誰にも何も相談する事すら出来なくて、ゆきは一人で思い悩んでいた。自分が「うん」と肯けば、全てはうまくいくのだろうか。父も母も、家族も。そして幼い時からお世話になっている旦那様、可愛がって下さっている奥様、弟のように思える史朗。大事な人達全てが、助かるのだろうか。そして、省吾。ゆきはため息をついた。意識の上部に乗せるのでさえ畏れ多い、この省吾への思い。大切な、しかし決しておもてにも、素振りにも表してはいけない、ゆきだけの思い。
(省吾様…。)
ゆきは小さく首を振った。自分は何を期待しているのだろう。あんなに考えても無駄な事は思うまいと決めたはずなのに。どうしてもこの心の奥底のどこかで、自分は期待している。この思いを省吾が察してくれることを。自分に微笑みかけてくれることを。
(馬鹿…。)
ゆきは唇を噛んだ。
(省吾様の事を考えている、なんて大嘘じゃないの。こんなに自分の思いの事だけ…。私はこんなにも自分勝手…。こんなじゃあいけない。)
そして、胸に手を当て目をぎゅっと閉じた。
(いや、自分のことなどどうでもいい。もう一度、何が一番良いのか、どうすることがみんなのためになるのか、真剣に考えなくては。)
ゆきは心を決めようと思い定めた。

「ゆき、省吾兄さんが帰ってくるよ。」
嬉しそうに史朗が教えてくれたのはその夜のことだった。
「お母様の用事をしに来るんだって。でも、一晩は泊まっていけるんだよ。」
ここしばらくの間、寂しい思いを史朗はしていた。父も母も二人の兄も、屋敷を留守にしている。仕方のない事情ではあるが、心細くもあったであろう。ゆきはそんな史朗のために省吾の帰宅を喜んだ。しかしそのこととは別に、省吾に会える、という期待に胸を高鳴らせたのも事実だった。


「お帰りなさい!兄さん!」
省吾の顔を見るなり史朗は、子犬のように省吾に飛びついた。
「ただいま。ごめんよ、史朗。随分と心配をかけてしまったね。」
史朗の体を受け止めて、軽く背中を叩いてやりながら、省吾はいかにも済まなさそうに言った。
「ううん、大丈夫。僕は男だもの。それより、お父様のご様子は?」
史朗は健気に省吾に笑顔を見せて、父親の心配をした。
「ああ、もう大丈夫だよ。日に日に元気になられている。お医者様も驚かれるほど回復が早いそうだ。あと一月もすれば退院なさって、こちらで療養なさるためにお母様と戻って来られる見通しだそうだよ。」
省吾が笑顔で応じた。史朗もゆきもその言葉にほっと肩の荷を降ろしたような気がした。
「今日は史朗にお父様のことを報告して、安心して貰うために帰って来たようなものなんだ。お母様が史朗がどんなに心配しているだろう、と気にかけて下さってね。僕は、史朗なら大丈夫です、と言ったんだけどね。」
省吾が優しい目で史朗を見ながら言うのに、史朗は誇らしげに胸を張った。
「うん。しっかり留守番していたよ。」
「そうですね。史朗様はご立派にお留守番なさいました。」
ゆきも史朗を誇らしくみた。
「僕も史朗は頑張ったと思う。」
省吾も請け合った。史朗は嬉しさで頬を染めている。ゆきもそれがとてもうれしかった。

その夜、和やかで久しぶりに賑やかな夕食の後で、ゆきは省吾の部屋にお茶を運んだ。省吾は相変わらず机に向かって本を広げていた。
「省吾様、お勉強ですか?」
「ああ。今度のことで、少し遅れを取ってしまってね。取り戻さないといけないから。」
ゆきからお茶を受け取って、一休みしながら省吾は言った。やはり、色々と今度のことは省吾にも影響を及ぼしている。
「朔兄さんも頑張ってくれているんだけど、一時期事業がうまく行かなかったから、僕も駆り出されて手伝っていたから。ゆきも大変だったね。ご苦労様。」
「いいえ、私なと…。」
ゆきは省吾のねぎらいの言葉がとても嬉しく、今までの苦労と心労が溶けて消えていくような気がした。
「ああ、そうだ。ゆきにこれをあげようと思っていたんだ。」
ふいに省吾が持ち出したのは一冊の本。
「これは?」
「うん、万葉集と古今和歌集の本だよ。いつか、和歌に興味を持っていたようだったから。」
ゆきはかつて井筒の和歌を省吾と見たことを思い出した。自分が忘れていたことを省吾が覚えていてくれたのがゆきにはとても嬉しく思えた。
「ありがとうございます。」
「僕のお古なんだけど、良かったら貰っておくれ。」ちよっと気恥ずかしそうに手渡してくれる省吾の暖かさが感じられるような気がして、ゆきは少し胸がときめくのを覚えた。


「ゆき。僕はね、今度のお父様の病気のこともそうなのだけれど、ゆきのお父さんの病気や、貧しい人達が医者にも診て貰えない現状を見ていて、医者になろうと思うようになったんだ。」
ランプの明かりを見つめながら、省吾がいきなり言い出した。
「えっ?」
「このあたりじゃあまだ、こうしてランプの生活だけれども、東京では電気が来ていて電灯が使えるんだよ。」
「電灯?」
「ああ。ランプなんかより数段明るいんだ。でも、電気はお金がかかる。このあたりの小作農の家に電気が通じるのは、まだまだ先の話だろう。」
「…。」
「ねえ、ゆき。そんな風に富める者とそうでない者との格差はひどいものだ。同じ病気になっても、貧しい人々は医者に診て貰うことも出来ずに死んでいく。僕は、そんな彼らの助けになりたい。」
「省吾様…。」
ゆきは省吾の顔を見つめた。
「勉強して偉くなれは、貧しい、不幸な人達を救えるものだと思っていた。でも、僕一人の力じゃ何にもならない。世の中を変えることは出来ない。だったらどうしたら良い?目の前で苦しんでいる人達のために何が出来る?」
省吾の顔は今までに見たことのない表情をたたえていた。
「だから、僕は医者になる。例えこんなに微力でも、確実に人の役に立てる。だから僕は医者になる。今はそのための勉強をしている。」
それから省吾は照れたような笑顔を浮かべた。
「大したことは出来ないかも知れないけどね。前にゆきと約束したことを破りたくないから。」
「あ…。」
覚えていてくれた。幼い日のあの約束を。ゆきの胸に感動が大波のように押し寄せてきた。
「省吾様…。」
省吾はゆきに優しく微笑みかける。
「お父様の容態が良くなって、今、融資の話もまとまりかけている。これからまた、万事うまくいく。さあ、頑張らなくちゃね。」
そんな、嬉しい、喜ばしい話の中に、ふとゆきの勘に触ったものがあった。
「ご融資って…?」
「ん?ああ。ゆきも知っているだろう?よくここにも顔を出していた健太郎さんが、とても良い話を持ってきてくれているんだ。その話がなかったら、僕もこうしていられなかったくらいに言い話なんだ。だから、もう大丈夫。さあ、勉強だ。」
何気ない口調で笑いながらそう言うと、省吾は再び机に向かった。そんな省吾の邪魔をしないように、そっと省吾の部屋から出て行きながらゆきは、全身から力が抜けていくような気分を味わっていた。よろよろと自室に戻ると、そのまま床にへたり込む。
(そんな…。)


ゆきの頭の中に、あの日、健太郎が言った言葉がぐるぐると渦巻いている。
(あなたにこの話を断られたら、僕は何をしでかすか解りませんよ。)
ゆきが、健太郎との結婚の話を断ったとしたら、健太郎は暗に匂わせていたように、融資の件もなしにしてしまうだろう。ゆきにはそんな確信がある。そうなったら省吾の夢はどうなってしまう?省吾は医者になる、と言っている。ゆきとの約束のために。貧しい人々のために。ゆきはそれがとても嬉しかった。それなのに、その夢のために必要な勉強の資金すら、不足してしまう。いや、日々の生活にも事欠くことになるやも知れぬのだ。
(省吾様…。)
ゆきは想像しただけでぞっとした。ゆきの実家のような荒ら屋で、省吾や史朗が粟のお粥を啜っている。おぼっちゃま育ちの彼らに、そんな生活は…。
ゆきは激しく首を振った。そんなことはゆき自身が耐えられない。
(私は…。)
ゆきは眠れぬ夜を過ごした。

気持ちよく晴れ渡った次の朝、ゆきは朝食の支度のため井戸水を汲んでいた。
「ゆき、お早う。良い天気だね。」
省吾がにこにこと声をかけてきた。
「あ、お早うございます、省吾様。」
「手伝うよ。」
省吾はさりげなくゆきの手から釣瓶を引き受け、桶に汲み入れると手にさげて先に立って台所へと歩き出す。
「すみません、省吾様。」
ゆきはそんな省吾の優しさがとても好きだ。
「力仕事は男のするものだからね。」
背中越しに笑っている。広い背中。すらりと高く伸びた背丈。省吾はもう立派な一人の男性だった。
「ゆき。」
水瓶に水を移しながら省吾が呼んだ。
「はい?」
「僕が医者になったら、ゆきは、僕のそばで僕を手伝ってくれないだろうか?」
背中を向けたままゆきに投げかけられた言葉に、ゆきは茫然とした。
「省吾様…。」
「まだまだ先の話だけどね…。」
省吾は照れくさそうに頭を掻いて笑った。
「でも、言っておきたかったんだ。」
ゆきの返事も待たずに踵を返して自室に引き上げていく。その背中を見つめながらゆきは混乱の極みにいた。


(あの言葉は、いったいどういう意味なのだろう?)
仕事を片づけながら、ゆきは考えていた。
(ひょっとして、省吾様は私の気持ちに気付いて…。)
ゆきは一人で赤くなり、激しく首を振って否定した。そんなことは考えられない。考えてはいけない。意識したら最後、省吾の顔をまともに見られなくなる。ゆきは途方に暮れた。

「じゃあ、史朗。家のことを頼むよ。もうじきお父様とお母様が戻ってこられる。それまで頑張っておくれ。」
帰京する時間が来て、省吾が史朗に後を頼んでいた。
「うん、兄さん。任せて置いて。」
史朗が笑顔で肯いた。
「行ってらっしゃい。」
見送りに手を振って、省吾が立ち去っていく。その後ろ姿を見ながらふと、ゆきは後を追いたくなった。省吾のあの言葉の意味が、自分の期待したものと同じなのか判らぬまま、こうして省吾と離れてしまってはいけないのではないか、と思った。そして、気が付くとゆきは、走って省吾を追いかけていた。
「省吾様!」
追いついて声をかけると、省吾は一瞬驚いた顔をし、次の瞬間、嬉しそうに微笑んだ。
「ゆき。駅まで一緒に歩こうか。」
どうして?とも聞かずに、省吾はそう言ってまた歩き出す。
「あ、はい。」
ゆきは追いかけては来たものの、何をどう話したものか判らず、省吾の少し後ろを黙ってついて行く。
麗らかな日差しが二人の背を照らしている。田舎道のことで、行き交う人影もない。
「ねえ、ゆき。」省吾がたわいもない会話を交わすように話し出す。
「こうしていると、小さい頃に戻ったようだね。」
「はい。」
「僕は、何も知らないお坊ちゃん育ちで、苦労してきたゆきには、いつまで経ってもひ弱で頼りなく見えているんだろうね。」
省吾は何が言いたいのだろう。
「そんな…。省吾様はご立派にならるました!私は省吾様の事、いつも…。」
ゆきは口を噤んだ。今自分は何を言おうとした?思わず頬が赤らむ。省吾が先を歩き続けていて顔を見られていないことがありがたかった。しかしそんなゆきの戸惑いを知っていて、敢えて省吾は無視しているような気がする。
「ありがとう。じゃあ僕は、少しはマシになれてきたんだな。」
微かに省吾は笑ったようだった。それからしばらく二人は、無言で歩いた。
「ゆき。」
やがて駅が見えてきて、ゆきが不意に泣きたい気持ちに襲われていた時、省吾が立ち止まり、背中を向けたまま、意を決したように声をかけてきた。
「はい?」
「そのままで聞いてくれ。」
酷く真剣な声。
「はい。」
ゆきもその場に立ち止まり、省吾の背中を見つめる。
「…僕は、医者になる。そして、誰の目から見ても一人前の男として認めて貰えるようになる。ゆきにも認めと貰える程の男になる。そうしたら…。」
「…。」
「それまで…。」そう言うと省吾は、くるりと振り返りゆきの目を真剣な顔で覗き込んだ。
「あ…。」
その真剣さがゆきにも伝わって来て、ゆきは目を逸らすことも出来ずに省吾の瞳に見入った。
「その時には…。」
「…はい。」

「その時まで…。」
省吾はその後の言葉を無理矢理飲み込んだようだった。男として不確かな約束はしたくない、させたくない、と思ったのだろう。潔さが尊ばれる時代であった。男らしさとは責任感である、と教えられている時代だった。ゆきは、だから、その後の言葉を推測するしかなかったが、きっと誰もが同じ言葉を想像したことだろう。そしてそれは、正しかった。
「…。」
ゆきは嬉しさのあまり絶句した。ただ涙がこみ上げてくる。ほろほろと零れ落ちる涙を、省吾がそっと手を伸ばして拭った。その涙が、省吾の無言の問いに対する、ゆきの応えだと判っていた。
「ゆき…。じゃあ、行ってくる。」
名残は尽きないが列車は待ってくれない。省吾は渋々列車に乗り込み、旅立って行った。


ゆきはどうやってお屋敷まで戻ったのか、まったく覚えていなかった。気が付くとお屋敷の自分の部屋で、ぼうっとしていた。
(省吾様…。)
夢を見ているようだった。自分の思いを省吾が判っていたことのみならず、省吾も自分を思っていてくれていた。この世のものとも思われぬ程の幸福感。ゆきはその幸せに酔いしれた。

「ゆき。何だかとても嬉しそうだね。」
その日の夜。史朗のために夕食の準備をしていたゆきに、史朗がにこにこと声をかけた。ゆきの機嫌が良いことが、史朗は嬉しい。
「何か良いことがあったの?」
無邪気に尋ねる。
「あ、いいえ。何にも…。」
そう答えながらも、ゆきは頬が赤らむのを感じた。
「へえ。僕、省吾兄さんから良い話でもあったのかと思った。」
「…!」
その言葉に、史朗の顔を振り返ると、冷やかす訳でもなく、ただ、ゆきの幸せを喜び願うかのような優しい笑みが浮かんでいた。
「…。」
ゆきは胸が熱くなった。史朗の思いが嬉しく有り難かったが、史朗に全てを話してしまう訳にはいかない。省吾の対面もある。ましてや自分が恥ずかしい。
無言で頬を赤らめながら、黙々と仕事をこなすゆきを、大人びた史朗が見守っていた。

一日の仕事を終え自室に引き上げたゆきは、省吾に貰った本を何気なく広げていた。ゆきが好きであろう、と言ってくれた和歌集。その中の一首に、ふと、目が止まった。
忍れど
色に出にけり
我が恋は
もの思ふぞと
人の問ふまで
(しのぶれど いろにでにけり わがこいは ものおもうぞと ひとのとうまで)
大切に、秘密にしていたのだけれど、私のこの恋は、誰の目から見ても明らかな程になってしまいました。恋をしてらっしゃるのですね。と誰彼なく尋ねられてしまうまでに。


しかし、幸せな思いは長続きすることがなかった。
省吾が去って三日程経ったある日、健太郎が姿を見せた。
「ゆきさん、今日は僕は休みを貰って来たんです。少し付き合って下さいませんか?あ、勿論、奥様や史朗君達の許可は得てます。」
「…はい。」
あの話を断るにせよ、どうしてもいつかは健太郎と話をしない訳にはいかない。これは、避けては通れない道であった。
「街に出ましょう。ゆきさんと買い物や食事をしたい、とずっと思っていたんです。」
とても嬉しそうに言う健太郎の顔を、ゆきは憂鬱な気分で見た。
わざわざ汽車に乗って、賑やかな街中に出た。滅多に汽車に乗ることなどないゆきだったので、それはそれで意外と楽しめた。繁華街など来たこともないゆきは、見るもの聞くもの全てが、驚きの連続だった。電灯で照らされたショーウィンドウのデパート。路面電車。酷くハイカラな格好で歩く婦人達。田舎で生まれ育ったゆきには、想像もつかない世界だった。
「帝都東京は、もっとすごいですよ。いつか、一緒に行きましょう。」
にこにこと健太郎は言う。ゆきの楽しんでいる様子が嬉しくて溜まらないらしい。
(悪い方ではないのだけれど…。)
ゆきは思った。自分の中に省吾へのこの思いさえなければ、最高の結婚相手なのかも知れない。しかし…。
かなり高そうな洒落た食堂に入る。ゆきはお品書きに目が回りそうになった。信じられない値段が並んでいた。
「何にします?何でも好きなものをたのんで下さい。」
健太郎は軽く言うが、ゆきにはそんなことは出来そうになかった。値段にたじろいでもいたが、お品書きに書かれた料理がどんなものなのか見当もつかなかった。もじもじするゆきに事態を察したものか、健太郎が申し出た。
「良かったら、僕に任せてくれませんか?ゆきさんに是非食べて貰いたいと思うものがあるんです。」
「…はあ、お願いします。」
出てきたのは、オムライスとエビフライ。健太郎は自分用に分厚いステーキとサラダをオーダーしていた。
「美味しいですか?」
恐る恐る口に運んだゆきに、健太郎が尋ねた。
「はあ。このような所もお料理も初めてなもので…、味が良く判りません…。」
見た目から卵料理なのだとは判った。卵はゆきの実家ではとんでもないご馳走だ。病気になった時でも滅多にお目にかかれない。それがこんなにふんだんに、簡単に食べられている。
(世界が違う…。)
ゆきはため息と共にそう思った。
(どうして同じ人間なのにこうも違うの?私達は一生地べたを這いずり回って働いて、卵すら満足に食べられない。それなのに、ここでは…。)
どうしようもないやり切れなさがゆきを包んでいた。


世の中に貧富の格差のある事など、あまり真剣に考えないようにしていた。しかし現実としてそれはそこにあり、自分一人の力ではどうしようもないことだった。そしてそれは、貧しい方の階層の、それも最下層に近い所に位置している自分と家族には、考えるだけ無駄なことであった。
(これは…、夢の中の世界…。)
ゆきは目も眩む程の贅沢な世界に、自分の貧しさを再確認させられた。それは悲しく、苦い思いだった。
「どうかしましたか?」
自分の思いに沈み込んでしまったゆきに、健太郎が心配そうに尋ねた。
「気分でも…?」
「…いいえ。大丈夫です。こんな贅沢、初めてなものですから…。」
ゆきは半分正直に答えた。貧乏を嘆いても、富を羨んでもしようがない。
「ゆきさん、君もこちら側の人に成ればいい。」
ゆきの思いに気付いているはずもないのに、健太郎は不意にそんなことを言い出した。
「僕の妻になれば、君にはもうこんな生活は日常になる。それとも君にそうしない理由があるの?」
「…。」
ゆきは俯いた。健太郎はそんなゆきの横顔をしばらく黙って見つめていたが、やがて手元のグラスに形ばかりに注がれていたワインをぐいっとあおった。ゆきと一緒だから、と手を付けないでいたものだった。
「ゆきさん。」
グラスをとん、と音を立てて置き、大きく息を一つつくと、健太郎はゆきに向き直った。
「僕は、君のことをずっと見てました。だから、君の考えていることぐらい察しはつきます。」
「…。」
健太郎が何を言おうとしているのか、ゆきには見当もつかず、ただ黙っているしかなかった。
「ゆきさん。無理ですよ。」
しかしいきなりそう言われて、ゆきは健太郎の顔を仰ぎ見た。
「ゆきさんがどんなに思っていようとも、省吾君とは一緒になれない。誰一人として賛成も応援もしない。歓迎しない。」
淡々と健太郎は言葉を続ける。ゆきは目を見開いた。
「省吾君にはそんな皆の反対を振り切れやしない。ましてや君は省吾君より年上で、省吾君が一人前になるまで待つのは辛いでしょう。待ったとしてもその時には省吾君の気持ちが変わっていないとは言い切れないし、保証もない。省吾君のいる帝都には、才色兼備て家柄も釣り合う、気だての良い女性がわんさかいる。」
ゆきの顔から血の気が引いていく。健太郎の言っていることは尤もだ。
「それでも君はいいの?省吾君が相応しい花嫁を迎える時、微笑んで祝福するの?」
健太郎の言葉がゆきの心をいちいちぐさぐさと突き刺す。思わず、ゆきの目には涙が溢れてくる。
「あ…。」
健太郎が慌ててゆきにハンカチを差し出した。
「ごめんね、泣かせる気はなかったんだ…。」
急いで支払いを済ませると、健太郎はゆきを連れて外に出た。


健太郎はゆきを公園に連れて行き、落ち着かせようとベンチに座らせた。
「泣かせる気はなかったんだ…。でも、ゆきさん。僕の言っていることは間違っていないと思うよ。」
健太郎は涙ぐむゆきにそれでも真剣な目の色で言い募る。
「…判っています。そんなこと、ずっと前から考えてきました…。」
ゆきは涙を振り払って健太郎に抵抗した。
「でも、どんなに考えても、私は思い切る事が出来ませんでした。そしたら省吾様は…。」
ゆきは口ごもった。
「省吾君が?何?」
健太郎が詰問口調で迫る。
「…省吾様は…将来お医者様になるって…。その時には私に手伝って欲しいって…。それまでは…。」
ゆきは小さな声で必死に訴えた。
「…ふうん。判った。でも、それって何の約束にもなっていないよね。」
ゆきはどきり、とした。そうだ。省吾は確かな約束をくれた訳ではなかった。言葉では。でも、気持ちをくれた。
「いいえ!省吾様の気持ちはいただきました!私はそれだけで…!」
雪はむきになった。健太郎は唇を歪めて少し笑ったようだった。
「それは君が、そう信じたいだけだよ。約束しなければ約束を破ったことにならないからね。ある意味、ずるいやり方さ。」「!」
ゆきは軽い眩暈を覚えた。
「まあ、君が信じたいなら信じていればいいよ。」
健太郎の目が暗い影を帯びていく。
「でも、君は肝心のことを忘れているよ。僕にはその省吾君の夢を、握り潰すことが出来るんだよ。資金を止めることで。」
忘れていた。以前、健太郎は予告していた。お屋敷の方達の運命は、自分が握っているのだ、と。この結婚話を断れば、何をしでかすか判らない、と。ゆきはぞっとした。健太郎の目は暗い炎を妊んでいる。
「…本気、ですか?」
ゆきは震えを堪えながら尋ねた。
「ん?何が?ああ、融資のこと?さあ、どうだろうね?」
健太郎はいやな笑い方をした。
「君はどうしたいの?夢を潰された省吾君を慰めながら、地面を這い蹲って一生、水呑み百姓の暮らしをしたい?食べる物にも事欠く暮らしを、史朗君や奥様にさせたい?」
「!」
「僕は、きっと今なら、どんな非道い事でも出来ますよ。」
健太郎はくるりと背中を向けた。
「でも、面白いものだよね。たかが僅かなお金で、何人もの運命を左右することが簡単に出来る。」
(この人は…。)
ゆきの全身を戦慄が走った。


「…なんて、ね。僕がそこまで非常になれたらいいのかも知れないけど…。」
健太郎が背中でぼそり、と言った。
「自分でも判っているんだ…。そうやって脅してでも君を妻にしたい。でも、僕にはそんなことは出来ない。情けないね。欲しいものを手に入れるためには、人のことなど構っていられない筈なのに。」
自嘲気味に笑う。
「健太郎様…。」ゆきは健太郎の背中を見つめた。さっきまでゆらゆらと黒い陽炎のようなものが立ち上っていたのが嘘のようだ。
「ねえ、ゆきさん。」
いきなり振り返った健太郎は、憑き物が落ちたようなすっきりした表情をしていた。
「僕は、君を妻にしたい。でも、そのために他人を不幸にすることなんか出来ない。そんなことをしたら、君は僕を許してくれないだろう。僕も自分自身が許せなくなる。だから僕は、待っている事にした。君が僕の妻にかなる気になってくれるまで。」
「健太郎様…。」
「僕は、君に嫌われたくないからね。」
いつものように屈託のない笑い方。
(良かった…。いつもの健太郎様だ。)
ゆきはほっとした。
「さて、戻りましょうか。余り遅くまで君を独り占めしていると、史朗君に恨まれる。」
健太郎が笑いながら差し出した手に、ゆきは我知らず手を預けていた。

お屋敷に戻ると、史朗が玄関先でゆきの帰りを待っていた。
「ゆき、大変なんだ!ゆきのお父さんの容態が急変したって!」
「えっ!おっとうが?!」
ゆきは頭から血の気が引いていくのを感じた。








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