第一章 レティシア

part1 前夜

コツ、コツ、コツ…。闇の中に靴音だけが響く。深夜の城内。流石に皆、寝静まったと見えて、人影もない。
うら若きレティシア国王、シェイセス・アルム=レティシアは、自らの居室に向かいながら、先程まで出席していた国際会議の事に思いを馳せていた。
議題は、この度の世界的干魃に因る食料危機。居並ぶ老獪な各国首脳陣。その中で熱弁を奮っているのは、うら若きレティシア王よりもまだうら若きレミュール宰相、アシュール=ルトス。
「ですから、至急、食料支援をお願いしたいのです。この分では、我が国では、国民の三分の二が餓死してしまいます。」
しかし、各国王達の反応ははかばかしくない。その理由の一つには、今回の干魃は全世界的規模であり、各国にその食糧の備蓄余裕が少ない事があったが、主たる理由には、この危機に乗じての国際間の駆け引き、すなわち、どの国が上に立つか、の見栄の張り合いの部分が多いように見えた。増してや、普段ならば武力を誇るレミュール。恐ろしくて手も足も出せなかったものを、今回ばかりは自分達の匙加減ひとつで如何様にでも出来る。そして、今回この会議に出席しているのは、知恵者で知れ渡っているレミュール国王、オーディン・ラウール=レミュールではなく、その国王の寵愛故に宰相に登用された、と噂に高い、ルトス宰相である。物見高い者達は、彼の美貌と才能は如何に、と手ぐすね引いて待ち構えていたぐらいである。
実際の彼は、印象的な黒い瞳を持つ若い武人にしか見えず、女性陣は大いにがっかりした、という話が伝わっている。
国王達には、そんな御稚児さん風情に嘗められて溜まるか、という意識があったのだろう。いつもよりなを頑なな態度であったような気が、シェイセス王はしている。
沈黙がその場を支配し、レミュール宰相の苛立ちが頂点に達しようとした時、見兼ねたシェイセス王が手を挙げて発言を求めた。未だうら若く、かつ小国の王である彼は、至って控えめに振る舞うのが常であったが、ルトス宰相とレミュール国民の窮地に、流石に黙っていられなくなった。
「我がレティシアには、いざという時の為の蓄えが、多少準備してあります。今回のこの危機、幸いにも我が国では被害も少ない事ですし、また、ご縁の深い隣国同士のこと故、我が王宮に蓄えられし非常食料、お役に立つものでしたら提供いたしましょう。」
その言葉にルトス宰相の表情に明るさが戻る。
「おお。有り難いお言葉。これで我が国民は救われます。彼等に成り代わりまして、心からの感謝を申し上げます。」
愁眉を開いたようなルトス宰相に、シェイセス王は、彼が本心から国民のためを思っているのだと感じた。未だうら若い、とは言うものの、レミュールは良い宰相を得たのかもしれない。シェイセス王は、隣国の明るい未来を垣間見たような気がした。
「それでは、王宮に戻り次第、手配を致します。準備を完了しましたら、即刻連絡を差し上げます。」
シェイセス王の言葉に、ルトス宰相は感激のあまり進みい出て握手を求めてきた。
「誠に有り難く思います。このご恩は終生忘れますまい。」
シェイセス王は笑顔で応じながらも、彼の純粋さを危ぶんだ。それは羨ましくもあったが、老獪な各国王達を相手にするには、百害あっても一理すらないものであったから。そして、その情熱的な瞳の色に、ふと、奇妙な不安を覚えたのだった。


長い廊下の先に仄かな明かりが見える。シェイセス王は蟠る不安を軽く頭を振って押し除けた。しばらくぶりでやっと帰って来られたのだ。暫しの間だけでも忘れていよう。自分が不安な顔を見せれば、皆、不安にかられる。
自動ドアがゆっくりと開ききるまでには、シェイセス王の顔には穏やかな笑みがたたえられていた。
「お帰りなさい!兄上!」
予想に反して元気な声が出迎えた。転がるように飛び出してくる。
「まだ起きていたのかい?寝んでいるよう、私は言っておいた筈だよ。」
抱き付いた年の離れた弟に、彼はそう言うと、軽く睨んで見せた。
「だって…。一週間ぶりのお帰りなんだもの!どうしてもお出迎えしたかったんだ!」
唇を尖らせて抗議する弟の頭を、シェイセス王はぽんぽんと軽く叩いて宥めた。
「判ったよ。でも、だからと言って夜更かしは感心しないな。規則正しい生活は大切なんだよ。」
「はあい。」
渋々、といった返事を返す弟の様子に、思わず笑みがこみ上げてくる。
くすくすくす。すると、いかにも可笑しそうに笑いながら、奥の部屋から一人の女性が現れた。
「お帰りなさい、兄上。しっかり叱って下さいな。アニュリスったらルーノと一緒になって私を困らせてばかりいるんですよ。もう十四になるというのに。」
「済まないね、シルヴィア。お前だけにアニュリスとルーノの世話を押しつけてしまって。」
シルヴィアは首を振る。
「いいえ、兄上。兄上は父上と母上が亡くなられた後、私とアニュリスを育てて下さいましたもの。義姉上の王妃様が亡くなられた今、私が二人の面倒を見るのは当たり前のことです。王妃様のように完璧に、とは参りませんが。」
「いいや、お前は十分良くやってくれているよ。お前が留守を守っていてくれているから、私は安心して城を空ける事が出来る。お前に二人の母親代わりのみならず、国の留守を預かる王妃の役割をもさせているのかと思うと、心苦しい限りだ。」
シェイセス王は妹を痛ましく見た。
「早く次の王妃を、という話はあるのだがね…。」
シルヴィアは優しく兄に微笑んで見せた。
「私の事でしたら大丈夫です。兄上こそ、未だ義姉上の事を諦め切れておらぬ筈。早計にお話を決めるような事はなされませぬように。お相手の方に失礼なのと同時に、様々な不幸を招く原因ともなりましょう。」
彼女の言葉にシェイセスはふと、亡き妻の笑顔を思い出した。妻とは、王家の者同士には珍しい、恋愛結婚であった。
留学先で知り合った二人は、お互いの素性も知らぬ間に恋に落ちた。そして、あらゆる困難を二人の力で乗り越え、結ばれたのだ。優しい、しかし芯のしっかりとした女性だった。自分の事より他者の事を優先し、自然を愛し、人を愛した。そして何よりも、王たる運命を背負うシェイセス・アルムを愛した。
「あなたが国と国民を愛するのは当たり前の事。どうぞ、思い切り愛して下さい。わたくしの事は、そのあとで構いません。あなたはそういう運命を背負っているのですから。」
愛しい妻の在りし日の笑顔。
(ナティル…。)
妻の事を思うと、後悔の念に苛まれる。彼女の優しさに甘えたばかりに、彼女の病に気付いてやれなかった。そしてそれは、結果として彼女の存在を永遠に失わせる事となった。幼い一人息子を残して。
シェイセスはひとつため息をついた。そこに行き着くと、自分でもどうしようもなくなる。強制的に意識をそこから引き剥がしにかかる。すると、思いはまた、あのうら若き宰相の事に引き戻されていく。
先代の王である父親を亡くした時、シェイセスは二十一の若さだった。妹シルヴィアは十四、弟アニュリスはまだたった七歳であった。母王妃も心労のため、父王のあとを追うように亡くなった。シェイセスはその時既に結婚してはいたが、国を統治するには余りに若く経験不足であり、未熟だった。その自分の姿が、ある意味、あのルトス宰相と重なってしまっているのかもしれない。それ故、普段はやらない差し出がましい真似をした。大国の王達を差し置いて、飢餓に喘ぐレミュールに手を差し伸べた。苦虫を噛み潰したような顔、顔、顔…。王達の舌打ちが聞こえるような気がした。
いつの間にか自分の思いに沈み込んでいたシェイセスに、気遣うシルヴィアが声をかけた。
「兄上?」
「あ、ああ。」
その声にシェイセスは我に返る。
「何か気にかかる事でもございましたの?国際会議の場で。」
「いいや…、ちょっとね。さて、ルーノの顔を見たら、大臣達を叩き起こさねば。レミュールへの食料の緊急援助を決めてきたんだ。」
「まあ。また、お忙しくなられるのですね。」
シルヴィアが軽いため息を漏らした。
「やっと帰っていらしたばかりだというのに。」
「仕方ないさ。隣国の危機を放ってはおけない。多くの民が死に瀕しているとなれば、なをさらだ。」
「それは解りますが…。ルーノもがっかりするでしょうね。お父様が戻って見えたら、一緒にボール遊びをするんだ、って楽しみにしていたんですよ。」
「そうか…。ルーノに謝らなくてはな。ともかく、顔を見て来よう。寝室だね?」
シルヴィアが肯く。
「アニュリスももうおやすみ。シルヴィアも退ってやすんでおくれ。」
「はあい。」
「はい、おやすみなさい、兄上。」
引き退って行く二人を見送って、シェイセスは奥の部屋へ向かった。

ドアを細く開けて、そっと、覗き込むようにして中の様子を伺う。熟睡中の邪魔はしたくない。しかし、愛しい一人息子の顔を、例え一目だけでも見たいのだ。そんな父親の気持ちを、たった七歳のルーノ・フランシスが何故知っていたのだろう。
「お父様?」
暗がりから小さな子供の声がして、次の瞬間、小さな身体がシェイセスの腕の中に飛び込んで来た。
「ルーノ?!」
しがみついてくる身体を抱き上げて、その顔を覗き込む。
「お帰りなさい、お父様。僕、ずっと待っていたんだよ。」
小さな息子が寂しがっている事は。シェイセスならずとも察せられる事だったが、シェイセスにはそれでも他に優先すべき事が沢山あったのだ。
「ルーノ、いつも寂しい思いをさせてばかりいて、悪いお父様でごめんよ。」
ぎゅっと抱きしめてやってそれからそっと謝る。
「ううん。お父様はやらなくちゃならない事を頑張ってやっているだけ。僕にもそれぐらい判っているもの。それに、僕のそばにはいつも、シルヴィアとアニュリスがいてくれるから、僕はちっとも寂しくないよ。」
健気にルーノはそう言い張る。
「ルーノ…。」
再びシェイセスは愛しい息子を強く抱き締めた。この子は自分よりも、先に逝ってしまった妻に似ている。人を気遣うその優しい気持ち。シェイセスは嬉しく、そして悲しく息子を見た。その顔には確かに妻の面影が宿っている。睫毛の長い菫色の瞳。頬に刻まれた片えくぼ。肩の所で切り揃えられた髪はーくるくると渦を巻いて首筋に絡み付いている。
「ルーノはお母様に良く似ているね。」
シェイセスが愛おしげに髪を撫でながら言うのに、ルーノは不満そうに頬を膨らませた。
「僕、男だよ。お母様に似ていても嬉しくないよ。」
ルーノの言葉にシェイセスはまた破顔した。ルーノのプライドを傷付けてしまったらしい。
「そうか。それはお父様が悪かった。でも、ルーノがお母様に似ていてくれて、お父様はとても嬉しいのだよ。」
「ふうん。」
ルーノはその言葉を聞いてかなり機嫌を直したようだ。シェイセスに笑顔を向けてくれた。
「だけど、シルヴィアは僕はお父様にそっくりだって言ってるよ。僕は、そっちの方が嬉しい。僕は大きくなったらお父様のお手伝いをして、この国のみんなが幸せに暮らせるようにするんだ。」
「そうか。それはお父様も楽しみだな。ルーノはお父様よりも立派な王様になれそうだね。」
シェイセスは頼もしげにルーノを見た。この子は生まれながらにして王たる運命にある。自分の好む好まざるに関わらず。そして何の疑問も持たずその運命を受け入れている。王家の者の宿命か。しかし、自分の背負っている重荷を思うとシェイセスは、そんな健気なルーノが不憫で溜まらなくなる。そして、愛おしさが益々募っていくのだった。
「さあ、いくら何でももう眠らなくちゃ、ね。」
名残惜しげに再び三度ルーノをきつく抱き締めて、シェイセスは仕方なしにルーノを寝かしつけようとした。先程からずっと感じ続けている不安を、彼の小さな身体の温もりで追い払おうとした。
(大丈夫だ。何も起きやしない。起こるはずがない。これから全てが順調に運んでいく。これは私の取り越し苦労だ。)
「おやすみ、ルーノ。良い夢をご覧。」
寝室のドアを閉めたシェイセスの顔は、父親のそれから一刻の国王のそれへと変貌を遂げていた。






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