窓から明るい月の光が射し込んでいる。
ゆきはその明かりで隣に眠る省吾の顔にじっと見入っていた。省吾はすやすやと健康な寝息をたてて眠っている。そうして無防備に眠る顔には、かつての少年時代の面影が残っている。ゆきはそっと省吾の肩に頭を寄せた。省吾と結ばれたのが未だに信じられないでいる。省吾の肌から伝わる体温が、ゆきに安心感を与えてくれる。
(省吾様…。)
夜が明ければ、省吾は出征してしまう。ゆきのもとから引き離されて戦場へ連れて行かれてしまう。ゆきの思いがどうあろうと、それは変えられない。抗えない。
(省吾様…。)
このまま夜が明けなければいい。どんなに真剣にゆきは願ったことだろう。世の中のありとあらゆる神と仏に向かって祈った。叶えてくれるものなら悪魔にだって祈っただろう。最愛の人と結ばれた今となって、それをたった一夜限りに引き裂かれてしまう。どのような神がそんな運命を仕組んだものか。運命とはどこまで過酷なものなのか。しかしゆきは運命を呪うよりも未来を、そして省吾の無事の帰還をひたすら祈った。
気がつくと朝になっていた。いつの間にか眠っていたらしい。ゆきはまだ隣で眠っている省吾を起こさぬよう、そっと寝床を抜け出すと、身繕いを済ませ省吾の部屋を出た。台所に向かい、省吾の朝食の用意をする。この屋敷での最後の食事になるやも知れぬ。ゆきの用意する最後の食事になるやも知れぬ。材料も手に入り難い昨今であったがゆきは心を込めて出来る限りの省吾の好物を揃えようと努めた。
「ゆき、おはよう。」
台所で立ち働くゆきの気配を察して奥様が顔を出した。
「おはようございます、奥様。私に何かご用ですか?」
この時間に台所などに現れる奥様ではなかった。だからゆきは急用だと解釈したのだ。しかし奥様は苦笑して首を振った。
「いいえ、違うの。省吾さんに何か作ってあげたくて…。」
「奥様…。」
そういえば史朗が出征した時も奥様は珍しく台所に立ち、お里で覚えたという料理を手作りして史朗に食べさせていた。
「奥様…。」
ゆきは目頭が熱くなった。母親の思いはいずこも同じなのだ。
「どうぞ。大した材料は用意出来ませんでしたけれど…。」
奥様に場所を譲る。
「私にもお手伝いさせて下さい。」
笑顔で奥様に告げる。そうして、ゆきと奥様は省吾のための最後の食事を支度した。
出発の時間はあっという間にやってきた。
駅には人影も疎らだった。人員と燃料の不足で、列車の本数も激減しているからだ。おかげでゆきは省吾の傍らにぴったりと寄り添っていることが出来た。誰かに見られたら「非国民」のそしりを受けてしまう。どんなに別れ難くとも手を握ることすら出来ない二人だった。
「ゆき、行ってくる。」
特別列車に乗り込みながら省吾はゆきに告げた。ゆきは黙って肯くしか出来なかった。口を開けば、涙が溢れてきそうだった。程もなく汽笛が鳴り響き、ゆっくりと汽車は動き出す。
「ゆき!帰ってくる!きっと帰ってくるから!」
省吾が乗降口から身を乗り出して叫ぶ。しっかりと見て覚えておきたいのに、堪え切れず溢れ出す涙で、省吾の姿がかすれてしまう。歪んでしまう。
「省吾様!」
思わずゆきは、手を伸ばしてホームを駆け出していた。もう一度省吾の存在を確かめたかった。しかしどんなに手を差し伸ばしても、もう省吾の指にさえ触れることも出来ない。どんどんその距離は離れて行くばかり。
「省吾様!」
ゆきは省吾の名を叫んだ。その声はもう省吾の耳に届きはしない、と分かっていた。だが、叫ばずにはいられなかった。この時、これが今生の別れになる、という予感がゆきの胸によぎった。ゆきはホームの端に立ち竦んだ。
戦況は悪化の一途を辿っていた。しかし、大本営はそれを認めようとはしなかった。相変わらず、新聞紙上やラジオ放送では、大日本帝国軍は連戦連勝の記録を伸ばし続けていた。だが、そろそろ国民も、この戦争は勝てるのだろうか、いや、負けるのではないか、と薄々感じ始めていた。食糧事情もエネルギー事情も悪化の一途を辿っている。配給のみで生活していた人間が餓死した、という話もある。それでも人々は神国日本が負けるはずはないと思いたかった。
「奥様!空襲警報が!早く防空壕へ!」
空襲警報が鳴り響いている。こんな田舎までB29がやってくるようになっていた。まだ爆撃されるようなことはなかったが、気まぐれな機銃照射で怪我人が出ていた。ゆきは奥様の手を引いて防空壕に駆け込んだ。空襲警報が解除されるまで、ここでじっとしていなければならない。上空から何機かの飛行機の爆音が聞こえている。
「…いったいどうなるのかしら…。」
奥様が呟いた。
「日本はどこへ行くのかしら…?」
「奥様…。」
ゆきは小さく震えた。息子二人を出征させてからの奥様は、時々虚ろな眼でぼんやりと空中を見つめていることがある。不安と心痛で心が現実を避けているように見える。
「大丈夫ですよ、奥様。じきに戦争も終わって、省吾様も史朗様も無事に帰って見えますよ。」
ゆきは奥様の手を取って慰めた。
「きっとお二人ともご無事に帰ってこられますから!」
その言葉はある意味、ゆき自身に向けられたものでもあった。
「ゆき…。」
奥様がゆきの手を握り返す。
「そうね…。帰ってくるわよね…。」
「はい、奥様。」
ゆきは肯きながらしっかりと奥様の手を握った。あんなに気丈な奥様がこれほどまでに気弱になられるとは、ゆきは想像だにしていなかった。
(省吾様、史朗様、どうかご無事で…。)
ゆきは全身全霊で祈った。
戦争は激しさを増していった。同時に人々の貧しさも増していった。
田舎のこと故、何とか食べる物にはありつけてはいたが、お屋敷の奥様の食卓にも芋や南瓜を乗せなくてはならなくなっていた。
「申し訳ありません…。」
ゆきが頭を下げると奥様は笑顔で首を振った。
「こんなご時世ですもの。食べ物があるだけでも幸せですよ。でも…。」
奥様の表情が曇る。
「日本の国内にいる私達がこんな有様で、史朗や省吾はどんな物を食べているのでしょうね…?」
その言葉にゆきも眉を曇らせた。南方は酷い有様になっている、と風の噂で聞いた。
「…ご心配ですよね…。でもきっとお二人とも元気でご無事です。きっと。お二人とも必ず帰る、とお約束して下さったんですもの。」
ゆきは必死に言い募った。ある意味それは、今やゆきの生きる支えとなりつつある言葉であった。
待つ身には、時間はのろのろと過ぎていく。風に乗って様々な噂が流れて来る。その大半は芳しくないものだった。しかしゆき達には待つしかなかった。ただ信じて待つしか…。
そんな日々の中、奥様は心痛のあまり痩せられた。食糧事情の悪さもあったろうが、げっそりとやつれられ、それがゆきの心を余計に痛めた。
「どうか、少しでも召し上がって下さい。史朗様がたが戻られた時に、奥様がお元気なお姿でお出迎えなさらなくては、どんなにご心配なさることでしょう。」
食の細くなられた奥様に、ゆきはどんなにか気を揉んだことだろう。
「奥様のお好きなものを揃えられないなんて…。申し訳ありません。」
それでもゆきは、実家に手を回し、頼み込んで食料を工面していたのだ。実家はゆきのお陰で農家としてやっていけるようになったという負い目があり、かなりの要求にも応えてくれていた。しかし、それにも限度がある。そろそろ実家にも無理を言えなくなりつつあった。それでもなんとかお米を手に入れて、その日ゆきは奥様のためにお粥を炊いていた。
「ゆき、いい匂いね。」
お粥の炊ける匂いが、久し振りにお屋敷中に広がって、奥様も嬉しそうにダイニングに顔を見せた。
「はい。奥様に食べていただきたくて、お粥をご用意しております。」
ゆきも嬉しくなって笑顔を奥様に向ける。奥様のそのような表情は、省吾が出征してから初めて見るような気がする。
「お粥なら、奥様も召し上がって下さるような気がして。今日は卵もあるんですよ。」
「まあ。そんなに…。ゆき、無理をしたんじゃなくて?」
奥様はちょっと心配そうな顔になる。
「いいえ、実家から送って寄越したんです。お世話になった奥様にどうぞ、って。」
ゆきは嘘を付いた。心配をかけたくなかった。
「まあ、ありがたいこと。どうか、くれぐれも宜しくお伝えしてね。」
奥様は何も気付かずにこにこと肯いた。
「こんなご時世だからかしらね。人様の暖かいお気持ちが身に染みてありがたいわ。」
「はい。人情がよけいに暖かく感じられますね。」
ゆきも肯き、お粥の土鍋をテーブルまで運んだ。
「さあ、できました。熱いうちに召し上がって下さい。」
そう告げて、茶碗によそうため土鍋の蓋を取った。大量の湯気とお粥の匂いが立ち上った時。
「ゆき?どうしたの?」
いきなり激しい吐き気に襲われて、ゆきは口を押さえた。そのまま台所の流しに駆け寄る。奥様が心配して後を追ってきた。
「大丈夫?」
奥様が背中をさすってくれながら顔を覗き込んでくる。
「…あ、はい…。大丈夫…です…。」
不思議なことに、お粥の匂いから遠ざかると、吐き気はすうっと収まった。
(何…?この吐き気は…?)
ゆきは自分のことながら理由も分からず戸惑った。
「本当に大丈夫?」
奥様の問い掛けに、無理矢理笑顔を作ろうとしたがうまくいかない。
「なんだかお粥の匂いに…。」
「まあ、ゆき。それってまるで悪阻みたいね。」
笑顔で冗談を言った奥様の言葉に、ゆきは息を呑んだ。
(…まさか…。)
ゆきの顔色を見て、奥様は何かを察したようだった。
「ゆき、あなた、妊娠している…?」
「いいえ!私はもう子供のできる体ではないと…!」
ゆきは慌てて否定した。だが、女としての直感は、ゆきにその可能性どころか確実性を告げていた。そしてそのことがゆきの表情を強ばらせた。奥様はそんなゆきをじっと見つめていたが、やがてひとつ肯くとおもむろに口を開いた。
「ゆき、子供の父親は省吾、なのよね?」
ゆきははっとして奥様の顔を見た。何と言っていいものか分からない。奥様はゆきの困惑した表情を見て笑顔で首を振った。
「ばかね。何を遠慮しているの。私はそれを望んでいたのよ。まあ、嬉しい!省吾の子供が産まれるのね!」
「奥様…。」
暗く悲しい日々の中に明るい光が灯ったのだった。
女の勘は当たっていた。産婆のところへ行くと、妊娠している、と太鼓判を押された。ゆきは戸惑った。あの時、自分は二度と子供が出来ないのだと知った時、ゆきの人生は大きく変わったのだ。いや、全ての人のために変えざるを得なかったのだ。それなのに、今となって…。
省吾の子供。それは、本当に嬉しい賜りものだ。しかし、こうなることが分かっていたら、ゆきはこの道を選んだだろうか。複雑な思いがゆきを戸惑わせる。愛する人の子供を宿した。そのことの幸せに浸ることが出来ない。
「ゆき。どうだったの?」
産婆の元から帰るゆきを待ちかねて奥様が尋ねた。
「…はい。間違いないそうです。」
ゆきの返事に奥様は雀踊りした。
「ゆき、ありがとう。とても嬉しいわ!省吾もどんなにか喜ぶでしょう!」
それから奥様はゆきの手を取って強く握りしめた。
「さあ、ゆき。これからは私達、この子のために生きなくては、ね。省吾が戻ってくるまで大切にこの子を守り育てるのが私達の仕事よ。頑張りましょうね。私も具合が悪いなんて言ってられないわ。」
奥様の言葉はゆきを迷いから引っ張り出してくれた。そうだ。過去のことはもうどうにもなりはしない。今はこれからのことを、生まれてくるこの子のことを考えるべきだ。いかにしてこの子を無事に産み落とし、育てるか、を。今はそんな些細なことすら難しいご時世なのだから。
(暑い…。)
その頃省吾は、東南アジアのとある島に配属されていた。そこは既に本国の大本営との連絡も途絶え、物資の供給も絶えていた。現地は最早、地獄と化していた。熱帯特有の暑さと湿度が、戦場をより過酷な場所としていた。掃討戦となってしまった戦場で、それでも日本兵達は降伏することを許されていなかった。彼らに選べる道は撃ち殺されるか、戦場で負った傷がもとでの破傷風で死ぬか、マラリアなどの熱帯性の伝染病で死ぬか、飢え死にするかのいずれかになりつつあった。
省吾は軍医という立場上、最前線に立つことはなかったか、弾丸が飛び交う戦場のすぐそばで怪我人を診るのが常だった。階級もかなり上であったから、まだきちんとした食料を口にする機会もあったが、一般の二等兵達は満足な食料を与えられることもなく、ジャングルを徘徊する小動物を捕らえては食べる生活になっていた。それはもう既に軍隊とは呼べない集団であった。しかし、一旦兵士となった日本人には、「投降して捕虜になる辱めよりは誇りある死を選ぶ」という教育が染み着いており、また、鬼畜米英に捕らえられたら死ぬよりつらい拷問にあう、という根拠のない噂が信じられていた。それらのことが相まって、戦場の日本人達は今や全滅するのを待つのみ、といった空気が蔓延していた。だが生物としての本能が、「生きる」ことへの貪欲な本能が、彼らを生きる事へとしがみつかせていた。
(ゆき…。)
省吾はその義侠心から自分にあてがわれた食料を病人達に分け与えていた。そして、自分もふらふらになりながらも診察や看護を止めようとはしなかった。省吾には生きて帰らねばならぬ理由があったのだから。そして医者としての責任を果たす。
(きっと生きて帰る…。ゆき、お母様、待っててくれ…。)
ジャングルの泥の中を這いずり回りながらも、省吾は生きようと努めていた。
「ゆき、顔色が悪いわ。悪阻はまだ酷そうね。」
奥様が心配そうに言った。
「いえ、大丈夫です。」
ゆきは笑顔を向けた。しかし、奥様の言う通り、あまり体調は良くなかった。
「辛かったら無理をしないで横になっておいでなさい。私はもうこんなに元気なのだから、大概のことは一人で出来るわ。」
奥様はゆきの妊娠を知ってからは心の支えが出来たためかみるみる元気になられた。今や当のゆきよりも元気なぐらいだ。
「大丈夫です。それより、もう食べ物がなくなります。私は今日にでも実家に行って来ようと思います。」
ゆきは自分では無理をしているとは思っていなかった。だが、ゆきの体の方は悲鳴をあげかけていたのだ。
東南アジアでの戦況は最終段階を迎えていた。ジャングルに雨霰の如く弾丸が降り注がれる。日本兵達が投降しないため、米軍は胆振だしにかけているのだ。しかし、我慢強い日本人はよりジャングルの奥地へと逃げ込み、洞窟の奥へと隠れたりしながら最後の抵抗を試みていた。神国日本が負けるわけにはいかない、と将校達は意地になっている。兵士達はもう生きるだけで精一杯の状態になっているというのに。
逃げるのに足手まといになる負傷兵、病人は、ジャングルに捨てられた。動ける者だけがかろうじて生きるために行軍していた。逃げて隠れてどうなるものでもなかったが、生きるためには歩くしかなかった。
(ゆき…。)
省吾は意識朦朧としながらジャングルをさまよっている。確か、弱っていた兵士に肩を貸して歩いていたはずだったが、気が付くと彼の上着だけを引きずっていた。そして、周りには同じようにふらつく身体を無理矢理前進させている日本兵が蠢いていた。もう、何が起きているのかも把握できていない。意識すらないのかも知れない。各々、本能のみで動いている。生きねばならぬ、とも思っていない。ただ、生物としての本能が彼らを動かしている。
「…ゆき…。」
省吾は無意識に呟き続けている。
「…ゆき…。帰るから…。すぐに…、帰るから…。」
湿気と熱気とが兵士達を苦しめる。栄養失調と熱病がその苦しみに拍車をかける。そして弾丸と爆弾の雨。彼らは最早、人間とは言えないように地面を這い蹲っている。
ゆきが妊娠安定期に入った頃、日本軍は東南アジアからの撤退を余儀なくされた。しかしそれは撤退とは言えないものだった。一部の将校だけが命辛々逃げ出し、他の兵士達は置き去りにされた。郡部は彼らを見殺しにしたのだ。
置き去りにされた日本兵達に生き残る術があろうとは思えなかった。彼らは置き去りにされたとはつゆ知らず、援軍の到着を、友軍が自分達を助けに来てくれることを待ち続けていた。それが儚い希望だとも知らずに。
戦争は日本本土に広まりつつあった。都会への空襲は日常茶飯事となり、米軍の次の目標は沖縄だと分かっていた。
「硫黄島が落ちたそうだ。」
大本営では発表しないそんな情報が、ゆきの住む田舎にまで流れて来た。
「ゆき、大丈夫よ。史朗も省吾も必ず生きて帰るわ。」
真っ青な顔色のゆきの手を取って励ましてくれたのは奥様だった。ゆきの妊娠を知ってからの奥様は、昔の凛と芯の一本通った奥様に戻られたようだった。逆にゆきは悪阻が長引いているせいもあって、心身ともに弱くなっている。
「ゆき。気を強く持って、しっかり生きていきましょうね。あなたがしっかりせねば、お腹の赤ちゃんはどうなります?あなたはもう自分一人の身ではないのですから。」
「はい。」
ゆきはそっとお腹に手を置いた。そこには省吾の子供が宿っている。ゆきが心から愛した男の子供だ。
(この子を無事にこの世に送り出すことが、今の私の一番大切な仕事…。)
省吾の暖かい笑顔が脳裏に浮かぶ。
(省吾様…。)
その時、お腹の赤ん坊が微かに動いた。まるでそんな母親を元気づけるように。
ゆき達の生活はかなりきついものとなっていた。ゆき自身が動けないため、ゆきの実家に無心することもままならず、ほかに食料を援助してくれる宛はなかった。省吾が世話をしていた農民達はそれでも、いくばくかの貴重品との物々交換に応じてくれるだけましだともいえた。
「可愛い孫のためだと思えば、惜しいものなど何もないわ。」
次々とお屋敷から物が消えていくのを、奥様はそうあっさりと片づけた。
「人間、食べねば生きていけませんもの。それがあなたとお腹の子と私を生かすのです。」
奥様はお屋敷の庭に畑を拓き、野菜や芋を栽培し始めた。少しでも食料を増やそうと考えたのだ。慣れない畑仕事を楽しそうにやっている。そして夜にはゆきのお腹に手を当ててお腹の赤ん坊に話しかける。
「おばあさまはあなたが産まれてくるのを楽しみに待っていますからね。五体満足に、元気な子で産まれてきてちょうだい。」
その声に答えるようにお腹の中の赤ん坊は身動きする。きつい厳しい生活の中で、ほっとするひとときだった。
「沖縄が落ちた…。」
どこからともなくそんな話が囁かれだした。
「いよいよ本土決戦だ…。」
人々の中に緊張感が漂っている。
「一億総玉砕だ!女子供も竹槍を持て!」
憲兵隊や一部の軍属はそういきまいて民衆の戦意を鼓舞しようとしていたが、人々はもう疲れ果てていた。毎日のようにある空襲、食糧不足、働き手の不足、燃料不足…。今や飛行機の部品を作る鉄すら不足している。そして石油の不足のため薪で走る自動車すら現れている。人々は生活に疲れていた。
「こういうのをタケノコ生活、って言うのね。」
奥様が箪笥から着物を取り出しながら明るく笑った。風呂敷に包む。それを農家に持って行って、食料に代えて貰うのだ。
「タケノコは着ている皮を一枚づつ脱いで成長していくのよね。まったく、こうして衣装を一枚づつ売って暮らすのをタケノコ生活、とは本当によくぞ名付けたものだわ。」
華族出身で、旦那様がお元気で事業のうまくいっていた頃には、各地の織物を取り寄せて着物を作らせていた着道楽の奥様だ。幾竿もの箪笥に多くの着物を持っておられた。
「まあ、私の道楽も無駄ではなかっただけありがたいけれど。」
少し自嘲気味に笑う。
「奥様…。申し訳ありません…。」
ゆきは情けなくて仕様がない。こうしてお屋敷の品物や奥様のお着物を切り売りして生活することが申し訳なくて仕方ない。本当は自分がなんとかせねばならぬのに、身重なために何も出来ない。奥様に余計な苦労をかけてしまっている。
「あら。気にすることはないわ。」
奥様は明るい。
「全部、この子のためですもの。ねえ、いい子や。」
ゆきのかなり目立ってきたお腹に手を置いて呼びかける。
「おばあさまもお母様も頑張ってますよ。そしてたぶんお父様も…。だからあなたも頑張って産まれてくるんですよ。」
「奥様…。」
今は、この、まだ産まれてきてもいない命を心の支えに生きている二人であった。
ゆきの産み月が近づいている。
「おい…。広島に新型爆弾が落とされたそうだ…。」
「ピカドンって全滅したそうだ…。」
「今度は東京に落とされるかも…。」
「そうなったら、日本は終わりだ…。天皇陛下はどうなる…?」
大本営からの発表はない。新聞でもラジオでもそんな報道はない。だが、民衆の間にはそんな情報が流れた。それは人の口伝えでの情報であったのだろうが、すごい勢いで全国に行き渡っていった。
「ゆき。この戦争ももうすぐ終わるわ…。」
ゆきの手を取って奥様が蒼白な顔で告げた。
「日本が負けたのよ…。いくら天皇様だって国民全部に、死ね、とはおっしゃらないわ…。戦争は終わる…。」
そして八月十五日。国民に玉音放送があり、国民は戦争が終わったことを知った。
戦争が終わって、米軍が進駐軍として日本本土にやってきた。そして全てに変化が訪れ始めた。
海外各地に散らばっていた旧日本兵達の復員も始まった。南方に行っていた男達が次々と家族のもとに帰って来る。しかしやはり多くの男達は戦場で亡くなり、その家族のもとに戻れなかった。
「ゆき。南方からの復員船が入港するわ。きっと省吾もそれに乗っているわよ。だからあなたも頑張って。」
ゆきは出産をむかえていた。お産は難産となっている。もう丸一日以上も陣痛に耐えているがまだ子供は産まれてこない。付き添う産婆はかなり難しい表情になっている。
「さあ、もう少しよ。頑張って。」
力づける奥様の声にも焦りが見られる。産婆がこっそり奥様に目配せした。
「母体がかなり弱ってますじゃ。これ以上長引くと母子ともに危険ですじゃ。どうか覚悟だけはしておいてくだされ。」
襖の陰に奥様を連れだし、産婆はそう囁いた。奥様はごくり、と唾を飲み込んだ。
「ゆき。やっと苦しい戦争が終わったのよ。省吾もきっと戻ってくるわ。あなたはこれから幸せになるのよ。」
ゆきの手を取り、奥様は必死にそう力づける。その声はしかしゆきに届いてはいなかった。あまりの痛みと苦しみが長引いたため、ゆきの意識は現実を手放そうとしていた。だがその薄れかける意識の中、ゆきは省吾の顔を思い浮かべていた。
(省吾様…。)
心の中でそっと呼ぶ。するといつもとは違ってその唇が言葉を紡いだように思えた。
(ゆき、もうすぐ戻るよ。だから、君も頑張れ。)
そんな省吾の声が聞こえた気がした。
「…省吾様!」
思わずゆきは叫んでいた。それと同時に最後の力を振り絞った。
それから間もなくのことだった。
「おぎゃあ!」
「産まれましただ!元気な男の子ですじゃ!」
産声が響き、ほっとしたように産婆が報告した。
「母御も無事ですじゃ。よろしゅうございましただ。」
「ゆき!おめでとう!でかしたわ!」
奥様も大喜びでゆきを労った。ゆきは大仕事を終えた安心と喜びに包まれて奥様に笑みを向けた。その腕には玉のような赤ん坊が抱かれている。
「この子が省吾の息子。私の孫なのね。初めまして。私があなたのおばあさまよ。」
奥様は嬉しそうに赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「まあ、省吾の小さい時に瓜二つだわ。ねえ、赤ちゃん。あなたに会ったらきっとお父様はびっくりなさるわね。」
奥様は感極まってか涙ぐんでいる。
「早く、戻っていらっしゃると良いわね。」
そして恐る恐るその小さい手に触れてみる。
「時代は変わったわ。これからはあなた達がこの手で築き上げていくのね。」
ゆきも感慨深く赤ん坊の顔を見つめた。
「きっと良い世の中にしてくれますわ。戦争なんて二度と起きない世の中に。」
「そうね。戦争はもうごめんだわ。」
奥様は瞳を伏せた。結局、都会に残った長男家族の消息は絶え、次男の省吾と三男の史朗は徴兵されて行方が分からない。いや生死すら不明だ。今や、奥様にとって確実に身近にいてくれるのはゆきとこの子だけになってしまった。
「ああ、お名前を決めなくてはね。」
奥様は努めて明るく言い出した。
「お七夜にはささやかなお祝いをしましょうね。ゆき、それまでに考えてね。」
「え…、私がですか?」
ゆきは驚いた。
「とんでもない。私には学問も何もありません。とても良い名前を考えつけるわけはありません。私は最初から奥様に付けていただけるものだと思っておりました。」
「あら、私が付けても良いの?」
奥様が嬉しそうに念を押した。
「はい。どうかお願いします。」
ゆきは心から頭を下げた。ゆきにはそれが一番良いことだと思えていた。
しかしその、喜びに包まれた幸福な時間は長くは続いてくれなかった。ゆきは出産時の出血が止まらず、だんだんと衰弱していった。
「これはもう、産婆の仕事ではありませんですじゃ。医者に診て貰わんと…。」
産婆は匙を投げた。
「そんな…。医者なんて、どこにいるというの?!うちの省吾以外にこの辺りに医者がいたためしはないのよ!」
奥様は思わず叫んでいた。
「なんとかして!ゆきを助けて!」
産婆に縋り付く。産婆も悲しげに奥様を見、ため息を付く。
「そりゃあ、わしに出来る限りのことはさせて貰いますじゃ。昔からの薬草も少しはあることじゃし、使ってみましょう。」
奥様の目が輝く。だが。
「本当は、医者に診て貰うのが一番なんじゃ。それでも放ってはおけんから…。しかし、覚悟だけはしておいて下され。」
産婆は悲しい宣告をした。奥様は天を仰いだ。
神はどうしてこのように過酷な運命を課したものか。
ゆきは隣に眠る小さな命を見つめていた。産まれて二三日はお乳をあげることが出来ていた。しかし今は衰弱が進んで、自分で起きあがることすらも最早ままならない。お乳も出なくなってしまった。
「出血が続いているから血が足りなくなっているのよ。いっぱい食べて元気になれば、またお乳も出るようになるって、産婆さんも言っていたわ。さあ、この煎じ薬を飲んで。そして早くよくなるのよ。」
先程、奥様がそう言いながら薬を飲ませてくれた。ゆきは奥様の気持ちがとてもありがたかった。涙が出そうになるくらい。しかし何故かゆきは今、不思議に透明な思いの中にいる。全てが水槽の向こう側で起こっているような感覚がある。治りたくない訳ではない。小さな息子はとても可愛い。この子のためにも生きていたいとは思う。だがどうしてか生きようという力が涌いてこない。
(省吾様…。)
省吾との思い出が心を占めてくる。省吾と出会い、共に育ち、恋をし、引き裂かれ…。ゆきは別の男の許に嫁ぎ、そこでどうしようもない運命に弄ばれ、離縁を経験した。再び省吾と会った時、二人の気持ちはしかし変わっていなかった。
(省吾様…。)
現実と、衰弱が見せる夢の間をさまよいながらそれでもゆきは考えていた。
(私は幸せな女…。女郎に売られる運命から救われて、こうしてただ一人の愛する人の子供を産むことが出来た…。これ以上、何を望むというのだろう…。)
隣で赤ん坊がむずかりだした。
「よし、よし…。」
ゆきは無意識のうちに軽くたたいてあやしてやる。
「いい子ね、信吾…。」
赤ん坊はお七夜の夜に奥様によって信吾(しんご)と名付けられていた。
「信吾…。お腹が空いたの…?」
その事に気付いてゆきは胸を押さえた。元気な声で赤ん坊は空腹を訴えてくる。だがゆきにはどうしてやることも出来ない。
「あらあら。元気な声ね。」
奥様が泣き声を聞きつけてやってきた。
「連れて行くわね。」
信吾を抱き上げる。貰い乳に行くのだ。その後ろ姿を見送りながらゆきは切なくなった。もう自分は必要のない存在のような気がした。
信吾はすくすく育っている。奥様が近所で貰い乳をしてくれているおかげだ。省吾への恩返しの意味もあったのだろうが、ただで赤ん坊に乳を分けてなどくれはしない。奥様はかなり高額の品物を手放したのだろう。ゆきは心の中で手を合わせた。自分の身体がまともなら、こんな苦労をかけることもなかったのだ。
「…省吾様…。」
小さく省吾の名を呼んだ。南方からの兵隊さん達の帰還も進んでいる。しかし未だ省吾は帰ってこない。だが、戦死の公告もない。ゆきも奥様もただひたすら帰りを待っているのに。
「省吾様…。」
ゆきは衰弱しきっている。ただ省吾に、もう一目だけでも会いたい、という思いがゆきを何とか生かしていた。
省吾が我に返ったのは小綺麗な建物の中だった。しかも清潔なシーツの敷かれたベットに寝かされていた。
「…どこだ?ここは?」
省吾の囁くような声を聞きつけたものか、一人の男が近づいてきた。
「気が付いたか?」
少しアクセントのおかしい日本語。
「ここは病院だ。君はジャングルの掃討戦で負傷していたところを我がアメリカ軍によってここに収容された。階級章により高位の者と判断されたが、氏名と階級を話せるか?」
「…。日本軍はどうなった?」
省吾はその質問には答えず、逆に尋ねた。日系らしいアメリカ人はひとつため息を付いてその質問に答えてくれた。
「君はかなり長い間、生死の境をさまよっていたし、その後も意識は半分眠っていたようだからね。…大日本帝国は八月十五日にポツダム宣言を受諾し、戦争は終結した。日本は負けたのだ。」
省吾は相手が意外に思うほど落ち着いた態度で頷いた。
「…そうですか。」
「で、それを聞いて君はどういう反応をする?」
アメリカ人は興味深そうに尋ねた。省吾は小さく首を振った。
「…予想はついていました。僕はずいぶん長いこと眠っていたんですね。僕はこれからどのように扱われるのですか?」
「それは君次第だよ。君はまだ、無くなってしまった軍に忠誠を尽くすかね?」
面白そうな表情で尋ね返すアメリカ兵に、省吾は微かに苦笑して首を振った。
「まさか。僕はそこまで生粋の軍国主義者じゃありません。単なる医者です。軍には軍医として召集されました。階級は准尉です。」
「ほう。」
アメリカ兵は瞳を煌めかせた。
「君はその辺の軍人達とは違うようだね。どうやら君を助けたのは間違いではなかったらしい。これからの日本には、君のような人間が必要だ。」
省吾は思いがけない言葉を聞いた。
「え?それはどういう意味ですか?」
アメリカ兵は笑いながらその質問に答えた。
「君達日本兵は本気で、アメリカ軍は捕虜をなぶり殺しにする、と信じているんだな。だが残念ながら我々は国際条約にもとずいて捕虜を扱う。君は怪我が治り次第日本に送り返されるだろう。」
その言葉に省吾は茫然とした。
「…日本に…帰れる…?」
アメリカ兵は大きくしっかりと頷いて見せた。