霧の中 1〜20話




「サイラス…。」

暗く冷たい水中にゆっくりと引き込まれて行きながら、彼は最後の力を振り絞って囁きかけた。彼の最愛の分身に。

 

「ねえ、リチャード。」

嬉しそうに彼は話す。

「僕ね、この頃、君が判るんだ。多分、色んな器官が発達してきているんだね。」

くすくすと、くすぐったそうに彼は笑う。

「もうじき、本当の意味で、君に会えるんだね。」

半透明のカプセルの中で、彼の声は弾んでいる。コンピュータで合成された機械音であるにもかかわらず。かえってリチャードの思いは複雑だ。

「リチャード?」

彼は怪訝しげに、黙り込むリチャードに呼びかけた。

「どうかしたの?」

「いいや、何でもないよ。」

気取られてはいけない。この、いい知れぬ不安を。もう少しなのだ。もう少しの時間があれば、彼は、完全になる。そうなれば、全てはうまくいく。それまでは…。

「何でもないんだ。ちょっと考え事…。」

「ふうん…?」

彼は納得してはいないようだが、深く追求はしなかった。

 

一体どれ程の時を、リチャードは彼と共に過ごして来た事だろう。物心ついた時には既に彼はそこにいた。そして、自分同様に父母に慈しまれていた。リチャードが、彼についての全ての事を知ったのは、その父母が亡くなる直前の事だった。

 

「リチャード…。」

彼が呼ぶ。思えばこうして会話が出来るようになったのも、つい最近の事なのだ。リチャードが最初に彼を認識した時には、彼にはまだ形すらなかったのだ。

「呼んだ?」

リチャードが答える。

「この頃、何だかよく考え事をしているんだねえ。」

彼がつまらなそうに言った。

「ごめんよ。この頃の僕はちょっと変なんだよ。さあ、いつものように本を読んであげるから、機嫌を直しておくれ。」

「うん。昨日の続きを読んでくれる?」

声が嬉しそうに答えた。


霧が立ちこめている。

静かに時は流れて行く。リチャードは日々の大半を、地下室のカプセルの傍らで過ごしている。インターネットで学校の授業を共に受け、世話をし、父母から受け継いだ資料の整理をする。それが日課となっている。本当は大学のカリキュラムなど、とうの昔に終えているリチャードだったが、彼、サイラスにはそれが必要だった。サイラスがひとりの人間となるために。

今では彼を守れる者は、リチャード唯一人になっていた。父母の残した資料から真実を知るにつれ、リチャードには彼に対する愛情と保護心がいや増して来るのが判っていた。

 

「リチャード。」

彼が呼ぶ。今の彼にとって、リチャードが世界の全てであった。

「リチャード。」

彼が呼ぶ。

「呼んだ?」

リチャードが答える。

「僕、ほら、腕と指があるよ。」

形を成し始めた彼は、その新しい器官の感覚や感触を試すのに夢中だった。

「そうだね。もうじきそこからも出られるね。」

リチャードも嬉しそうに応じる。

「そうしたら僕、リチャードと散歩したいな。お日様をいっぱい浴びて、そよ風に吹かれながら。」

リチャードは、痛ましい目で彼を見る。彼は外の世界をまだ知らない。陽の光も、水の煌めきも、風の心地よさも、そして土の匂いも知らないのだ。それどころか父母の優しい腕すらも知らない。リチャードは、そんな彼が愛おしい。


そこは、スコットランドの片田舎。立ちこめる霧が神秘的だ、と観光資源になるほど、霧の降る日が多い土地柄だ。そんな湖沼地帯の中の広い私有地の、研究所を兼ねた屋敷の片隅。その地下室に置かれた、様々な生命維持装置とコンピュータが接続されたカプセル。その中に『彼』はいる。

 

不思議な縁で結ばれたリチャードと彼、サイラス。二人は兄弟のように育った。だが、血の繋がりはない。しかし仮に、遺伝子レベルで調べたとしたら、彼ら二人は一卵性の双子、と判断された事であろう。何故なら、彼、サイラスは、リチャードの遺伝情報をサンプルにして合成されつつあったのだから。

しかし、サイラスは、人造人間である訳ではない。決して。

 

事の始まりは、もう二十年程も前になるだろうか。敷地内の小さな湖の岸に、小さな隕石が落下した。科学者であるリチャードの両親は、人里離れた環境の事でもあり、また、自らの敷地内の事でもあるので、二人きりでこの調査に向かった。しかし、彼等が見つけたのは、隕石ならぬ宇宙船の残骸だった。驚きつつもその発見に心躍らせる彼等は、次にまた驚異の発見を果たす。救命カプセルと思われる物に入った地球外生命体。しかも、二体。そして、更に驚くべき事に、それらは生きていたのだ。

何も知らずに恐る恐る近寄った彼等の頭の中に、しかし、じかに話しかける『声』があった。

『ワタシタチニ害意ハナイ。事故デ不時着シタダケダ。助ケテ欲シイ。』

彼等は驚きつつも、その異星人の希望に従った。未知なるものへの好奇心が、危険や恐れを凌駕した。

救命カプセルは、その日のうちに自宅兼研究所に運び込まれた。その間も『声』は、自らと仲間の生命の維持のため、必死に様々な要求を突き付けて来た。だが、その目的のためには、必然として情報の提供が不可避だった。意志の疎通は言葉ではなく念波、一種のテレパシーで行われた。それ故、様々な困難を伴う事も有ったが、科学的概念の説明にはその方が適していた。

やがて努力の成果として、異星人達の生命は何とか維持され、いつしか彼等の間には友情に近い感情が芽生え始めた。


時が遡る。

最初、救命カプセルを研究所に運び込んだ時、片方の生命体の生命は風前の灯火だった。もう片方の生命体は、自らの生命よりもそちらの生命の維持に必死だった。そのためならばどのような事も厭わない姿勢だった。だが、自らも救命カプセルに入ったままの状態では、物理的に何も出来ない。故に、訴えかけるしかなかった。その気持ちは、リチャードの両親、若き日のマシュウとサラの胸にも届いた。

『かぷせるハ開ケナイデ。コノ星ノ大気組成ハ、今ノ我々ニハ適応出来ナイ。』

便宜上ジェントルと名付けた、元気な方の生命体がそう説明した。

『我等ニハ、決マッタ形ハナイ。全テハ、意志ノ力デ決メ、創リ出ス。』

マシュウもサラもその時は、彼の言葉の意味が理解出来なかった。しかし、その真の意味が解き明かされるにつれ、より一層の驚愕に包まれる事となる。

 

まず一番にジェントルが要求したのは、マシュウとサラと自分以外の知的生命体の、研究所からの排除だった。彼等にとって害意ある思念は、それ自体が凶器となるのだ、と説明した。

『害意ハ、ソレ自体ガ我々ニハ化学的ナ毒薬ト同等ノハタラキヲ為ス。ソレハ物理的驚異ト同一ナノダ。我々ノ生命形態ノ根底ヲ為ス精神、即チ意志ヲ攻撃スルモノナノダカラ。』

やがてマシュウ達にも理解出来るようになったが、彼等の生命活動は意志の力の支配するものだった。


マシュウとサラがレイディと名付けた、瀕死だった方の生命体の生命活動の状態が安定してきた頃、ジェントルがカプセルの中から呼びかけてきた。

『私ハモウジキ、コノ星ノ大気組成二適応ヲ完了スル。形態ノ方ハ未ダ不完全ダガ。アナタ方ノ観念デ言ウ明日ニハ、私ハコノかぷせるヲ出テ、アナタ方ト相マミエル事ニナロウ。』

ジェントルは自らの言葉の通り、次の日、救命カプセルを自ら開けて、マシュウ達の前に立った。

「初めまして、マシュウ、サラ。」

柔らかな声と物腰で挨拶する。

「取り敢えず、あなた方のイメージの中からサンプルを頂いて合成した姿で申し訳ありませんが…。」

流暢なキングス・イングリッシュ。マシュウとサラは息を呑んだ。そこにいたのは、気品溢れる一人の紳士。

「あなたは…、ジェントル、なんですか?」

マシュウがおずおずと尋ねた。彼はにっこり笑って肯いた。

「声や姿に不自然なところはありませんか?あなた方から得られた情報だけでは、不完全なこともありましょうから。」

「いいえ、私の見た限りではどこも不自然なところはありません。素敵な紳士です。」

サラが微笑みながら答えた。

「やはりあなたは男性だったのですね?私達の最初の印象通りに。」

ジェントルは苦笑いといった表情を浮かべた。

「それは違う、と言った方が良いかと思います。我々にはあなた方の言う『性別』というものは存在していません。ただ『個』があるだけです。ですから私は、男性ではありません。便宜上、あなた方の抱くイメージに従った方が良いかと思い、この姿を選択したまでです。」

マシュウとサラはお互いの顔を見合わせた。自分達がそのような先入観のイメージを抱いていたのだと知らされて、科学者として少なからず衝撃を受けていた。

「…ジェントル、ひょっとして、私達はあなたに失礼な事をしたのでしょうか?でしたら、謝罪を。」

マシュウが申し出た。

「いいえ。」

ジェントルが穏やかに首を振る。

「あなた方が得た情報からあなた方がどのような判断をなさるかは、あなた方の経験から由来するものです。プロセスが違えば結果も違うのは当たり前のこと。私が非難出来るものではありません。また、個人的には、私は地球人の男性に親近感を覚えていますので、男性として扱われることに不平も不満もありません。」

マシュウとサラはほっとして、それからまた顔を見合わせた。

「それでは、あなたをこれから何と呼んだら良いのでしょうか?」

マシュウがおずおず尋ねた。

「ジェントル、で構いません。私はあなた方が名付けて下さったこの名前が気に入っています。また、私の本来の名前も、この、『ジェントル』とよく似たニュアンスを持っているのです。だから私はあなた方に『ジェントル』と呼ばれたい、と思っています。」

その言葉にマシュウもサラも笑顔になった。自分達が勝手に付けた名前が、かえって気に入ってもらえたという事実が無性に嬉しく思われた。

「お二人に、どうしてもお願いしたい事があって、まだ自分的には不完全なこの状態で、カプセルを出てきました。」

ジェントルが打って変わって真剣な表情になって言い出した。


「何ですか?あなたがそう仰るからには、よっぽどの事なのでしょう。何なりと仰って下さい。私達に出来る事でしたら何でも協力いたします。」

マシュウが胸を叩いた。

「ありがとう、マシュウ、サラ。それが実は、我々がこちらに保護された時にお願いした事と重複するのですすが、ここより半径二キロ圏内の人類の立ち入りを制限していただけないでしょうか?」

ジェントルは控えめな態度でしかし、断固とした口振りで言った。

「それは、前回執った処置ではいけない、という事なのですか?」

マシュウが怪訝そうに尋ねた。

「いえ、万全を期して、のお願いです。私のパートナー、あなた方がレイディと呼ぶ存在は、今現在、死地を脱したとは言え、かなり不安定な状態にあるのは間違いのない事実。そしてその不安定な状態の最悪な敵は他の知的生命、残念ながらこの場合は『人間』に限定されるのです。」

「それはやはり、前回説明のあった通りの?」

「はい。私はパートナーの存在を損ないたくはないのです。人間の何気ない思念でさえも、我々のような存在には多大なる影響を及ぼす事が、私達がここに移されてからの、数少ない経験によって得られた事実の一つなのです。」

マシュウとサラは顔を見合わせた。その事がそこまで重大だという認識は持っていなかった。地球外生命体という立場故の、存在の秘密保持という意味での進言と忠告であろうと思っていた。

「解りました。我々に出来うる限り、この辺りへの人間の立ち入りを禁止致しましょう。」

「お願いします。」

マシュウは約束を守り、私有地の境界線にはぐるりと塀を巡らし、私道には大きな鉄の門を設け、電子錠を付けた。その安全策によってレイディと呼ばれる存在は、やがて完全に安定し、マシュウとサラ、そしてジェントルと共に研究所内の事だけではあったが、普通の地球人と変わらぬ生活を送る事が出来るようになった。


それから数年の間は穏やかな日々が続いた。他に研究員を増やす訳にはいかなかったが、観察、研究する対象がこれ程身近に存在しているというこの状況は、生来の科学者であるマシュウとサラには願ってもない愉しい充実した日々であった。

自分から女性の姿を選択したレイディは、性格も仕草も地球の女性と変わらぬように見えた。サラとも仲良くなり、まるで女性同士のように会話を交わし、手芸を習い、家事を楽しんだ。彼女は地球人の若い女性が日々の生活をエンジョイしているように見えたのだった。そしてその事を、マシュウやサラ、そしてジェントルも微笑ましく、嬉しく眺めていた。

 

時が流れていく。霧に覆い隠されたまま。

やがて研究所では、まるで二組の夫婦の科学者が研究に従事しているかのように見えるまでになっていた。この時期、例え遺伝子レベルまでどんなに詳細に調べようとも、今の地球の科学水準では、彼等が地球人以外の何者でもない、という結果になったことだろう。それ程彼等は完璧に適応し、順応していた。

そんな時、サラが妊娠した。その変化は、レイディにも微妙な変化をもたらした。日々大きくなるサラのお腹を見、母親らしくなっていくサラに接して、レイディがその影響を受けたとしても仕方のないことであったろう。

そして月が満ち、サラは珠のような男の子を出産した。我が子を慈しみ、育児と家事に勤しむサラは、幸せに輝いているかのように見えた。ある意味、余りに地球に順応し過ぎて、レイディは地球人の女性たるサラを羨ましく見たのかも知れない。サラと仲良くなり過ぎて、サラと自分を同一視し始めたのかも知れない。そしてレイディは子供を欲しがった。


「君は地球人の女性のような事を言う。」

ある日、呆れたようにジェントルがレイディに言った。

「我等は地球人ではないのだよ。それは百も承知の筈ではなかったのかね?」

「そんな事、良く解っているわよ…。」

レイディは哀しげに見えた。

「私はこんなにも地球に地球に適応してしまっているのよ。一人の女性として子供を望んで、何処が悪いと言うの?」

レイディの真剣さにジェントルは圧倒された。

「…レイディ。しかし我等は地球人ではない。君がどんなに身体的機能に於いても地球人と全く同じに変化を遂げていると言っても、君はサラのように妊娠することは出来ない。」

「解っている、っていっているでしょう!私には排卵もないし生理もない。それで妊娠出来る訳がない!」

興奮の余りかレイディは涙ぐんでいる。

「でも私は、子供が欲しいの!あなたの子供が!」

ジェントルは絶句した。二人は確かに愛し合っている。お互いを大切なパートナーとして尊重しあい、尊敬しあい、慈しみあって来た。それは愛情以外の何物でもない。しかし、本来性別というものを持たない彼等が、レイディの希望するようにお互いの子供を欲しがるというのは異常で、考えられない程突飛な感情であり、発言であった。

「…レイディ…。」

「無理なのは解っているの。無謀なのも。でも…、でも、ね。私、地球人のように愛の結晶たる我が子が、あなたの子供が欲しいの。この考えは間違っている?」

「…レイディ。」

ジェントルは哀しい顔をした。地球人と交流を深めるに連れ、マシュウやサラの誠実さや思いやりに触れてジェントルも彼等が好きになっていた。そして彼等の感情も理解出来るようになっていた。しかしレイディはもっと深く同調してしまったらしい。

「…レイディ、考えよう。何か方法がある筈だ。」

ジェントルは、レイディを愛している事を再確認した。彼女の望む事は何であれ叶えてやりたい。例えそれがどんなに不可能な事に思えたとしても。


レイディの望みを叶えるため、ジェントルは努力と研究を開始した。その研究には自然とマシュウやサラまでもが巻き込まれていった。

「いいや。科学者としての興味と探求心だよ。君達への友情とは別問題だよ。」

ジェントルの研究に付き合うマシュウにジェントルはすまながったが、マシュウは笑ってそう言った。

「君達の生態にも興味があるしね。君達は本当に興味深い対象だよね。」

確かにレイディの命を救うために、マシュウ達は力を尽くしてくれたのだが、それはジェントルの指示によるもので、マシュウ達には未だ彼等の生態は謎に満ちていた。

「大体、僕達から見ると、君達は生物と呼べる存在なのかも疑問なんだ。」

マシュウは気軽に考えを口にした。

「君達の生物の定義こそ、我々には理解出来ない。細胞や遺伝子とはそんなに大切なものかね?」

ジェントルも気軽にそんな会話に応じて、お互いの科学者として考えをぶつけ合った。それはある意味、愉しく有意義なものであった。

「細胞や遺伝子を構成しているのは、所詮、分子であり原子の塊だ。しかし、その原子が集まり分子になり、やがて有機物を形作る。その有機物の塊は、何時の段階で生命を得るのだろう?生物と無生物との境目とは一体何処にあって、それは何なのだろう?」

ジェントルの疑問にマシュウは答えることが出来ない。

「君達の方が科学は進んでいる筈だよ。その問いには君達こそが答えるべきだ。」

マシュウはジェントルに混ぜっ返した。

「そうだね。科学に関してなら我々の方が進んでいる、と言えるのかも知れない。だが、君に説明してあげる方法がない。」

ジェントルは苦笑している。

「君達の言語に説明できる単語や語句が見当たらない。我等には意志の疎通や知識の共有のためにテレパシーに近い能力が備わっているのだが、今現在、私はこのように君達と同じ地球人であると言っても差し支えないほどの変化を遂げてしまった。その結果として今の私には、その能力を使うことが出来ない。それに、悔しいことに我々にも、生命の成り立ち、若しくは生命の定義というものが、完全には解明されているとは言えない状態なのだよ。」

マシュウは残念そうな顔をした。

「そうなんだ…。生命の神秘を垣間見ることが出来るかと思ったのに、残念だな。」

「そうだね。しかし、どれほど科学が進もうとも、結局のところ、この生命の神秘については、誰であろうと説明できないのかも知れない、と私は近頃考えるのだよ。君達の言う『神』の存在を我等は信じる習慣はないが、生命が存在するようになったその事実には、何となくだが、何者かの意志を感じるのは私だけなのだろうか?」

小首を傾げて微妙な表情で言うジェントルに、マシュウも考え込んだ。

「…僕は、その考え方には同感だな。今の地球の科学者達の間では、『神』の存在など完全に無視されているけれど、我々がどんなに有機物のシャーレを掻き混ぜようとも、今現在、そこには生命は生まれていない。生まれたという話すらない。それは、単に有機物が存在するからといってそれが生命に直結するとは限らない、という事だ。それならば、一体何が生命のきっかけとなるのだろうね?」

「不思議なものだね。」

ジェントルも頷いた。

「僕達から見ると君達の存在も同じほど不思議なのだけどね。」

マシュウはまじまじとジェントルの顔を見た。

「君達から見ればそうなのだろうね。」

ジェントルは笑いながら頷いた。


「あなた方は、そもそもどういった存在なのです?」

マシュウはとうとうその疑問を口にした。

「精神生命体、と定義しても良いのでしょうか?」

ジェントルは首を振った。

「いいや、厳密には違うよ。いくら我々とはいえ、精神だけでは生きていけない。外見や組成はどうあれ、拠り所となる肉体がなければ、我々だとて存在できない。悲しいことにね。」

ジェントルは微妙に笑った。

「ふうん。では、君達は生まれた時はどのような姿をしているの?それから、君達はどのように子孫を増やしているの?確か君達には性別はない、って言っていたよね?」

マシュウは興味深そうに尋ねた。しかし、ジェントルは笑って首を振った。

「残念ながら、私にはその事もうまく説明できそうもない。」

「何故?やっぱりそれは秘密にしなくてはいけない事なの?君達の生命維持には必要な事?」

再びジェントルは首を振った。

「いや、そうじゃない。私のボキャブラリーの絶対的不足だと思う。我々は言葉だけに頼る種族ではない。基本的にはテレパシーを交えて使う。私はその方法に慣れてしまっているから、言葉を操る事に長けてはいないのだよ。」

「僕もその点では似たようなものだけど、でも、出来る限りで良いからやってみてはくれないかな?イメージだけでも伝われば、それだけでも僕達には充分嬉しいし有り難い。」

食い下がったマシュウにジェントルは苦笑し、それからその眼差しの真剣さに気付いて頷いた。

「わかった。試みてみよう。だが、うまくいかないからといって腹を立ててはいけないよ。」

「勿論!」

マシュウは涎を垂らさんばかりに請け合った。


ジェントルの話は想像を超えていた。マシュウは時折質問を交えながらも聞いていたが、最後には絶句した。それ程驚くべき話だった。

 

それからも試行錯誤の日々が続いた。そうして彼等は最終的にある結論に達した。

レイディが望んでいるのは、地球人の女性と同じように、愛する人との子供を自分の胎内で育て、産み落とすことなのだ。それを叶えるためには、ジェントルとレイディは本来の姿で本来の生殖活動をする訳にはいかない。かとはいえ、このまま地球人の姿をしていたら子供が出来るかと言えば、そんな事は不可能だ。それでは…。

「レイディ、私達は決断をせねばならないようだ。」

ある日、ジェントルは真剣な顔でレイディに話しかけた。

「このままでは君の望みを叶える事は出来ない。」

「それは、私達が決断さえすれば、望みは叶う、という事?」

レイディは疑わしげにジェントルを見た。レイディは自分の望みに縋り付いていた。ある意味それは、それ程にジェントルを愛しているのだ、とも言えたが。

「いや、それでも確実とは言えない。だが、今現在の時点で我々が取る事の出来る最善の手段だと思う。」

ジェントルは真剣な口調で言った。レイディは一瞬考え込み、すぐに決心を固めた。

「解ったわ。あなた方が私のために努力し、考え抜いて下さっていたのを私は知っています。だから私は、全てをあなた方に委ねようと思います。」

レイディはにっこり微笑んだ。それは、聖母の笑みに似ていた。


霧が立ち込めている。全ての秘密を包み隠すかのように。

「ねえ、リチャード。」

彼が話しかけてくる。

「なあに?」

リチャードが答える。

「僕の髪の毛は君と同じ色になるのかな?」

「うん。君が望むなら。」

サイラスはカプセルの中でかなり形作られてきている。もうすぐそれは安定し、彼はカプセルから出て、一人の人間、リチャードの兄弟として生活し始めるのだ。サイラスとリチャードの胸には、明日への希望が燃えていた。

 

霧が立ち込めている。この辺りではさして珍しい事ではない。霧は隠し事を優しく包み込んでくれる。

サイラスの存在は、知られれば全ての地球人から好奇の目で見られる事必至のもので、多分、最悪の場合は、モルモットとして研究施設に閉じこめられる事になろう。しかし、そんな重大な事を、当のサイラスは知らない。知らされていない。いや、それは彼に知られないように厳重に隠されている。

 

レイディがその望み通りに自らの胎内に命を宿した時、そのために全ての生命エネルギーを使い果たしたものか、ジェントルはその生命活動を停止してしまった。悲嘆にくれたレイディは精神に変調をきたしてしまい、胎内の命の保全のためにも、かつて使用していたカプセルに戻るしかなくなっていた。マシュウとサラは、大切な友となった二人を守ろうと必死に努力した。しかし、力及ばずジェントルを失ってしまった。その後悔はレイディと胎内の命の事に全能力を注ぎ込む結果となった。

しかし、最愛のパートナーを失ったレイディは、最早その胎内の生命にもかつてのような執着を持てず、それによって胎内の生命は成長する様子が見られなかった。

「レイディ、君に辛い選択を迫らねばならない。」

ある日、マシュウが苦渋に満ちた表情で、カプセル内のレイディに話しかけた。レイディは虚ろな声で返事を返した。

「マシュウ、私にはもう何の望みもないの。この上、私に何を選ばせようと言うの?」

マシュウは辛そうにカプセルを見やった。

「僕達はジェントルから君と君の中の命の事を頼まれた。君達の生存をジェントルは何よりも望んでいた。自分の命に代えても良いぐらいに。」

「そうよ。ジェントルは何よりも私の事を思ってくれているのよ。」

ジェントルの話をする時だけレイディは少し元気になる。

「そうだね。しかし、このままでは君も、君の中の命も生存が危ぶまれる。だから君に選んで欲しいんだ。君の命か、新しい命か。」

「それは…、私が助からない、と言っているの?」

レイディは流石に気色ばんだ。

「いいや、厳密にはそうではないよ。でも、君がこのままその無気力な状態を続けるのなら、君は君の命のみならず、君があれほど望んでいたジェントルの子供の命までも危険に晒している事になるんだ。」

「え…?」

レイディは思いがけない言葉を聞いた、という反応をした。

「君達はその生命形態を精神力で変えている。そして多くの場合、その精神力こそが生命力そのものとなるよね。僕は君達と過ごしたこれまでの人生の中で、その事を何度も思い知らされた。君の今の精神状態は、とてもじゃないが赤ちゃんの成長に適しているとは言えない。いや、かえって邪魔をしている。そうだ、君は君の中の命が往きようとしているのに、それを妨げている。君はジェントルが望んだ君と君の中のジェントルの子供の生存を妨げているんだ。」

熱弁を奮うマシュウにレイディは反論できない。それは確かにマシュウの言う通りであった。沈黙するレイディにマシュウは決断を促す。

「君が生きる気力を失ってしまっていると言うのなら、僕は君に要求する。君の中の命を僕等に託してくれるように、と。」

「…。この子を、私から取り上げるの?」

悲しい声でレイディは呟いた。

「私の生きる支えを…。」

「それは違うでしょう?レイディ。今の君は、その胎内の子供のお陰で生かされている。君の命は、子供が生きるために生かされているんだ。」

マシュウが断言した。

「それはその子のためにならない。その子の生きようとする精神力を、君が浪費している。解るかい?君がそのままの状態を続けるのならば、君を生かすためにその子は精神力を使い果たすことだろう。そうなればその子は、ジェントルと同じ運命を辿る事になる。」

「…。」

レイディは絶句した。

「僕は君と子供との命に責任がある。ジェントルから頼まれたからね。だから、君にとって辛い言葉だと知りながら敢えて言っているんだ。」

マシュウは真剣だ。言葉にその気持ちが滲み出ている。レイディは沈黙したまま考え込んでいる。

「…マシュウ、解ったわ。」

だが思ったより早く、レイディは結論を下した。

「あなたの言う通りだわ。私はこの子の生存の妨げにしかなっていない。私にはすでに自分自身を生かしておく程の精神力すら残っていない。そうね。解っていたわ。でも私は、少しの間だけでもこの子と生きていたかったの。本当なら、ジェントルと三人で生きていたかった。あなた方地球人の親子のように…。」

その絞り出すようなレイディの言葉はマシュウの胸を打った。

「僕は自分がどれほど非情な事を言っているのか知っている。でも、君達を共倒れにする訳にはいかないんだ。解ってくれるよね?」

「わかっているわ。」

レイディは頷いてくれたようだった。

「私が悪いの。全て私が。そもそも無理だと知りつつ子供を望んで、揚げ句、パートナーを失った。そしてその肝心の子供の命さえも危険に晒している。何て親なのかしらね。何て情けない…。」

「そんなに自分を責めないで、レイディ。結果はこうなってしまったけれど、君の母性愛は本物だと僕は思うよ。」

マシュウはレイディを慰めた。実際レイディはサラと変わらぬ程の愛情を見せていたのだ。

「ありがとう、マシュウ。あなた達になら、この子の命と将来を任せられるわ。私達の子供を、ジェントルの子供を、宜しくお願いね。」

レイディは万感の思いを込めてマシュウに我が子の行く末を託したのだった。


外科的処置と言えるような処置を経て、レイディと子供は分離された。特別製のカプセルに移された子供は、地球人の常識では到底理解出来ない存在だった。いや、存在しているのかも肉眼では判断し難いような存在だった。

レイディは、彼と分離されてから、みるみる衰えていった。精神力が即ち生命力である彼らにとって、生きる意味を無くすという事は、即、その生命の危機を意味している。

「マシュウ、サラ。あの子をお願いね。くれぐれも…。」

その最期の時、レイディは残された全ての力を振り絞って言葉を紡いだ。

「そして…、愛している、と伝えて…。愛しいサイラスに…。」

レイディは最後に我が子に、愛情と名前を残して、ジェントルの許に旅立っていった。

 

当時、サイラスは余りに未熟な存在であった。そのため自分自身の精神力だけではその生命を維持するのがやっとの状態だった。マシュウとサラは、従って、彼のカプセルにその精神力を注ぎ込まねばならなかった。彼らは精神力と共に、溢れる程の愛情も注ぎ込んだ。しかし、地球人の精神力は、彼らが本来所有している筈の精神力には到底及ぶべくもなく、サイラスの成長は遅々として進まなかった。それは、マシュウとサラの息子、リチャードの成長を思わせた。

人間は、赤ん坊から幼児へと成長していく。しかし、サイラスの場合は、先に精神が成長し、それを追いかけるようにして外形が整えられていくようだった。成長が進めばサイラスも、彼自身の精神力だけで自身の形態を整える事も、選ぶ事も出来るようになるであろう。その時まで、人前に出ても何の支障もなくなるまで、彼を守り育てる事、それがマシュウとサラの希望であり、願い、そして義務となっていた。

だが、運命は彼らをそっとしておいてはくれなかった。リチャードが七歳になる頃、まずマシュウが病に倒れた。その頃には運命共同体となるべくリチャードも、両親と共にサイラスのカプセルに精神力を注ぎ込む手伝いをさせられ始めていた。意味も分からずに、気がついたらそこに存在していたサイラスのカプセルを、リチャードは無意識に、自然に受け入れていた。両親から英才教育を受けているリチャードだが、その時点ではまだサイラスの秘密を知らされてはいなかった。

いよいよ我が命の長くない事を悟ったマシュウは、実の子であるリチャードにサイラスの秘密を打ち明ける事にした。今となってはリチャードの精神力がサイラスの成長を左右するものとなりつつあった。早くからサイラスの存在と触れ合う機会を得ていたリチャードは、一般的な地球人より確実に精神力は強く、また、その使い方が巧みなように思われた。それは、サイラスによる影響、そしてシンクロではないかと予測できた。そのためマシュウはリチャードにその未来を託すことにしたのだ。

当時のリチャードは人間としてはまだまだ幼く、未成熟な存在に過ぎなかったが、時折、その才能の片鱗を垣間見せ、両親を喜ばせていた。

「蛙の子は蛙、と言うが、この子は生まれついての科学者なのかも知れない。これは、僕達にとって『天の配剤』と言える程に幸運なことかも知れない。」

マシュウはその事に神の存在を感じていたのかも知れない。

実際、リチャードは特異な存在と言えた。マシュウが彼の年齢や知能の程度に応じた分だけ、サイラスについての情報を与えようとすると、異常な程の理解力を示し、自分からそれ以上のものを要求するような状態だった。しかしリチャードは逆に、通常の対人関係を異常な程嫌う傾向が見られた。それはある意味、危険な兆候でもあった。だがそのためリチャードの存在が、社会的に広く知られるという危険を避けられた、とも言えた。

取り敢えずリチャードにその時点で教えられるだけのものを教え、残りの全ての情報と資料をコンピュータにインプットし終えると、安心したようにマシュウは逝った。その時から、サラの存在があったにもかかわらず、リチャードがサイラスの成長に多大なる影響を及ぼすようになっていった。



 

霧と共に時が流れ行く。

マシュウのあとを追うかのように、サラも体調を崩していった。精神力はあまり強くなくとも、サラはサイラスとリチャードに母親としてその溢れる程の愛情の全てを注ぎ込んでくれた。そのためリチャードはこのような環境においてさえ、少しも寂しさを感じる事はなかった。

地球人においても精神力はその体調を左右するものであったようだ。サラがその事に思い至った時には、既にサラの体調は最悪の状態だった。科学者としてのサラは、自分の変化を冷静な目で観察し、記録していた。そして母親としてのサラは、リチャード達がこの世の中で不自由なく生きていけるよう配慮に勤めた。両親をもうじき亡くしてしまうだろう子供達に、サラは自分の生ある限り世俗的な苦労を味会わせる気はなかった。よって、事務的な手続きはもとより、考えられる限りの生活における雑事の全てを、サラは自分の生きているうちに処理してしまおうと考え、そして実行した。財産の管理、現金の使用方法、食料の調達法、私有地内の建物当の保全修繕処置の方法。なるべく他の人間達が関わることのないように、サラは気を配った。そのサラの配慮のお陰で、サラの亡き後もリチャード達は生活する面で苦労することはなかったのだ。

 

「リチャード…。」

彼がリチャードを呼んでいる。リチャードはうたた寝から目覚めた。

「…呼んだ?サイラス。」

「うん。眠っていた?」

「うん…。うたた寝していた…。何だろうね。この頃、すごく眠いんだ。」

「へえ。僕は眠る時間も惜しいくらいなのに?」

サイラスが面白そうに言った。

「君の発達スピードに、僕の精神力がついて行っていないのかも知れないね。」

リチャードの方はもっと冷静に自己を分析している。

「精神力の消費量を体力が補えていないんだ。」

「それって、僕のせい?僕の発達のためにリチャードは疲れ果ててしまう、ってこと?」

サイラスが心配そうに言った。

「いや、僕の精神力の発達が追いつかないだけだよ。僕だって日々成長しているんだ。でも、君の成長には及ばない。単にそれだけだよ。」

リチャードは的確に説明した。

「まったく、このところの君の成長は目覚ましいからね。」

リチャードの言葉にサイラスはちょっと済まなさそうな口調になった。

「うん。自分でも成長しているな、って思うもの。でもそれもリチャードが精神力を分けてくれているお陰だよ。」

「君が発達のプロセスを終え、そこから出て来て僕と普通の生活を送ることが、僕等家族の願いなのだからね。」

「うん。だから僕も頑張っている。」

「そうだね。僕も負けられないな。」

笑い声が地下室に満ちた。リチャードはこのまま穏やかに時が過ぎることを祈った。


しかし、その祈りは叶えられなかった。

やはり霧の深いその日、リチャード達の生活では滅多にないことだったが、リチャードにどうしても外出せねばならぬ用事が出来た。それはほんの二三時間で済むはずのものだったが、彼等の運命を大きく変えてしまう結果となってしまった。

 

日が落ちる頃、リチャードが慣れぬ用事に疲れ果てて戻ると、地下室はしんと静まりかえっていた。

このところのサイラスは、カプセルに接続されたコンピュータにアクセスすることを覚え、そこから様々な端末を操ることも覚えた。そしてそれを器用に使いこなし、今となってはリチャードがその場にいなくとも、学習や実験、読書などをすることには支障が無くなっていた。そして驚くほどの好奇心の持ち主であるサイラスは、時間を忘れてそれらに没頭するのが常になりつつあった。それはあたかも乾いたスポンジが、水を急速に吸い込むのに似ていた。

「…サイラス…?」

いつも心の奥底にあったリチャードの不安は、そのことにより一層募っていった。ごくり、と唾を飲み込むと、そっとサイラスのカプセルに近づいていく。いつもならこの時間は一心不乱に読書している彼であった。

リチャードとサイラスは規則正しい生活を心がけている。マシュウとサラの基本理念に「健全な精神は健全な肉体に宿る」というものがあり、健全な肉体を作るためには規則正しい生活が不可欠である、とサラはリチャードに叩き込んでいた。故に、会話の出来るようになってからは、彼等はサラの用意してくれたタイムスケジュールをなるべく守るようにしていた。そして夕刻のこの時間は、リラックスとリフレッシングに当てられている。

「…サイラス…?」

リチャードはカプセルをそっと覗き込んだ。しかしそれはいつもと違い、完全に遮断されていた。コンピュータで外の音や光などが入り込まないよう調整されているようだ。中に外界の刺激が入り込まないのと同時に、カプセルの中の様子を窺うことも出来ない。

「…。」

リチャードは瞬間、直接サイラスへと繋がっている非常用マイクへと手を伸ばしかけた。しかし、その右手を左手で押さえて、思いとどまった。それはかつて一二度あったことだったからだ。彼は外的刺激が自らの成長に有害な時、そして余りにも精神的疲労が激しくなった時、そうして完全にカプセルをシャットアウトしてしまう。

(最後の成長の時がやってきている…?)

リチャードはそう考え直した。時期的にそれはあり得ることだ。そうであれば強制的に介入することは、彼の成長を損なう。

(…僕の不安など些細なことだ。何よりも大切なのは…。)

リチャードはぐっと拳を握りしめた。

(あと、もう少し…。)

家族全員の宿願。待ち望んだ未来。

「…サイラス…。」

リチャードはカプセルにそっと触れると、彼の名を呼び、それからゆっくりときびすを返した。そして自分の存在が彼の妨げとならぬよう、足音すらたてぬよう気をつけながら地下室から抜け出した。後ろ髪を引かれながら。


霧が流れていく。微かな風に乗って、濃い霧が流されていく。まるで運命が流れていくのを暗示しているかのように。

 

ねっとりとした闇が支配していた。生あるものの存在を許さぬ無限の闇がそこに広がっていた。

そんな真っ暗な地下室で、瞬間、声にならない悲鳴が響いたような気がした。絶望と恐怖とに真っ黒に塗り潰された、凍り付くような悲鳴。しかしそれは、実際には響くことも聞こえることもなく、ただ濃い霧を震わせただけだった。

 

うぃ…ん…。

突然、微かな音をたてて、死んだように動かずにいたコンピュータが作動した。そして、それによって接続された機器が全て生き返ったかのように動き出した。小さなランプが次々と点滅を繰り返し、複雑な作業を始める。

やがてその動きが最高潮に達した時、凄まじい勢いで地下室全部のエネルギーが中央に置かれたカプセルに注ぎ込まれた。雷が落ちたかのような音が響き渡り、次の瞬間、バッテリーが落ちた地下室はまた真っ暗になった。静寂が辺りを支配する。

 

どくん…どくん、どくん…。

それは、生命の象徴、鼓動のようだった。いつの間にか微かにカプセルが発光し始めている。暗闇に、ぼうっと燐の燃えるような青白い炎がいくつも灯る。そしてゆっくりとカプセルの周りに集まってゆく。それとともにカプセルの発光も強くなってゆくようだ。

どくん…、どくん…。

鼓動を刻むかのように発光は強弱を繰り返している。燐の炎はカプセルを取り巻いて回り始めている。

ゆっくりと、何事かが起ころうとしている。何事かが始まろうとしている。誰一人、知る者のないところで。


カプセルを取り巻いていた燐の炎が、やがて渦を巻くようにくるくると回り始め、すうっ、すうっ、とカプセルに吸い込まれていく。先程、地下室のエネルギーを全て、その内に取り込んでしまっているというのに、そんな些細なエネルギーでさえも貪欲にむさぼり食らっている。カプセルはそれほどまでにエネルギーを必要としているのか?いや、カプセルの中身が必要としている?一体何が起きようとしているのだ?

やがて無数に飛び交っていた燐の炎はすべてカプセルに吸い込まれてしまった。そしてその微かな燐の光すら消えた地下室は、再び暗黒に閉ざされ、静寂に包まれた。

 

どれほどの時が流れたものか。

いまだ濃い闇が辺りを支配している。その夜の闇が呼んだものか、静かに霧が流れ込み始めている。

ぎ…。

地下室に微かな音がしたのはその時だった。

かなり長い時間、動かされることのなかった機械が、軋みながら動く時の音。

ぎ…。

再びその音が響いて、暗闇の中で何かが動く気配がした。

ぎ…。

暗闇に一筋の光が放たれた。カプセル本体と蓋との間に隙間が生じていた。光はそこから漏れている。

リチャードがそれを目撃していたならばどれほどに喜んだことであろう。それは、彼のみならず、彼ら一家の唯一の望みだった。希望だった。最大にして唯一の希望。

しかし、今となっては喜んでくれる唯一の存在の目の前ではなく、こんな時に何故、サイラスは好き好んでカプセルを開けようとしているのだ?何故今この時を選んで?

気のせいではなく、カプセルの隙間は確実に広がって、地下室の中に仄明るい光が広がっていく。

やがてそのカプセルの蓋を押し開けている手が見え始めた。白い、色素が欠落しているような白さ。いや、それはまだ一部透き通ってさえいた。


じじじじ…。

異常を知らせる非常音が枕元に響き、リチャードを浅い眠りから目覚めさせた。びっしょりと寝汗をかいている。リチャードは無意識に額を拭って、非常ベルの原因を探った。

枕元のパネルの一点が光っていて、それがどこであるのかを知らせている。

(…地下室?サイラス?!)

リチャードの脳はいっぺんに現実に引き戻された。とりあえずガウンを引っかけて大急ぎで地下室に向かう。

(電源が落ちている?)

地下室への入り口で、まずその異常に気がついた。急いで配電盤へ向かい、ブレーカーを引き上げる。

何の支障もなく再び電気は流れ始め、リチャードは胸を撫で降ろした。スイッチを押して明かりを点けながら部屋の中の様子を伺う。さし当たって異常は見当たらないようだ。

(ブザーは電源が落ちたことを知らせてくれていたのか…。)

リチャードは部屋を大股で横切ってカプセルに向かう。サイラスの身が気がかりだ。

「サイラス?」

そっと呼びかける。いつもなら、そして何事もなければ、この時間、彼は眠っている筈だ。

「!」

カプセルを覗き込んでリチャードは愕然とした。最近やっとカプセルの蓋を通してさえ認められるようになっていたサイラスの姿がない。

「サイラス!」

まず疑ったのは、電源が落ちたことによる悪影響でサイラスの体に異常が生じている可能性だった。

リチャードは極めて迅速に行動した。全てのコンピュータをチェックする。例え電源は落ちたとしてもバックアップ機能は作動している。

(何が起きている?)

気は焦るが、段階を踏まねば機械は動いてくれない。だがやがて求めるデータを吐き出してくれた。

それを急いで読み下しながら、リチャードの顔から血の気が引いていく。

(精神波のデータが…。これは…。)

リチャードは奥歯を噛みしめた。そして再びカプセルに駆け寄るとその蓋に手をかけて持ち上げた。

それはあっさりと持ち上がり、リチャードのささやかな期待を裏切った。

(サイラス…。)

そこにはサイラスはいなかった。


リチャードは暫し現実を理解することが出来なかった。しかし、何度目をしばたいて見つめようと、手を突っ込んで探ってみようと、カプセルの中には何物も存在してはいない。

(サイラス…。)

やがて物凄い喪失感を伴って現実を認識した時、リチャードは自分の迂闊さを呪った。

(あの時…!)

帰宅した直後に感じた違和感。その時点で対処できていたなら、こんな事態にはならなかったかも知れない。あの時、確かに何かが起きていたのだ。それなのに、普段慣れない作業から来た疲れのために、それを見過ごしてしまった。

恐ろしいほどの後悔がリチャードを苛む。彼は、サイラスは、失われてしまった。リチャードはその思いに捕らわれ、茫然とその場にへたり込んだ。

(サイラス…。)

サイラスは永遠に失われた。

 

しかしリチャードは結論を急ぎすぎていた。

カプセルに何物も存在していなかった時点で、何故安直にその結論に達してしまったものか。それほどにサイラスの発達が、成長が、デリケートなものであったからだ。ちょっとした手違いで、サイラスの体調は激変した。過去、何度も消滅の危機をかいくぐって来ていた。故に、彼はサイラスが生存できなくなり、その精神の消失に伴って、肉体として形作られかけていた器の方も完全に分解、そして消滅してしまったものと考えたのだ。マシュウとサラのレポートにあった、かつてのジェントルやレイディがそうであったように。

しかし、真実がそうであったならばよほど簡単であったろう。運命はもっと過酷であった。

 

かちり。小さな音を立てて、何かのスイッチが入った。

フィンフィンフィン!

警報が地下室に鳴り響いた。それは、彼らが最も恐れていた侵入者を知らせるものだった。


反射的に侵入者の在処を探り、リチャードは備え付けの懐中電灯を手に地下室を出た。

霧の立ちこめる私有地の外れ、湖沼地帯。この時期、野鳥の群が羽を休めに訪れる。そしてそれを狙ってハンターが稀にこの立ち入り禁止の私有地に紛れ込むことがあった。この辺りは禁猟区になっている。だが、私有地内ではその限りではない。勿論それは、地主の許可を得ての話だ。

この私有地の中での狩猟を、認める者があろう筈はなかった。故に進入して来たハンターは密猟者だ。

(ちぃっ。)

リチャードは小さく舌打ちした。

やはりこれまで、そうやって進入してきた密猟者は何人かいた。だが、よりにもよってこんな時に。しかもこの侵入者は今回、マシュウとサラがジェントルとレイディとを発見したあの湖畔近くにいるとみられる。そして、そこには見る者が見ればそれと分かるであろう残骸が未だ隠されている。

 

霧が深い。

こういう日の夜明けが狩猟にはもってこいなのだ、と聞いたことがある。

頭の隅でそんなことを考えながら、リチャードは歩を進める。万が一、侵入者がアレを見つけたら、大騒ぎになるだろう。だがもし、侵入者が密猟者でなかったら?

全ての考えがネガティブな方向へ向かうようだ。

リチャードは軽く頭を振った。まだ衝撃は去っていない。こんな問題にも対処できない。

リチャードは懐をまさぐった。そこには非常時を考えて小さな銃が忍ばせてある。その冷たい感触がリチャードを少しだけ落ち着かせてくれた。

湖から霧が湧き出している。

夜明けが近い。地平線が心なしか白んでいるような気がする。

リチャードは自らの懐中電灯をわざと消して、侵入者の存在を探した。慣れない者がこの辺りを歩くには明かりは不可欠だが、リチャードには文字通り自分の庭である。危険な箇所は手に取るように分かっている。暗闇に浮かぶ明かりは侵入者の在処を教えてくれる。そして明かりを点けないリチャード自身は闇に隠してくれる。

(いた!)

霧の中に明かりがちらちらと瞬いている。

(二人?)

カンテラらしい二つの明かり。この辺りの密猟者がよく使う物だ。リチャードは眉をしかめた。

(面倒なことになったら…。)

リチャードは再び銃を握りしめた。最悪の場合はこれを使わざるを得ない。出来ることなら穏便に済ませたいが、相手は密猟者だ。常識が通用するような相手とは思えない。リチャードは覚悟を決めた。秘密は守らねばならない。