「ゆきさん!」
ぐらりと倒れかけたゆきの身体を、寸前で健太郎が支えた。
「気をしっかり持って。」
「…すみません。」
「ともかく、急いで病院へ向かおう。僕も一緒に行くよ。」
ゆきは健太郎が同行してくれて、心強く思えた。

病室には母親が付き添っていた。
「ゆき、よく来てくれたね。」
母親が疲れた顔で言った。
「おっかあ、おっとうの具合は…?」
枕元に膝まずくようにしてゆきは尋ねた。見るからに父親の顔は青白い。
「ああ、今、薬が効いて眠ったところよ。今朝、洗面器に一杯も血を吐いてね。お医者様が仰るには今日のところは大丈夫だろう、って。でも、今度大量に喀血したら危ないかも知れない、覚悟はしておくように、って…。」
母親は顔を覆ってすすり泣き始めた。ゆきの顔からも血の気が引いていく。
「…ゆき、か…。」
気配を感じてか父親が目を覚ました。
「おっとう、大丈夫だか?」
ゆきがそっと話しかける。
「ああ、お陰で大分楽になったよ…。」
父親は無理矢理笑顔を作っている。「よかった…。」ゆきと母親はほっと吐息をついた。
「そちらにおられるのは…健太郎様ですか…?」
ゆきの後ろにひっそりと立つ健太郎に、父親は気付いた。
「あ、はい。健太郎です。御加減はいかがですか?」
健太郎は如才なく挨拶した。
「はあ、今回は命拾いしたようです。でも、もう長いことはないでしょうな。」
父親がさらりと言ってのけた言葉に一同凍り付いたようになった。
「あの世に逝く前に、どうしてもお会いしてあなた様にお話しようと思っておりました。」
静かな澄み切った泉のような瞳で健太郎を見つめている。健太郎はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あなた様を見込んでお願いしたいのです。」
「はい、何でしょうか。」
健太郎がやはり静かに応じる。
「ゆきのことです。あなた様にゆきを嫁に貰って欲しいのです。」
「おっとう!それは…!」
慌てるゆきに、父親は鋭い声を出した。
「お前は黙っていなさい!」
そして再び健太郎に向き直る。
「あなた様ならきっと、ゆきを幸せにして下さる。わし等は親のくせにゆきには苦労ばかりかけております。もう残り少ない命と覚悟した今、心残りなのはこの娘のこと。死ぬ前に幸せな花嫁姿をみたい、と願うのは親の我が儘だとは百も承知です。ですが、わしの目の黒いうちに、娘の幸せを見届けておきたいのです。」
ゆきの父親の真剣な眼差しに、健太郎は自分も真剣に答えた。
「そのお気持ちはよくわかります。でも、こんな僕で宜しいのですか?」
「ええ、勿論です。なあ、かか。」
母親に問いかけると、母親は大きく肯いた。
「はい。」
「わし等はあなた様を信頼しております。」
父親は畳みかけるように言った。
「この、父親の自分勝手な願い、聞き届けて下さいませんか?」
健太郎は一瞬考え込むかのように視線を落とし、次いでゆきの顔を見た。ゆきとの先程のやり取りを思い出しているようだ。それからゆっくりと口を開いた。
「そのお話、喜んで承知します。」
「おお!ありがとうございます!」
父親が喜びの声を上げた。


そうして健太郎とゆきの結婚は本決まりになった。当時、娘の結婚を決めるのは親であり、逆らう事など以ての外だった。それでもゆきは、健太郎が帰ったあと、両親に詰め寄った。
「おっとう!どうしてあんな事を?!」
ゆきの蒼白な顔色を見て、父親は意外そうな顔をした。
「何を言っている?恥ずかしいのか?わしはお前によい夫を見つけてやったんだぞ。」
ゆきはふるふると首を振った。
「違う!私は…!」
ゆきは何とか父親の考えを変えさせようと焦った。しかし父親はにべもない。
「何でもいい。ともかく、お前の嫁ぎ先は決めたからな。先方は早速結納を交わしたい、とありがたい申し出をして下さった事だし、これで何とかお前の花嫁姿を見届けてやれそうだ。」
父親のその言葉を聞き、嬉しそうな顔を見て、ゆきはぐっと詰まった。父親の気持ちはイヤという程よく判っている。苦労をかけているゆきの幸せを心から願っているのだ。
「ゆき、お前、健太郎様は嫌いなのかい?」
ゆきの顔色を見ていて母親が尋ねた。
「そんなに嫌がるには何か訳があるんだろう?」
ゆきは迷った。省吾とのいきさつを話したものか。しかし、話さずに判って貰える可能性はない、と父親の目は言っている。
「あのね、おっとう。」
ゆきは自分の気持ちと、先日の省吾との出来事を両親に話し始めた。

「…そうか。」
両親はゆきが話し終えるまで、黙って聞いていてくれた。だが、話が進むにつれ父親の表情は暗くなり、母親の娘を見る目には哀れみが滲んで来るようになっていた。
「それで、ゆきはお屋敷の坊ちゃんと一緒になれると、本当に思っているのか?」
父親が重い口調で言った。
「私は、省吾様を信じています。」
ゆきはきっぱり言いきった。
「…お前は、身分違い、と言う言葉を知っているか?」
父親が悲しげに言った。
「華族の、大きなお屋敷の坊ちゃんと、水呑みの小作農の娘のお前では、身分が違い過ぎる。判っているか?昔から身分違いは不幸のもとだ。」
「でも省吾様は!」
ゆきが必死に言い募るのに、母親が口を出した。
「ゆき、目を覚ましなさい。坊ちゃんがお前に言ったのは、妻に迎える、という意味じゃない。使用人として、良くて妾として側に置きたい、と言っているだけなんだよ。」
「そんな!省吾様はそんな方では!」
ゆきはその母親の言葉に反論しようとして、同じような言葉を聞いたことのあるのを思い出した。あの、朔との忌まわしい記憶。たじろいだ風に言葉を切ったゆきに、母親は畳みかけた。
「第一、坊ちゃんはお前と結婚する、とは一言も言っていないじゃないか。お前は何の約束もして貰ってはいないんだよ。全部、お前一人の思いこみなんだよ。」
ゆきはその言葉にショックを受けた。先刻健太郎も同じようなことを言っていた。そしてオーバーラップしてくるのは朔の言葉。
「ゆき。わし等はお前に幸せになって欲しい。不確かで日陰な道を歩ませたくない。健太郎様は商家の跡取りで、お前を妻にと望んで下さっている。お前を大事にして下さるに決まっている。わし等には、どちらがお前の幸せなのか明白な事実に思える。ゆき、親の命令だ。健太郎様の許に嫁ぎなさい。逆らう事は許さない。」
ゆきの顔を正面から見つめて、父親が断固たる口調で厳しく言った。もはや、口答えしたり逆らったり出来るような状態ではなかった。


健太郎はゆきの父親と話した次の日には行動を開始した。まず自分の母親を連れて、ゆきの両親のいる病室に挨拶に訪れた。その行動の素早さに驚いたのはゆきだけではなかったが、両親は逆に大喜びした。当のゆきを差し置いて、二人の結婚話は着々と進んで行く。とうとう結納の日取りまで決まり、ゆきがどんなに足掻こうとも、結婚は動かしがたい事実となった。
「では、次の大安の日に結納の品をお持ちします。それまでにはこちらで仲人の手配をしておきましょう。」
健太郎の母親がにこにこと頭を下げて、決まった話を喜びながら帰って行った。ゆきは自分が退っ引きならない事態に陥ってしまったのを知った。

どうしようも為す術が無くて、ゆきには流されるしかなかった。話は驚くほど早く進んで行く。その次の日、ゆきがお屋敷に戻ると、執事の許にその知らせは届いていた。
「旦那様と奥様には、健太郎さんとお母上が今日にもご挨拶に伺うという話でしたよ。いやあ、おめでとう。奥様がどんなにお喜びになられることか。しばらくお屋敷には悪いことばかりだったが、これをきっかけにどんどん良い方へ向かうだろう。いやあ、良かった、良かった。」
執事は慶事に大喜びだ。
「さあ、忙しくなるぞ。奥様は常日頃、ゆきさんには本当の娘にしてあげるのと同様の事をしたいと仰っている。このお屋敷のお嬢様と同じ扱いなんてとてつもないことだ。ゆきさんは幸せ者ですなあ。奥様達に大事にされて、しかもこんな玉の輿に乗ってしまった。羨ましい限りですよ。」
執事はそう言うと忙しそうに足早にその場を離れた。ゆきは喜びを口にする執事に何も言えずただ黙っていた。執事はその様子を乙女の恥じらい、と受け取ったらしい。誰も、ゆきがこの話を喜んでいない、むしろ何とか断りたい、と思っているなどとは想像もしていない。こんな良い縁談を喜ばない娘はいない、と思い込んでいる。ゆきは逃れられない運命に囚われている事を悟った。


その次の日には奥様が大慌てで帰宅された。
「ゆき、おめでとう!良かったわね!」
心から喜んでいる様子を見て、ゆきは結婚を断る言葉と機会を失った。そして、とどめは史朗の言葉だった。
それは夕方になった頃の事。ひたすら落ち込んでいるゆきに、史朗は何処から手に入れて来たものか、花嫁人形を手渡してくれた。この地方では嫁入りのお祝いに使われている品だった。小さな弟妹が嫁いでいく姉に送る品だった。
「史朗様…。」
ゆきは苦しかった。話が一人歩きして、最早自分の力ではどうにも出来ない。しかし、せめて史朗にだけは事情を知って欲しかった。しかし、どう話したら良いものか考えているうちに、複雑な表情で史朗は言った。
「おめでとう、ゆき。本当はお嫁になんていって欲しくはないんだけど、ゆきが決めた事だから。僕は、ゆきが幸せならそれでいいや。ううん、絶対幸せになってよね、お姉さん。」
最後ににっこり笑って立ち去っていく。
「史朗様…。」
瞬間、ゆきは史朗を引き留めようと手を伸ばした。しかしその手は空を掴んでそのまま力なく落ちた。今更何を言っても言い訳にしかならない。この結婚は最早決まりきった事実。暗い闇の中に一人取り残されたように、ゆきはその場に立ちすくんだ。

当人のゆきを除いて、周りは喜びに満ち溢れていた。誰が見ても、玉の輿に乗ったゆきは幸せ者であり、それを誇っている事だろうと思われていた。ゆきに見られる暗い表情も、嫁入りする娘に、しばしば見られる憂鬱なのだろうと皆、思っていた。貧しい家の娘が望める最大の幸せ、それを手にしたゆきが、これほど悩んでいようとは誰も想像していなかった。
結納も済み、あとは祝言の日を待つだけになっていた。ゆきは絶望の淵にいた。まだ自分の気持ちに整理がついていない。省吾の許に心は置いたままだ。このまま嫁入りしたら、省吾に対する裏切り行為になってしまう。省吾に申し訳ない。そして、そんな自分だと知っていて嫁にしてくれる健太郎にも申し訳ない。ゆきは自分自身を消し去ってしまいたい思いに駆られていた。
「ゆきさん、奥様から時間を頂いたから、少し歩こう。」
そんなある日、健太郎がふらりとやってきてゆきにそう言った。
「…はい。」
二人並んで歩き出す。誰もがそんな二人を微笑ましく見ていた。
「…顔色が悪いね。」
健太郎が心配そうに顔を覗き込む。
「祝言の日どりが決まったんだよ。今日はそれを伝えに来た。」
ちょっと辛そうな顔で健太郎は言った。ゆきは黙って俯く。
「…やっぱり君は、まだこの結婚に不承知なんだね。」
健太郎は寂しそうな目をしている。やはりゆきは黙って俯いたままだ。健太郎は大きく吐息をついて、自分も黙り込んでしまう。二人は、とても祝言が間近い許嫁同士とは思えない雰囲気で歩いていた。


そうやってどのくらいの間歩いていたことだろうか。
ふと気が付くと、前を一人の老婆が歩いていた。大きな風呂敷包みを背負い、やっと歩いているといった風だ。
「あ!危ない!」
危ぶんでいた通り、老婆はよろよろとよろけてすてんと転んだ。起きあがろうとするが、どこかを痛めたらしくなかなか起きあかれないでいる。
「大丈夫ですか?」
いち早く駆け寄ったのは健太郎だった。
「怪我は?どこか痛いところは?」
甲斐甲斐しく世話を焼く。挙げ句の果て、老婆の背負っていた荷物を自分が背負い、老婆に手を貸しながら一緒に歩き始める。
「ごめん、ゆきさん。心配だから、家まで送っていくよ。」
ゆきは瞬間迷ったが、自分も一緒に老婆を送っていくことにした。ゆきがそう告げると健太郎はとても嬉しそうに笑い、荷物を託すと老婆を背負って歩き出す。
「どうも、済みません。」
老婆が恐縮して背中から声をかけるのに、健太郎は笑顔で、
「いいえ、僕が心配だから勝手に送っていくんです。遠慮しないで。」と応える。
ゆきははっとした。この人はこんな気遣いをする人だったろうか。ゆきの知っている健太郎は、我が儘で、お坊ちゃんで自分勝手で…。
「ありがとうございました。」
老婆を家まで送り届けると、嫁らしき女が慌てて飛び出してきて礼を言った。
「腰を痛めたらしいです。どうか大事にしてあげて下さい。」
一言そう付け加えると、引き留める女に老婆を引き渡し、健太郎はさっさと退散してしまう。ゆきも後を追おうとして女に呼び止められた。
「本当にありがとうございます。どうかご主人に宜しくお伝え下さい。優しいご主人で、お幸せですね。どうぞ末永くお幸せに。」
ゆきは何も言えず、黙って頭を下げるときびすを返した。健太郎の後を追う。
「ゆきさん、こっち。」
角を曲がった辻堂の前で、健太郎は待っていてくれた。ゆきは初めて見るように健太郎の顔を見つめた。
「?何?どうかした?」
健太郎はちょっと戸惑っている。
「…健太郎様、今、私達、夫婦に見られたんですよ。」
ゆきの言葉に健太郎は照れた。頭をぽりぽりと掻く。
「そう。」
「…健太郎様。変わられたのですね。」
そんな健太郎にゆきはずばりと切り込んだ。
「え?」
「私の知っている健太郎様は、こんなことをするような方ではありませんでした。」
ゆきの言葉に健太郎は微苦笑した。
「…そうだね。以前の僕なら、絶対こんなことはしない…。」
「なら、どうして?」
ゆきが突き詰めて尋ねるのに健太郎は困った顔をした。
「…それは、ゆきさんを見ていたから、かな。」
「私を?」
ゆきは意外だった。
「そうだよ。」
そして、健太郎はゆきの顔を見て笑った。
「君の生き方を見ていてね、僕自身が君に恥ずかしい人間では、君の夫たる資格はない、と思ったんだ。だから僕は…変わろうとしているのかも知れない。自分自身でも…。」
ゆきは自分の健太郎を見る目が間違っていた事に気付いた。
(この方は…。)
そして背中を向けていた健太郎にそっと寄り添った。決意が固まった。
(この方となら…。)


秋の空は蒼く高い。祝言を明日に控えて、お屋敷はてんやわんやの騒ぎになっていた。ゆきはお屋敷のお嬢様各として嫁入りするのだ。そうでもしないととてもじゃないが健太郎の家とは釣り合いがとれない。健太郎はそんなことに拘らなかったが、世間と健太郎の家は拘った。そしてお屋敷の奥様は、ゆきをどこの誰であろうと後ろ指をさせないほど立派に嫁入りさせたいと考えていた。衣装もご自身が嫁入りした時に世話になった馴染みの呉服屋に注文して仕立てさせ、嫁入り道具もこのあたりでは滅多に見られないほど立派な物を揃えさせた。
「ゆきにはいろいろと世話になったものね。恥をかかせる訳にはいかないわ。」
恐縮するゆきに奥様は嬉しそうに微笑みながらそう言った。
「ゆきは、私の大切な養い子。私に娘の嫁入り支度をする母親の気持ちを味あわせてくれて、かえって感謝しているのよ。」
「奥様…。」
暖かい心遣いに涙がこみ上げてくる。
「あらあら、ゆきは涙もろくなっているのね。嫁入り直前だから、感情の起伏が激しいのね。」
奥様が笑いながら、そして感慨深げに言った。そこには母と娘の心の交流が確かに存在していた。

夜になって、内輪で祝宴を開いていると、そこにいきなり省吾が帰宅した。勉学に忙しいから悪いが祝言には出られそうもない、と手紙で連絡を寄越していたので、その到着は皆に驚きと喜びを与えた。しかし、省吾の顔色はいまいち冴えず、ゆきは省吾に対するすまなさと心配に胸が痛んだ。
ゆきは、いつかきちんと省吾にこのたびのことを説明せねば、と思っていた。しかし学業に忙しい省吾はそれでなくともお屋敷に戻る機会は少なく、この縁談の話を漏れ聞いた省吾は、自分から帰宅するのを遠慮したものと思われた。省吾は省吾でゆきの立場をおもんばかってくれたのだろう。省吾はそんな気の使える男だった。
明日の事を考えて、祝宴は早めにお開きとなり、皆、部屋へと引き上げていった。しかしゆきは省吾のことが気にかかり、休むことは出来ない。ゆきは思い切って省吾の部屋を訪ねてみることにした。
言い訳にお茶の用意をしてお盆に乗せ、省吾の部屋へ続く渡り廊下を歩いていく。すると、月明かりに照らされた庭に佇む人影。ぎょっとしてその場に立ち竦んでしまう。
「…誰?」
震える声で誰何する。
「…ゆき?僕だよ。」
黒い陰はゆっくりと動いて、月明かりの下に顔を表した。少し疲れた表情の省吾だ。
「省吾様。何をして…?」
ゆきが訝しげに尋ねるのに、省吾は微かに笑った。
「眠れなくてね。ちょっと考え事をしていた。」
その応えにゆきは黙ったまま省吾の顔を見つめた。


省吾もそのままゆきの顔を見つめている。言葉にはださねど、様々な思いがその胸を去来しているのだろう。いっそ責めてくれたら楽なのに。ゆきは辛くて、省吾の顔から目を逸らした。俯いて、地面に映る省吾の影を見ている。
「…ゆき。」
やがて静かな声で省吾が話し始めた。
「僕は…、判っているから…。」
「…え?」
ゆきは思わず省吾の顔を仰ぎ見た。「大体の事は、ゆきのお父上から手紙を頂いたから、知っている。」
「おっとうが?」
「うん。親としての思いと、僕への謝罪の言葉が綴られていたよ。」
悲しげな瞳。
「僕には、その親の思いを咎め立てする事なんて出来ない。そんな資格はない。ゆきに何の約束もあげられない臆病者だからね。」
自嘲気味に笑う。「省吾様、そんな!」
ゆきは慌てて首を振る。
「省吾様は精一杯のお気持ちを下さいました。悪いのは私です!私がしっかりしなかったから…。」
今度は省吾が首を振った。
「女の身で、親の意向に逆らうのは無理なことだとは、どんな世間知らずでも知っていることだよ。ゆきにはこの話を断ることは、絶対に出来ない。親孝行者の君のことだもの。輪をかけて無理だよ。」
ゆきは黙り込んだ。それは、否定の出来ない事実だった。省吾はそんなゆきを見てひとつため息をついた。
「だから、いいんだ。もう、何も言わなくても…。」
哀しそうな笑み。
「省吾様…。」
ゆきの目には涙がこみ上げてきた。申し訳なくて、自分が情けなくて、そして未だに捨てきれない思いを抱えている自分が不憫で…。
「泣かないで、ゆき。」
省吾はそっとゆきに近づき、その涙を拭おうと片手を伸ばして、しかし触れる直前にその手を慌てて引き留めた。
「もう僕には君を慰めても、守ってもあげられないんだ…。してはいけないんだ。」
省吾は月明かりの中、茫然と佇んだ。ゆきはそんな省吾を見ていられず、思わず背中を向けてしまった。
「僕が一人前の男で、医者になっていたなら、君を浚って逃げたかも知れない。でも今はまだ僕は学生で、君を幸せに出来る保証がない。だから…。幸せになっておくれ、ゆき。それが僕の唯一の願いだ…。」
背中にかけられる優しく哀しい言葉。ゆきはたまらなくなって、廊下をもと来た方へと駆け出してしまった。後ろを省吾の独り言のような声が追ってきた。
「紫の
匂える妹が
憎くあらば
人妻故に
我恋いめやも」
(むらさきの におえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに われこいめやも)
紫草(むらさきぐさ、紫色の染料を取る草)のように美しいあなたを憎く思えるようならば、こうして他の男の妻になってしまったというのに、どうしてこんなにあなたを愛しく恋しく思うのだろうか。


ゆきは部屋に戻り、省吾から最後に告げられた和歌を思い出していた。それは、省吾にもらった和歌集にあった大海人皇子(おおあまのおうじ)の歌。兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の妻になった恋人、額田王(ぬかたのおおきみ)と詠み合った相聞歌だ。額田王の、
茜さす
紫野行き
〆野行き
野守は見ずや
君が袖振る
(あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)
夕焼けの美しいこの常人は立ち入ることの許されていない紫野。番人に見られてしまったらどうしましょう。そんなに大きく袖を振られて、私に合図をして下さるなんて。
という歌に対する返歌だ。
額田王は大海人皇子との間に十市皇女という娘を為しながら中大兄皇子の妻になってしまう。それがどういう経緯であったのかわからないが、二人の間には確かな愛情があったように、これらの相聞歌からは感じられる。
(省吾様…。)
ゆきは胸が熱くなった。大海人皇子の和歌に寄せて、省吾は変わらずゆきの事を思っている、と伝えてくれたのだ。女としてこれほどの幸福はない。そして愕然とした。自分はそんな省吾を振り捨てて嫁いでいくのだ。涙が流れた。

明くる日はあつらえたような上天気だった。ゆきの両親、兄弟も、お屋敷にやってきていた。お屋敷で祝言は執り行われ、習慣に則って花嫁行列を組んで嫁ぎ先に入るのだ。
「綺麗ねえ。」
文金高島田に角隠し、白無垢に打ちかけ姿のゆきに、奥様は満足そうにそう告げた。旦那様はまだ病気療養中でお屋敷には戻れないが、奥様は親代わりとして祝言を取り仕切ってくれるのだ。黒留め袖姿の奥様は、忙しさをも楽しんでいるようだ。それほどゆきの婚礼は嬉しい出来事なのだろう。
昼近くになって花婿一行が到着し、お屋敷の大広間で婚儀の三三九度の杯事が行われた。
金屏風を背にして並んで座る二人は、とてもお似合いで幸せそうな一組に見えた。健太郎はとても立派な若主人然と振る舞い、婚礼は滞りなく終えられた。
やがて花嫁行列の出発の時が来た。先頭には花婿とその親族が立ち、そのあとを馬に乗った花嫁、嫁入り道具と続く。祝いの「長持歌」がゆきの父親によって歌われている。ゆきは馬の背でそっと涙を拭った。嫁入りするからにはこれから先にこれまでの感情を引きずって行く訳にはいかない。ゆきは省吾への思いをここに置いていこうと決めていた。それが健太郎への自分の誠意。けじめだ。だから、こうして泣くのも最後だ。ゆきはまた涙を拭った。
花嫁行列を見送りながら、史朗は小さな声で歌っていた。
「金襴緞子の帯締めながら 花嫁御寮は何故泣くのだろう…。」
史朗にはそんな幸せの絶頂にいるはずのゆきが幸せには見えず、それ故心を痛めていた。だが、どんなに心を痛めようとも、史朗には何もしてやれない。史朗は一番後方に立つ省吾の顔を振り返って見た。だが省吾の顔は紙のように白く、表情を失っていた。史朗は声を失った。


人は、どのような悲しみにあおうとも生きていかねばならない。
省吾はその傷心を抱えながら、医者への道を歩く事を決意していた。ゆきとの約束がその根幹にあるのは確かだが、人は後ろ向きで生きるわけにはいかない。ゆきが去った今では、その夢こそが省吾の生きる糧となろうとしていた。
「兄さん、大丈夫?」
史朗が考え込んでいる省吾に恐る恐る声をかけた。
「あ、史朗か。」
振り返った顔にはもう迷いはなかった。さっぱりとした表情をしている。
「…よかった。」
史朗がその顔を見て、ほっと息をついた。省吾がくすり、と笑う。
「なんだい、それは…。僕が立ち直れないほど落ち込んでいるとでも思っていたのか?」
史朗は素直に肯いてしまった。
「うん。」
その様子を見て、省吾はまた笑った。
「僕はそこまで情けない男じゃないと思うよ。それにそんな男では、ゆきの幸せを祈ってやる資格もない。僕は、押しも押されもせぬ立派な医者になるよ。そして、ゆきが望んでいたように貧しい人々の手助けをするんだ。」
省吾の瞳は希望に燃えている。史朗はそんな省吾を誇らしく思った。

次の春には長男の朔が嫁をもらい、奥様の責任も軽減した。しかし、二人はお屋敷に住むことはなく、お屋敷は一時よりは使用人も増えたのだが、ゆきのいた時よりも寂しいものに奥様は感じていた。
「娘をお嫁に出したんだもの。仕方が無い事よね。」
お茶の時間に奥様がそう呟く事のあるのを、史朗は知っていた。
「娘の幸せのためなら、寂しいのなんか何ともないわ。」
奥様はそう強がりを言ってみせる。史朗は屋敷にいる時には、そんな母親の傍らになるべく居てやろうと思った。
夕焼けが綺麗だ。史朗は茜色の空を見上げながら、昔、ゆきにハーモニカで吹いてやった歌を思い出し、口ずさんでいた。
「夕焼け 小焼けの赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは 幻か
十五で姐やは嫁に行き お里の便りも絶え果てた
夕焼け小焼けの赤とんぼ 停まっているよ 竿の先」
どこかゆきと重なる歌。寂しいのは史朗も同じだ。でも、ゆきの幸福を願うのも同じなのだ。


そして、ゆきは慣れない商家の嫁としての生活を始めていた。お屋敷のお嬢様格として嫁入りしたため、ゆきは大事に扱われた。健太郎は優しく、頼りになり、舅と姑もゆきの人柄を気に入り、満足な様子だった。どこから見ても、幸福な新婚生活の始まりに思われた。
健太郎の家は大きな商家であり、お屋敷と変わらぬ程多くの使用人が忙しそうに働いていた。お屋敷のお勤めに慣れていて、大家の暮らし向きに通じているとはいえ、ゆきは今度はその使用人達を束ね、面倒を見る立場となったのだ。
「少しづつでいいから、慣れておくれ。」
健太郎が笑いながら言った。おかみさんとなったゆきをとても嬉しそうに眺めている。丸髷を結ったゆきは初々しく、匂い立つような艶があった。
「はい。」
ゆきも笑顔で返事した。新婚の女性が抱く幸福感がゆきを包んでいた。

時代は段々ときな臭い方へと動いて行くようだった。富国強兵が謳われ、諸外国との軋轢は深まっていくようだった。
数年が過ぎていた。省吾は医大を優秀な成績で卒業し、インターンとして大学病院に勤めることになった。お屋敷中が喜びに包まれた時、ゆきに子供が産まれた、と連絡があった。お祝い事が重なって、奥様は嬉しい悲鳴を上げた。
「まあ、私もとうとうおばあさまと呼ばれる身になったのね。初孫だわ。何て素敵なことでしょう!」
そうして、奥様は喜び勇んで、出産祝いに駆けつけた。
ゆきの産んだ子は、産まれたばかりにも関わらず、色の白い目鼻立ちの整った、将来を嘱望される美しい赤ん坊だった。舅、姑は一目見るなり夢中になり、健太郎は嫁に出さぬ、と宣言する程のかわいがりようだった。その女の子は、「華子(はなこ)」と名付けられた。
赤ん坊は元気だったが、母親のゆきの方は産後の肥立ちが悪く、しばらく寝付くようになっていた。一生懸命努めて来たおかげで、嫁としてもおかみさんとしても認められ、この度は子供に恵まれて、ゆきは幸福の絶頂にいる。隣で眠る赤子の顔を見て、ゆきは全てに感謝した。
「とても良い名前を付けてもらったのね。」
お見舞いに来てくれた奥様は、うっとりと赤ん坊の顔を見ている。
「初孫が女の子でとても嬉しいわ。早速お雛様の用意をしなくてはね。」
奥様は、小さな手を愛おしそうに撫でた。ゆきはそのように誰からも愛される我が子の行く末が幸福に満たされているだろう事を確信した。






戻る