ねえ、あなた。誠司さん。私は今でも覚えています。あなたに初めて会った時の事。不思議そうに、そして生真面目に、私に声をかけて来たでしょう?私、あんなところを見られていたなんて、全然予想もしていなかったから、思いっきり驚いたのよ。でも、あなたったら、私より私の行動の方に興味があったのよね。私の説明に納得したら、そのまま話も途切れてしまったもの。知っている?私、あの時あなたの事、変な人だなあ、って思ったのよ。
それなのに、そんなあなたをどうして好きになってしまったのかしらね。
子犬のポピーがきっかけだったのかも知れないわね。私、あの時、発作を起こしてしまって、あなたを驚かせたのよね。
あの日、私は、いつもなら家族の誰かが一緒に出てくれるポピーの散歩に、どうしても一人で行きたくて、心配する家族の制止を振り切って、一人で出て来てしまったの。その当時は、体調も安定していて、そのくらいならなら大丈夫、と高を括っていたの。でも、結局発作を起こしてしまった。あなた、ポピーを捕まえてくれて、私の心配もしてくれたわね。それなのに、兄さんったら、ろくに御礼も言わなかったのよね。本当に仕様のない兄さん。でもね、兄さんったら、今でも私に言うのよ。
「あの、初めて会った時から、俺はあいつの事が気に食わなかったんだ。残念ながら、今でもそれだけは変わらない。」って。
あなたと兄さん、私に言わせるとよく似た所があるのに、どうして仲良く出来ないのかしら?不思議ね。
あの後、私が御礼を言おうと待っていた時、あなたったら顔を真っ赤にして私に話しかけて来たわ。私、御礼だけ言って帰るつもりだったのよ。なのにあなたったら、私を強引に引き留めて、
「また、話しても良いですか?」って聞いたのよね。
私、少し驚いたの。何でこんな私に、そんな事を言うんだろう、って思ったの。見るからに不健康な顔色の、やせっぽちのつまらない女の子に。でも、あなたのまなざしは真剣で、からかいの陰すらなかったから、私、思わず頷いてしまっていた。あなたは満足そうに笑ったわね。私はそれが不思議で、少し嬉しかったの。
ねえ、誠司さん。ひょっとしてあなたは、私の日課の散歩の時間に合わせていてくれたのよね?
あれからは毎日、あなたは私に会いに来てくれた。そして、気が付くと私はあなたが姿を見せてくれるのを心待ちにしていた。
会う度にあなたは、私に色んな話をしてくれたわ。宇宙の話。星の話。科学の話。そして、あなたの夢の話。私はあなたのその「夢」に惹かれたのかも知れない。熱っぽく、ひたむきに語るあなた。その瞳はきらきらと輝いて、私はそんなあなたがとても羨ましかったの。私にはそれまで、「夢」を持つ事が出来なかったから。
そして、いつしか私は、あなたの夢をあなたと共に見ていたい、と心の奥底で思うようになっていったの。でもそれは、私だけの思い。そう、決して叶う事のない思い。叶えてはいけない思いだと知っていたから。
でもあなたは、そんな私に、あの日、言ってくれたのよね。
「僕と結婚して下さい。」って。
私がどんなに嬉しくて、そしてどんなに辛かったか、苦しかったか、あなたは想像出来るかしら。
私が何も答えられなくて黙り込んだのを見て、あなたは悲しそうな顔をしたわ。でも私にはそれ以上の反応は出来なくて…。込み上げて来た涙をどうする事も出来なくて…。
私の涙にあなたは驚く程狼狽えた。でも、やがて何かを察してくれたかのように、
「返事は急ぎません。でも何時か、君の抱えているものを僕にも分けてくれませんか?僕は今は何も知りません。でも、君と共に生きていきたい、と思う気持ちは真実(ほんとう)なんです。」と言ってくれた。
私には思いもかけない程に、とても嬉しい言葉だったのよ。でも私は、そのあなたの思いに、その時は応える事が出来なかった。あなたに話していない事があったから。
いつかは、あなたに話さなければならない、とは思っていたの。でも、なかなか勇気が出なくて…。私の身体が弱い事は、あなたは充分承知していてくれたのだけれど。でも私、やっぱり言えなかったの。このままだと私の命はいつ途絶えてもおかしくはないのだと。
あの頃私は、あなたと共に過ごす時間がとても楽しくて、毎日にとても張り合いがあって、初めて、生きている、という実感を味わっていたの。
私、生まれてすぐに心臓に異常が見つかって、それ以来、家で過ごすより病院のベットで過ごす方が多い生活を送っていたの。父も母も兄も、私をすごく大事にしてくれていたから、寂しい思いなんてしていなかったわ。でも私には何かが足りなかった。ずっと何かが欲しかった。それが何なのか、あなたが教えてくれたわ。生きている意味。そして、夢。私が欲しかったもの、あなたが与えてくれたの。
私、だから、それを失いたくなかったの。あなたに全てを話してしまえば、あなたはきっと私を見捨ててしまうでしょう。私は未来のない存在。でも、そうしてあなたの存在が無くなった日々を、私はどう過ごせばいいというの?私の残り少ないであろう毎日、私にどうやって耐えろ、というの?だから…。
そうして、あなたに申し込まれた事で、私はあなたを失う恐怖を想った。あなたの言葉の意味を理解した時、うねるような喜びと共にそれは押し寄せて来たの。
「はい。」
その言葉を紡ぐ事はとても容易い事なのだろうけれと…。だから私はあなたに、何も言えなかったの。
私、あの後、これでもう終わりなんだ、と思ったわ。あなたに打ち明けられない。あなたの思いに応えられない。そして、だから、あなたにはもう会えない。
あの日々を、私はどう過ごしていたのか、よく覚えていないのよ。ただ何もする気が起きなくて、部屋の中に閉じこもっていたわ。両親や兄が、どれ程心配しているか、よく解っていたのだけれど。でも、どうする事もできなかった。そして私は、私にとってあなたが、どんなに大きな存在だったか思い知ったの。
そして、運命のあの日。まるで暗い洞窟の中に閉じこめられているかのように、光も希望も、生きる気力さえ無くしていた私の元に、あなたからの手紙が手紙が届いたの。
私、あの手紙の文面、まだ暗唱できるのよ。あなたが嫌がるから誰にも内証にしているけれど。私、あの時あの手紙を貰わなかったら、きっとここにこうしていなかったわ。あなたと共に生きる事もなかった。あなたの思いが私を生かしているのね。
誠司さん。私、思うのよ。あなた、夏の日の夕暮れ、涼しい風の吹く頃に鳴き出す、蜩(ひぐらし)という虫を知っているかしら?あなたは、その蜩の声のように私をほっとさせてくれるわ。優しく包み込んでくれるの。ねえ、誠司さん。私はあなたに護られて、生きてきました。
「透湖さん。」
手紙の書き出しは、そんな私への呼びかけ。私は、その文字から、あなたの優しさが滲み出ているような気がしたわ。あなたの深みのある声が聞こえてきそうな気がしたわ。あなたの優しい眼差しを感じたのよ。
「体調が悪い、と兄上から聞きました。心配しています。その原因が、僕自身にあるのかと思うと、自分が許せません。どうか透湖さん、気に病まないで下さい。君が悩む必要はありません。僕の我が儘から始まった事、全て僕が飲み込みます。ですから。
僕は、君の笑顔が好きです。君にはいつも笑っていて欲しい、と思います。君の笑顔のためならば、どんな努力も惜しまないつもりです。だから、もう、僕の傍らで、とは言いませんから、どうか笑顔を無くさないで下さい。例え、二度と君に会えなくても、僕は君の笑顔を護りたい。護らせて下さい。出来る事なら生涯をかけて。」
私、涙が溢れて来て止まらなくて…。あなたの思いが嬉しくて、ありがたくて…。そして、あなたにそう言って貰える自分という存在が、許せるものに思われた。全然価値のないものとしか思えなかった自分の命が、意味のあるものに思える。私、生きていていいのね。
私、やっとその時、自分自身の生きる意味を本当に見つけたのだと思うの。そして、生きていきたい、と思ったの。あなたと、あなたの傍らで共に生きていきたい、と。そのためにも私は決心しなければならなかったの。成功の確率三十%の手術を受ける決心を。
誠司さん、私、あなたと生きるのよ。そう決意したからこそ、ずっと渋っていた手術を受ける決心がついたの。目の前に迫る「死」という現実を、しっかりと見据える事が出来たわ。そして、確率は低くとも「生」を目指して手術という関門を抜ける覚悟が出来たの。あなたと共に生きたい、いえ、生きるのだ、という希望。私はそれを得て強くなれたの。
あなたに全てを話した時、あなたは酷く驚いていたわね。でも、その全てを飲み込んでくれた。約束通りに。あなたは優しい人。優しさの奥に強さを秘めた人。だから、私はあなたに私の命を預けられた。
目が覚めた時、あなたの顔が一番に目に入ったわ。両親や兄もそこに一緒にいたというのに。私ったら、大変な親不孝者よね。あなたは私が目覚めたと知ると、安心したように微笑んだ。そして、そこにお医者様の声が被さるように聞こえてきた。
「もう、大丈夫です。」
覗き込んでいた父母の安心の吐息。そのあと、もう一度眠りに落ちながら、私は希望に満ちた明日を想っていたの。
結婚式の日は素晴らしいお天気だったわね。あの日から私は、あなたの傍らにずっと寄り添っていられるようになったわ。なんて幸せな日々を送って来た事でしょう。あなたは約束通りにいつも私を見守り、支え続けて来てくれたわね。こうして振り返れば、本当に色々な事があったわねえ。でも、いつの日も私、幸せだったのよ。確かに、あなたがお仕事にいきずまった時もあったわ。でも、経済的なものは私にとってちっとも苦労じゃなかったの。ただ一生懸命に生きていたら、いつのまにか全てうまくいくようになっていたし。かえって私のささやかな力があなたとの生活の役にたったかと思うと、とても嬉しかったのよ。
ねえ、誠司さん。私、あなたに謝らなくちゃ、とずっと思っていたの。あの時、私は私の絶望の中にいて、あなたの気持ちを考えることが出来なかった。だからきちんとあなたに言えなかった。
ごめんなさい。あなたの子供を、私、産めなかった…。せっかく授かった命を、私、この世に送り出してあげられなかった。ごめんなさい。私、あなたに申し訳なくて…。縁あって、その後二人の子供達に恵まれたけれど、あなたの血を引く子供を、私、あなたに生んであげられなかった。ごめんなさい。私今でもそれだけが心残りなのよ。
あなたはずっと良き夫であり父親で、私はとても幸せな家庭を持たせてもらったわ。あなたを愛し、子供達を愛し、家庭を護る。そんな単純で、平凡な日々が、私にはとても大切なものだったのよ。
だからまさか、こんなに早くこんな日が来ようとは、私、想像もしていなかったわ。でも、運命なのかも知れないわね。
子供達がそれぞれ独立して、また二人きりの生活が始まって、あなたは私に、
「これを機会に、僕達ももう一度、新婚時代をやり直そうかな。そうだ。今日からは『ママさん』、じゃなくて、前のように『透瑚さん』ってよぼう。」って言ってくれたのよね。少しはにかみながら。あなたはいつも、私が意識すらしていなかった心の奥底の願望を、汲み取ってくれるのね。何故なのかしら。私、あなたのその声で名前を呼ばれるのがとても好きなの。あなたはそんなつまらない事、気にも留めていないのでしょうね。でも、あなたのそんなさりげない優しさに、私はいつも感謝しているのよ。
私の心臓が、人様より長持ちしないだろう事は、最初から判っていたわ。でも、それが目の前に迫るまで、私は意識すらしていなかったの。余りに幸せすぎて。
いきなり倒れて病院に担ぎ込まれて、私自身も驚いたけれど、あなたや子供達はもっと驚いたみたいね。私っていつの間にか、丈夫で長持ち、まるで肝っ玉母さん、ってイメージが定着していたみたい。だから、何があってもびくともしない、ってみんな思い込んでしまっていたのよね。勿論、当の私自身も。日頃の無理が、なんてお医者様は言外に仰ったけど、私には無理をしている、なんて意識は全然なかったもの。だから、一月保つかどうか、ってあなたがお医者様に言われていたなんて、考えてもみなかったの。ごめんなさい。私、あなたに我が儘を言ってしまったのね。うちに帰りたい、なんて。
夏の夕暮れ。体調の良いのを見計らうようにして、あなたは私を散歩に連れ出した。
「まあ、珍しい。」
私が言うと、あなたは少しむっつりとして、
「いやなの?」って問いかけてきた。私があなたのそんな表情を見て、くすって笑うと、あなたは余計に膨れてしまった。多分、照れ屋のあなたがそんなことを言い出すなんて、思ったより勇気がいったのでしょうね。笑った私が悪いわ。でも、嬉しかったのも確かなのよ。あなたに誘われるなんてホントに久しぶりだったもの。
蜩の鳴く声を聞きながら、あなたと肩を並べて土手の上を歩いた。涼しい風が吹いて来て、昼間の茹だるような暑さを吹き飛ばしてくれるようだったわ。夕焼けがとても綺麗で、明日もまた暑いのだと暗に告げているかのようだった。
「透瑚さん、疲れないかい?」
あなたが聞いて寄越すのに、私は笑顔を返した。このままあなたと歩いていたかった。でも、あなたはその場に立ち止まって川の方を向いて土手の端に腰を降ろした。
「透瑚さんも座ったら?僕は疲れたよ。日頃の運動不足が祟っているな。」
笑顔で私を手招きする。嘘つきね。私を休ませるためなのが見え見えよ。でも私は素直にあなたの隣に腰を降ろしたわ。あなたの気持ちが嬉しかったから。
夕闇が降りてこようとしている土手の上で、ふたり、ただ黙って寄り添っていたわね。私がそっとあなたの腕に腕を絡めても、あなたはわざと知らんぷりをしていたわ。私は調子に乗ってあなたの肩に頭を乗せた。
「なに?」
さすがにあなたが尋ねてくるのに、
「何でもないの。こうしていたいだけ。」
そう答えて、身体ごともたれかかる。まるで恋人同士のように。あなたは少し戸惑って、私の顔を覗き込むようにして…。でも、結局そのまま、暗くなってゆく空を見つめていた。
「誠司さん…。」
そっと呼んでみる。
「ん…?」
あなたは空を見つめたまま答える。
「気持ちの良い夕方ね…。」
「そうだね…。」
「誠司さん…。」
「ん…?」
「私、幸せよ。」
「…そうか。」
「ん…。だからね、あんまり気を使わないでね。」
「え?」
「自分の身体のことは自分が一番よく知っているわ。」
「…。」
「私は大丈夫。」
「透瑚…。」
あなたは痛ましそうな目をして私を見たわ。でも、本当に私は、恐ろしくも、寂しくも、悲しくもなかったの。だって、私は幸せだったもの。いつもあなたの愛情に包まれているのを感じていたから。
誠司さん。あなたは私が逝ってしまったら、悩み、苦しみ、後悔することでしょう。そんな必要はちっともないのに。仕方ないわね。あなたはそんな性格だもの。だから、私は、携帯メールにあなたへのメッセージを残しておこうと思います。今現在、しかもこの現状で私が何を言おうとも、あなたは自分を責めてしまう。それではいけない、と思うから。
ねえ、私の思いを受け取って下さいね。私がどんなに幸せだったか、あなたを愛していたか、あなたに知っていて欲しいの。そして、あなたに生きて欲しいの。
誠司さん。愛しています。それだけは覚えておいてね。今も変わらず、そして、これからもずっと…。
静かね。
蜩の声が聞こえるわ。私の一番好きな時間…。
end
戻る