毎日、乳飲み子の世話と家事をこなしながら、君は母親の病室に通った。
「大変だろう?」の僕の言葉に、君は笑顔で首を振った。
「お母さん、この子のことが心配だと思うの。この子だって、お母さんが恋しいでしょうし。」
僕は、それきり何も言わなかった。君はそういう人だ。

君の献身にもかかわらず、母親は間もなく亡くなってしまった。後にはまだ名前も決まっていない赤ん坊だけが残された。このままでは施設に預けられる、と聞かされた君は赤ん坊を引き取りたい、と言い出した。
「誠司さん、本当にこれも何かの縁、なのだと思うわ。」
真剣な君の顔。赤ん坊に情も移っていたのだろう。僕は赤ん坊に向ける君の笑顔を知っていたから、快く承知した。僕は君の幸せを考えた。

僕はバカだね。君の幸せだけを考えて引き取ったつもりだったのに、子供達は僕にも素晴らしい幸せをくれた。
君は、その赤ん坊を「浅葱(あさぎ)」と名付けた。それは、空の青色を表している。
「いつも、晴れ渡る空のように笑っていられるように。空にいるお父さんお母さんを忘れないように。」
君はそう言って笑った。赤ん坊に子守歌を歌う君に、僕は改めて君の悲しみの深さを思い知らされた。それでも日々成長する赤ん坊は、君の心の傷を少しずつ癒していくようだった。気が付くと君達はどこから見ても立派な親子に見えるようになっていた。そして僕も、赤ん坊の無邪気な笑顔や仕草に、振り回されながらもだんだんと父親の気分が解るようになっていった。

浅葱が三歳になろうとした頃、家の前に赤ん坊が捨てられていた。まだ臍の緒の付いたままの男の子だった。家の事情を知る誰かが、置いて行ったものと思われた。君の温情に縋ろうと思ったのかも知れない。とうとう親が誰かも解らぬまま、僕達はその子を引き取った。
「これも縁。」
君は言った。
「私達、これで二人の子供の親ね。私、産まないで子供を授かったのね。幸せなことだと思うわ。」
その子を君は「志濃夫(しのぶ)」と名付けた。

子供達は君の愛情に包まれて、すくすくと育った。君は優しい、しかし断固たる母親で、悪いことは悪い、と徹底していた。特に、「人様に迷惑をかけない」、「小さい子やお年寄りに親切にする」、「自分のことは自分でする」、「最後まで諦めない」はどうしても曲げない、我が家の家訓のようになっていた。そのため君はよく子供達と衝突したが、その度命がけでぶつかる君に、子供達は決して拗ねたりグレたりすることはなく、素直なよい子に育っていった。
君は塾の子供達も別け隔て無く接したので、いつしか子供達は君を「ママさん」と愛情込めて呼ぶようになっていた。イヤなことがあっても、ママさんの笑顔が待っていてくれる。手作りのお菓子とお茶で慰めてくれる。君は全ての子供達から慕われた。

僕は子供達にとってどんな父親だったんだろう。小さい頃は、おっかなびっくりに接していたと思う。でも、いつしか無くてはならない存在に変わっていた。浅葱の笑い声が聞こえないと、落ち着かない気分になった。志濃夫の駆け回る足音がないと、仕事に身が入らなかった。君の周りにまとわりつく小さい影がないと、物足りなく思えた。

そんな幸せを幸せとも意識しない、平穏で幸福な日々が過ぎていった。僕が自分も父親なんだと意識せざるを得ないことが起きた。ある夜、浅葱が一人の男を伴って帰宅したのだ。改まって話がある、と切り出され僕は戸惑った。何となく予感がした。
「お嬢さんと結婚させて下さい。」
それでも驚きとともに娘の顔を見ると、そこには成長して一人前の女性となった娘の姿があった。早いものだな。心の中でそう独り言を言いながら、娘の選んだ男の顔を見た。緊張で強ばった表情。でも誠実さが滲みでている。心配そうな娘の顔。僕は娘にこう尋ねた。
「この人となら、幸せになれるのかい?」
「はい。」
娘は真剣な顔で答えてくれた。
「君は浅葱を幸せにしてくれますか?」
今度はその男に尋ねる。
「はい。私の生涯かけて。」
どこかで覚えのある台詞だと思って記憶を辿れば、それは遠い昔の自分の言葉だった。僕は苦笑した。娘は父親に似た人を結婚相手に選ぶ、と世間はいう。しかし、いざとなるとどうにも複雑な思いだ。怒りと喜びと寂しさと。これが花嫁の父親というものなのか。
「きっと娘を幸せにして下さるのなら、結婚を許しましょう。」
娘は次の春にウエディングドレスを着た。

志濃夫は活発な子だった。やんちゃで少しもじっとしていない。おしゃべりで好奇心旺盛。それが、思春期を迎える頃、急に寡黙になった。ある日、深夜になっても連絡すらくれず、夜明け近くになって帰宅した。心配して寝ずに待っていた君。なのに理由一つ告げずに部屋に戻ろうとする志濃夫に、僕がキレた。
「本当の親でもないくせに!」
反抗した志濃夫のその言葉に、今度は君がキレた。
「確かに、あなたは私がお腹を痛めて産んだ訳じゃないわ。でも、私達はあなたのことを神様から授かった子だと信じてきたわ。だから、あなたは私達の子供なのよ。それに、嬉しい時も悲しい時も共に過ごしてきたじゃない。私達が家族だという事に変わりはないわ!」
その言葉を聞いて黙り込み、部屋に戻った彼を僕は追いかけ、言葉を継いだ。
「志濃夫。ママさんの言う通りだよ。」
それでも何も言わない彼に僕は畳みかけた。
「志濃夫という名前はママさんが付けたんだよ。志(こころざし)、つまり思いが濃く集まっている男の子、っていう意味だよ。お前は捨てられた、と思っていじけているのだろうけど、お前の生みの親はお前を育てられないとわかって、それでもお前に幸せになって貰いたくて、自分の子供でなくとも親身に育ててくれると信じられた僕たちにお前を託したんだとママさんは思っている。だから、その思いを受けて、幸せに育つように、とママさんは思って名付けたんだ。お前は、そんな生みの親の思いとママさんの思いをどう考えるんだい?」
志濃夫は三日間閉じこもったが、その後、もとの明るい子に戻った。

本当に月日の経つのは早いものだね。娘は結婚して家を出、息子は就職して独立した。どうやら交際している女性もいるようだ。この分だと遠からず初孫の顔が見られそうだ。僕たちも一仕事を終えて、また夫婦二人きりの生活に戻った。のんびり旅行にでも行こうか、と考えていた。そんな矢先、君が倒れた。

無理が重なって、心臓が弱っている。そう、医者に告げられた。こんなになるまで気が付かなかったのか、と、僕はまた自分を責めた。いつも僕は手遅れになるまで気付かない。自分の迂闊さに腹が立った。
それでも子供達は僕を責めなかった。それどころか、残り少ない君の人生を、いかに幸せに過ごさせてあげられるか、共に考えよう、と言ってくれた。本当に、この子達を育てて良かった、と思った。
冬の日の、ほっかりとした陽だまり。君は僕にとって、そんな、優しくほっと出来る場所だった。僕はそんな大事な存在を失ってしまう。夢なら覚めてくれ。
それからは、出来る限り一緒にいるようにして、君の身体に障らない限りの、君のやりたいことをさせてあげた。君を失うことは、最早決定的だった。だが、僕は自分の絶望を面に表すことが出来なかった。表してはいけなかった。君が苦しむ。

僕が自分を責めているうちに、君は友人に手紙を書いたり、昔のアルバムを引っ張り出したり、まるで身辺整理を始めたかのように見えた。君に君の運命を知られてしまったものかと僕は焦った。そんな僕に、君はある日の夕方、こう言った。
「誠司さん、気を使わないで。私の身体のことは、私が一番知っているわ。」
僕は君の顔を見た。その顔には恐怖など欠片もなく、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「私は大丈夫よ。」
僕は、そんな君に何をしてあげられるのだろう。

君は、穏やかに日々を過ごし、一月の後に再び倒れて入院した。もう意識は戻らないだろう、と言われたが、奇跡的に君の意識は戻った。
君はちっとも苦しそうに見えず、ただ真っ青な顔色と色の褪せた唇が、病状の悪さを物語っていた。
君は家族が揃うのを待っていたのだろう。最後に志濃夫が到着すると、君は満面の笑みを浮かべ、微かに唇を動かした。何を言おうとしたのだろう。わからぬまま、君はそっと目を閉じた。それで、終わりだった。

透瑚。君は幸せだったろうか?僕は君を守れたのだろうか?最初の約束を守れたのだろうか?
君を亡くして呆然とする僕に、浅葱が君の携帯電話を手渡してくれた。
「ママさんがね、私に何かあったら、未送信メールのボックスを開けて父さんに見せてね、って言っていたのよ。」
扱い慣れない携帯電話。そう言えば君は、僕にこれを誕生日プレゼントに欲しい、とねだったのだった。それは、こうなることを予期していたのだろうか。僕はメールを開けてみた。

「誠司さんへ。
あなたがこれを見ているという事は、私は天国にいるんでしょうね。日頃、恥ずかしくて口に出せないでいる言葉を、私はここに残しておこうと思います。多分、私の口から言える機会はもう無いことでしょうから。
誠司さん。今日までありがとう。私、とても幸せでした。あなたに護られて、あなたの優しさに包まれて。あなたはいつも私を気遣い、私を見ていて下さった。あなたの眼差しがあったからこそ、私は精一杯生きることが出来たの。ありがとう。子供達のことも感謝してます。あなたがいたからこそ、あの子達を引き取る勇気がもてたし、育てる努力が出来たの。あなたが後ろに控えている、という安心感と頼もしさが、私の行動の後ろ盾となってくれたの。
ねえ、誠司さん。あなたはこんな私と結婚したことを後悔していませんか?体が弱くて、あなたに子供を産んであげることも出来なかった私。あなたに心配ばかりかけていたような気がします。あなたが私を見捨てないでいてくれたことはとても嬉しかったけれど、あなたが自分の人生を後悔しなければいい、と思います。
誠司さん。私はこうして旅立つことになったけど、あなたはこれから先、自分の幸せを見つけて下さいね。私があなたにあげられなかった幸せが、これから先の人生にきっと見つかることでしょう。あなたと子供達が幸せに生きてくれることが、私の唯一つの願いです。
誠司さん、本当にありがとう。子供達をよろしくお願いします。
最後に、今も変わらず愛してます。

透瑚。」



「そろそろ、出棺の時間よ。父さん、喪主挨拶出来そう?」
「…ん。駄目だったら、俺が挨拶、変わってやるよ。」
「そうね。お願い、志濃夫。あなた、しっかりしてきたわね。姉さん、嬉しいわ。」
「長男だからね。姉さんこそ、無理しちゃ駄目だよ。お腹の子に障る。」
「大丈夫よ。でも、ママさんにも一緒に喜んで貰いたかったわ。亡くなってから判るなんて…。」
「そうだね…。」

「本日は、お忙しいところを亡き妻の葬儀に参列していただき、信にありがとうございます。何を思うに付け、私には身に余る妻でした。苦労ばかりかけた、と後悔が募ります。しかし、こんな私に妻は、生前、メールを残していてくれました。自分は幸せだった、と。ありがとう、と。
私は妻の言葉通り、子供達と一緒に一生懸命生きていこうと思います。本日は、ありがとうございました。」


透瑚。これでいいよね。僕は、子供達と生きるよ。ああ、それから、君に孫が出来るんだよ。空から見守っていておくれ。


  end






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