時代が違えば、結末は違っていたのかも知れない。この二人の運命も変わっていたのだろうか。しかしあの時は、そうするより他に、為す術とてなかった。


「ゆき!」
「はい!」
「史朗ぼっちゃまを泣かすでないよ!」
女中頭に叱り飛ばされて、『ゆき』と呼ばれた少女は慌てて赤ん坊を抱き上げた。
「ぼっちゃまのお世話はお前の仕事だろう。しっかりお守りが出来ないようなら、実家(さと)に返すよ!」
「はい!すみません!」
ゆきは帯で赤ん坊をおぶると、あやしながら木戸をくぐり、夕焼けのおもてに出た。
「ぼっちゃま、泣かないで。ほら、お空が真っ赤ですよ。」
赤ん坊を揺すり上げて、泣きやませようと話しかける。背中をとんとん叩いてやりながら、小さい声で子守歌を歌ってやる。やがて泣き疲れたものか、赤ん坊はうとうとしだしたようだ。丸まると、よく太った赤ん坊は、ずっしりと重たい。まだ七歳になったばかりのゆきには、それはかなりの重労働であった。だがゆきには、辛いからと泣いて実家に帰る訳にはいかない理由があった。子守歌を歌いながらゆきは、故郷へと続いているだろう夕焼けの空を見上げた。

ゆきの家は貧しい小作農だ。ゆきの下に三人も、小さい弟妹がいる。ゆきは両親を助けて、幼い弟妹達の面倒を見、小さな手で鍬を握って田畑を耕した。だが今年、とうとう両親は小作料を払うことが出来なくなった。ゆきは奉公に出されることになった。

地方の名家であるゆきの奉公先での仕事は主に、生まれたばかりのの三男である史朗のお守りだったが、手のあく暇など与えられなかった。水汲みや洗濯もゆきの仕事だった。冬の日の水仕事は過酷だ。井戸から水を汲み上げるだけでも大変なのに、その凍るように冷たい水で、大量の洗い物をする。小さい手はたちまちあかぎれだらけになった。それでもゆきは、音を上げなかった。自分の稼ぎが実家の両親の、そして幼い弟妹の食い扶持になっているのだ。女郎屋に売られなかっただけ、まだマシなのだ。村から売られていった娘達を、ゆきは何人も見ていた。彼女たちは、色街で男を相手に春を売るのだ。それに比べれば、自分は運がいい。ゆきはそう思っていた。丁度、子守の子供を捜していたこの家の主人に拾われるようにして奉公に出ることになったのだった。
「わたしにもお前と同じ年頃の子供がいる。親元を離れるのは心細かろうが、お前の働いたお金は、親兄弟の助けになる。女郎にするくらいなら、わたしの家に奉公に出しておくれ。」
主人の申し出にゆきの両親は喜んで従った。彼らとて、なにも可愛い娘を好き好んで女郎に売りたい訳はない。ただ、この時代とはそういう時代だった。


辛い冬がやっと終わり、桜の咲く四月のある日、お屋敷で小さいお祝い事があった。二番目の坊ちゃんの小学校入学のお祝いだった。ゆきはその時、初めて赤飯を口にした。
「ゆき。ぼっちゃまのお祝いのお相伴に預かれるんだよ。ご主人様の思し召しだ。ありがたいねえ。」
女中頭がにこにこ顔で言った。お膳に並べられた赤飯は、ゆきには畏れ多くさえ見えた。
ゆきはこの屋敷に奉公に来るまで、白いご飯とて滅多に口にしたことがなかった。それがここでは、毎日当たり前のように使用人達のお膳にすら上る。ゆきにはそれが夢のように思われていた。それが、今度は赤飯だ。実家では決して一生目にすることもなかっただろう。ゆきは実家の幼い弟妹の顔を思い浮かべた。ここは世界が違う、と感じた。


「ゆき。史朗様と一緒に、母屋の奥様の所へご挨拶に伺うよ。」
うららかな春の日差しが降り注ぐある日の昼下がり。ゆきは女中頭に伴われて、初めて奥様のお部屋に通された。元華族のお姫様である奥様は、三男を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、ずっと床に就いていたのだ。
畳に丁寧に両手をついて挨拶したゆきに、奥様は柔らかい微笑みを投げかけた。
「ゆき、と言うのですね。日頃、史朗のお守りをありがとう。わたくしが体を壊したから、あなたにも苦労をかけてしまってますね。」
ゆきは奥様の気品に気圧されて、返事すら出来なかった。まるでお伽話の中の天女様のようなお方だ、と思った。
「ゆきはいくつなのですか?」
奥様にそう尋ねられた時にも、ゆきは答えられず、女中頭が代わりに答えた。
「ゆきは七つでございます。」
「あら。じゃあ、省吾(しょうご)と同じかしら?」
奥様はすぐ隣に大人しく座っていた少年を振り返った。
「いいえ、奥様。省吾様よりひとつ上になると思います。」
やはり女中頭が答えた。
「そうなの。省吾、こちらにお出でなさい。」
奥様は少年を手招いて、ゆきに引き合わせた。
「ゆき。史朗のすぐ上の兄に当たる、省吾です。これからあなたにはわたくしのそばで、史朗の世話を手伝ってもらいます。わたくしの体調もかなり良くなって来ましたから、これまでのようにあなたに任せきりにはならないと思います。だから、あなたにはわたくしの小間使いもしてもらいたいの。そうなると、この省吾やその上の朔(はじめ)さんとも顔を合わせることも多くなるでしょう。」
少年は、物珍しげにゆきを見ている。
「ゆきを小間使いになさるのですか?」
女中頭が驚いて奥様に尋ねた。
「そうよ。史朗の世話を手伝ってもらうにはその方が便利だもの。」
「でも、奥様。ゆきは田舎者で、礼儀作法一つ存じませんが…。」
奥様は女中頭の反対を予期していたらしく、にっこり微笑んで答えた。
「大丈夫よ。わたくしが一から教えます。ねえ、静さん。わたくしに女の子を育てる喜びを少しだけ味あわせてくれないかしら?うちには男の子ばかりだし、わたくしはもう子供を産めませんもの。」
女中頭は慌てて頭を下げた。奥様は少し寂しげに笑って、ゆきに話しかけた。
「ゆき。あなたをどこにだしても恥ずかしくない娘にしてあけます。そして、いつか我が家からお嫁に出しましょう。」
ゆきははっとして奥様の顔を見た。幼いゆきにもその言葉の意味が分かった。下働きの下女としてではなく、きちんとした家から行儀見習いに来ている娘のように扱って教育してくれる、と奥様は言っているのだ。破格の扱いだ。
「奥様、そのような…。」
女中頭は奥様の無謀を諫めようとした。
「静さん。わたくしがいくら世間知らずだとは言え、自分のしようとしていることの意味は分かるつもりです。でも、いきなりゆきを特別扱いにしたら、皆も不満を覚えるでしょうし、ゆきにも負担でしょうから、ゆきにはわたくしと史朗の専任の小間使いになってもらうのよ。静さん、いけないかしら?」
やんわりとねだるように言う奥様に、女中頭は否と言えなくなった。

話が決まって、お部屋から退き下がる女中頭に、ゆきは言い含められた。
「ゆき。お前はとても果報な子だねえ。旦那様に救われてお屋敷に奉公にあがり、今度は奥様に気に入られて面倒を見ていただける。こんな幸せなことはないよ。確かにお前は気だての良い働き者だし、私も執事の三枝さんもお前のことを認めて、奥様にも旦那様にも報告していたんだけどね。それにしても本当にお前は果報者だ。奥様に心からお仕えして、このご恩を忘れるでないよ。」
ゆきは剰りの幸運が信じられない気持ちだった。でも女中頭の忠告を心に刻みつけた。


ゆきはそれから、母屋の奥様のお部屋のすぐそばに一部屋を宛てがわれ、ほぼ一日中を奥様と過ごすことになった。奥様の身の回りのお世話と史朗ぼっちゃまのお世話の合間に、言葉遣いや立ち居振る舞いを奥様から教わった。それはゆきにとって辛いどころか楽しいばかりの仕事で、自分はこんなに幸せでいいのだろうか、と思うほどだった。
奥様は、子供好きで家庭的な方で、どうしても女の子が欲しかったのだそうだ。長男の朔ぼっちゃまの次に生まれたお嬢様は、ひとつきほどで病気で亡くなられ、省吾ぼっちゃまの次に妊娠された時は三月で流産され、史朗ぼっちゃまは非常な難産で、産後の肥立ちも悪く、次の子供は望めないとお医者様に宣告されたそうだ。
「ゆきはわたくしが亡くした娘の生まれ変わりのような気がするのよ。」
ゆきに針仕事を教えながら、奥様はそう言った。
「だから、娘に教えたかったことを全部、ゆきに教えましょうね。どこにお嫁にいっても恥をかかないで済むように。」
ゆきは奥様の温情に感謝しながら、精一杯お仕えした。

「何をしているの?」
夕焼けの空を見上げて、故郷に思いを馳せていたゆきに、後ろから話しかけたのは省吾だった。
「省吾ぼっちゃま…。」
ゆきは慌てて頬の涙を拭った。
「泣いてるの?誰かに苛められたの?」
心配そうに眉をひそめて問いただす省吾に、ゆきはぶんぶんと首を振った。
「違います、ぼっちゃま。」
「じゃあ、何で泣いてる?」
省吾はなをも問い詰める。
「あの…、おっかあの事を思い出して…。」
おすおずと言うゆきに、省吾は訊いてはいけない事を聞いてしまった、という顔をして黙り込んだ。
「すみません。あの、私、奥様にご親切にして頂いていますので、家に帰りたいと思ってなどいません。でも、時々…。」
ゆきは言い繕おうとして、だが突然溢れてきた涙に言葉を失った。
「…。」
省吾は声を殺して泣き続けるゆきを、そのままじっと見ていたが、やがて傍らに寄り添うと背中をとんとん叩きながら、小さい声で子守歌を歌い始めた。それは、ゆきの母親がゆきに歌ってくれたものと同じで、ゆきの涙を一層誘った。だが、それは気持ちを落ち着ける役に立ったようだ。ひとしきり泣くとゆきは、顔を拭って傍らの省吾に笑顔を向けた。
「ありがとうございます、ぼっちゃま。」
「うん。」
省吾も笑顔で答える。それから不意に真面目な顔になって、ぼそりと付け加えた。
「僕なら、いつだって子守歌を歌ってやる。だから、もう泣くな。」
ゆきははっとして省吾の顔を見た。省吾は微かに頬を赤らめている。
慰めてくれたのだ、と思った。どんなに親切にしてもらってはいても、母親への思いを幼いゆきに断ち切れるわけはない。それがゆきを泣かせる。省吾はそれを、自分がいるから泣くな、と言ってくれている。さびしかったら自分がいる、と。暖かい。自分はこうして家族から離れているが、決して不幸ではない。優しく暖かい気持ちに支えられている。
「はい。ぼっちゃま。」
ゆきは精一杯の感謝を込めて、省吾に微笑んだ。

「お母様、今日は宿題をこちらでやってもいいですか?」
ある日の午後、省吾が教科書を抱いて奥様の部屋を訪れた。
「算数の問題が出たんです。九九の暗記も。お母様に聞いていて欲しいんです。」
「いいですよ。」
刺繍の手を休めて、奥様は嬉しそうに請け合った。その顔を見た省吾も嬉しそうだ。
奥様のお部屋のテーブルで、省吾はノートを広げた。
「省吾さんは算数が嫌いなの?」
省吾の手元を覗き込みながら、奥様が尋ねる。
「嫌いではありません。でも難しいですね。」
省吾はにこにこしながら問題に取り組んでいる。元気になった奥様に相手をして貰えるのが楽しいのだ。ゆきは史朗を遊ばせながら、そんな二人の様子を微笑ましく見ていた。史朗はそろそろ歩き始める頃で、一時も目が離せない。やんちゃで元気な男の子に育っている。ゆきはそんな史朗が可愛くて仕様がない。実家の弟を重ねているのかも知れない。史朗もそんなゆきに良く懐いている。
「あ、史朗ぼっちゃま!」
よちよち歩きをしていた史朗が、手を伸ばして省吾の教科書を掴んだ。母親を独り占めされているのが気に入らないらしい。慌ててゆきは史朗を抱き上げ、その手から教科書を取り上げようとするが、史朗は完全に臍を曲げてしまい、言う事を聞こうとしない。奥様が取りなそうとしても役に立たない。困り切ったゆきの顔を見て省吾は笑いながら提案した。
「お母様、一休みしましょう。」
「そうね。おやつにしましょう。ゆき、お茶の支度をしてちょうだい。それから、史朗の大好きなビスケットの缶を出して。」
奥様も笑って、ゆきの手から史朗を抱き取った。教科書を破いたりされないように気を付けている。
「はい。」
ゆきは手早く支度をした。省吾の大切な教科書を駄目にされたくない。
テーブルに紅茶のセットを並べ、ビスケットの缶を開けると、史朗の興味はたちまちそちらに移ったようだ。あっさりとビスケットと教科書を取り替えてくれる。そのあまりの変わり方に、ゆきも奥様も省吾も思わず破願した。

奥様と省吾が史朗をあやしながらお茶を楽しんでいる間にゆきは、省吾の開いていたノートを覗き込んだ。見た事のない形が並んでいる。
「ゆき、わかるの?」
省吾がそんな様子を見て話しかけてきた。
「いいえ、省吾様。」
ゆきが首を振る。「算数が何かもわからない私です。ただ、省吾様が一生懸命やっておられたのは何なのか、見てみたかっただけです。」
「そうね。ゆきは学校に通った事もないのよね。」
奥様が思い出したように言った。
「うちから学校にやるのは簡単だけれども、ね。ゆきだけをそんな特別扱いしては、使用人達に示しがつかないし…。ごめんなさいね、ゆき。」
奥様が済まなさそうに言うのに、ゆきは慌てて首を振った。
「いいえ、奥様!私は十分にしていただいてます!礼儀作法もお針も、家事も教えていただいているんですから!」
奥様は苦笑した。
「わたくしの楽しみ、のためのものよ。」
「そんな!奥様、私は…。」
ゆきは、自分がどれだけ感謝しているか説明出来ないことを、口惜しく思った。
「お母様。それでしたら僕が、学校で習ってきたことをゆきに教えましょう。僕もそれで学科の復習も出来ますから。」
省吾が母親の思いをくんで提案した。奥様の顔がぱあっと明るくなった。
「そうね。そうしてくれるとわたくしも嬉しいわ。」
ゆきは慌てた。
「そんな!省吾様のお手を煩わすようなことは出来ません!」
「大丈夫。僕の負担にはならないよ。それに、お母様のお部屋にお邪魔出来る良い口実になるから、僕には返って嬉しいくらいだ。」
省吾が母親の方を見ながら、少し照れ臭そうに言った。
「まあ。」
奥様が嬉しそうに、そして呆れたような口調で言って笑った。
「でしたら、省吾さんにお願いしますわ。ゆき、明日から少しづつお勉強しましょう。」
そうして、ひょんな事からゆきは、読み書きなどを省吾から習うようになった。


省吾は母親の体調を気遣いながら、毎日のようにいそいそと顔を見せるようになった。しかも、それが嬉しくて仕方がない、といった様子だ。そして、それとともに史朗と遊んでやるようになり、ゆきとも打ち解けていった。
「ゆきは、僕よりひとつ年上なんだってね。」
国語の教科書を広げながら、ある日省吾が何気なく言い出した。
「はい、省吾様。」
ゆきは頷いた。
「学校にも行かないで働いているんだね。」
省吾はゆきの眼差しから視線を外して言った。
「それに、親元から遠く離れて…。」
ゆきには省吾が何を考えているのか解った。
「省吾様、お優しいんですね。奥様も旦那様も、他の方達も皆。私は果報者です。省吾様の仰る通り、こうしてこちらにご奉公にあがっておりますが、そんなこと、この辺りの小作農の娘なら当たり前のこと。旦那様に拾っていただかなかったら私は、色街で身を売る、お女郎さんとして親から売り払われていたことづしょう。ですから、こうして皆様に優しくしていただけている私は、とても幸運なんです。」
省吾は少なからずショックを受けたようだった。
「そうなの…?」
「はい。私の実家の近所には、子供を学校に通わせるほど余裕のある家は、僅かです。それに、農繁期には皆家の手伝いに駆り出されてお休みしなければならないですし。」
「農家って、そんなに貧しいの?」
「農家の全てが貧しい訳ではありません。でも、小作農の家は小作料を払わなければなりませんから…。」「子供を学校に通わす僅かなお金の余裕…。」
省吾はため息をついた。
「そうなんだ…。」
ゆきは省吾に微笑んで見せた。
「省吾様、そういう世の中なのです。省吾様が気になさる必要はありません。」
「…。」
省吾は難しい表情で黙っている。
「省吾様は、こんな私に優しくして下さる。その思いを持ち続けて下さるのでしたら、どうか、沢山勉強なさって偉くなられて、世の中の仕組みを変えて下さい。」
ゆきが冗談のような軽く言った言葉に、省吾はものすごい反応を見せた。
「そうか!偉くなれば、世の中が変えられる!そうか。」
省吾の瞳がきらきら輝きだしている。
「ゆき。僕はやらなくてはならない事を見つけたらしい。」
省吾は決意に満ちた眼差しを天に向けた。ゆきにはそれが、眩しく思えた。


省吾は熱心にゆきにも勉強を教えるようになっていった。
「ゆきに教えると、僕がよく解っていなかったことをもう一度復習できて完全に理解できるんだ。」
爽やかに笑う省吾に、ゆきはもう何も言わないことにした。

三年が過ぎ、ゆきは奥様から休暇を頂いた。奉公に出て、初めての里帰りだ。ゆきはいそいそと準備をした。奥様が小さい時に着ていた着物を譲って頂いたので、それを自らの手で仕立て直した。妹へのお土産だ。弟達には奥様がビスケットの缶を下さった。父母にはゆきの給金がお土産だ。その他に奥様は坊ちゃん達の着られなくなった服をお下がりに下さった。旦那様はゆきに給金とは別にお小遣いを下さった。ゆきは両手一杯にお土産を携えて家路に着いた。

ゆきの家は相変わらず貧しかった。両親はゆきの持ってきたお金を伏し拝まんばかりだった。
「ゆき。お前ばかり苦労させて済まないね。」
母親が涙を澪す。「おっかあ。私はちっとも苦労なんかしてないのよ。旦那様も奥様もぼっちゃま達も、他の使用人の方達も皆、私に親切にして下さるの。奥様は行儀作法やお針を教えて下さるし、省吾様と仰るぼっちゃまは私に読み書きを教えて下さるぐらいなのよ。ほら、こんなにお土産を持たせて頂いたのよ。」
ゆきがお土産を広げてみせる。
「これは、みちに。奥様のお小さい時の物を頂いて、私が仕立て直したの。それから、豊作と万作にはお下がりを頂いたわ。ビスケットもあるのよ。」
それを聞いて弟妹達が飛びついてくる。ゆきはにこにことそれを見ている。弟妹達の喜ぶ様子が嬉しい。
「私はとても大切にしていただいているの。おっかあ、心配はいらないわ。」
ゆきは母親に微笑みかけた。

そうは言われても母親は、やはり子供の事が心配なのだろう。
「お前のお陰で、農閑期には豊作も学校に行けるようになったんだよ。もう、平仮名なら読んでもらえる。だから、何かあったら手紙を出すんだよ。出来る限りのことはするから。」
ゆきは笑顔で母親に頷いて見せた。
「おっかあ。解ったから、心配しないで。」


わすが三日ばかりの里帰りだったが、ゆきは親兄弟の顔を見られた事をとても嬉しく思った。自分が親の役に立っている、と感じられてとても嬉しかった。それ故、これからも一生懸命に働こう、と決意した。
奉公先のお屋敷に戻ると、史朗が玄関先でゆきに飛びついた。
「ゆき!何処行ってたの?僕、寂しかったよ!」
ぎゅっと抱きついて離れようとしない。
「史朗ぼっちゃま…。」
ゆきはそんな史朗が余計に愛おしく、大切な弟に思えるようになった。
「お帰り、ゆき。実家はどうでした?」
奥様も優しく迎えてくれた。ゆきは奥様に詳しく実家でのことを話した。奥様はゆきが嬉しいと思うことで喜び、心配したことでは心配そうな顔をしてくれる。本当に親身になってくれているんだ、ありがたい。ゆきは奥様に心から感謝した。


そうして、大切な人達との珠玉な日々は過ぎていった。ゆきにとって奥様や史朗、そして省吾は、ある意味家族以上の存在になりつつあった。
「ゆき。遊んで。」
史朗がゆきにせがむ。
「はい、何をしましょうか?」
「んと、竹馬の稽古!」
「はい。」
史朗の希望通り竹馬を押さえて支えてやる。気が付けば、史朗は六歳。次の春には学校に通う歳になっている。省吾も近頃は旧制中学の受験で忙しそうだ。省吾に相手をして貰えないので、史朗は余計にゆきにべったりなのかも知れない。
一通り針仕事もこなせるようになったゆきは、近頃奥様から刺繍を習っている。省吾のお陰で、ほぼ小学校の課程は勉強する事が出来た。多分、その辺のまともに学校に通った子供よりも、ゆきは一生懸命勉強した。そしてしっかり身についた。お屋敷の使用人達の間でも、ゆきは働き者で知られている。奥様や史朗の世話をするかたわら、こまめに掃除や洗濯、片づけ、そして自らの勉強もこなしているからだ。
奥様は目を細めてそんなゆきを見る。
「ゆきは良いお嫁さんになりそうね。わたくし、楽しみだわ。」
ゆきは黙って微笑み返す。

そしてその年もまた春がやって来た。しかしゆきには辛い春となった。省吾は無事旧制中学に合格し、一人都会で寄宿生活に入る事になって旅立つのだ。
「ゆき。僕の留守の間、お母様と史朗を頼むよ。」
凛々しい制服姿となった省吾が言った。
「僕は夢を叶えるために学校に行く。お父様はお仕事で留守がちだし、朔にいさんはやっぱり学業のため家を離れている。僕まで寄宿舎に入れば、お母様の頼れるのはお前だけだ。ゆき、僕の留守中、二人をよろしく頼むね。」
「はい、省吾様。ゆきは精一杯お仕え致します。」
ゆきは心底からそう答えた。省吾にもそれは感じられたものか、彼はにっこり笑った。その笑顔にゆきの胸は何故か切なさを覚えた。

省吾が旅立っていった。その後ろ姿を見送る。親しい人の旅立ちに感じる寂しさ以上のものを、ゆきは感じていたが、それが何なのか解らなかった。小さい時から共に過ごしてきた省吾。その存在の大きさをゆきは改めて思った。
(省吾様…。)


省吾は母親や家のことを心配して、度々奥様に手紙を送って寄越す孝行息子でもあった。ゆきは楽しそうにそれを読む奥様から省吾の様子を伺うしかなかったが、無事に、順調に学生生活を送っているらしい様子に胸を撫で下ろしていた。本当は、ゆきには寂しがっている暇も余裕もない。
(しっかりとお二人をお守りせねば。省吾様のお言いつけだ。)
ゆきは自分の気持ちよりも優先しなければならないものを持っているのだ。


永遠かと思われた長い春と初夏が過ぎ、夏がやって来て、史朗も夏休みとなった。初めての夏休み。史朗は元気に遊び回り、ゆきはそれに振り回されている。一学期中は、史朗にしては真面目すぎるほど真面目に勉強していたので、ゆきは夏休み中は多少の事は大目に見ようと思っていた。それにしても、省吾に勉強を教えて貰っておいて良かった、とゆきは思った。史朗の勉強に付き合ったり、解らないところを共に考えてやることが出来る。史朗の役に立てる。それはゆきにはとても嬉しい事だった。
「ゆき。ハーモニカの練習に付き合って。」
ある日の夕方、史朗に頼まれて、ゆきは母屋の縁側に座って史朗のハーモニカを聞いていた。夕焼け空にハーモニカの音色が良く似合う。
「新しい唱歌を練習してくるように、って。夏休みの宿題なんだ。」

史朗が不満そうに唇を尖らせる。
「きれいな曲ですね。わたしは好きですよ。何と言う曲名なんですか?」
ゆきが笑いながら問いかける。
「赤とんぼ、だよ。」
史朗はゆきの言葉に機嫌を直したらしく、またハーモニカを口に持って行った。柔らかい音が風に乗る。ゆきはそっと目を閉じて、その音色に耳を澄ませた。
ふと、ゆきの心の中にあの遠い日の夕方の風景が浮かびあがった。切なさが胸を満たす。
(省吾様…。)
心の中で小さく呼んでみる。もうどのくらい会っていないのだろう。会いたい…。

「ゆき。」
突然、名前を呼ばれた。懐かしい声。驚いて目を開けてみる。そこには夕焼けを背にした省吾の姿。
「省吾様…?」
「ただいま、史朗、ゆき。」
驚くほど背が伸び、大人っぽくなった省吾がそこに立って優しく微笑んでいた。
「兄さん、お帰り!」
史朗が飛びついた。
「史朗、背が伸びたね。」
省吾が笑いながら史朗の頭を軽く叩く。
「うん!二寸伸びたんだよ!」
史朗が嬉しそうに報告する。
「あ、お母様に兄さんが帰ってきたこと、教えてくる!」
史朗が思い出したように叫んで、喜び勇んで母屋に駆け込んでいく。あとには省吾とゆきが残された。


「お帰りなさいませ、省吾様。」
ゆきは心から言った。突然の省吾の帰宅がたまらなく嬉しかった。
「うん、戻ったよ。」
省吾の笑顔が眩しい。
「ゆきは元気にしていた?」
「はい。急のお帰りなんですね。驚きました。」
ゆきも笑顔になっている。
「うん。試験の結果によっては、帰らずに勉強しようと思っていたからね。」
「じゃあ、結果は良かったんですね?」
「ああ。一番を取れたよ。」
省吾が誇らしげに笑った。
「ゆきと勉強した基礎が役に立っているよ。」
省吾のゆきに向ける視線が優しい。ゆきは自然と頬が赤らむのを感じた。夕焼けの照り返しで、省吾には気付かれずに済んだだろう。ゆきはそれを神に感謝した。

「省吾さん、お帰りなさい。」
奥様と史朗が奥から出てきて省吾を迎えた。奥様も嬉しそうだ。
「お母様、只今戻りました。」
省吾が笑顔で挨拶する。
「省吾さん、長旅でお疲れでしょう。さあ、早くあがってくつろぎましょう。ゆき、居間にお茶をお願い。」
奥様が省吾を抱きかかえんばかりに居間に導いて行く。
「はい、ただいま。」
ゆきもいそいそとお茶の支度を始める。

久方ぶりの賑やかな時間。皆、省吾の留守を仕方のないことと納得はしていたが、存在のないのを寂しく感じていたのだ。おっとりとしてはいても優しく、そしていざという時に頼りになる、省吾という存在は、皆にとって大きいものであった。
「史朗もだけど、省吾さんも背が伸びましたね?」
奥様がにこにこと嬉しそうに話しかける。
「はい。僕も三寸伸びましたよ。史朗は二寸ですってね。」
省吾もにこやかに応えている。
「二人とも大きくなるのが早いんですねえ。まったく男の子というものは…。」
奥様は苦笑に似た笑顔でため息をつく。
「すぐに大きくなって…。わたくし、置いて行かれてしまうようで、なんだか寂しい気がするわ…。」
ちょっとしんみりしかけた奥様に、省吾は笑って取りなした。
「なりは大きくなっても、僕達がお母様の息子だということに変わりはないですよ。それに、お側にはいつもゆきがいてくれるじゃありませんか。」
「そうね。わたくしの側にはゆきがいてくれるのよね。」
奥様が優しい目でゆきを見る。
「ありがたいことよね。それを忘れてはいけないわよね。」






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