この子は何をしているのやら…。」
呆れ果てた調子の姑の声がしているが、ゆきには聞こえていない。ゆきはただ、健太郎の顔を見つめていた。
「母さんや、そんなに責めなくとも…。」
舅が可愛い息子を庇おうとする。
「魔が差したんだろうから…。」
「何を仰います!この子はよりにもよってゆきさんが一番辛い時にそういうことをしでかしたんですよ!可哀想な華子が旅立って、いくらも経たない時に!私はそれが悔しい!情けない!」
姑がわっと泣き出した。ゆきは相変わらず呆けたように健太郎を見つめている。
「済まないのう、ゆきさん。こんな莫迦息子だとは儂らも思っておらんかった。だが、ゆきさんを大切に思っているのは今も変わっておらんそうだ。今回だけは健太郎のことを許してやってくれないだろうか?」
泣き続けている姑の代わりに舅が済まなそうに言う。
「男にはそういう時がままあるものなのだ。だからどうか、魔が差したものと思って許してくれないだろうか?」
突然、ゆきの目から涙が一筋、こぼれて落ちた。華子が可哀想だ、と姑が言ったその言葉に、その頃の健太郎の様子が脳裏に浮かんできた。自分も辛いというのに、ゆきのことを精一杯気遣ってくれていた。そして、時々、耐えきれなくなったものか、ふっと姿を消してしまう。
「…あなた…。」
震えるゆきの唇は、やっと言葉を紡ぎ出した。
「ごめんなさい…。私、自分のことばかりで…。」
ゆきの言葉に健太郎ははっとゆきを見た。二人の視線がやっと出会った。
「…ゆき…。」
健太郎の顔にはありありと後悔の思いが現れていた。自分のしでかしたことが、どれほどゆきを傷つけてしまったことか。ゆきへの愛情が失せてしまった訳ではない。ただ、一時の寂しさを紛らわしただけなのだ。それがこれほどゆきを傷つけた。
「済まない、ゆき…。」
健太郎は畳に両手を着いた。
「もう、二度としない。」
「あなた。お手をあげて下さい。」
ゆきはそんな健太郎の手を取って、握りしめた。
「私が悪いのです。ですから…。」
ゆきは悲しそうに微笑んでいる。健太郎はゆきの傷の深さを思い知った。
「済まない!」
健太郎は突差にゆきを抱きしめた。ゆきが消え入りそうに儚く見えた。
「済まない、ゆき。」
もう二度と莫迦な真似は住まい、と健太郎は心に誓った。


家族で話し合った結果、相手の女性には悪いが、何とかお金で解決するよう努めることになった。健太郎も同意した。その女性に特別な未練はないらしい。舅と姑は二人の仲が壊れなかった事を喜んだ。
「健太郎。ゆきさんを大切にしないと罰が当たるよ。」
姑は真面目な顔で意見した。
「はい、母さん。よく解っています。」
健太郎は母親に肯いて見せ、ゆきの方へ微笑みを投げかけた。これで全ては元通りになる。その安心感が健太郎を微笑ませたのかも知れない。そして、ゆきを失わずに済んだ、という安心感がそれを倍増させていた。
「さあ、これで話は済んだ。もう遅いから休むとしよう。」
舅がにこやかに提案した。健太郎が肯く。
「はい。じゃあ、僕達は引き上げます。ゆき、行くよ。」
「はい。」
健太郎の差し出した手に手を預けて、ゆきは立ち上がった。その時。
「うっ!」
途端、下腹部を襲った激痛に、ゆきはしゃがみ込んだ。
「ゆき?どうした?!」
「ゆきさん?!」
健太郎と姑が声をかけてくれるが、ゆきはお腹を押さえたまま返事をすることも出来ない。
「健太郎さん!血!」
姑が悲鳴のような声を上げた。見ると、ゆきの足下に血が広がってゆく。
「ゆき!」
健太郎の呼ぶ声が響く中、ゆきの意識は遠のいていった。

遠くで声が聞こえている。
「えっ!」
健太郎の驚きの声。
「それでは、流産なんですか?」
姑の残念そうな声。
「ええ。何か精神的なショックでもあったんですか?原因はそのあたりだと考えられるんですけど。」
医者らしい男の声。健太郎も姑もそれには答えられない。
「…しかし、この流産で、奥さんには今後の妊娠を期待できないかも知れませんよ。」
そしてその医者は、皆にとって一番残酷な宣言をしてのけた。ゆきはその時、はっきり目が覚めた。その衝撃に胸が張り裂ける。
(…もう、子供が産めない…!)
この時代、未だ家の跡継ぎを産むことが嫁の大切な仕事だった。大きな商家である健太郎の家には不可欠なことだ。それがもう自分には出来ない。
跡継ぎを望めなくなった舅と姑はどれほどショックであろう。そして子供好きな健太郎は…。あれほど子供を欲しがっていた健太郎は…。
それを思うとゆきは、子供を産めなくなった悲しみ以上に、自分が健太郎や姑にとって役に立たない存在になってしまったことを悲しく悔しく思った。ゆきは二重三重の意味で悲嘆にくれるしかなかった。


「ゆき…、目が覚めていたのか…。」
それからどれくらい時が経ったものか、真っ暗い闇の中にただ一人漂っていたゆきのもとに、健太郎が病室のドアを開けてやってきた。暗い顔をしている。
自分があれほど欲しがっていた子供を、自分がしでかしたことが原因で、なくしてしまった。しかもその子供は、医者が言うところでは男の子だったらしい。両親が待ち望んでいた跡継ぎたる男の子。そしてゆきには流産の後遺症でもう二度と子供が出来ないかも知れない。健太郎はどれほど悔やんだことだろう。それでもゆきを心配して、病室にやってきた。
「…あなた…。」
ゆきは呟くように返事をしていた。もう泣く気力すらなくなっていた。何故自分ばかりがこんなに辛い思いをせねばならぬのか。ゆきには合点がいかない。自分はそのような罰を受ける悪事を何かしたのだろうか。
「ゆき…、済まない。」
まだ呆然としているゆきに、健太郎はそう声をかけた。何よりも先ず謝りたかった。しかしゆきは、健太郎からそっと目を逸らした。
「…話を、聞いていたの…か?」
ゆきの様子からそう察しがついた。
「…はい…。」
ゆきは健太郎を見ずに返事をした。健太郎の顔が歪んだ。ゆきの痛みを思うと心の傷が血を吹く。
「…ゆっくり、休むと良い…。早く、元気になってくれ…。」
健太郎はそう告げるとゆきの病室から逃げ出した。

ゆきは三日後には退院して家に帰ることが出来た。精神的ショックに比べれば肉体の回復は早かった。
「ゆきさん、お帰り。」
舅と姑は暖かく迎えてくれた。健太郎は迎えには来てくれたが、ずっと口数少なく、ゆきの視線を避けている風だった。
夫婦の部屋に入ってからも、ゆきが休めるようにしてやると、健太郎はそそくさと部屋を後にした。ゆきと顔を合わせているのが苦痛だった。その後ろ姿を黙って見送りながら、ゆきはどうすべきか考えていた。

二日程考え抜いた末、ゆきは行動に移した。
今では健太郎を心から愛しているゆきだった。健太郎の優しさがどれほどゆきを慰め、支え、救ってくれたことか。その健太郎が苦しんでいる。ゆきにはそれが辛い。自分が傷ついているというのにゆきには、健太郎の暗い顔が辛い。
ゆきが赴いたのは小さな一軒家だった。表札はなく、どこか日陰の存在の匂いがした。
「ごめんください。」
玄関で声をかける。奥の部屋で赤ん坊の泣く声がしている。ゆきの胸がチクリと痛んだ。
「はーい!」
下働きらしい少女が出て来た。
「奥さんにお会いしたいので、取り次いで下さい。」
ゆきが告げると少女は胡散臭そうにゆきを見た。
「どちら様で?どのようなご用件ですか?」
正しい反応だ。使用人の躾はきちんと出来ている。女主人はしっかりした性格らしい。ゆきは堂々と名乗ることにした。
「ゆき、と申します。健太郎の妻です。」
少女は顔色を変えた。どうやらこの家の内情を知っているらしい。
「し、しばらくお待ちを!」
少女は慌てて奥に駆け込んでいった。奥ではまだ赤ん坊が泣いている。


ばたばたと足音を立てて、さっきの少女が駆け戻ってきた。
「どうぞお上がり下さい。主人がお会いします。」
少女に案内されて座敷に通された。座布団を差し出され座って少し待つと、お茶の用意をお盆に捧げ持った少女と共に一人の女が現れた。真っ青な顔をしている。ゆきと目が合うと、女はいきなりその場に土下座した。平身低頭して額を畳に擦り付けている。
「も、申し訳ありません、奥様。」
ゆきは女をじっと見つめていた。この人が健太郎の…。ゆきは波立つ心を静めるため、小さくひとつため息をついた。
「頭を上げて下さい。私はあなたに謝ってもらうために来た訳でも、責めに来た訳でもありません。」
ゆきの静かな声に逆に女ははっとして顔を上げた。
色の白い可憐な顔立ち。どこかゆき地震と面影が重なる。ゆきはまたため息をついた。
「落ち着いたらこちらに座り直して下さい。今日はお話があって来たんです。」
ゆきの声に促されて、まだ戸惑ったまま女は、ゆきに向かい合う形で座った。成り行きやいかに、と立ち竦んでいた少女が慌ててそれぞれの前にお茶を置き、一礼すると立ち去っていく。多分、赤ん坊の面倒を見に行ったのだろう。
ふたりは暫し無言で向かい合っていた。女はじっと俯いたままゆきの方を見ようともしない。ゆきの方はそんな彼女をじっくりと眺めていた。
ゆきよりかなり若い。健太郎のところに嫁いで来た頃を思い出す。初々しい、やはり田舎から出て来て間もないのだろう、と推測出来るような女。ゆきはまた、ため息をついた。
「お名前を教えてくれませんか?」
静かな声で尋ねたゆきに、彼女はびくり、と弾かれたような反応をした。
「あ、はい!さよ、と申します。」
「さよ、さん。赤ちゃんのお名前は?」
「はい!正太郎です。」
思わずゆきは笑顔になった。
「そう。正太郎。良い名前ね。」
さよはその言葉に、初めてゆきの方を見て嬉しそうに笑った。
「はい。健太郎様が名付けて下さいました。」
何の気なしに発されたであろうその言葉に、ゆきの顔は引き吊った。途端、さよは自分の失敗に気づいて慌てて口を噤んだ。ゆきはまたため息をついて無理矢理微笑んで見せた。
「そう、健太郎さんが名付けたの。良かったわね。ねえ、私に正太郎君を会わせて下さらないかしら?」
「えっ?!」
さよは思わず身を堅くしていた。戸惑いと警戒心。
「 それは…。」
目を伏せて口ごもる。ゆきはまたため息をついて軽く首を振った。
「違うわ。私はあなたにも正太郎君にも危害を加える気はないの。でも、あなたは心配なのよね。」
さよは黙ったまま俯いた。
「その気持ちは分かるわ。私も同じ立場なら、きっとそうでしょうから。」
ゆきの言葉にさよはもじもじしている。
「それでは、まずお話をしましょう。」
ゆきは少し居住まいを正した。さよはたたならぬ雰囲気、と見たものかごくり、と唾を飲み込んだ。






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