ゆきの思いを置いてけ堀にして、事態は動いていくようだ。
ゆきがどうしてよいものか解らずにいる間に、健太郎が母を伴ってお屋敷を訪れた。
「こんにちは、ゆきさん。健太郎の母親です。」
奥様に呼ばれて客間に顔を出すと、いかにも商家のおかみさん然とした初老の女性が頭を下げた。傍らには赤い顔をして健太郎がにこにこして座っている。奥様も妙に嬉しそうだ。
「はい。ゆき、です。初めまして。」
取り敢えず挨拶は返したが、ゆきはどう対処してよいかも解らず、おもてなしの準備に逃げた。甲斐甲斐しくお茶の用意や食事の支度に立ち働く。健太郎の母は、そんなゆきを好ましく見ているようだ。奥様も働き者のゆきを誇らしく思って見ている。
「本当、気立ての良い、働き者の娘さんなのですね。健太郎の言っていた通りです。それに器量良しで。健太郎が夢中になるのも当然ですね。」
「ゆきは幼い頃からこちらに奉公に来てくれています。とても良い娘なので、わたくしも主人も気に入って、実の娘のように思い、躾け、育てて来ました。」
健太郎の母が、いかにも気に入ったように奥様に話しかけるのに、奥様はやはりにこにこと、ゆきの生い立ちや育ちについて説明する。二人のゆきに対する意見は、一致しているようだ。
「今度参る時には、正式なお申し込みになるかと思います。」
とても満足した様子で、健太郎とその母は帰っていった。
「良かったわねえ、ゆき。正式なお話が来たら、お嫁入りの準備ね。ゆきはこの家からお嫁に出しますからね。わたくしが何処に出しても恥ずかしくないお支度をしてあげますからね。」
奥様がそわそわと、しかしいかにも楽しげにゆきに言った。ゆきは自分の将来が、自分の知らない処で決められていくようで、戸惑うばかりだ。だが、奥様に敢えて逆らう勇気などあるはずもない。
(省吾様…。)
こんな時、省吾がいてくれたら…。ゆきは何故自分が省吾をこれほど頼りにしているのかすら、解ってはいなかった。
「ゆきは、あの健太郎さんが好きなの?」
史朗の部屋にお茶を運んだ時、少しむっとしながら史朗がいきなりそう尋ねた。
「え?」
驚くばかりのゆきに、史朗が畳みかける。
「さっき、お母様に聞いたんだ。ゆきが健太郎さんのお嫁さんになるんだって。どうなの?ゆきはあの人が好きなの?」
声を荒げて詰め寄る。ゆきは咄嗟に返事が出来なかった。話がそこまで進んでいるとは思わなかった。自分の関知していないところで、縁談が一人歩きを始めている。
「ゆき。ねえ、ゆき。」
ゆきの顔から、ゆきの気持ちを察したのであろう。史朗は少し声を和らげた。
「僕は、ゆきは省吾兄さんの事を好きなんだ、と思っていた。」
ゆきはその言葉にはっとして、史朗の顔を見つめた。
「ずっとゆきのそばにいたから、ね。僕はゆきの気持ちが少しは解るつもりなんだ。だから…。」
史朗は真剣な眼差しを向けてくる。
「ねえ、ゆき。良いの?僕はゆきに幸せになって欲しい。だから訊いているんだ。ゆきはあの人が好きなの?あの人と結婚したいの?」
ゆきは自分が今まで、この件から逃げていたことに気付いた。史朗は真実自分の事を案じてくれている。はぐらかしてはいけない。
「史朗様、私は…。」
改めて自分の気持ちを探ってみる。
「私は、どうしたらよいのでしょう?健太郎様の事をそのように考えた事などありません。私は、ただ…。」
「ゆきはお母様が余りに嬉しそうにしていたから、言い出せなかった?」
史朗の言葉にゆきは再び驚いた。史朗は自虐的に笑った。
「やっぱり…。そんなことだろうと思っていたんだ。ゆきはお母様の事となると、どんな無理であろうと通してしまうから。でも、ね、ゆき。ゆきが幸せじゃなかったら、お母様だって悲しむと思うよ。僕だってそうだ。」
史朗の暖かさが伝わってくる。ゆきはありがたくて嬉しくて、涙が出そうになった。
「だから、嫌なら嫌だと、はっきり言って良いんだよ。」
「はい、史朗様。」
ゆきは頷いた。もう一度、最初から考えてみようと思った。
その夜、床に着いてからゆきは、自分の気持ちと向き合っていた。
健太郎は奥様が見込んだ通り、良い人間だ。優しく、そして男らしくもある。容貌も垢抜けていて、優男ではないが好感の持てる方だ、と言えた。そして立派な商家の跡取り息子である。何処を取っても不足はない。同じような境遇の娘ならば誰でも、このような話に飛びつかぬ筈はない。増してや望まれての玉の輿。これほどの良縁は望んで恵まれるものではない。ゆきはため息をついた。そんな事は分かり切っている。だが…。
目を閉じると省吾の笑顔が浮かび上がってくる。それが何故なのか、ゆきは今や知っている。
「ゆきは省吾兄さんが好きなんだ…。」
史朗が言っていた。そうだ。そう告げられて自分の気持ちにはっきり気がついた。自分は省吾の事が、一人の男として好きなのだ。心の奥底で何時しか『唯一人の人』と思い定めていたのだ。
(省吾様…。)
どれ程思おうとも、省吾とは一緒になどなれはしない。それは十分に解っている。主家の、しかもひとつ年下の坊ちゃんと、使用人で、小作農の娘である自分。どう考えても不釣り合いだ。釣り合わぬは不幸の始まり、とも言う。それに、自分はそう思っていたとしても、省吾は?そうだ。省吾の気持ちをゆきは知らない。考えてみれば、一つ年上の使用人の女を、坊ちゃんが結婚相手として見ている筈はないのだ。朔のように、せいぜい囲いものにしようと思うのが常識なのだ。では、自分はどうしたら良い?省吾の事を忘れて、健太郎の許に嫁ぐ、などと言うことが自分に出来るか?そして、いつしか省吾がどこぞの良家のお嬢さんを娶る時、祝福して、黙って見つめている事が出来るのか?
ゆきは、それを想像してぞっとした。だが、考えられないことではない。そして、自分の立場をまた思い知った。ゆきは、再びため息をついた。自分のようなものが高望みをしてはいけない。今までを見ても自分は驚くほど幸運だった。これ以上を望むのは贅沢だ。良いではないか。自分はこのままで既に十二分に幸せだ。省吾の幸せを見届けられれば、大切な人が幸せならば、それは何よりの幸福。それで良い。
ゆきは、自分の覚悟が決まったのを知った。
(今度、健太郎様がお屋敷に見えられたら、そっとお断りのお話をしよう。)
ゆきはそう思い決めた。
そう決意を固めたゆきだったが、思いもかけない展開が待っていた。
「ゆき。実家の弟さんから、手紙が来ているわよ。」
「え?手紙、ですか?」
奥様から手渡されたのは、確かにすぐ下の弟の、たどたどしい文字の手紙。取り敢えず懐に入れて置いて、手早く仕事をかたずけにかかる。嫌な予感がした。
夕方近くになってやっと手が空いたゆきは、庭先で弟からの手紙を開いた。弟の豊作は、ゆきの給金のお陰で辛うじて小学校に通う事が出来たため、何とか読み書きが出来、いざという時の連絡を任されていた。
手紙の中を読み解くにつれ、ゆきの顔から血の気が引いていった。
夕焼けがゆきの後ろ姿をシルエットに浮かび上がらせている。
「ゆきさん、こんにちは。?あれ?」
屋敷を訪れた健太郎が、庭先に呆然と佇むゆきを見つけて声をかけた。ゆきのその様子は尋常ではなかった。
「ゆきさん…。」
振り返ったゆきの目には、涙が溢れんばかりに湛えられていた。手には弟からの手紙がきつく握り締められている。
「…ゆきさん、何があったの?」
健太郎は静かにゆきに近づくと、そっと肩に手を置いて顔を覗き込むようにしてそう尋ねた。ゆきは敢えて目を合わせようとしない。
「ゆきさん。話してくれないか?僕が力になれるかも知れない。」
そう優しく話しかける健太郎の声に、ゆきはふいに縋ってみたくなった。
「…父が…、実家の父が、血を吐いて倒れました…。」
ゆきは涙の間から辛うじて答えた。
「えっ!それは大変だ。それで、お医者は何て?」
健太郎も真剣に尋ね返す。ゆきは悲しげに首を振った。
「…いえ、お医者様には…。」
「医者に診せていないの?!何故?」
健太郎が驚いたように声を荒げた。
「お金がないんです…!お医者様は、薬代を先払いしないと診て下さいません。実家は水呑み百姓です。奥様はご親切に、私の給金を既に親元に送って下さっています。それでもダメなんです。とても足らない、と弟から連絡がありました。」
ゆきの答えに、健太郎の反応は早かった。懐から、厚い札入れを引っ張り出す。
「金で済む事なら、僕にでも何とか出来るよ。さあ、取り敢えず、これでお医者を頼もう。あとは…。」
「健太郎様、私にはそのような事をして頂くいわれはございません。」健太郎の行動にゆきの方が慌てた。「いや、相談を受けたのも何かの縁だよ。それに、僕はゆきさんの役に立ちたい。」
そう言って手配をするために意気揚々と去っていく健太郎の後ろ姿を、ゆきは複雑な思いで見送った。
健太郎の行動は迅速だった。こっそりとお屋敷の執事からゆきの実家の所在を聞き出したらしい。あれきりお屋敷から姿を消したのだが、その足でゆきの生まれた村へ向かったようだ。三日の後、気を揉みつつもただ待つしか出来なかったゆきの許に、健太郎が弟からの手紙を携えて現れた。いかにも嬉しげに、そして誇らしげに笑っていた。
「ゆきさん。お父さんは街の病院に入院出来ました。詳しくは、弟さんが書いた手紙を預かってきました。読んで下さい。」
手渡された手紙を急いで読み下す。内容は、健太郎が医者の手配をしてくれた事、そして入院の面倒を見てくれた事、病院の費用など一切を既に支払ってくれている事、最後に、それらは健太郎のゆきに対する好意から来ていて、ゆきを嫁に欲しい旨を父母に申し込んでいた事が書かれていた。勿論父母に異論はなく、ゆきの玉の輿を大いに喜んでいる、とも付け加えてある。
ゆきは健太郎を見た。にこにこと、手柄を褒めて貰えるものと思い込んでいる犬のように微笑んでいる。
「健太郎様、いろいろとお骨折りいただきましてありがとうございます。こんなにしていただいては、私はどうお返ししたら良いものか判りません。用立て頂いたお金は、何年かかりましょうとも、きっとお返しいたします。」
ゆきは丁寧に頭を下げて礼を言った。
「いや、大したことじゃあないですよ。それより、ゆきさんのご両親にご挨拶が出来て良かった。」
健太郎は顔を赤らめて、いかにも嬉しそうだ。
「それに、お金の心配はいりません。これくらいのお金なら、僕一人の考えでどうにでもなるんです。」
ゆきは衝撃を受けた。ゆきの数年分の給金より遙かに高額のお金だった。それなのに…。
「ありがとうございます。でも、私、きっとお返しいたします。」
ゆきはあくまでも健太郎から借りを作るつもりはなかった。いくら貧乏していでも、施しは受けたくない。そこに下心があるとなればなをさらだ。
「ゆきさんは、水臭いな。」
ゆきの言い方に少し気分を害したのか、健太郎は拗ねたようにそう言った。
「すみません。私は口の効き方も知らない田舎者ですので。」
ゆきはもう一度丁寧に頭を下げた。確かに健太郎のしてくれたことはありがたかった。
ゆきの父親は労咳(結核)であると診断された。当時、治癒率の低い、長期療養の必要な厄介な病気だ。差し当たっての入院費は、健太郎が支払ってくれていたが、今後の事を考えるとどれ程多くの金が必要になるものか、ゆきには想像もつかなかった。
ゆきの父と母は、既に諦めていた。今回は幸運にも健太郎によって窮地を救われたが、労咳は難しい病気だ。貧乏人はやがてやってくる死を静かに待つしか術はない。
家業の農業は、弟の豊作が何とか父親の代わりが出来るほどになっていたが、下の弟の満作は今、奉公先を探している。少しでも現金が必要なのだ。それでもどうにもならない時は、ゆきか妹のみちが身を売らねばならぬだろう。
それを知っているから父母は、諦めている。ゆきに辛い思いをさせている。大して親らしいこともしてやれていない自分達の為に、これ以上苦労をかけたくはない、と思っている。これも親心だ。
ゆきは一人で心を痛めていたが、ゆきの細腕で出来る事は少なかった。頂いていた給金は全て親元に仕送りしていたが、盆暮れ、お祝い事がある度に頂ける小遣いを、地道にゆきは貯金していた。今回はそれも全て実家に送った。何もしないで父親の死を待つなどという事が、ゆきに出来る筈もなかった。
「ゆきさん、僕に援助させてはくれないだろうか?」
そんなある日、思い悩むゆきに健太郎が申し出た。
「こちらの奥様から話は聞いてくれているはずだ。あとはゆきさんに正式に申し込んで返事を貰うだけなんだ。丁度良い機会、と言っては何だけど、今、ここで申し込みます。ゆきさん、僕の嫁に来て下さい。そうすれば、君の家とは親類になる。僕が援助するのに何の不都合もなくなる。」
ゆきは健太郎の顔を見つめた。至って真剣な表情だ。
「ゆきさん。僕は冗談や酔狂で言っていないよ。君を本当に僕の妻にしたい。考えてくれないか?」
下を向いたきり何も言えなくなっているゆきを見て、健太郎は、小さくため息をついた。
「今すぐ答えを下さいとは言いません。でもゆきさん、僕の真剣な気持ち、判って下さい。」
ゆきが健太郎の顔を見上げると、健太郎は優しくにっこり微笑んだ。
(この人は、嘘をついていない。)
ゆきにはそう思えた。
(でも、私は…。)
ゆきの頭の中には、省吾の笑顔が浮かんでいる。
(私は…。)
また、下を向いてしまったゆきを見て、健太郎は苦く笑った。
「今日はもう帰ります。でも、近いうちにまた来ます。」
健太郎はそう言い置くとお屋敷を後にした。
ゆきは、自分や家族にとってどうするのが一番良い方法なのか、良く判っていた。そして、健太郎の自分に対する気持ちに嘘がないことも知っている。健太郎が良い人間で、優しい男であることも承知している。健太郎の嫁になれば、きっと幸せになれるだろう。それなのに何故、自分は…。ゆきには自分で自分が解らなかった。
「ゆき!ゆき!」
奥様の叫ぶような声が呼んでいる。
「はい!奥様、私はここです!」
奥様の尋常でない様子に慌ててお部屋に駆けつけると、奥様は半狂乱になっていた。
「奥様、如何なさいましたか?」
奥様を支えて、気付けに水を差し上げると、奥様はやっと我を取り戻したようだった。ゆきの腕にすがりついてくる。
「ゆき、ゆき。旦那様が、旦那様が倒れられたの。今、朔さんから電報が…。」
「えっ?!旦那様が?」
それきり泣き伏す奥様の背中を撫でながら、ゆきもあまりのことにショックを受けていた。
それから数日は、お屋敷中が大騒ぎだった。奥様は急遽、旦那様の看病に出かける事になり、お屋敷には史朗とゆきが残された。
「朔さんは旦那様の事業を見てくれているし…。こんな時に省吾さんがいてくれたら、どんなに良いかしらね。ごめんなさいね、史朗さん。あなたにはお留守番をお願いするわ。」
奥様が済まなさそうに言うのに、史朗は胸を張って答えて見せた。
「お母様、僕なら大丈夫。もうこんなに大きいんです。屋敷の事は任せておいて。それよりお父様を…。」
奥様はじっと史朗の顔を見つめて微笑んだ。
「ありがとう、史朗さん。頼りにしていますよ。ゆき、あとはお願い。」
「はい。行ってらっしゃいませ。」
不幸とは重なるものなのだろうか。よりにもよってこんな時に。ゆきは運命というものの残酷さを思った。
地元にいるゆき達にはわかる筈もなかったが、事態は最悪の局面に向かっていた。旦那様の意識は未だ戻らず、奥様はその枕辺にずっと寄り添い続けていた。省吾が学業の傍ら、そんな両親の細々とした面倒を見、長男の朔が会社と事業をみていた。だが、その手腕は決して確かなものとは言えなかった。ほんの僅かな期間に、事業はどんどん傾いていった。
やがて、待ちかねていたはずの春が来ても、事態は好転しなかった。いや、悪化の一途を辿っていくような気が、ゆきにはしていた。史朗の上京と進学も延期にされた。お屋敷からは使用人達の姿が徐々に消えていった。
「ゆき。僕達、どうなるんだろう…?」
史朗が不安そうに呟く。
「きっと、大丈夫です。奥様も頑張っておいでです。省吾様も、朔様も。ここで史朗様が弱音を吐いては、旦那様に顔向け出来ませんよ。さあ、ゆきがついてます。元気を出して。」
「うん、わかった。僕も男だものね。兄さん達に負けていられない。」史朗は健気だった。
「はい、その意気です。流石史朗様。」
ゆきが褒めるのに史朗は嬉しそうに笑った。
広いお屋敷に、ゆきと史朗と執事しかいなくなった頃、やっと旦那様の意識が戻り、快方に向かいつつある、と連絡が来た。しかし、ほっと愁眉を開く間もなく、お屋敷には債権者と名乗る者達が姿を見せるようになり始めた。
「朔様が引き継いでらっしゃる事業が、うまくいっていないらしい。」
史朗に聞かれる恐れのないところで、執事がこっそり耳打ちしてくれた。このままでは、このお屋敷も、所有している山も、全て人手に渡すことになるかも知れない、と言う。ゆきは心配を顔に出さないようにしていたが、心痛で眠れぬ日々が続くようになっている。ゆきに為す術はなにもない。
そんな窮地に助け船を出したのは、またもや健太郎だった。いきなり奥様の使いを務めに、という口実の元、お屋敷を訪れた。
「随分とこの屋敷も物寂しくなってしまいましたね。」
執事に奥様からの手紙を託した後、庭にゆきを誘い出して健太郎は苦笑しつつ呟いた。
「金の切れ目が縁の切れ目、とか言うけど、こうまで掌をかえしたようだと、寧ろさっぱりするか…。」
「健太郎様…?」
口の中で何か呟く健太郎に、ゆきは不審を持っていた。一体こんな時期に何をしに来たものか。ゆきはそう思っていた。
「いや、何でもないですよ。」
しかし、健太郎がゆきに向けたのは優しい笑顔。そしてゆきの不審に応えるかのように話し始めた。
「こちらの奥様にお会いして、大体の事情は聞いてます。それで、今日は執事さんに不動産の資料を用意してもらいに来たんです。今回、うちでそれらを担保に融資を検討する事にしたものですから。」
「え…。それじゃあ…。」
「ええ。融資が本決まりになれば、こちらは持ち直しますよ。」
健太郎が笑顔で肯いた。ゆきも目の前が明るくなったような気がした。
「ゆきさん。ついで、と言っては語弊があるけど、この間の話、考えてくれましたか?」
いきなり真剣な顔で切り出した健太郎に、ゆきはたじろいだ。
「あの…、私…。」
「お屋敷のことなら、僕が融資の話を進めると約束します。だからもう心配はいらない。史朗君も遅ればせながら進学できるし、省吾君も学校を辞めずに済むでしょうし。だから、君が心配する必要はもうない。僕とのことを前向きに考えて欲しい。」
健太郎が懸命に説得する。だがゆきはその中の一言に引っかかった。
「省吾様が…?」
「ん?知らなかったの?このままだと省吾君、学費が足りなくて学校を辞めなければならなかったんだよ。」
意外そうに健太郎が言った。
「…。」
ゆきはショックを受けていた。そこまで切羽詰まっていようとは思ってもいなかった。
(省吾様…。)
高い目標を持って勉学に励んでいる省吾。その道を閉ざされてしまったなら、どれほど打ち拉がれることであろう。
「融資を考えて下さる、とおっしゃいましたね?」
ゆきは健太郎に向き直った。
「ええ。こちらとは長いおつき合いになりますからね。なるべくなら、破産などということにしたくはないですから。」
「破産!?」
ゆきは背中を冷たいものが走るのを感じた。そんなことになってしまったら、奥様、旦那様、史朗は…。そして省吾は一体どうなるのだろう。
「健太郎様がお味方になって下さるんですよね?」
ゆきは思わず念を押していた。健太郎はゆきの語気に一瞬目を見開き、次の瞬間、ほくそ笑んだように見えた。
「ゆきさんがそうして欲しいのでしたら、僕個人でもそうしますよ。でも、ゆきさんも僕のことを考えてくれなければ…。」
ゆきははっとして健太郎の顔をじっと見た。
「ゆきさんがお屋敷の方達の心配をする気持ちは、僕にも良く解ります。でも、正直言って僕には関係ない。しかし、ゆきさんが僕の妻になるのなら、ゆきさんがお世話になった方達は、僕にとっても恩人という事になる。仇や疎かには出来ませんよね。」
健太郎の顔を、思わずゆきは見直した。
「勿論、ゆきさんの家族だって、そういう意味では僕の家族になる訳だから、最大限のお世話をします。でも、まるっきり関係のない人達に、僕が親切にする必要があると思いますか?」
「健太郎様…。」ゆきは頭から冷水を浴びせられた思いがした。
「ゆきさん。僕は聖人君子じゃあないんです。あなたにこの話を断られたら、自棄になって何をしでかすか保証出来ません。」
ゆきは絶句した。
「生憎と僕にはお金も力もある。このお屋敷の方達も君の家族も、やろうと思えば…。」「健太郎様!」
ゆきは慌てた。
「?何ですか?ああ、大丈夫ですよ。僕はそこまで非情な人間じゃあないと思います。」
健太郎はゆきにいつもと変わらぬ優しい笑顔を見せた。しかしそれは、ゆきの胸の中に生じた黒い不安を最早拭い去る事はなかった。
「あ、執事さんが呼んでいる。書類の用意が出来たのかな。僕は行かなくちゃ。ゆきさん、あの話、良く考えておいて下さいね。」
そう言い置くと、健太郎はさっさと戻って行った。ゆきに大きな重荷を置いて。
戻る