「…ゆきは、お母様は無事だろうか…?」

明るい月夜、省吾は月を見上げていた。考えるのは本国に残してきた母と愛しい人のこと。ことに、列車を見送るゆきの表情が瞼の裏に焼き付いている。目にいっぱいの涙を湛え、それでも泣くまいとしている健気な姿。

「ゆき…、もうすぐ帰る…。」

意識を取り戻してからもうふた月。体力もかなり回復してきた。マラリラも完治して、怪我もほとんど治った。病院付きの下士官、通訳でもあるジョン・義男=サトウは、省吾の帰国は近い、と言ってくれていた。

アメリカ軍による省吾の取り調べは、想像していたよりずっと親切で丁重なものだった。省吾が最初から偏見を持っていなかったのも良かったのだろう。省吾が知る限りのことを全て話してしまった後には、ジョンなどは極めてフレンドリーに接してくれるようになっていた。

「省吾は医者なだけに論理的でいい。」

ジョンは仕事の合間にも省吾の部屋を訪れて、仕事の大変さや愚痴をこぼしていく。

「他の下士官などは、自分の名前すら話そうとしない。これだけ親切にして貰っておきながら、まだ拷問にかけられる、って思い込んでいる。私がいくら説明しても解ろうとしてくれない。」

省吾も苦笑して話を聞いているしかないが、戦中の日本、及び日本人達の考えを知っているだけに、彼の嘆きに同情的だ。

「皆、省吾のように物分かりが良ければ、こんな苦労をしなくても良いんだがな。」

日本人の頑なさに辟易してジョンはため息を付く。

「全部話してくれたなら、帰国も早くなるというのに…。」

ジョンは省吾にかなりの親近感を抱いてくれたらしい。こんな踏み込んだ話もしてくれるようになっている。

「日本ではアメリカのことをどれだけ悪者扱いしていたんだい?」

ジョンが呆れ果てて尋ねるのに、省吾は苦笑で答えていた。ジョンのショックを考えるととても真実など話せない、と考えた。

「ところで省吾。君の帰国だが、来月の船で適いそうだよ。」

ジョンが不意打ちのように言ったその言葉に、省吾ははっと顔を上げた。ジョンはにこにこと悪戯っぽく笑っている。

「…本当ですか?」

省吾は思わず訊き返した。

「どうして嘘だと思うんだい?」

ジョンは真顔で尋ね返す。

「いえ…。僕は大日本帝国軍の准尉です。責任ある立場です。だから…。」

省吾は視線を落とした。

「責任を取らねばなりません。」

「…。」

そんな省吾の顔をジョンは暫し無言で見つめていた。それから苦笑しながら首を振った。

「戦争責任のことを言っているのなら、それは君にはないよ。」

「え?」

省吾はジョンの顔を意外な思いで見つめた。

「君は素直に話してくれた。私達アメリカ軍は、その内容を精査した。その結果、君には何の責任もない、と判断された。医者である君はその職務を果たしたにすぎない。返って君のような民主主義思想の持ち主には日本に帰って、その思想を広めて貰った方がいい。我々はそう考えたのだよ。」

「…本当に、帰って良いのですね?」

省吾は信じられない気持ちで念を押した。

「勿論。期日が決まったらちゃんと君に教えるよ。我々は嘘はつかない。」

ジョンは笑顔で肯いてくれた。

月を見上げて省吾は遠い故郷を思う。愛しい人を思う。

 

 

「ゆき、食べなくちゃ駄目よ。」

手の付けられていないお膳を前に、奥様が懇願する目で訴える。

「ちゃんと食べなくちゃ、良くならないわ。」

しかしゆきは、横たわったまま微かに首を振るのだった。

「すみません…。食欲がないのです…。」

奥様は軽くため息をついた。ゆきはこのところほとんど何も受け付けなくなっている。そんなゆきの隣では信吾がご機嫌な声を上げている。

ゆきはほぼ寝たきりの生活が続いている。何とか信吾の世話をしなければ、という思いが、ゆきを辛うじて動かしている。それでも大したことが出来るわけではない。けれども信吾は母と祖母の愛情に包まれてすくすくと成長している。近頃は声を出して笑い、興味のあるものには手を伸ばしてくる。

「随分と利発な子だわ。」

奥様は目を細めていかにも嬉しそうに言う。

「省吾の幼い頃よりもっと賢いかも知れないわね。」

「いいえ。省吾様に似ているだけです。」

ゆきも省吾によく似た信吾を見ているだけで嬉しい。

「省吾もこんなに可愛い息子が生まれたことを知ったら、どれほど喜ぶでしょうねえ。」

そう言いながらも奥様は少し眉を曇らせる。

「…早く、帰ってこないものかしら…ね。」

それから慌てて話題を変える。

「大分、世間様も敗戦のショックから抜け出そうとし出してきたわね。色々な物が出回り始めているわよ。闇市にはもうアメリカ製のお菓子や布地まで売っているわ。ゆき、今度一緒に見に行きましょう。」

沈み勝ちなゆきを気遣い、無理矢理はしゃいでみせる奥様に、ゆきは微笑んで頷いてみせる。そんな体力は既にゆきにはないことを、ゆきも奥様も知っている。それでも敢えてゆきは笑顔を向ける。

 

ゆきはもともと色白だったが、このところの病で顔色は抜けるように白くなっていった。血の気が少ないせいもある。黒々とした長い髪を背に垂らして布団の上に座っていると、風にも耐えられない風情に見える。実際、医者に診て貰っている訳ではないが、奥様は労咳を疑っている。ゆき本人も自身の病気に薄々感づいているものか、あんなに可愛がっている信吾を、昼間のごく短い時間しか側に置かないようにしている。昼間の陽の高い時間には、咳込むことが少ないからだ。

雪が降り出していた。ゆきはその雪を眺めている。

(…桜の季節まで…。)

ゆきは父親の亡くなった時のことを自身に当てはめて考えていた。最初は産後の出血がなかなか止まらず、そこから来る体力の低下であった。それから長引く貧血がこの病を引き込んだのだろう。咳と夕方から出る熱が特徴のこの病気。肺を冒され、呼吸困難で死ぬか、それとも喀血して死ぬか、体力を使い果たして死ぬか。労咳(肺結核)とはそう言う病気だ。未だ抗生物質は日本では広まっていない。

(省吾様…。)

自分の命の炎がもういくらも持たないことをゆきは無意識に感じ取っている。それでもただもう一目、省吾に会いたいが為、何とか生きながらえている。

 

この季節には珍しいほど暖かい日だった。奥様は日課になった畑仕事を終え、井戸端で手を洗っていた。この時間はゆきも体調が比較的安定しており、信吾の世話を任せていても大丈夫だと判断していた。ゆきは体調が悪くてもなるべく自分で全てをしようとする性格だ。しかし、さすがに近頃は自分でもかなり辛いものか、床に伏せっていることが増えている。奥様はため息をついた。

「…ゆき…。」

奥様はゆきが不憫でならない。小さい時から苦労をしてきて、やっと幸せになれると思ったら、戦争がそれを引き裂いた。代わりに息子を授かったと思ったら、体を壊して寝たきり同然になってしまっている。

奥様は深くため息をついて首を振った。悲しいこと、苦しいことだけを考えていては生きていけない。今は自分がゆきと信吾を支えねば、と思う。いつか省吾が戻る日まで。それまでは頑張らねば。しかし、やっと慣れたとはいえ、畑仕事はやはり辛い。か細く白かった手は節くれ立ち、肉刺が出来てしまった。その手を見て奥様は思わずクスリと笑った。戦争が始まるまでの自分は、こんな風に畑仕事をしようなどと想像だにしなかった。

「生きる為よ。ゆきと信吾と自分のため。」

もう一度手を見て、奥様はそう呟いた。

「さあ、もう一踏ん張りしなくちゃ。」

そう自分を鼓舞した時だった。

「何をそんなに張り切っているんですか?お母様。」

背中にかけられた声に、びくり、と奥様の体が震えた。ひどく聞き覚えのある声。それは振り返るのをひどく恐ろしく思わせた。

(まさか…。これは夢?夢なら覚めないで…。)

凍り付いたように動けなくなった奥様に、声は柔らかく問いかけた。

「?どうしました?お母様。」

もう一度その声を聞き確信を得た時、奥様の瞳から涙が溢れ出した。一気に振り返り、その体に飛びつく。

「…史朗…!お帰りなさい…!」

そこにいたのは、日に焼けてかなり痩せてはいたが元気そうな史朗だった。

「よく…、よくぞ、帰ってきてくれた…。」

奥様は感激のあまりもう言葉にならない。ひたすら涙にくれるばかり。その背中をそっと撫でて、史朗も暫し母親の温もりに溺れた。二人ともお互いの無事を天に感謝していた。

「お母様もお元気そうでよかった。ゆきはどうしています?省吾兄さんは帰還しているんでしょう?」

帰宅の喜びから何気なく発せられたであろう史朗のその言葉に、奥様はたじろいだ。その様子は史朗の不安をかき立てた。

「?どうしたんですか?」

奥様は重ねて問われたその問いかけに力なく首を振った。

「省吾さんは…、まだ…。」

それを聞いて史朗の表情が曇った。

「…そう…なんですか。残念だ。…ゆきはどうしていますか?」

史朗が次に尋ねたことにも、奥様はまともには答えられずに下を向いた。その様子に只ならぬものを感じて、史朗は母親の顔を覗き込んだ。

「ゆきは…、どうしたのです?まさか…。」

史朗の言葉に奥様は慌てて首を振った。

「いいえ、生きていますよ。でも…。」

そしてまた、俯いてしまう。史朗は取りあえずほっとし、そしてそんな母親の様子を訝しく見た。

「どうしたというんです?お母様。さっきから変ですよ。」

奥様は軽いため息をついて屋敷の入り口に向かい、史朗を手招いた。

「兎も角、お入りなさい。疲れたでしょう。そして、ゆきに会ってちょうだい。」

 

 

母親に導かれるまま、史朗は生まれ育った屋敷の廊下を歩いていく。何も変わらない。そこは幼い頃から何一つ変わっていない。懐かしい。この激動の時代にこんなにも変わらないものがあることを、史朗はそっと胸の中で感謝した。

「史朗さん…。」

そんな史朗の思いを余所に、奥様は先を歩きながら背中越しに話し始める。

「ゆきは…、病気なの。多分…、労咳…。」

史朗が息を呑むのが分かる。

「…悪いのですか?」

掠れた声で訊き返した。史朗はゆきの父親が同じ病気で凄惨な最期を遂げたことを知っている。

「…分からないわ。お医者様がいなくて…まだ、診てもらってもいないの…。」

奥様は悲しそうにそう言った。

「…。」

史朗は悔しそうに唇を噛む。こんなことになっているとは考えてもいなかった。自分がもっと早く帰って来ていたら…。

「ゆきはとても弱っているわ。子供を産んでからはもう寝たり起きたリなのよ。」

史朗の悔しさを思ん計ってか、奥様は前を向いたまま話を続ける。

「子供…?」

その言葉に史朗は驚いた。奥様は顔だけで振り返り、その時だけは嬉しそうに微笑んだ。「省吾さんの息子よ。信吾、と言うの。」

「ああ。」

史朗は一遍で納得した。それではあれからゆきは、史朗の進言を聞き入れてくれたのだ。

「それは…目出度いけど…。」

史朗は小さく呟いた。それは嬉しい出来事のはずだ。だがこの状態は…。

「史朗さん、ここよ。」

そうして奥様が示したのは、中庭に面した日当たりの良い一室だった。

「ゆき、入るわよ。」

中にそう声をかけて障子を開ける。

「ゆき、具合はどう?今日は嬉しい知らせを持ってきたのよ。」

奥様は起き上がろうとするゆきに無理はしないよう促し、外に立って待っている史朗に声をかけた。

「お入りなさい、史朗さん。」

「…史朗様!」

驚きと喜びに満ちたゆきの声。しかしゆきの姿を見た史朗は驚きのあまり絶句した。

「お帰りなさいませ。ご無事で何よりです。」

床の上に起き上がった姿は…。

(…痩せた…。)

史朗はゆきの挨拶など聞いてはいなかった。只、その姿に衝撃を受けていた。

ひとまわりは確かに細くなっていただろう。その顔色はこの病気故か、それほど青白くはない。ただ、生まれついての色白な肌が、透き通るほど白くなった。そして、痩せた分だけ黒目勝ちな大きな瞳が、余計に大きく見える。熱のせいか、史朗の帰還の喜びのためか、その瞳はきらきらと輝いている。

(…これは…、まるで…。)

「史朗さん?」

立ち尽くしている史朗に奥様が不審そうに声をかけた。

「あ、ただいま…、もどりました。姉さん。」

史朗がそう呼びかけたことにゆきは嬉しそうに頬を紅潮させ、奥様を振り返った。奥様は微笑んで肯き返す。それでゆきは史朗が全てを承知していることを知った。

「信吾に…、会ってやって下さい、史朗様。」

無理を押して床の上に座り直し、ゆきは傍らの信吾を抱き上げた。史朗は布団のすぐ側まで歩み寄りしゃがみ込み、両手を差し出してその丸々とした赤子を受け取った。ずっしりとした重み。それはまさに命の重みだった。信吾は史朗に抱かれると、その大きな瞳でじっと史朗を見つめ、次の瞬間にっこりと微笑んだ。そして手を差し伸べて史朗の頬に触ろうとする。

「あら、あら。」

その様子に奥様は笑みを漏らした。

「信吾は人見知りを始めたのだけれど、史朗さんは別なのね。やっぱり伯父様だと分かっているのかしら。」

「まさか。」

史朗はその言葉をあっさりと否定したが、嬉しそうにその小さな手のひらが頬を撫で回す感触を楽しんでいる。

「そうか。僕も伯父さんになったんですね。」

目を細めて呟く。喜びと責任感がひしひしと押し寄せてくる。

「信吾。伯父さんが戻ってきたからにはもう、何の心配もいらないからね。お母様にもおばあ様にももう苦労はさせない。信吾は安心して大きくおなり。」

そして史朗はあどけない笑みに、そんな決意を力強く語りかけたのだった。

 

史朗は、時を置かず行動を開始した。まず、お屋敷の現状を把握し、そして行方不明となったままの長男夫婦の行方を探した。勿論、ゆきのために医者を捜すことも忘れてはいなかった。

世の中では様々な改革がアメリカ人達の指導で始まっていた。農地改革もその一つだった。小作農が大半であった日本の農家に、大地主の所有していた農地を、それぞれが耕していた分だけ分け与えたのだ。それによって日本から小作農はなくなった。どの農民も大なり小なり自作農となったのだ。

お屋敷はしかし、農地を所有していた訳ではなかったので、その影響は少なかった。近隣の大地主達の中にはそのせいで没落していく者が少なくなかった。お屋敷が所有していたのは山林が多く、また、都会にも幾つもの町屋や出店を所有していたはずだった。史朗はそれらが今現在どうなっているのかを精査し、どさくさに紛れに所有権を無くしてしまうのを防いだ。お陰でお屋敷は、かつてのように、とはいかぬまでも、何とか対面を保てる経済状態に戻ることが出来た。そのようにして史朗は、母親のため、お屋敷のため、そしてゆきと信吾のために頑張ったのだ。しかし、残念な事実が分かった。長男夫婦は空襲で亡くなってしまっていたのだ。

「…そう…。」

その知らせを史朗から聞いても、奥様は思ったより悲しまなかった。長男の朔は幼い時は兎も角、長じてからは親元を離れ寄宿舎生活をし、成人してからはお屋敷に戻ることなく都会で過ごし、そこで結婚し生活の基盤を作ってしまっていた。省吾や史朗とは違う。奥様の方でも、消息が途絶えた時にそういう予感がしていたのかも知れない。だからなおさら諦めかつくのが早かったのかも知れない。

そんなことがあってから奥様の信吾に傾ける愛情は余計に濃くなったようだ。

「史朗さんが帰ってきてくれただけでも幸運なんだもの…。」

信吾をあやしながら、せれでも省吾のことを諦め切れてはいないものか、奥様は呟く。

「母親なんて弱いものよね…。信吾、まだあなたのお父様が帰って来てくれるような気がするの。しようがないおばあさまね。でも、戦争が一番いけないの。信吾、あなたの時代には、もう二度と戦争なんて起きないようにしなくちゃね。母親達がもう悲しむことの無いように。」

信吾は解っている筈もないのに妙に真剣な顔でそんな奥様を見つめている。

「あなたは賢い子ね。」

奥様はその様子を見て頼もしそうに笑った。

 

 

史朗は事業を再開した。経済的基盤が安定して、お屋敷は元の活気を取り戻し始めていた。世の中の復興も進んでいる。しかし、ゆきのための医者はなかなか見つからなかった。ゆきは相変わらず寝たり起きたりの生活を続けている。奥様は畑仕事をする必要が無くなったので、そんなゆきと信吾にずっと寄り添って世話をしている。でもゆきは段々と、そんな奥様と信吾を遠ざけようとしてきている。自分でも自分の病状が悪いことを実感し始めているのかも知れない。二人に病気が伝染ることを心底恐れている。奥様にもそんなゆきの気持ちが察せられている。可愛い信吾にも会おうとしないゆき。母親としてどんなに辛いことか。しかし、可愛いからこそこんな業病を伝染す訳にはいかない、とゆきは考えているのだ。そんなゆきの心が解るから、奥様は心を痛めている。

やっと念願の医者が見つかって往診に来て貰ったのは、それから大分経った頃だった。

痩せて、年より老けて見える医者は、予めある程度病状の話を聞いていたためか、皆を隣の部屋に遠ざけての診察をした。そして、ゆきの絶対聞こえぬ部屋まで皆をわざわざ導いていって病状の説明をした。

「間違いなく労咳、結核です。」

皆、そうだとは薄々感じてはいたが、はっきりそう宣告されると息を呑んだ。

「それも、末期ですね。手の施しようもありません。」

医者は情け容赦なく残酷な宣告を続ける。

「持って、あと二月。正直いつ亡くなってもおかしくない状態です。もうすでに何度か喀血もしているはずです。よく助かったものだ。」

奥様と史朗はお互いの顔を見合わせた。確かに、奥様はゆきが隠そうとしていた喀血のあとを何度か発見し後始末をしていた。しかし、ゆきがそこまで悪いとは考えたくなかったのだ。

「結核も、今は良いお薬が、抗生物質と言う物が出来て、決して治らない病気ではなくなってきています。全く、もっと早く手が打てていたらもっと長く、いや、命を救うことすら出来たかも知れない。残念です。」

医者のその言葉は二人の脳天を金槌でぶん殴ったかのような衝撃を与えた。史朗は心底後悔した。握りしめた拳の爪が手のひらに食い込んで血が滲んでくるほど悔やんだ。奥様は言葉を失っていた。呆然と天に視線を投げかけたままぽろぽろと涙をこぼした。

医者はそんな二人の様子を気の毒そうに眺めていたが、やがて鞄の中から薬包紙の束を引っ張り出した。

「気休めに過ぎないでしょうが、抗生物質を持参してきています。これを置いていきます。日に三度、飲ませて下さい。」

医者にとっても手の施しようのない病気というものは、口惜しいことなのかも知れない。史朗はその医者に、瞬間、兄の省吾の面影を見たように思った。病を憎むその真摯な姿に。

医者が帰った後、奥様が呟いていた言葉を史朗は聞いてしまった。

「…何て…不公平なの。こんなのって…、あっていいものなの…?」

史朗はゆきのみならず、そんな母親も哀しく見た。

 

ゆきはぼんやりと外を見て過ごすことが多くなっていた。もう、あれほど溺愛していた信吾に会おうという気力すらなくしてしまったかのようだった。世話を焼く奥様の手を拒もうとすることもなくなった。奥様はそれを薬が効いてきたのだ、これから良くなるのだ、と解釈して喜んだ。だが史朗には、そうとは見えていなかった。

(…兄さんを…待っている…?)

史朗には、ゆきが省吾の帰りをひたすら待っているとしか思えなかった。省吾の帰宅に備えて、自分の命を何とか長らえさせようとしている。そんな風に見えた。

(姉さん…。)

痛々し過ぎて史朗は目を背けた。ゆきはまだ省吾が帰って来るものと思っている。もう終戦からこれほど長い時が流れたというのに。史朗も奥様も、省吾のことは既に諦めていた。史朗は、今現在生きているものの明日を考えることの方が大切だ、と思う。ゆきが、信吾が大切だ。

そして、史朗にはゆきに省吾を諦めよ、などと言えるはずもない。それは即、ゆきの希望を奪うことになる。今現在、ゆきはその希望だけに縋り付いて命を長らえているに過ぎない。その希望を奪えば、ゆきはあっさりと命を手放すことだろう。史朗は自分の無力さを呪った。何故、大切な人のために自分は何もしてやることが出来ないのだろう。何故、自分が帰ってきて、省吾が帰ってこないのだろう。自分ではなく省吾が帰ってきたら良かった、とまで考えた。ゆきのそんな姿が哀しかった。

 

遠くに霞んで日本の島影が見える。

「帰ってきた…。」

省吾は感慨深く呟いた。故郷の地を離れてから、もうどれほどの時が流れたのだろうか。

「ゆき…、帰ってきたよ。もうすぐ会える…。」

目に浮かぶのはゆきの笑顔。母親の笑顔。あと一日もすれば、この船も港に着く。そして手続きを終えて列車に乗る。復員兵には列車に乗る優先権が与えられている。省吾は指折り数えた。

「早くて三日…。遅くても…、四日目の夜には…。」

懐かしい笑顔に会える。

そんな思いを抱えながら船の甲板で風に吹かれて、省吾は南方での捕虜生活を思い起こしていた。最初の予定よりずっと省吾の帰国は遅れてしまった。同じ連隊にいた上司に当たる元中尉が、省吾を敵対視し、アメリカ軍の取り調べに於いてあることないこと告げ口した事により、終わりかけていた省吾の取り調べも延長されてしまったからである。その元中尉は、以前から省吾の言動を快く思っていなかったらしく、また、アメリカ軍に収容されてからの省吾の態度や省吾に対するアメリカ兵の親切な扱いを忌々しく感じていたらしい。彼の言葉の全てが中傷、讒言である事が完全に立証されるまで、省吾は帰国することを許されず、こんなに時を費やしてしまった。結局、省吾は潔白であることがアメリカ軍に理解され、その元中尉は後に裁判に掛けられることが決まった。

「長かったな…。」

省吾は日本人の狭い心を悲しく思った。こういうことがなければ彼も自分ももっと早く家族の元に戻れたものを。そしてこういう考え方が世界情勢を読み間違い、日本という国を戦争へと駆り立てたのかも知れない、と思った。

「…まあ、いい、さ。もうじきゆきに会える…。」

省吾は首を振って追憶を振り切った。ゆきに会えば、全てを取り戻せる。失った時も、無為に過ごした時間も。省吾は懐かしい故郷に、愛する人たちに思いを馳せた。

 

いつの間にか季節は移っていった。

ゆきの病状は傍目には小康状態を保っているように見えた。実際、一時のような酷い喀血も減り、奥様などは薬が効いたのだと喜んでいる。だが史朗は、そこまで楽観的になれずにいた。仕事の暇を見つけては屋敷に戻り、垣間見るゆきは、余りに現実離れした存在に見えたのだ。現し身でそこにある訳ではなく、凝り固まった意志が実体化してそこにあるような気がした。

周りの人達の心配を知ってか知らずか、桜の花びらがひらひらと舞い落ちるのを、ゆきは床に伏したままぼんやりと眺めていた。もう、一日のほとんどをそうしてぼんやりと、半分眠るようにして過ごしている。あんなに溺愛していた信吾にも、積極的に会いたいとも考えられなくなっている。ゆき自身、時々自分が生きているのかどうかも解らなくなりつつある。

(…省吾様…。)

胸の中で、そっと愛する人を呼んでみる。きっと戻る、と約束した人。史朗も奥様も、近頃では省吾のことを口にしなくなっていた。省吾の名を聞くだけで、ゆきは悲しむ。それを思ん計ってのことだ。それと同時に、半分以上その生存を諦めたせいでもあったろう。

(省吾様…。)

ゆきも正直言って省吾の生還をもう期待している訳ではなかった。終戦からこれほどの時が移り、生き残った旧日本兵達は皆、それぞれ帰還していた。この時になっても戻らない、ということは、戦死の公報がなくとも死んだものと考えざるを得ない。

(…省吾様…。)

ゆきにはもう、省吾の生死さえ念頭にはないのかも知れない。ただ、『戻る』と言った省吾の言葉だけがゆきを支えている。

襖の陰からそんなゆきの様子を窺いながら史朗は、切なくやるせない思いに苛まれていた。自分にはもうゆきにしてやれることがない。それが哀しく、ゆきの宙を見つめる眼差しがやるせなかった。

(兄さん。ゆきを連れて行かないでくれ…。ゆきがいなくなったら信吾はどうしたらいい?両親を亡くして、信吾はどうしたらいい?)

勿論史朗は、自分が一生、信吾の面倒を見る覚悟でいた。しかし、両親のない身の心細さは否めない。小さい手を伸ばして、史朗にかまって貰おうとする信吾はとても可愛い。だから余計に哀れが募る。

(兄さん。出来るものなら兄さんの代わりに僕が逝ってしまえていたら良かった…。だけどそれが叶わないのなら、どうか、どうか…。)

史朗は奥歯を噛み締めて祈った。最早史朗にはそれしか出来ることはなかった。

 

人知れず桜がはらはらと散っていく。美しい。それはこよなく美しい眺めだ。

「…桜が…、散ってしまう…。」

ゆきは小さく呟いた。何故かゆきはいつしか我と我が身を桜に見立てていた。

「…私の命も…、もうすぐ終わる…。…省吾様に…、もうすぐ会える…。」

その呟きがゆきの口の中に消えていく前に、ゆきの意識はすうっと遠のいていった。

 

「ゆき!」

最初に気付いたのは奥様だった。

「どうしたの?!しっかりして!」

抱えて揺さぶるが、ゆきはぐったりとして返事すらしない。完全に意識を失っている。

「ゆき!ゆき!しっかりして!」

奥様は半泣きになって金切り声で叫ぶ。その声を聞きつけて史朗が駆けつけた。

「どうしたんですか?!」

「ゆきが…!ゆきが!」

奥様は狼狽の極みで最早泣き叫ぶだけだ。史朗は奥様の腕の中のゆきを一目見て、状況を察した。さっと顔色が変わる。

「お母様。医者を連れに行って来ます!」

そう言い捨てると一目散に駆けだした。そして、こんな時のために、と先日手に入れておいた車に飛び乗る。エンジンをかけ、猛スピードで走らせる。時間との戦い。ゆきの病状はそれほど切羽詰まったもののように思われた。

 

史朗が医者を連れて戻った時には、奥様も少しは落ち着きを取り戻し、静かに寝かせたゆきの傍らに付き添っていた。そのゆきの様子を一目見るなり医者は表情を引き締めた。

「…これは…。」

それでも急いで脈を取り、聴診器を当てる。その様子を二人は固唾を呑んで見守る。医者は一通り診察すると、史朗に声をかけた。

「手伝って下さい!」

二人は慌てて乗ってきた車へ向かう。そこから積んできた大荷物を抱えて戻る。

「先程説明していた方法を採ります。良いですね?」医者が改めて史朗に問うた。

「はい。ゆきのためなら。お金のことでしたら、この屋敷を売り払ってもお支払いします。どうかゆきを助けて下さい。」

史朗は懇願した。何物もゆきの命には代えられない。

「手は尽くします。」

医者は難しい顔で頷くと、持ってきたボンベからゆきの鼻へチューブを延ばした。

「酸素を吸わせます。肺の機能が低下して体内の酸素濃度が低下したことで意識を失ったのだと思われます。これと注射で…。」

医者は強心剤らしき注射を手際よく打った。

「これが効けば、かなり楽になるはず。」

医者が呟くのが聞こえた。見守る史朗達にもゆきの顔色が心持ち良くなってきたように思われた。

「でも、これは結局、延命措置に過ぎません。根本的解決にはなりません。患者は末期の結核。救う術は今の医学にはありません。ただこうして少しでも楽に、そして少しだけ命を延ばしてあげるしか手はありません。」

ゆきの楽になってきた呼吸音を聞いて、医者は二人を振り向き苦い表情で最後通告をした。ある程度の覚悟はしていた二人だったが、その言葉は頭の中を真っ白に変えた。地面に引き込まれてしまうかのような強烈な絶望感。二人は茫然とゆきの顔を見つめた。

 

夜になって、ゆきの容態は落ち着いてきたように見えた。心持ち顔色も戻り、呼吸も楽になっている。取りあえず峠は越えたようだった。医者も聴診器を置き、大きく吐息を付いた。

「どうやら落ち着いたようです。とはいえ、いつ急変してもおかしくはありませんが。長丁場になりそうですね。」

汗を拭いながら医者は説明した。それを聞いて史朗は、付きっきりの奥様の身を心配して、使用人に次の間に床を用意するよう命じた。それに奥様は抗ったが、流石に疲れには勝てず、ゆきに変化が現れたら呼ぶようにときつく史朗に言って、次の間に引き取って行った。医者にも史朗は近くの部屋で休めるよう手配して、自分はゆきの枕元に付き添った。

 

他には誰もいなくなった部屋で、史朗はゆきの横顔を見つめていた。

(どうして…、この人だけがこんなに…。)

幸せになって欲しいのに。誰よりも身近にいた、誰よりも慕わしい人…。

史朗は改めて自分の中のゆきの存在の大きさを思い知った。そして奥歯を噛みしめる。そうだ。兄でなければ決してゆきを託そうだなんて考えはしなかった。相手が省吾でなければ、自分でゆきを幸せにしようと思っただろう。それなのに今、ゆきが頼りに出きるのは自分だけとなった今、その肝心な時に自分は…。

史朗は手を握りしめた。握った手の爪が手のひらに食い込んで血が滲む。口惜しい。自分の非力さが許せない。

「…ゆき…。」

小さく名を呼んでみる。『姉さん』と呼ぶのは、ゆきが喜ぶからだ。本当は心からそう呼びたいと思ったことなどない。

「…ゆき…。」

もう一度名を呼んだ時、ゆきの閉じられた瞼がぴくりと震えた。思わず息を呑んで見守る。やがてゆっくりとゆきは瞼を開いた。そして何かを探すように視線をさまよわす。やがて史朗を認識するとゆきは微かに笑った。

「…史朗様…。…今…、省吾様に呼ばれました…。省吾様は…どちらですか…?」

息をするだけでも苦しそうな呼吸の下で、ゆきは嬉しそうに史朗に問うた。史朗の声を省吾のものと勘違いをしている。咄嗟に史朗はそう判断した。気持ちも表情も暗くなる。自分ではなく省吾ならばゆきを昏睡から呼び戻す力を持つのか。その事実が史朗を傷つけた。しかし史朗はゆきに笑顔を向けて見せた。

「違うよ。呼んでいたのは僕だよ。兄さんじゃあない。そんなに僕と兄さんの声は似ている?でも、目が覚めて良かった。何か欲しいものはない?」

自分の感情をひた隠しにして、史朗はゆきを労る。史朗の言葉を理解してゆきは一瞬哀しそうな瞳をしたが、すぐにゆっくりと首を振った。

「いえ…。」

それからもう一度部屋の中を見渡す。

「どうかしたの?」

訝しげに問う史朗にゆきは懸命に返事を返した。

「…どうしても、省吾様に呼ばれたような気がするんです…。」

「…。」

史朗はかける言葉を失って視線を落とした。ゆきは省吾のことだけしか考えていない。省吾の手をしか求めていない。自分では何の役にも立てない。その思いが史朗を打ちのめした。

「…でも、兄さんはいないんだよ…。」

史朗は絞り出すような声で言った。

「ここにいるのは僕だ…。」

その、ある種悲鳴のような声を、幸いにもゆきは聞いていなかった。ゆきはまたふわりと瞼を閉じて現実世界から離れてしまった。







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