夏の暑い日差しが降り注いでいる。ゆきは真っ青な空を見上げて、今年は冷害もなく豊作になりそうなことを神に感謝した。このあたりでは、冷害で飢え死にする者も少なくない。貧しい村での暮らしをする家族の事を、ゆきはいつも気にかけている。
冷たくした麦茶を省吾の部屋に運ぶ。夏休み中とはいえ、省吾はかなり熱心に勉学に励んでいる。扉の外で声をかけるが、応えはない。そっと覗き込むと、一心に本を読み耽っている。ゆきは邪魔をしないように、見つかり安いところにお盆を置くと、足音もたてないようにして戻っていった。

「ゆき。」
夕方近くになって、ゆきがお盆を下げてこようと井戸に面した渡り廊下を歩いていると、不意に省吾の声がゆきを呼び止めた。振り返ると井戸端に省吾が片肌を脱いで手拭いを手にして水を使っていた。
「省吾様。何を…?」
ゆきが驚いて声を上げる。
「ん?あんまり暑いから体を拭いていたんだ。井戸の水は冷たくて気持ちがいいね。」
省吾がいかにも気持ちよさげに笑っている。
「おっしゃっていただければ、水ぐらいお汲みいたしますのに。」
省吾が手を伸ばして釣瓶から水を汲むのを見て、ゆきは慌てて駆け寄った。
「ん?かまわないよ。これぐらい自分でするから。」
省吾はそのまま頭にその水をかぶった。冷たい水が飛び散る。
「ふうっ。」
大きく息を吐くと頭をぷるぷると振った。きらきらと水飛沫が輝きながら飛び散る。
「いやあ。夏はこれに限るなあ。」
笑った白い歯が眩しい。ゆきは無意識に目をしばたいた。それからはっと気付いて、手拭いで水を拭いてやろうとする。
「いいよ、ゆき。自分で出来るから。」
省吾が遠慮して、ゆきの手から手拭いを奪い返そうとした。しかしその手はゆきの手に触れ、慌てて手を引っ込める。
「一人でするから。」
照れ隠しなのか、少しぶっきらぼうに言う。ゆきは触れられた指が熱く感じて、どうして良いかわからない。背中を向けて体を拭う省吾の後ろで立ち竦んでしまう。
これは一体何なのだろう。ゆきは自分の気持ちに戸惑っていた。省吾の背中が大きく見える。暫く離れている間に、省吾は男らしく逞しくなっていた。学校では剣道も始めたらしい。どんどん大人になっていく。自分と共に育ったはずなのに。
不意に省吾の背中の水滴が陽の光を反射して、きらりと光り、ゆきは我に返った。
「省吾様、お背中は無理です。お拭きしますね。」
ゆきがそう言って背中を拭い始めるのに、省吾は、
「ん。」と軽く頷いて、振り返らずに黙々と手を動かしている。
体を拭い終えるとゆきは、きちんと着物を着せかけてやった。その間も省吾は無言だった。
ゆきが最後に、使った手拭いを濯ぐために水を汲み上げようとしていると、その釣瓶を省吾が背後から奪うようにして水を汲み始めた。ゆきが振り返ると、むすっとした顔の省吾がぼそり、と言った。
「元来、力仕事は男のものだ。僕の方がゆきより力がある。」
省吾は黙々と水を汲むと手拭いを濯ぎ、またゆきに手渡した。
「ゆき。これは干しておいておくれ。僕は部屋に戻る。麦茶、ありがとう。」
ゆきは茫然とその姿を見送っていた。


暗くなってきた部屋に、ランプの明かりを灯すため、ゆきは省吾の部屋を訪れた。
「省吾様、失礼いたします。」
省吾はまた本に目を落としていた。「ゆき、ありがとう。今、呼ぼうかと思っていたんだ。」
省吾が微笑む。ゆきは、普段と変わらぬ省吾の態度に、ほっとした。自分の奇妙な戸惑いを知られたら、省吾と顔を合わせられない。しかし、省吾は何も気付いていないようだ。
「省吾様、あまり根を詰めないで下さいませ。」
「うん。わかっているよ。でも、つい、ね。」
気遣うゆきに苦笑で応える。
「あ、ゆき。今、ね、古典の勉強をしているんだけどね。」
省吾が思いついたように言い出した。
「はい?」
ゆきは首を傾げた。
「今、読んでいる本なんだけど、能楽に『井筒』という作品があるんだ。ちょっと見てごらん。」
ゆきは机の上に載せられた本を覗き込んだ。
「ほら。ここの歌。」
筒井筒
井筒にかけし
麿が丈
老いにけらしな
妹見ざる間に
(つついづつ いづつにかけし まろがたけ おいにけらしな いもみざるまに)
ゆきの肩越しに、省吾がやはり本を覗き込んで指をさす。
「これって、僕達の事みたいだなあ、って思ったんだ。」
ゆきはその歌の意味を考えた。
(井戸の囲いに並んで背比べをしていた私ですが、ほら、今はこんなに背も伸びて大人になってしまいました。あなたに会えないでいるうちに。)
ゆきは、帰宅した時の省吾を思った。暫く会わなかっただけで、省吾は大人になっていた。
「本当。省吾様の事みたい。」
ゆきは小さく笑った。それから、ふと、自分の顔のすぐ傍らにある省吾の顔に気付いて、また、戸惑った。心臓がどきどきと波立つ。
「ゆきも、そう思う?」
省吾が満足そうに微笑む。その省吾の息がゆきの頬にかかるのが、どうしようもなくゆきの戸惑いを誘う。
「…省吾様、こちらの歌はなんなのですか?」
その場を取り繕おうとゆきは、本の同じページにある歌を指さした。
比べこし
振り分け髪も
肩過ぎぬ
君ならずして
たれかあぐべき
(くらべこし ふりわけがみも かたすぎぬ きみならずして たれかあぐべき)
目で追って、はっとする。この歌は…。
「あれ?相聞歌(そうもんか)かな。えっと…。」
省吾もゆきの指さした歌を読み下して息を呑んだ。そのまま沈黙してしまう。
一緒に丈比べをして育ったあなた。私の髪もこんなに伸びて一人前の女性になりました。小さい時から思い続けたあなた以外のどなたの元に、わたしは嫁いで行ったら良いのでしょうか?
省吾もその歌の意味に気付いたのだろう。気まずい雰囲気が流れて、省吾はそっと机の前から離れた。ゆきはどきどきする胸に手を当てたまま、省吾の顔が見られない。あちらを向いたままの省吾。ゆきは深呼吸をひとつすると、無理矢理何もなかった風を装って、軽く言った。
「お勉強の邪魔をしてしまいました。申し訳ありません。でも、良い勉強をさせて頂きました。」
「うん。」
省吾があちらを向いたままぶっきらぼうに答えた。ゆきは丁寧に一礼して、省吾の部屋を出た。


長いと思っていた夏休みも終わりに近づき、省吾が学校に戻る日が来た。あれ以来、ゆきは何となく省吾の顔を正面から見られないでいる。省吾の方は、屈託なく眩しい笑顔を向けてくる。ゆきはそんな省吾が恨めしく思える事がある。だが、そんな省吾だからこそ、こんなに戸惑いを覚えるのであろう。ゆきは考えないことにした。考えても仕方のないことは、考えないに限る。そうして、省吾を笑顔で見送ることにした。
「行ってらっしゃい、省吾さん。」
「行ってらっしゃい、兄さん。」
奥様と史朗が、名残惜しそうに手を振る。
「ああ。行って参ります。」
省吾も軽く手を挙げて、荷物を手に去っていく。ゆきはその後ろ姿に、そっと呟いた。
(どうぞ、ご無事で…。)


季節は過ぎていく。その年の冬は、省吾も帰郷せず、奥様も史朗も寂しい思いをした。それでもそれが省吾のためだと思うと愚痴のひとつも言えないでいる。ゆきはそんなおふたりに心を砕いてお仕えしようと努めていた。

時がゆっくりと、しかし確実に過ぎていく。
いつの間にか、省吾の不在が当たり前になって来つつある。どんなに寂しくとも人は生きていかねばならない。また、人は生きていくのだ。
「ゆき。」
「はい。」
史朗が後ろからゆきを呼んだ。振り返ったゆきは、史朗にぶつかりそうになって驚いた。あんなに小さかった史朗の背丈が、ゆきと同じほどになっていたのだ。
「史朗様、大きくおなりですねえ。」
「なあに?ゆき。それって、僕がチビだって言いたいの?」
史朗が唇を尖らせた。その表情は、ゆきの良く知っている幼い頃からのものと全く同じで、ゆきの顔は思わずほころんだ。
「いいえ、本当に大きくおなりだと思ったんですよ。」
「そう?僕ももうじき十二歳だからね。」
ゆきに悪気がないのを知ると、史朗も機嫌を治してくれた。
「来年は僕も受験生だもの。それでね、ゆき。僕、ゆきにもっと勉強を見て貰おうと思ってね。」
「あ、はい。私で宜しければ、いくらでもお付き合いします。」
ゆきは笑顔で頷いた。
「ゆき。ちょっと来て頂戴。」
その時、母屋の応接室から奥様の呼び声が聞こえてきた。
「はい!」
ゆきは返事をすると史朗に一つお辞儀をした。
「すみません、史朗様。後でお部屋に伺いますね。」
背中にぶちぶち言う史朗の声を聞きながら、ゆきは応接間に急いだ。


「失礼致します。」
ゆきが応接間に入ると、そこには奥様と共に一人の若い男が座っていた。
「ゆき、お客様にお茶のご用意をお願い。」
「はい、ただいま。」
奥様の言いつけに従って引き退がろうとした時、ふとその男と目が合った。途端、彼の顔は真っ赤になった。そのまま一礼してその部屋を出たゆきには、その後、その場でどのような会話が交わされたのか知る術もなかった。

「あの方はね、旦那様の大切な取引相手の息子さんなのよ。」
その日の夕方、お客の帰った後かたづけをするゆきに、奥様が説明してくれた。
「大きな問屋の跡取り息子さん。健太郎さんと仰るの。どうやらこちらがとてもお気に召したらしくて、また、遊びに来ても良いか、と仰っていたわ。」
ゆきには何の関心も持てない言葉だったが、その男はゆきの人生に大きく関わってくることになる。

それから月に一度ほどの割合で、健太郎はなんやかやと理由を付けてはお屋敷を訪れるようになった。自然と史朗やゆきとも打ち解けてゆく。寂しがりの史朗にとって、健太郎は良い兄代わり、遊び相手になってくれ、ゆきはそれだけで嬉しかった。
「ゆきさん。」
とある秋の日、健太郎が遊びに来て、ゆきを呼び止めた。
「はい、健太郎様。何か?」
ゆきがにっこりしながら尋ねると、健太郎は赤くなりながら懐からなにやら取り出した。
「これ、貰ってくれないかな?」
見ると、小さな可愛らしい白い花の付いた簪。
「ゆきさんに似合うと思って。」
「え?」
訳も分からず戸惑うゆきに、健太郎はつと手を伸ばしてその簪を髪に挿した。
「ほら。良く似合う。」
そして、満足そうに笑う。
「健太郎様、私は…!」
慌てて突き返そうとするゆきに、健太郎は首を振って見せた。
「遠慮はなしだよ、ゆきさん。これはわたしがしたいからした事だ。断ったら失礼だぞ。」
「あ…。」
片目を悪戯っぽく瞑って見せた健太郎に、ゆきは断るに断れなくなった。ひたすら戸惑う。健太郎の考えが判らない。

「あら、そう。健太郎さんがゆきに?」
奥様に報告すると奥様は微笑ましい、といった表情でそう答えた。
「頂いておいて構わないと思うわ、ゆき。健太郎さんの気持ちだもの。」
ゆきはまた戸惑った。理由もなく物を貰ってはいけない、と躾られていた。それに、ゆきには出自が貧乏だからといっても物乞いではない、という自負があった。しかし、奥様にはそんな思いは想像も出来ないらしい。ゆきはただ黙っているだけだった。


健太郎はいそいそとお屋敷に通ってきては、ゆきを見つけて話しかけてくる。奥様もそれを承知の様子で、わざとゆきと健太郎を二人きりにしようとする節があり、ゆきは困り切ってしまっていた。第一、それでは仕事にならないし、史朗の世話も出来ない。健太郎に懐きかけていた史朗も、少しずつそんな健太郎を疎ましく思い始めたようだ。しかし、大切なお客様であることに変わりはない。ゆきには彼を素っ気なく扱う訳にもいかず、丁寧な応対をしながらも持て余しかけていた。

いつしか冬となり、年末にさしかかっていた。この年は珍しく、旦那様も長男の朔も、そして省吾もお屋敷で年越しをするというので、奥様も使用人達も皆、てんてこ舞いをしていた。
「朔様、何かご用ですか?」
気が付くと朔がじっとゆきを見ていた。朔はゆきが奉公にあがってからのほとんどを都会の学校で過ごしており、ゆきはあまり馴染めずにいる。
「いや…。」
朔は曖昧に返事をして、自分の部屋に入っていった。ゆきはそんな朔の様子を訝しく思ったが、忙しさに紛れてすぐに忘れてしまった。

省吾も帰宅し、お屋敷はたちまち賑やかになった。省吾はますます背が伸び、一回り大人になり、もう少年の面影もなくなりかけている。ゆきはそんな省吾の顔を一目見るなり、妙に胸が高鳴るのを感じた。省吾の笑顔がやけに眩しい。
「ゆき、ただいま。ゆきにもお土産があるんだ。」
荷物の整理を手伝うゆきに、省吾が少し恥ずかしそうに手渡しした。
「これを…?」
「うん。ハンカチ。西洋手ぬぐいだよ。今、婦人はそれで手を拭いたり汗を拭ったりするんだ。」
可憐な花の刺繍の入った絹のハンカチ。
「こんな上等なお品を頂く訳には…。」
「日頃、お母様と史朗に良くしてくれているから、僕からのお礼だよ。」
そう言って笑う省吾に、ゆきは感謝してそれを懐にしまった。省吾の気持ちが嬉しかった。その小さなハンカチは、ゆきの生涯の宝物になった。


「ゆき。」
雪の積もったある日の昼下がり、ゆきは朔に呼び止められた。

「はい、朔様。何か?」
「ちょっと来てくれ。」
ゆきの返事に朔は無愛想に顎をしゃくった。そしてそのまますたすた歩き出す。
「はい?」
ゆきは訳も分からず朔に付いて廊下を歩いていった。
(何かお気に障ることをしただろうか?)
ゆきは不安を覚えながらも、黙って先を行く朔の背中を追った。やがて朔は角を曲がると、普段は布団などを仕舞っておく納戸の扉を開けた。
「あっ!」
そしていきなりゆきの手を掴むとゆきを納戸の中に放り込み、自分も入って後ろ手で扉を閉めた。
驚いて積み重ねられた布団の上に起きあがろうとしたゆきに、朔は覆い被さるようにして口を塞いだ。
「大人しくしていろ。」
耳元で囁く。ゆきは何がなんだか事態が飲み込めないまま、身体を堅くして朔を見つめた。
「よおし、いい子だ。そのままじっとしていろよ。すぐに済むからな。」
そう言うと朔はいきなりゆきの襟元に手を伸ばすとそれを押し広げた。
「!朔様!何を?!」
慌てて胸を押さえようとするゆきの手を、朔は振り解く。
「何をって、そりゃあ昔から雇い主が使用人に手を付けるっていうのは良くある話だろ?だから、お前を僕のものにしてやろうと思ってね。」
喉でくつくつと笑っている。そしてゆきの露わになった胸を鷲掴みにする。ゆきは身の危険を感じて必死に暴れる。
「や、止めて下さい!いやっ!」
「おとなしくしろ!妾にしてやる。」
しかし、いくら暴れても所詮女の力。役に立たない。やがて、朔の手が着物の裾を割って太股に触れてくる。
「いやっ!誰か!」
ゆきは必死に抗って逃れようとするが、がっちりと押さえ込まれていて身動きもままならない。
「いやあ!」
(助けて!省吾様!)
瞬間、ゆきの脳裏に省吾の顔が浮かび上がる。このままでは二度と省吾の顔をまともに見られなくなる。
「いやあ!誰か!」
ゆきは最後の力を振り絞って声を限りに叫んだ。


「何をしている!」
激しく扉を引き開ける音と共に飛び込んできた人影が、ゆきにのしかかっていた朔の身体を引き剥がした。
「!」
朔が驚愕の表情で相手を見つめる。ゆきを背中に庇い、朔との間に立ち塞がったのは、省吾。恐ろしい程厳しい表情で朔を睨みつける。そして次の瞬間、不意を付かれた朔の顔を、省吾は思い切り殴りつけた。納戸の扉ごと吹っ飛んだ朔を、省吾は冷たい目で一瞥し、あられもない姿となったゆきに、自分は顔を背けたまま着ていた羽織を脱いで手渡した。
「これを着て。」
あまりに驚く事の連続で、呆然と座り込んでいたゆきは、その時初めて我に返った。自分がどういう姿で、どういう事が起こっているのか、急速に理解した。
「省吾様…。」
省吾の横顔を見ると涙が出てきた。
「ゆき、済まない。」
気配を感じたのか省吾がゆきに背を向けたまま言った。
「あんな奴でも、僕の兄だ。今後はこんな事が起きないようにする。だから、許してくれ。」
「…はい…。」
ゆきは辛うじてそう返事した。しかし、何も考えている訳ではなかった。省吾に言われたから返事をしたにすぎない。
「何?!一体何事?!」
ばたばたと賑やかな足音を立てて史朗が駆け入って来た。そしてゆきの有様、朔の無様に延びている様子、省吾の表情を見比べて事のあらましを察したのだろう。さっと顔色を変えた。
「史朗。」
省吾が相変わらずきつい表情のまま史朗に声をかけた。
「ゆきを連れて行って介抱してくれないか?僕はまだ、あいつに用がある。」
「うん、兄さん。」
史朗はゆきを助けてその場を立ち去ろうとした。ゆきは茫然自失の様子で足元をふらつかせている。省吾はそんなゆきを痛ましく見送り、振り返って朔を軽蔑の眼差しで眺めた。まだ、こちらの仕事が残っている。避けては通れない、通ってはいけない事。ゆきのためにも。


ゆきが我に返った時、部屋の外で省吾と史朗の声がしていた。
「兄さん、ゆきは大丈夫だよね?」
「ああ、大丈夫だよ。あいつに汚されてなどいない。でも、僕がもう少し早く気付いてやれていたら、ゆきをこんなに傷付けることもなかった。」
「悪いのはあいつだよ!僕はもう、あいつを兄さんだとは思わない!ゆきをこんな目にあわせるなんて!」
「…史朗。お前を男と見込んで、頼みがある。」
「何?」
「僕は、僕が家にいる間はゆきをあいつから守る。お前も手伝ってくれ。そして、僕がいない時は、お前がゆきを守ってくれ。」
「うん、約束する。ゆきは僕にとっても大切な人だもの。」
「じゃあ、ゆきの看病を頼むよ。僕は後始末をしてくる。それから、このことは他の誰にも内緒だ。」
「うん。ゆきの恥になることは誰にも言わない。」
そして軽い足音が遠ざかって行き、史朗が静かに部屋に入って来た。ゆきが目覚めているのを知ると史朗は、笑顔を浮かべて見せた。
「ゆき、気がついたの?何か持ってこようか?暖かいものでも飲む?」
「…史朗様…。」
史朗の笑顔を見たらまた、ゆきの目に涙がこみ上げてきた。
「ゆき。大丈夫だよ、僕がついているから。僕が守るから。」
ゆきの涙に、史朗がなんとか宥めようとしてくれる。その気持ちが嬉しくて、ゆきの涙は止めどなく溢れてくる。
「…はい、史朗様…。」
いつの間にか史朗も成長して、ゆきを庇い、守ってやれるようになっていた。あの、小さかった史朗が、今や一人前の男になろうとしている。ゆきは幸せな子供時代が終わりつつあることを感じていた。


奥様には、ゆきは熱を出したことになっていた。二日ほど寝込んで、ゆきは仕事に戻った。奥様は何もご存知ないようだった。省吾も史朗も、事を荒立てたりしなかったらしい。ただ、省吾の顔には殴り合ったような傷が付いていた。
「省吾さんたら、朔さんと兄弟喧嘩をしたのよ。まったく男の子というものは…。」
奥様が困ったように笑って、省吾の傷の説明をしてくれた。
「お母様…、省吾兄さんは悪くないんですよ。」
史朗が庇う。しかし、真実を告げる訳にはいかない。
「まあ、たまには兄弟喧嘩もいいのかも知れないわね。朔さんと省吾さんはあまり一緒に暮らせなかったものね。喧嘩するほど仲がよい、とも言うし。」
奥様がまた、困ったように笑った。

それから小正月が開けるまで、朔はお屋敷に留まっていたが、ゆきのそばには必ず史朗の姿があり、また、それがない時には、物陰からそっと見守る省吾の視線があった。朔がどのように思っていようと、ゆきには一歩も近寄れずにいた。ゆきはそんな二人のさりげない優しさがとても嬉しく、心から感謝して過ごしていた。
やがて朔は、そんな生活が流石に気詰まりだったものか、早々に都会に戻っていき、史朗は安心の吐息を漏らした。省吾は何も語らなかったが、忙しい中、朔が屋敷を出るまで自分も留まっていたことそれ自体が、省吾の気持ちを表していた。
省吾は何も言わない。普段から無口な方だ。そしてあんなことがあったにも関わらず、ゆきに対する態度は変わらない。ゆきは省吾に軽蔑されることを恐れていた。省吾に尻軽で誰にでも尻尾を振るような女だとは思われたくなかった。それが何故かは自分でも解っていなかった。


省吾が学校に戻ると、お屋敷はまた、一気に寂しくなった。来年には史朗の受験も控えている。
「史朗が学校に合格してしまったら、うちは本当に寂しくなるわねえ。」
奥様が呟いた。
「でも、いよいよ朔さんの縁談も決まりそうだし、そうなったらこの家にお嫁さんを迎えられるから大丈夫よね。」
史朗が一瞬眉をしかめた。そのような時期にあのようなことをしでかした朔に、潔癖な少年は嫌悪を感じたのであろう。その表情に、奥様は気付くことなく、ゆきは内心ほっとしたのだった。

春の足音が近づいている。
正月の間は遠慮していたものか、足が遠のいていた健太郎がまた、頻繁に顔を出すようになっていた。にこにこと、何かというとゆきにかまいたがる健太郎に、ゆきは少々辟易していたが、奥様にそのようなことを言う訳にはいかなかった。なにせ大切な取引相手だ。
ゆきは史朗の世話にかこつけて、なるべく史朗と共にいるようにしていた。それが、健太郎からも離れる言い訳になる。しかし、ゆきには健太郎が何故そうまでして自分に関わりたがるのか、全然解らなかった。

「ゆき、大事なお話があるのよ。」
ある日、健太郎が帰った後で、奥様が嬉しそうにそう言い出した。
「はい。何でしょうか?」
ゆきが仕事を一段落させて奥様の前に座ると、奥様はゆきの正面に座り直し、ゆきの両手を握り締めた。
「奥様?」
奥様の行動に困惑するゆきに、奥様はにっこり微笑まれた。
「ゆき、良かったわねえ。まだ正式なお申し込みじゃあないんだけれど、健太郎さんがあなたをお嫁さんに迎えたいそうなのよ。」
「え?」
ゆきは狐につままれたような顔をした。
「本当、願ってもないほど良いお話だわ。健太郎さんは良い人だし、おうちもしっかりしたところだし。来週には健太郎さんのお母さんもあなたに会うためにおいでになるそうよ。」
ゆきには青天の霹靂だった。何のことを話されているのか解らない。ただ戸惑うばかりだ。だが奥様はうきうきと、いかにも嬉しそうに、
「さあ、これから忙しくなるわね。いろいろな準備があるから。」と心の中でゆきの未来を思い描いているようだった。






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