夜も更けてきた頃、まず医者が部屋を訪れた。
「何か変化はありませんか?」
そう尋ねるのに史朗は小さく首を振った。
「先程少しだけ目を開けましたが、すぐにまた…。」
「…。」
医者は難しい顔をしてゆきに聴診器を当てる。
「呼吸はかなり楽そうですね。心音はしっかりしています。」
まずそう告げると、医者は改めて史朗に向き直った。
「しかし意識が戻らないのは良いこととは言えません。もう体力も持たない状況なのかと推測されます。やはり…、そう長くは…。」
史朗は黙って頷いた。その顔からは血の気が引いている。覚悟は出来ているはずだった。しかし、いざとなるとそれを認めることを意識は拒んでしまう。ただ身を引き裂かれるような痛みが史朗の心を苛む。己の無力さが呪わしい。
そんな史朗の横に奥様がそっと座った。どうやら今の話を聞いていたらしい。やはり真っ青な顔をしている。
「…史朗さん…。私達にはもう何もしてあげられることはないの…?ゆきに…してあげられることは…。」
奥様は囁くように史朗に尋ねる。その圧倒的な絶望感に必死に耐えているのが解る。
「お母様…。」
史朗はそんな母親の手を取った。力づけたくとも方法が見つからない。奥様の方でも史朗の辛さはよく分かっている。二人とも、かけがえのない人を今、亡くそうとしている。何もしてやれないままに。
しかし運命はそんな彼らを哀れんでくれた。
どん!どん!どん!
こんな屋敷の奥まで聞こえてきた玄関を叩く音。
「こんな夜更けになんだろう…?」
怪訝そうに史朗は呟き、自ら玄関に向かった。こちらの部屋からでは来訪者が誰なのかも解らない。だが、こんな時間にやってくるところをみれば、よっぽどの急用なのだろうと察しはつく。
やがてばたばたと史朗の廊下を走る足音が近づいてきて、がらりと勢いよく襖が開いた。
「静かに。」
医者が注意する。それを完全に無視して、史朗は大股に部屋を横切ると母親の前に立った。普段は極めて静かな物腰の史朗がそんな風に行動するとは、いったい何事が起きたのだろう、と奥様は眉をひそめた。史朗の顔を仰ぎ見る。すると史朗は興奮して真っ赤な顔をしていた。唇はわなわなと震えてさえいる。
「史朗さん、何事ですか?」
「お母様!電報です!電報が来ました!兄さんが!省吾兄さんが戻ってきます!」
興奮して史朗が叫ぶ。それを聞いて奥様の表情が変わる。慌てて史朗が握りしめていた電報を奪い取り、貪るように読み下す。
『ミョウチョウイチバンノレッシャデツク ショウゴ』
奥様は何度も電報を読み直した。我が目が信じられなかった。それからそっとゆきの方を振り返った。
「ゆき。聞こえる?省吾さんが、省吾さんが帰ってきますよ。」
期待と不安の中で夜は明けようとしていた。幸いにしてゆきの容態は悪化することなく、ただ眠り続けていた。ある意味それは昏睡状態であるとも言えなくはなかった。
史朗と奥様、そして医者は代わる代わる休息を取りながら、ゆきに付き添っていた。省吾からの電報を受け取って、奥様は嬉しさ半分の複雑な顔をしている。息子の帰宅を迎えるのが嬉しくない訳はない。しかしゆきはその省吾を死の床で迎えねばならない。せめて臨終に間に合ってくれればまだ良い。奥様は両手を捻り合わせるようにして祈っていた。八百万の神でもどの仏でも、ひょっとしたら悪魔でも、この際、願いを叶えてくれるなら何処の何者でも構いはしない。そういう気分だった。
そんな思いを、しかしあざ笑うようにゆきが咳き込む。医者か慌てて体勢を横向きに変えさせた。少しでも楽に呼吸をさせるためと、吐瀉物を喉に詰まらせないためだ。その心配は当たった。
「!」
咳が一瞬遠退いたかと思った途端、ゆきは喀血した。驚くほど鮮やかな血が大量にゆきの口から溢れ出る。
「ゆき!」
奥様は悲鳴を上げた。
「手伝って下さい!」
医者はゆきの口から吐き出しきれていない血液を掻きだした。口から気管にかけて残った血液が、ゆきの呼吸を止めている。慌てて史朗が手を貸す。なかなかゆきの呼吸が戻らない。みるみる顔色が悪くなっていく。医者は厳しい顔になって、チューブをゆきの口に差し込む。そこから詰まった血液を吸い出す。
ごぼごぼ…。イヤな音を立てて血液がチューブで吸い出されてきた。やがて洗面器に一杯の血液が溜まった。そしてやっと、か細い呼吸が戻ってきた。
「…危ないところでした…。」
医者が額の汗を拭いながら言った。
「取り敢えずは…、持ち直しましたが…。」
医者の口が重い。史朗も奥様も横たわるゆきの顔色を見ていればその訳が良く分かる。
「…あと、どれぐらい持つでしょうか?」
史朗が青い顔をしながらその言葉を口にした。
「史朗さん…!」
奥様が驚いて史朗の顔を見た。史朗は小さく頷いて見せた。
「もうそろそろ、兄さんを迎えに出ます。ですから、聞いておかねばなりません。出来ることなら二人を会わせてあげたい…。」
奥様ははっとして目をゆきに向けた。それから医者の顔に視線を移す。「…。」
医者は難しい顔をしてゆきの腕を取り脈を診ている。
「…お兄さんを連れて帰られるまで、どれぐらいかかりますか?」
逆に医者が史朗に尋ねる。
「…車をとばして二時間くらいかと…。」
その答えを聞いて医者は一瞬考え込んだ。それからゆきの顔を見、史朗と奥様の顔を見た。そしてゆっくり頷く。
「分かりました。私の医者としての全ての能力を出し切ってでも、あと二時間、持たせてみせましょう。しかし、それ以上は…。」
医者は暗に二時間ほどしか持たない、と言っている。史朗は頷いた。
「はい。わかりました。出来る限り早く戻ります。」
史朗は足早に玄関に向かい、車に飛び乗ると猛スピードで発信していった。
史朗の運転する車は闇を裂くかのように疾走した。やがて遠くに駅舎が見えて来た頃、東の空から陽が昇り始めた。駅舎の前に車を止め、史朗は車を飛び降りた。ホームに駆け上がる。晴れて澄んだ空。その遙か向こうに、機関車が吐き出す黒い煙がたなびいているように見える。
(良かった。汽車は遅れていない。)
史朗はほっとした。時間通りに汽車は到着するだろう。これならば何とか間に合うかも知れない。それでも史朗は知らず知らずに足踏みをしている。それほど気が急いている。
(早く…!早く!)
一分でも一秒でも早く。史朗は我知らず祈っている。誰でもない。ゆきのために。
田舎の長閑な景色の中を汽車は走っていく。
省吾は浅い眠りから覚めた。もうすぐ家に着く、という幸福な高揚感が彼を眠りから呼び覚ました。東の空が白んでいる。もうすぐ夜明けだ。夜明けからいくらも経たずに、汽車は故郷の駅に到着するだろう。入国した港から故郷の駅まで、三度乗り換え、一昼夜と半日費やしている。長い旅だった。だがその終わりには愛しい人達の笑顔が待っている、と思えば、心が躍り、時も矢のように過ぎていくようだ。
(ゆき。お母様。迎えに来ているかなあ…。)
省吾は思わず笑みを浮かべている。昨夜のうちに電報で帰宅する旨を伝えておいた。だが、これまで生存していることすら連絡できない立場だった。もう、自分のことは半分諦めていたに違いない。そこにいきなり帰宅する、という連絡。さぞやゆきも母親も驚き、雀踊りして喜んだことだろう。
うきうきと弾む心の赴くまま、省吾は下車の準備を始めた。僅かだが、南方の島で土産も手に入れていた。ゆきには赤い珊瑚の付いた指輪。母親には黒真珠のブローチ。
結婚指輪の習慣は、日本にはまだ広まっていないが、省吾はこれをゆきに結婚の証として贈ろうと思っている。その時のゆきの顔を、省吾は想像して悦に入っている。駅に着くまでの楽しいひとときであった。
「兄さん!」
荷物を抱えて汽車を降りた省吾の許に一人の青年が駆け寄った。
「…史朗か?」
思わず我が目を疑う。省吾の知っている史朗は紅顔の美少年であった。しかしそこにいたのは、立派な紳士である。弟の無事とその成長に驚き喜ぶ省吾だったが、史朗はいきなりその手を掴むと改札へと走り出した。
「?史朗、なんだい?迎えはお前一人か?ゆきは?お母様は?」
省吾が訳も分からず引きずられながら問いかける。
「そのゆきが危ないんだ!」
史朗は、振り返りもせずに言い放った。急ぐあまり声が大きくなる。
「え?ゆきが何だって?」
史朗の尋常でない様子に省吾も足を早めながら尋ねる。史朗は省吾を車に押し込み、急発進させながら、そのエンジン音に負けないよう声を張って答えた。
「ゆきは末期の労咳だ。今、まさに瀬戸際だ。はっきり言って、急いで帰らなくては間に合わないかも知れない。」
その聞き取りにくい言葉を理解した途端、省吾は血の気が音を立てて引いていくのを感じた。
「…何故…?…どうして…?」
さっきまでの幸福感は何だったのだろう。省吾を待っていたのは幸福な未来予想図ではなく絶望的な現実だった。
「とばすよ。急がないと間に合わない。しっかり捕まっていて。」
史朗は絶句した省吾を横目で見ながら、ギアをトップに入れた。
「…あれから…、僕が出征してから、いったい何があったんだ?」
暫しの沈黙の後、省吾は現実の重みに耐えかねたように言葉を押し出した。史朗は苦悩に歪む兄の顔をまともに見ずに済むことを感謝した。天国から地獄へ急転直下した気分であろう。そして間近に迫る最愛の人の死。
(…。)
その苦悩は決して人事ではない。史朗はぎりぎりと歯噛みした。世の中はなんと理不尽なのだろう。省吾が戻って来た。これでやっと幸せになれるというのに。親子三人で絵に描いたように幸せな生活だって送れることだろうに。何故ゆきはこのような運命を背負っているのだ?
「史朗。教えてくれ、何があったんだ?」
省吾はじっと前を見つめたまま、史朗に言葉だけで詰め寄る。しかしその静かな迫力は史朗を圧倒した。
「…何を…、どう話したものか…。」
史朗は重い口を開いた。
「兄さんが出征して間もなく、ゆきが妊娠していることが分かったんだそうだ。そして、その頃からゆきは徐々に体調を崩していったらしい。戦争の真っ只中でろくに食べ物もなく、医者すらいなくて、おまけに朔兄さんの方も消息不明になって、お母様にはほとんど打てる手はなかったらしい。実際、僕が戻ってくるまで酷い有様だった。あのお母様が野良仕事をしていたくらいに。」
史朗のその言葉に省吾は目を見開いた。そこまで酷いとは想像もしていなかったのだ。
「この戦争は、ゆきのような妊婦には余計に辛いものだったろう。栄養をきちんと取らなくてはいけない時期に、ほとんど食べる物がない。しかもお国のため、という名目の強制労働はさせられる。そして、生きるために働かなくてはならない。屋敷は朔兄さんからの仕送りもなく、物を切り売りして細々とやっていたらしい。お母様に生活能力がないのは兄さんだって分かっているだろう?それでもお母様はゆきのために野良仕事をし、家財道具を売り払って頑張ったんだ。それはゆきの中の孫のため、でもあったんだけど。」
史朗は悔しそうに唇を噛む。
「僕も、冬になってからやっと戻って来られたんだ。もっと早く戻っていられたら、まだ手の施しようがあったかも知れない…。」
悔しさのあまり、涙が滲んで来て、史朗は片袖でぐいと顔を拭った。視界が歪んで事故を起こしては元も子もない。
「僕が戻ってからはまず、医者の手配をしたんだけど、その時にはもう手遅れだ、と言われた…。末期の労咳だ、と…。だけどそんなこと、認めたくない。だから僕は屋敷の財産を調べ、亡くなった朔兄さんの事業を受け継いで、出来る限りのお金を作って、最新の医療技術を持つ医者を雇った。その医者が今、ゆきを診ていてくれている。」
史朗が話している間、省吾は黙って聞いていた。その顔には無念さが滲んでいる。
「…僕がいれば…、ゆきの病気など早期に発見できたろうに…。」
医者の立場から見ると余計に省吾は口惜しいのだろう。そう呟いた。全ては戦争のせいだ。戦争が省吾からゆきを奪っていく再び呆然とする省吾に史朗はちらりと視線を走らせる。。
「畜生。間に合うか…。医者は名誉にかけても持たせてみせると言ってはいたけど…。」
史朗はまたアクセルを踏み込んだ。心が急く。
「ゆきはあんなに兄さんのことを待って、待ち焦がれていたんだ。どうしたって会わせてやらなくちゃあ。会わないで死なせてなるものか!」
誰に言うでもなく自分を叱咤するように囁く。
車は田舎道を疾走する。
屋敷では奥様がやきもきしながら史朗達の帰りを待っていた。ゆきはあれから小康状態を保っているように見える。しかし、医者の方は片時もゆきから目を離さず、油断なく見守り続けている。その様子から、やはりかなり危ない状態なのだと察せられる。
医者は五分おきに脈を計り、酸素チューブの点検をし、点滴の液に薬品を足したり、早さを調節したりしている。ゆきは今や、何本ものチューブに繋がれて、見るからに痛々しい。それでも生きて欲しいと願うのは、身内の我が儘なのであろうか。
(史朗さん、急いで。早く、省吾さんを連れて戻って。)
そう心の中で願い続ける奥様の声が届いたものか、やがて遠くから車のエンジン音が聞こえてきて、屋敷の前で止まった。それは史朗が告げていたよりずっと早かった。
屋敷の廊下を激しい足音が近づいてきて、からりと勢いよく襖が開けられた。
「省吾さん…!」
その姿を見て奥様の目に涙が光る。しかし、部屋の中を一瞥した省吾は固まったように立ちすくんだ。
「…兄さん。」
後から入ってきた史朗が声をかけても動けないでいる。史朗は省吾の肩を押し、部屋の中に入るよう促した。省吾はされるがままよろよろと二三歩進み、ぺたんとその場に座り込んだ。
「……ゆき…、なんで…、こんな…。」
省吾のそんな呟きを聞いて、史朗は瞑目した。あまりに痛い。余りに辛い。見ていられない。それから、きっと唇を噛んで目を開けた。このままにしておく訳には行かない。
「兄さん、ゆきのそばに。声を聞かせてやって。ゆきはずうっとずうっと兄さんのことを待っていたんだよ。」
茫然自失して座り込む省吾の肩を揺する。そんな兄を気の毒に思う。辛い戦争からやっと戻って来たというのに、最愛の人が…。だが、その兄よりも、兄の帰りを待ち詫びていたゆきが、より不憫だった。
「聞こえている?兄さん。」
それでもゆきの顔を呆然と見つめている省吾。史朗は実力行使に出た。省吾の背後から省吾の腋に手を入れて持ち上げ、そのままゆきの枕元へと進む。省吾は人形のように運ばれて、史朗が手を離すとその場に力なく座り込んだ。史朗はゆきの手を取り省吾に握らせ、ゆきに話しかけた。
「ゆき、ゆき。帰ってきたよ。わかるかい?ゆき。」
ゆきが間違えたほど史朗と省吾の声はよく似ている。腑抜けた省吾の代わりに史朗は哀れなゆきに声をかけた。
枕元に控えていた医者が、史朗達の姿を見て汗を拭った。それに気付いた史朗は微かに目礼した。取り敢えず間に合った。医者も責任を果たせて一安心したようだ。
「…ゆき。」
握ったゆきの手に何らかの反応があったものか、省吾がやっと我を取り戻し始めている。もう片方の手もゆきの手に添えてそっと包み込むようにした。そのままその手に頬を寄せる。省吾の目からはらはらと涙が零れ落ちる。
「…ゆき、ゆき。」
愛しくて仕様がない、といぅたようにゆきの手に頬を摺り寄せる。優しく名を呼ぶ。
「ゆき…。帰ってきたよ。…目を開けて…、笑っておくれ。」
医者もそんな省吾から目を逸らす。気の毒で見ていられない。もう、省吾がどんなに呼びかけようと、ゆきの意識が戻る可能性がゼロに近いことを、医者はよく弁えている。そしてそんな彼の様子を目で追っていた史朗の眼差しに小さく首を振って見せた。二人の間にはそれで意味が通じた。史朗は眉をしかめると、ゆきの顔に目を落とした。どんなに無理だと分かっても、せむてゆきに省吾が戻ったことを、ここにこうして手を握っていることを知らせてやりたかった。史朗はもう一度、医者に視線を向けた。目が合うと医者は史朗の考えを察したらしく、暫し顎に手を当てて考えてから小さく頷いた。
医者は持参した鞄の中をごそごそと掻き回し始めた。そしてやっと目当ての物を見つけると、省吾と反対の側に回り、ゆきの腕を露わにした。それから史朗の方に視線を向け、目顔で許可を求めた。史朗は無言で頷く。医者はそれを見て、自分も了解の印に頷いてみせると、手にしていたアンプルを切って中の液体を注射器に吸い上げ、おもむろにゆきの腕に突き刺した。
液体の効果は絶大だった。やがてゆきの唇が小さく震え、微かに言葉を紡ぎ出した。
「…省吾様…。」
その声に省吾はびくんと弾かれたように反応した。
「ゆき!ゆき!僕だよ!帰ってきたよ!」
きつくゆきの手を握りしめ、ゆきの心にまで届け、とゆきに呼びかける。
その場にいる者全員が、ゆきの意識の戻ることを必死で祈っていた。待ち焦がれ続けていた人の帰りも知らずに逝ってしまうのでは余りに不憫すぎる。
「ゆき。ゆき。」
省吾はゆきに呼びかけ続けている。いつしか省吾は涙を流していた。それは悲しいと言うよりも悔し涙であった。二人を引き裂いた戦争が憎い。こんな悲惨な運命が恨めしい。しかし何より何も出来ない自分が悔しい。だからせめてゆきに、自分の気持ちが変わっていないことを知らせたい。
「ゆき。約束したよね。帰ってきたら結婚式を挙げる、って。さあ、僕はこの通り帰ってきたんだ。早速、結婚式を挙げよう。君は僕のために綿帽子を着けてくれるんだよね。僕は結婚の印に指輪を用意したよ。ほら、ご覧。君の白い指によく似合う珊瑚の指輪だよ。」
省吾は懐から指輪のケースを取り出すとゆきにも見えるように蓋を開けてゆきの顔の前に持って行った。
「ゆき。さあ、着けてみておくれ。そして、笑っておくれ。ねえ、ゆき。目を開けて、お帰りなさい、って言っておくれ…。」
省吾の言葉が涙でかすれる。皆、胸が潰れる思いで見つめている。このまま、省吾の顔も見ず、何も分からず、哀しみと寂しさの直中でひとり逝ってしまうのか。そんな思いが頭をよぎった瞬間。
「…省吾…様…。」
ゆきの唇が再びその愛しい人の名を呟き、長い睫毛が震えるとゆっくりと瞼を開いた。
「ゆき!」
思わず省吾の声にも力がこもる。その声にゆきはゆっくりと省吾に視線を向ける。意識はまだはっきりとしてはいないのだろう。ぼんやりと省吾の顔を見つめている。
「ゆき。ゆき。僕だよ。」
省吾が声を押さえながら訴える。大きな声を出したらそのままゆきが儚くなりそうな恐ろしさがある。
省吾の涙が握ったゆきの手に伝う。その温かさがゆきの意識を揺さぶったものか、ゆきの瞳はゆっくりと焦点が合ってきたようだ。
「…省吾…様…。」
ゆきの瞳から大粒の涙がホロリと零れ落ちた。
「…省吾…様?」
信じられない、という口調でゆきは呟いた。
「ゆき、僕だよ。帰ってきたんだよ。」
省吾はゆきの手をしっかり握りしめながら、ゆきの顔に顔を寄せる。自分が確かにここにいて、ゆきの手を握っているのだ、とゆきに信じて貰うために。
それを見て史朗が、医者に目で合図をした。医者は頷くと、ゆきの顔から酸素マスクを外した。
「…本当に…省吾様…。帰ってきて…下さった…。」
省吾の顔を確認して、ゆきは感慨深く囁くと、本当に嬉しそうに笑った。その笑みを見て史朗は、報われた、と思った。
「ただいま、ゆき。」
省吾がやはり微笑みを浮かべて、ゆきに囁く。
「待たせたね。もう大丈夫だよ。僕が帰ってきたんだ。これからは全てうまくいくよ。」
ゆきは嬉しそうに頷く。
「君の病気だって僕が診るからね。」
省吾は囁き続ける。省吾も医者だ。ゆきの今の状態がどのようなものか、枕元に控える医者の対応や、ゆきに繋がれているチューブの数々から推測できたのだ。そしてそこから、ゆきが再び意識をなくせばそれまで、と判断したのだろう。それは悲しいことに事実であった。だから必死にゆきに話しかけ続けている。話している間だけは、ゆきの命を繋ぎ止めておける、と信じたかった。
「結婚式は明日にしようか。それとも今夜でもいいよ。ゆきが決めておくれ。」
しかしゆきは、その問いかけには答えなかった。唇に悲しげな笑みを浮かべると省吾の顔をじっと見つめる。ゆきにも自らの死が近いこと、そしてそれが避けられない事実なのだと、うすうす知れていた。だからゆきは、悲しげに首を振った。花嫁衣装を着て省吾の元に嫁ぐ。それはこれまでの人生の中でゆきが抱いた最初で最後の望みだった。なんとささやかな望み。しかし、それはもう叶えられない。自分にはもういくらも時間が残されていない。ゆきはそれを知っている。
瞬間、はらはらとゆきの瞳から涙が零れた。やっと待ち焦がれていた愛しい人が戻ってきてくれた。これからは何の心配もなしに、愛し合って生きていける。ただ二人で、お互いを庇い合って生きていける。ゆきが願い続けた幸せ。小さい幸せ。それなのに。
「ゆき?」
省吾がゆきの変化に気付いて声をかける。握った手が微かに震えていた。するとゆきは、動けないほどに弱っていたはずなのにいきなり手を伸ばして省吾の胸に縋り着いた。そのまま啜り泣き始める。
「ゆき、ゆき。」
省吾は狼狽えた。このようなゆきを見たことがない。いつも控えめで思慮深く、自分の感情を押し込めている。そんな印象しかないゆきだった。それがこんなに取り乱している。
「ゆき…。」
それでも省吾はゆきをそっと抱きしめた。悲しい運命に弄ばれる愛しい恋人。その運命ごと抱きしめて、自分の手で救いあげられたら、どんなにか幸福だろうに。
「ゆき、ゆき。大丈夫だよ。僕がいるよ。」
赤ん坊を宥めるように抱きしめて、背中を軽く叩いてやる。しかしゆきは泣きやまない。それどころか、なを激しく省吾にしがみついてくる。
「…くやしい…。」
ゆきの唇から涙声が漏れ聞こえた。
「ゆき?」
よく聞き取れなかった省吾は、自分の胸に埋められたゆきの顔をそっと仰向かせた。
「何て言ったの?」
ゆきは涙で汚れた顔でじっと省吾の顔を見、嗚咽の混じる声で言った。
「…悔しい…。」
「え?」
省吾は驚いた。そんな言葉がゆきの口から出ようとは想像だにしていなかった。
「…死にたくない…。」
ゆきは絞り出すように言った。省吾は目を見開いてゆきの顔を見つめた。
「…省吾様…。死にたくない…。やっと…、やっと…会えたの…に…。」
省吾は全てを悟った。ゆきは自分の死を知っている。そしてそれを悲しんでいる。
「ゆき…。」
省吾にはもうゆきを抱き締めるしか出来なかった。この哀しみを癒してやる術はない。ゆきは泣き続ける。
「…省吾様と…暮らしたい…。省吾様と…生きていき…たい…。幸せに…なりたい…。」
ゆきの人生。それを知る者は皆、唇を噛んだ。時代のせいとはいえ、決して幸せなものとは言えない。いや、ある意味、運命に弄ばれた悲惨なもの、といえたろう。そのゆきが望む小さな幸せ。最後の望み。しかしそれは、決して叶えられない望みなのだ。不憫であった。
「…ゆき、ゆき。まだだ。これからだよ。」
省吾は唇を噛んで自分を奮い立たせた。取り乱すゆきが哀れだった。だから余計にゆきをこのまま逝かせるわけにはいかない。せめて最期の時くらい、幸せに迎えさせてやりたい。ゆきのために何かしてやりたい。自分に何が出来ようか。必死に考え、そして思いついた。
「ゆき、見てご覧。結婚指輪だよ。」
それは先程ゆきの意識を呼び戻そうと取り出した指輪だった。
「西洋ではね、結婚の誓いに指輪を新婦の左手の薬指にはめるんだよ。さあ、今ここで仮祝言を挙げよう。ちゃんと証人もいることだしね。」
省吾はゆきに指輪のケースを示し、同時に史朗に向かって目配せした。
「綺麗…。」
ゆきは指輪をうっとりと見つめている。史朗は黙って頷くと、そっと部屋を出て行った。省吾の意図を汲み取ったのだ。そして程もなく三宝に杯を乗せて戻ってきた。清酒の瓶もある。それを見て奥様が慌てて自分の部屋に駆け戻ると包みを持って戻って来た。
「ゆきに、これを。」
包みから出てきたのは、鼈甲の簪と綿帽子、それから純白の打ち掛け。花嫁衣装だ。
「ゆきの結婚式のために用意しておいたのよ。」
ゆきはそれらを眺めやると再び省吾の顔を見た。彼が何をしようとしているのか理解したようだ。省吾はそんなゆきに微笑みながら頷いた。
奥様が史朗の手を借りてゆきに身支度させる。髪をとかし、簪を挿してやり、綿帽子を被せる。打ち掛けを着せかけ、最期に唇に紅を差してやる。ゆきに鏡を見せながら、奥様は涙を堪えて笑ってみせる。
「綺麗よ、ゆき。」
ゆきの息は既にかなり乱れ勝ちになっている。それでもゆきは皆の気持ちが嬉しくて微かに微笑んだ。大量の畳んだ布団を、背中につっかい棒のようにして倒れないようゆきを座らせ、その隣に省吾が座る。
「きちんとしたお披露目は、ゆきの病気が治ってから、改めてしようね。今は兎に角、祝言だ。」
省吾がゆきの顔を覗き込むようにして言う。ゆきはもう、自分で顔を上げていられないほどに弱っている。
支度が整ったと見て、史朗が三宝を二人の前に運んだ。医者が気を利かせて、渋い喉で「高砂」を謡い出す。その厳かな曲が流れる中、三三九度の杯が交わされようとしている。
まず省吾が杯を手にする。史朗がその杯に酒を満たす。省吾は作法に従い杯を干した。そしてゆきを振り返る。ゆきは省吾を潤んだ目で見返す。それは嬉し涙であったろうか。それから省吾はゆきの手に杯を持たせようとした。しかしゆきは、もう一人でその杯を支えてさえいられなくなっていた。やむを得ず省吾は手を添えて助けてやる。杯に酒が満たされた。ゆきはそれを見て微かに笑い目を閉じた。省吾が杯を持つ手を唇に運ぶ手助けをする。そして唇に杯が付けられた瞬間。
ぱたり、とゆきの手が落ちた。
「ゆき?」
省吾が声をかける。
途端、かくり、と首が下を向く。
「ゆき!」
省吾がゆきを抱き寄せる。しかしゆきは息をしていない。慌てて医者が駆け寄る。しかしすぐに手の施しようもないと判断して首を振った。奥様が息を飲む。皆、覚悟はしていた。覚悟は出来ていたはずだった。でも。
「ゆき!」
悲鳴のような声を上げて奥様が泣き伏す。医者も残念そうに下を向いている。省吾はしっかりとゆきを抱き締めたまま歯を食いしばって嗚咽を堪えていた。
一体どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
やがて史朗がそっと省吾の傍らに近づくと声をかけた。
「…兄さん。もうゆきを休ませてあげよう。」
その言葉に省吾はゆっくりと顔を上げた。しかしその顔には信じられない言葉を聞いた、という思いが露わにされていた。史朗は胸を突かれる思いにたじろいだが、二人をこのままにしておく訳にはいかなかった。
「やっとゆきは楽になれたんだ。休ませてあげなくちゃ…。」
省吾は小さくいやいやをした。
「…いやだ。ゆきは…もう、僕から離れないんだ…。誰も…、もう僕達を…引き離せないんだ…。引き離しては…いけないんだ…。」
滂沱の涙がその顔を汚している。史朗は唇を噛んだ。そんな兄の気持ちは痛いほど分かっている。出来るものなら兄の気持ちが落ち着くまで、そうして放っておいてあげたいくらいだ。しかし、人間には死後硬直というものがある。時間が経てばゆきの体が、その体制のまま固まってしまう。それではゆきが可哀想だ。
「兄さん…。それではゆきが成仏できないよ…。」
史朗がため息混じりに言った。
「最期に相応しく、注射や点滴の痕を消して綺麗にしてあげようよ。そしてその指輪もしてあげなくちゃあ。」
省吾ははっとしてゆきを見た。そしてやっとゆきを抱き締めていた腕を弛めた。史朗はこの時とばかりにゆきを抱き取り、引き直しておいた布団の上に横たえた。奥様と医者が盥に汲んだお湯でゆきの体を清めにかかる。
やがて呆然としている省吾に声がかけられた。
「省吾さん、支度ができましたよ。」
今度は本格的に髪も直し、化粧も施した花嫁姿のゆきがそこに横たえられていた。その唇には微かな笑みがたたえられ、まるで生きているかのように美しかった。
「とても…綺麗ね、ゆき。そして、嬉しそうだわ…。」
奥様が感慨深い声で言った。省吾は同意の印に頷くと、ゆきの手を取りその薬指に指輪をはめた。
「ゆき、覚えているかい?あの和歌を。」
省吾は思い出を辿るかのように遠い目をしている。
「筒井筒
井筒にかけし
麿が丈
老いにけらしな
妹見ざる間に
僕達と同じだね…。君と一緒になれぬ間にこんなに時が過ぎて…。」
その言葉を聞いて、史朗が返歌を続けた。
「比べこし
振り分け髪も
肩過ぎぬ
君ならずして
誰かあぐべき
…兄さん、ゆきの気持ちはこの返歌の通りだったんだと思う…。ほら、やっと夢が叶って笑っているよ…。」
「ん…。」
省吾はまた涙を流している。
「こんな、こんなご時世じゃなかったら…。」
史朗も声を詰まらせる。
「ゆきには…幸せになってもらいたかった…。」
皆の心には無念がある。どうしてこんなことになってしまったのか、という慚愧の念がある。そしてこんな時代でなければ、という悔しさがある。それがなをさら涙を誘う。
その時。
小さな子供の元気な泣き声が聞こえてきた。同時に困り果てた女中が赤子を抱えて入ってきた。
「奥様、信吾ぼっちゃまが…。」
奥様が女中の手から赤子を受け取る。揺すり上げてなんとか宥めると、しゃくりあげながらも泣きやんだ。省吾が何気なく目をやると、赤子も省吾に気づき、無心に手を伸ばしてきた。その純粋さに心惹かれて、省吾はつい赤子を抱き取ってしまった。抱かれた途端、赤子は不思議そうな顔で省吾を見つめ、次の瞬間満面の笑みを見せた。その笑みの中に省吾は、一瞬ゆきの微笑みの幻影を見て目を見開いた。
「…この子は…?」
「ゆきの残してくれたあなたの子ですよ、省吾さん。」
目頭を押さえながら奥様が言った。
「え…。」
省吾は改めて腕の中の赤子の顔を見た。賢そうな目元は省吾に似ている。そして優しげな口元はゆき譲りだ。それよりもその笑顔。笑うと目元が和らぎ、色白なこともあって、幼い頃のゆきに瓜二つに見えた。見つめる省吾の視線にたじろぐ風もなく、信吾は小さな手を伸ばして省吾の顔に触れ、不思議そうに覗き込んだ。
「信吾ちゃん、お父様ですよ。」
奥様がその愛らしさに涙を誘われながら言った。信吾は理解したように見えなかったが、まだよく回らぬ舌でその言葉を繰り返した。
「たあたん?」
それは単に偶然の産物であったのかも知れない。しかしその一言は省吾の中の父性愛を呼び覚ました。
「信吾…。僕の子供…。」
愛しさがこみ上げてくる。信吾がまたにっこりと笑う。その笑顔が母親であるゆきと重なって、省吾は思わず抱きしめて頬を寄せた。伸び始めた髭がくすぐったいのか信吾が声を上げて笑う。
「…信吾…。」
母親の死も知らずに、構ってもらえていることが嬉しいのだろう。信吾はにこにこと良く笑い、省吾に不憫さを抱かせる。それを見ている奥様と史朗は、溜まらず涙をこぼした。こんな幼子が母を亡くした。この子は母の顔を知らずに育つのだ。
「…信吾、お母様の最後の姿をしっかりと見ておきなさい。ほら、美しいだろう?」
省吾は信吾を抱いたままゆきの傍らに移動した。物心すらつく前のこんな赤子に言い聞かせるだけ無謀なことであろう。だが省吾は信吾に覚えておいて欲しかった。母親の美しい姿を心に刻んでおいて欲しかった。
「ゆき…。」
省吾は唇を噛んだ。
「こんな…悲しいことは…、もう、起きて欲しく…ない…。こんな…、悲惨な思いを…、もう誰にも味あわせたくない…。もう、戦争なんて…たくさんだ…!」
省吾は信吾を強く抱きしめた。
「信吾のような子を…、もう作ってはいけない。戦争なんて、始めてはいけなかったんだ…。戦争なんて、いったい何の得がある?死をばらまくだけ。悲しみをばらまくだけじゃあないか。それなのに何故、戦争をするんだろう?戦争をしたい奴がいる?だったら僕は言ってやる。自分たちで武器を持って自分たちを殺し合うがいい、と。僕たちは嫌だ。もう二度と嫌だ!こんな悲しい思いは味わいたくない、味あわせたくない!」
哀しい叫び。心からの叫び。血を吐くような叫び。
「信吾…。僕は約束しよう。僕の生きている限り、もう戦争は起こさない!」
何も知らず、信吾はにこにこと笑っている。
哀しい出来事がこの戦争を通じて数多く起こったのだ。この二人だけではなく。今、この日本は平和だが、世界では必ず何処かで戦火が交えられている。願わくは、これ以上戦争が原因で不幸になる人が増えないことを。否、戦争が絶えてなくならんことを。どうか共に祈る方が増えんことを。
end