あれは春。桜の花の頃。はらはらと散る花びらが、雪のように舞っていた。その下で君は、手のひらで花びらを受け止めていた。無邪気な微笑みを浮かべて。
その次は、若葉萌ゆる初夏。君は、大きな老木の幹に耳をつけて、静かに目を閉じていた。まるで神聖な社に祈りを捧げる巫女のように。その表情のあまりの透明さに、僕は興味を引かれた。
「あの…。」
おずおずと話しかける。君は瞬間驚きで目を見開き、次にははにかんだ微笑みを浮かべた。
たぶん僕は、その瞬間恋に落ちたのだ。生涯を賭けた恋に。
「何をしているんですか?」
躊躇いがちにかけた言葉に、君は真面目な表情で答えてくれた。
「木が水を吸い上げている音を聞いているんです。この時期、樹木は活発に活動しているから、こうして耳をつけていると、水を吸い上げる音がとてもよく聞こえるんです。」
「へえ…。」
その言葉に僕は目を見張った。
「ざあ、ざあ、って動物の血流を聞くのと同じなんです。ああ、植物も生きているんだなあ、って思うんです。」
とびきりの笑顔。僕はしばし見とれていた。そんな僕をどう誤解してくれたものか、君は慌てて次の言葉を繋いだ。
「ごめんなさい。私ばかり勝手に話してしまって…。」
「いえ、僕の方こそあなたの邪魔をしてしまったようです。でも、お陰で愉しい発見をさせてもらいました。そうですか。木も生きているんですよね。」
僕も慌てて君の思い違いを訂正した。君はまたにっこり微笑んだ。その時僕は完全に君に魅了された。

ねえ、思い返せば何時も、傍らに君がいた。僕は幸せだったんだね。あまりにも側にありすぎて、気付きもしなかった。ねえ、君は、僕の陽だまりだったんだね。今になって僕は…。


「父さん、どうしてる?」
「うん、ずっとああして母さんの棺に付き添ったまま…。」
「そっかあ。父さんと母さん、俺たち子供の目から見ても、仲の良い夫婦だったもんなあ。父さん、気落ちしてあのまま寝込んじゃうんじゃないだろうな?」
「変な事、言わないでよ。この上、父さんの身に何かあっちゃ、溜まらないわ。」
「ごめん、姉さん。でも、こうして見ていると、父さんったら、後を追い兼ねない雰囲気に見えるんだ…。」
「…確かに、ね。もう、こうなったら母さんに、父さんを連れて行かないで、って頼むしかないわね…。」「うん…。本当だね。」

君と言葉を交わして以来、僕は毎日の日課の散歩が楽しみになった。朝な夕なに君は、木や草や小動物と親しむ姿を僕に見せてくれた。とても微笑ましかった。でも、意気地なしの僕は、離れた所から君の楽しげな姿を見守るのがやっとだった。君の笑顔はいつの間にか僕の、心の支えになっていたんだ。
その頃の僕は何も知らなかったんだ。そうして明るく、楽しげに笑う君が、どんなに重たいものを背負っていたのか。
底冷えのする晩秋。いつもの並木道を歩く君に会った。犬を連れていた。一人で犬の散歩をする君を、そういえば初めて見た。犬を連れている時は、君は必ず誰かと一緒だった。君の事をあんなに見ていた僕なのに、ちっとも気付いていなかったんだ。
突然、やはり散歩中の大型犬に吠えられて、君の連れていた犬が、君の手を振り切って一目散に逃げ出した。
「あ!」
君は慌てて後を追う。でも、犬は一目散に駆け去り、君は見る見る置いてきぼりを食らった。見かねて僕が代わりに追いかける。犬を抱えて戻ると君は、道端にうずくまっていた。
「大丈夫?」
駆け寄って助け起こすと、君は紙よりも白い顔色で、それでも無理矢理微笑みを浮かべて見せた。
「ええ…。大丈夫…。」
「大丈夫、って顔色じゃないよ。家、どこ?送っていこう。」
「大丈夫…。少しこうしていれば…。ポピーは…?」
「ここにいるよ。」
犬の姿を確認すると、君は安心の吐息を漏らした。その時。
「!透湖(とうこ)!」
慌てて駆け寄ってくる男。
「兄さん…。」
君は笑顔で彼を迎えた。
「心配になって来てみれば!大丈夫か?」
「うん…。ポピーが逃げ出しちゃって…。この方に捕まえてもらったの。お礼を言って…。」
「あ、どうも…。」
男は初めて僕の存在に気付いたように僕に目礼した。
「妹がお世話をかけました。」
「いえ。僕は犬を捕まえて来ただけで…。」
僕はその男に、君がポピーと呼んだ犬のリードを手渡した。
「ありがとう。礼を言います。じゃあ、僕は妹を連れて帰るので…。」
男は軽々と君を抱き上げ、茫然とする僕を残して立ち去った。それが僕と君の兄さんとの出会いだった。

数日後、並木道のベンチに座る君を見つけた。君も僕に気付いてくれた。立ち上がると、僕に笑顔を向けて、軽くお辞儀をした。僕も軽くお辞儀をすると、勇気を振り絞って君に近づいていった。
「この間はどうも…。」
そう声をかけると君は慌てて首を振った。
「いえ。私の方こそ、ろくにお礼も言わないで帰ってしまって。ごめんなさい。そして、ありがとうございました。」
丁寧に頭を下げた君に、僕は面映ゆくなった。
「そんな…。僕は大した事はしてませんよ。それより、大丈夫なんですか?」
「あ、はい。身体が弱いもので、時々ああなるんです。」
君はにっこり微笑みながら答えた。僕は、その笑顔に見とれてしまった。
「?どうかしました?」
君が不審そうに問いかけるまで、僕は阿呆のように口を開けて君を見ていたのだろう。
「いえ!なんでも!あ、お名前、聞いてもいいですか?」
慌てて言い繕った。
「ごめんなさい。最初に名乗るべきでした。重ねて失礼してますね。私、繁森(しげもり)透湖といいます。」
「あ、僕は吉村誠司(よしむらせいじ)です。」
僕も慌てて名乗った。
「よくこの辺りを散歩しておられますよね。僕もこの並木道が好きで、よく来るんです。」
「そうなんですか。なんだかここでお待ちしていたら、あなたにお会いできそうな気がしていたんです。なまじ、気のせいではなかったみたいですね。」
また君はにっこり笑う。
「あの、ごめんなさい。もう私は帰らなければなりません。あまり遅くなりますと、家族の者が心配しますので。」
夕闇が降りかけてきた空をちらりと見て、君はもう一度僕に丁寧に頭を下げて申し訳なさそうにそう言った。
「そうですね。遅くなってはいけませんよね。」
僕は、心と裏腹な言葉を口にしていた。
「それでは、失礼します。どうもありがとうございました。」
君はそう最後の挨拶をすると踵を返して去って行く。僕は慌てた。このきっかけをこのまま逃したら、きっともう君と話をする機会はない。そんな気がした。
「あの、」
思わず声が出ていた。
「はい?」
君は振り返ってくれた。
「あの、また、話してもいいですか?」
僕の真剣さに君はたじろいだ風だったけど、笑顔で頷いてくれた。
「ええ。」
僕は内心雀踊りした。
「じゃあ、また!」
君に軽く手を振ってみせる。君はまた軽く会釈すると、もう振り返ることなく帰って行った。

それからは僕は、君が居るだろう時間をみはからって散歩道を訪れ、君に話しかけた。君は僕がする話を興味深そうに、時には笑顔で、時には真剣な眼差しで聞いてくれた。そんな風に僕の話を聞いてくれたのは、君が初めてだった。僕は君の聡明さに驚きと喜びを覚えた。君は高校すらまともに出ていない、と謙遜して言っていたけれども、それは君の頭が悪いせいなどではないことは僕にはよく解っていた。
そうして話し込むにつれ、君はだんだん僕にとって、大切な存在になっていった。一年が過ぎ、また雪のちらつく頃には、僕は君との将来を考えるようになっていた。そして、ある雪の日、僕はその考えを君に告げた。
覚えている。その日の僕は、朝から緊張の極みだった。今日こそ君に伝えるのだ。
いつもの散歩道で、君はじっと空を見上げていた。グレイの空から果てしなく落ちてくる雪を、飽きる事なく見つめていた。
「透湖さん。」
僕が呼びかけると、あの、やわらかい笑顔を向けてくれた。
「寒くないんですか?」
僕の問いかけに君は軽く首を振った。
「いいえ。雪が綺麗で、見とれてました。」
それから小首を傾げて悲しそうに微笑んだ。
「どうしてこんなに綺麗なのに、手のひらに受け止めると溶けて消えてしまうのでしょうね。ええ、所詮はただの氷の結晶なのだとは知っています。でも、余りに儚い…。悲しすぎます…。」
僕はその時、君が優しすぎるせいだと解釈した。でも違っていたんだね。君は雪と君自身の運命を重ねて見ていたんだ。
僕はかなり迂闊だったね。自分の将来と君との幸せと、輝く未来しか見ていなかった。そうして淋しそうにまた空を見上げた君を、僕はそっと包み込むように抱きしめた。雪と一緒に消えてしまいそうだった。
僕の行動に君は少し身を強ばらせた。考えてみると、君に触れたのはそれが初めてだった。慌てて身を引く。完全に頭に血が上ってしまった。
「ご、ごめん!」
いきなりそんな実力行使するつもりなんかなかった。でも、つい手が出てしまった。今更取り繕ってもしようがない。僕は覚悟を決めた。
「と、透湖さん!」
僕の勢いに君は気圧されていた。それに乗じて畳みかける。
「透湖さん!僕と結婚して下さい!」
君は驚愕で目を見開いた。僕は君が事態を把握するのを息を詰めて待った。
君は、驚愕の一瞬から抜け出すと、僕の言葉の意味を噛みしめていた。そしてそっと俯いた。そのまま時が移って行く。僕はひたすら君が口を開くのをじっと待った。すると突然君の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。僕は慌てた。
「透湖さん…。」
君は俯いたまま涙を零し続けている。僕はお手上げ状態に陥った。どうしたらよいか解らない。君が何故泣いているのか解らない。そんなに僕が嫌いだったのか?君の笑顔に好意を見ていたのは、僕の自惚れだったのか?目の前が真っ暗になっていった。
僕が狼狽えているのを知って君は、顔を上げて僕を見つめた。何も言わず僕を見つめた。瞳には涙が一杯に湛えられていた。僕は君の表情から悟った。返事の出来ない事情があるのだ、と。話せないほどの理由なのだ、と。
僕は少しほっとした。君は決して僕を嫌ってはいないのだ。ならば、待つ価値はある。君が話してくれるまで。
「透湖さん、答えは急ぎません。僕は気の長い男です。でもいつか、そうして君の抱えているものを、僕にも分けてくれませんか?僕は、今は何も知りません。でも、君と生きていきたい、と思う気持ちは真実(ほんとう)なんです。」
君はまた涙を零した。何も口に出さない。僕は、無理矢理笑顔を作ると、踵を返した。後ろ髪を引かれる思いだったけれど、今はそうするしかない、と思った。

次の日も僕は、いつもの散歩道に君を待った。君は現れなかった。僕に会いたくないのだろうか?だから、わざと散歩にも来ないのだろうか?いや、昨日の答えがまだ出ないから、来ないのかも知れない。僕の思考は支離滅裂を極めた。心は千々に乱れる。ただ君に会いたい。

僕の気持ちのようにどんよりと重い雲が垂れ込める日が続いた。君は現れない。僕は何も手につかないまま、ひたすら君の姿を求めていた。十日が過ぎる頃には、僕は後悔の波に揉まれていた。君に告げなければ、僕は、僕達は、あの小さな幸せの中で過ごしていられたのだろうか。君を苦しめる事も、僕が苦しむ事もなく。そうしてただ思い悩むうちに日々が過ぎていく。

君の姿がないまま、僕の散歩道通いは続いた。僕は、半分病人のようになっていた。僕には君の存在が必要なのだ、と痛感した。
力なくベンチに座り込んでいると、刺すような視線が注がれているのに気付かされた。顔を上げると、少し離れた場所から僕を睨みつけている男の姿があった。見覚えのある子犬を連れている。僕が気付いた、と見て取ると、男はつかつかと近付いて来た。
「貴様、透湖に何をした?!」
いきなり襟首を掴まれた。
「え…?」
「透湖は体調を崩して寝込んでしまった!一体どんな酷い事を透湖にしたんだ?!」
凄い剣幕でまくし立てられた。
「!透湖さんが病気?!」
僕は頭から冷水を浴びせかけられた気分だった。男の手を振り解くと、逆に詰め寄った。
「透湖さんはどこが悪いんですか?!大丈夫なんですか?!」
僕の勢いに相手のボルテージは逆に下がったらしい。それでも僕を睨みつけながら冷静な口調になって言い放った。
「貴様には関係ない。」
「!」
僕の神経は音を立てて切れた。
「冗談じゃない!僕には心配する権利がある!僕は人生を透湖さんと共にするつもりなんだ!言え!透湖さんの具合はどうなんだ?!」
男は僕の言葉の内容を理解して、一瞬目を見開いた。それからひとつ大きく息をついた。
「…そうか。それで解った。」
彼は難しい表情になっていた。おかげで僕の頭も一瞬にして冷めた。彼はそれきり僕の存在も無視して、犬を連れさっさっと立ち去ろうとする。僕は慌てて彼の腕を掴んだ。
「待って下さい!そもそもあなたはどなたなんです?透湖さんはどうしているんです?答えて下さい!」
彼はぎろりと僕を見た。
「前に一度会っているはずだがな。」
それから僕の必死な顔に考え直してくれたらしい。
「まあ、いい。どうせ透湖の顔しか見てなかったんだろうしな。俺は透湖の兄だ。」
「あ…。」
僕は思い出した。あの時。
「繁森義行(しげもりよしゆき)だ。透湖はずっと家に閉じこもっている。もともと身体の弱い子だが、このところ思い詰めている様子で、それが体調を余計に悪くしている様に見える。」
「…。」
彼の視線が痛い。「問い詰めても何も言わない。だが、あれ以来、貴様と会っていて、透湖は変わった。よく笑うようになった。俺達家族はそれでよい、と思っていた。透湖が幸せならそれでよい、と。だが、どうだ?今や透湖はまるで生きる事を止めてしまったように見える。だから、俺はここに来た。原因は貴様以外考えられない。」
僕は視線を落とした。僕の言葉はそれ程に彼女を傷つけたのだろうか。
「もう、透湖に関わるな。それが貴様のためだし、透湖のためだ。」
「!それはどういう意味です?!」
僕はその言葉に引っかかりを覚えた。
「貴様には関係ない。もう、透湖に近づくな。」
彼は僕の抗議をあっさりと受け流した。言いたい事だけを言い終えると、もう振り返る事もなく歩き去って行った。あとに残された僕は、心配と苦悩の波に揉まれた。

(僕に何が出来るだろう。透湖さんのために。)
まず、僕が考えたのはそれだった。夜も寝ないで考え続けた。理由が解らない。でも、僕の言葉で君が傷付いた、それは真実だった。あの言葉を取り消すべきなのだろうか。そうしたら、君はまた僕に微笑みかけてくれるのだろうか。いや、取り消すことが出来たとしても、君は僕を許してくれるだろうか。許してくれなかったら、僕はどうしたら良いのだろう。思いは尽きない。

思い悩んだ日々の後、僕は手紙を書いた。君への思い。そして、僕が思い描く君との未来。僕の全てを拙いながら必死で書いた。その結果、全てが終わろうとも、悔いは残さないつもりだった。君の手に委ねようと思った。僕がしでかした事から、全ては始まったのだから。

透湖。あの時、君に会わなかったら、僕はどんな人生を送っていたんだろうね。なんて色んな事があったんだろう。君は僕に、暖かい家庭をくれた。こよなく幸せな日々をくれた。透湖。僕は君に何かあげられただろうか。

春になって、桜の花がほころび始めた頃、君から手紙が着いた。話したい事があるのて、あの並木道で会いたい、と。僕は不安と期待に高鳴る胸を抱えて待ち合わせの場所に向かった。

君はいつかのように桜の木を見上げて立っていた。君の姿を見つけた時、僕は胸が締め付けられる思いがした。決してふっくらとはしていなかった君だけど、またいっそう細くなってしまっていた。そんな君を見つめたまま、声をかけられずにいた僕に、君の方が気付いて、まるで雲間から日が射すように笑った。
「透湖さん…。」
我ながらおずおずと話しかけた。
「よかった…。思ったより元気そうだ。」
君はまたにっこり笑った。
「はい。誠司さんにはご心配をかけてしまいました。ごめんなさい。それから…、お手紙、ありがとう。」
僕は自分の顔が赤く上気していくのが判った。手紙の内容を思い出した。さながら茹で蛸のようになった事だろう。君は咄嗟に僕の気持ちを察してくれた。
「あ、あの、少しお話ししたい事があるの。ベンチにかけましょう。」
僕の顔を見ないようにして、先に立って誘う。並んで腰掛けると君は、視線を落として大きく息を付いた。

「誠司さん、私、あなたに話さなくてはならない事があるの。ずっと言えないでいた事…。」
僕は、思わず君の顔を見つめた。君はじっと膝の上の自分の手を見つめている。そして、そのまま静かな口調で本題に入っていった。
「あのね、私の身体が弱い事、あなた、知ってるわよね。私、実は、先天性の心臓疾患なの。お医者様には、このままだと、いつ死んでしまっても不思議はない、って言われているの。」
僕は息を呑んだ。君は僕の顔を見つめている。悲しそうな瞳。
「死んでしまう…?透湖さんが…?」
我ながら情けない声で、僕は問い返した。君は真剣な表情で頷いた。
僕は蒼天が頭の上に落ちてきたような気がした。思わず君の顔を見つめてしまう。すると君は、また大きく息を吸うと、春の日差しのように暖かく笑った。
「大丈夫。私は死にません。」
僕ははっとした。
「このままだと、と言ったでしょう?私、だから、手術をします。」
「え…?」
僕には話が見えなかった。思わず素っ頓狂な声を出してしまった。今度は君は、可笑しそうに笑った。
「手術をすれば、生き残れる可能性が出来るそうです。だから、私は手術を受けます。そして、生きて、あなたと共に人生を歩みたいと思います。」
僕の頭は混乱した。
君はそんな重大な事を笑顔で言ってのけたのに、僕はひたすら狼狽えている。降って来た現実。君の死。しかし、事も無げに君は、死なない、と言ってのけた。僕と生きるために手術を受ける、と。
「手術をすれば、君はそれでもう大丈夫になるの…?」
声が喉に絡まる。
「手術に危険はないの…?」
僕の問いに、君は少し躊躇った。
「…成功率は三十パーセント。でも、手術しなければ…。」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。君の存在が無くなってしまう。君の笑顔が永遠に失われてしまう。僕は…。
「だから、私は死にません。」
そんな僕の様子を見て、もう一度君は、力強く宣言した。僕は目を見張って君を見た。
「大丈夫。私、あなたと生きるの。」
その時の君は、むしろ神々しく見えた。

君の告白を聞いたからには、僕も覚悟を決めねば、と思った。大きく深呼吸する。君を生涯かけて守る、と誓ったのだ。僕がたじろいでいてはどうにもならない。二人の未来も勿論、ない。君と共に生きていきたい。僕は、この恐怖を乗り越えよう。未来を望もう。
君の笑顔を見ながら、僕はそう決意した。君を失う恐怖は足下が崩れていくような感覚をもたらした。でも、君は君自身の命と、未来をかけてくれた。男として君を守り支える。
「透湖さん、それで良いのですね。」
僕は、君の顔を見つめて念を押した。君は黙って頷いた。今度は僕が君に僕の覚悟を見せる番だ。
「透湖さん。」
「はい?」
君は僕声に込められた思いを感じとってくれたものか、僕の顔を振り仰いだ。
「僕と結婚して下さい。」
僕は、僕の全身全霊をその言葉に乗せて言った。
「君を護りたい。君の苦難を、一緒に乗り越えて行きたい。」
君は目を見開いた。
「誠司さん、私…。」
「君は死なない、と言った。でしょう?だから、僕は君の手術に立ち合う。君の夫、または婚約者として。イヤ?」
僕の言葉に、君は一瞬戸惑った顔をした。それから、改めて僕の顔を見つめた。その瞳にはみるみる涙が溢れてくる。
「透湖さん…。ダメ、なんですか?」
僕は少し不安になった。しかし、君は僕に微笑みかけて、ゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、誠司さん。いいえ。」
僕は、全身を喜びが駆け抜けるのを感じた。君の肩を軽く引き寄せ抱きしめる。そっと、壊さないように。

次の日に早速僕は、繁森家に挨拶に向かった。
「透湖さんと結婚させて下さい。」
僕の言葉に、君の両親はかなり驚かれたようだった。

「透湖の身体の事は御承知で、そうおっしゃっているのですか?」
父上が難しい表情で、そう尋ねてきた。
「はい。」
僕は、僕の持つ誠意の全てを込めて答えた。
「みな、透湖さんから聞きました。その上で、申し上げています。僕は一生、透湖さんを護りたい、と思います。そして、共に生きていきたい、と思っています。」
父上は今度は君に向き直って尋ねた。
「透湖。お前は、そうしたいんだね?」
君は、父上の目を見つめてはっきりと頷いてくれた。
「はい。私は、誠司さんと生きていきたいのです。」
父上は母上と一瞬顔を見合わせ、それから改めて僕に向き直った。
「このタイミングでこういう話が出るとは、考えてもいませんでしたよ。透湖が手術を受ける、と言い出した時、もしかしたら、とは思ったのですがね。」
僕の目を恐ろしいほどの真剣な眼差しで覗き込む。
「透湖に生きる希望を与えてくれたことには感謝してます。しかし、悲しいことに、手術が成功するとは限らないのです。それなのにあなたは、「死」というものと直面しているこの娘を見守り続けられるのですか?本当に支え続けて下さるのですか?」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。もう既に覚悟は決まっている。
「はい。僕は透湖さんの全てを背負い込む覚悟です。共に生きる、とはそういうものなのではありませんか?」

父上は、一瞬目を見開き、それからゆっくりと微笑まれた。
「あなたの言う通りです。夫婦とは、共に生きるとは、そういうものだと私も思います。では、透湖をお願いしてもいいんですね?透湖を幸せにして下さるんですね?」
「はい。僕の心の全てで。僕の命の尽きるまで。」
今思い返すと、赤面してしまう。そんな言葉を、僕はこの時、真実心の底から父上に告げることが出来た。
「解りました。私達に異存はありません。透湖の事、宜しくお願いします。」
父上は僕に深々と頭を下げた。母上は涙ぐんでいた。この二人の宝物を、僕は分捕っていくのだ。大切に、大切にしなければ、と僕は肝に銘じた。

結婚は、手術が無事終わってから、という事に決まって、僕は晴れて君の婚約者と認められた。普通の恋人達ならば、一番幸せな時期なのだろうに、僕達は君の「死」という現実問題に直面していた。それ故、なをの事会っている時の一分一秒を大切にした。寄り添って、二人で色々話した。二人の未来について。家族について。君がどんなに家族に愛されて来たか。僕にはその時、既に両親はなくて、羨ましく、微笑ましく君の話を聞いていた。そしていつか、君の育った家庭のような家庭を作るのが、僕の夢になった。

未来を見る事で、君の「生」への執着を増すのが狙いだった。その意志が君をこの世に繋ぎ止めてくれる事を祈った。恐ろしい「死」の影に、より怯えていたのは、僕の方だったのかも知れない。君の笑顔は、僕にとって、極寒の冬の最中に差す暖かい日差し、その陽だまりそのものの存在となっていたから。
手術が始まった。
「行ってきます。」
笑顔で僕達にそう告げて、君は一人、戦いに向かった。残された僕達は、ひたすら祈るしかなかった。天に地に、全ての神々に、仏に、自然の精霊達に、ご先祖様に。縋れるものなら何にでも縋りたかった。君を連れて行かないでくれ。天へなど召さないでくれ。僕の手から奪い去らないでくれ。
どれ程の時が過ぎたものか。いつの間にか夜になっていた。夕方には終わるはずだった手術が、まだ終わらない。僕達はイヤな予感に苛まれた。だが、やがて手術室のドアは開き、意識のない君が運び出されて来た。
「手術は成功しました。あとは本人の生きる気力の問題です。」
医者の説明に僕達は揃って君の顔に見入った。
(どうか…。)
心の中で手を合わせる。
(どうか…。)

とうに麻酔が切れている筈なのに、君はなかなか目を覚まさなかった。手術が長引いたせいもあるのだろうか。医者が難しい顔をしてうろついている。
「声をかけても良いですか?」
たまり兼ねて僕は提案した。医者ははっとして、頷いた。
「そうですね。そっと呼んでみて下さい。」
僕はそっと枕元に近寄ると、君の名を呼んだ。
「透湖さん。透湖さん、目を開けて。目覚めて下さい、透湖さん。」
途端、君の瞼がぴくりと動いた。
「あ…。」
慌ててご両親と兄上が駆け寄る。君はゆっくりと目を開けた。
「もう、大丈夫です。」
医者も安心したように、僕達にそう告げた。

君の病状はみるみる良くなっていった。医者も驚くほどの早さで、君は回復していった。そして、いよいよ退院の日が来た。
それからは忙しい日々が二人を待っていた。一日も早く君と暮らしたい僕は、君の家族にかなりの無理を言った。大学の研究室に務める僕には、大した収入があろう筈もなかったから、結婚式はごく内輪だけで、しかも披露宴は無し、という計画を勝手にたてていた。住む場所も、僕の住んでいるアパートに、そのまま君が来てくれればいい。そう考えていた。君は何一つ反論しなかったが、ご両親は眉をしかめ、兄上は猛反発した。

「繁森の家にはそれなりの対面もある!増してや透湖にそんな寂しい思いをさせてたまるか!結婚は女にとって一生一度の大事。それなのにお前は、透湖をそんな、人にも祝福されず、認めてもらえぬ立場にしたいか?!透湖が可哀想だ!」
僕は言われて初めて気が付いた。君の顔を見る。僕は嬉しさのあまり、自分の事しか考えていなかった。
「兄さん、そんな風に言っちゃ、誠司さんが気の毒よ。私は誠司さんの言う事に従います。誠司さんには誠司さんの考えがあるのよ。」
君は兄上を軽く窘めてくれた。君の言葉に取り敢えず怒りの矛先を納めてくれた兄上だったが、凄い目つきで僕を睨みつけ続けている。僕は僕で、兄上の言葉に猛省した。早くに両親を亡くしていた僕には、そんな世間に対する女性の立場や、世間からどのように受け取られるか、など全てが、考えも及ばないことだった。君を僕の最初の考えの通りに妻としていたら、僕達を駆け落ち者や親の許しも得られない者のように、世間は受け取るだろう。そうなれば少なからず君は、近所から後ろ指を指されるのだ。この当時はそういう時代だった。女性の立場は弱いものだった。世間の口はとみに煩いものがあった。君にそんな思いをさせるのは僕の本意ではない。僕は改めてご両親と兄上に頭を下げた。

「申し訳ありません。僕の考え無しでした。」
ご両親はほっとした様子を見せた。兄上はむっつりと黙り込んでいる。
「でも、恥ずかしながら僕の今の収入では、透湖さんにしてあげられる事には限りがあります。」
「ならば、全て繁森の家に任せてもらう。」
兄上が言い切った。
「いいえ、兄さん。」
君が遮る。
「私達の結婚よ。お願い。誠司さんの考えも聞いてちょうだい。」
兄上は再び黙り込んだ。君は僕の顔を見つめて頷いた。
「さあ、誠司さん。お話して。」
僕は君の内側の強さを知った。決して強引に自分の主張を通そうとはしないが、確固たる意志を持って着実に周りを説得しようと勤める。まるで柳の木のように。本当に強いのは君の方かも知れない。
「済みません。僕は、僕の力で出来る範囲の結婚式にしたいと思います。繁森家のお力で、豪華な式にも出来ましょうが、それは僕には分不相応だと思います。透湖さんには悪いのですが、僕は、身の丈に合った式でよいと考えます。」
「私もそう思います。」
君はすぐに援護してくれた。
「お父さんの対面は解りますが、私達の結婚式です。それに、誠司さんの生きている場所は、繁森の家とは少し違います。」
「透湖。この結婚、止めにしないか?」

いきなり兄上がそう切り出した。
「お前は、はっきり言ってお嬢様育ちだ。そいつと一緒になっても苦労するに決まっている。そいつにはお前を養う甲斐性はない。」
「兄さんったら…。」
君は苦笑混じりに首を振った。
「私、恋愛に目が眩んで、何も見えなくなっている訳じゃないのよ。きちんと二人で話し合ったわ。私、誠司さんの収入がどれぐらいで、どんな生活をしているか、結婚したらどのような生活になるか、きちんと把握しています。そのうえで、誠司さんとなら良い家庭を築ける、幸せになれると思ったのよ。私、誠司さんと結婚します。」
君は極上の笑みを浮かべて、兄上に言った。兄上はぐっとつまったようだ。それを見て父上が軽い笑い声を上げた。
「義行、お前の負けだ。と言っても、もともとお前と透湖では勝負になりはしないよ。解りました。誠司君、君達の意志を尊重しましょう。でも、私達の協力を拒まないで下さい。私達は透湖の親です。家族です。透湖の幸せを一番願う存在なのですから。」
「はい。ありがとうございます。」
僕は頭の下がる思いだった。親の思いとは本当にありがたいものだ。家族とは暖かいものだ。

初夏の空が高く見えるほど晴れ渡った吉日に、僕達は結婚式を挙げた。クリスチャンである繁森家のため、まずは教会で式を、それからごく近しい人を招いて小さな料理屋で披露宴を開いた。
君は手作りのウェディングドレスで、父上にエスコートされながらヴァージンロードを歩いてきた。祭壇の前で永遠を誓い、君のヴェールを持ち上げた。君はなんて美しかったことだろう。これでやっと君は僕のものなのだ。僕は感激に涙ぐみそうになった。
披露宴では君は、母上がお嫁入りに持ってきたという振り袖を身に着けていた。淡い桜色の地に花車の、古典的な柄が、君にはよく似合っていた。透湖。君の花嫁姿、僕は死ぬまで忘れないよ。僕の、人生最良の日だから。

家は、流石に少し広いところに、まずは僕が引っ越しをしていた。ご近所にも挨拶をすませ、新婚で住むことを伝えてあった。こうして最少限度ではあったが、全ての問題をクリアして、僕達の結婚生活は始まったのだ。

透湖。本当に苦労をかけたね。僕は君を護りたいと思っていたけれど、逆に僕が支えられていたね。

その後、僕は大学の講師になったのに、教授との意見の違いから、さっさと大学を辞めてしまった。それを君は咎めようともせず、母上から習ったという和裁の内職で、黙って支えてくれた。僕は塾の教師という職を得たが、しばらくは家計は火の車だったことだろう。そして、その一番大変な時に、一番悲しいことがあったね。
ある日君は、まるで教会の聖母マリアの像のような笑みを浮かべて、僕に報告した。
「誠司さん、私達、赤ちゃんを授かったわ。」
僕は思わず君を抱きしめた。嬉しかった。君と僕の子供。僕に、もう一人家族が出来る。
君は、とても嬉しそうに、新しい家族を迎える準備を進めていた。実家の父上、母上も大変な喜びようで、初孫の顔を見る日を心待ちにしているようだった。僕も父親たる責任を果たすべく、仕事に精を出した。この頃からだろうか。僕は、子供達に教える事がおもしろくなって来ていた。新しい知識を得た時の、きらきら輝く瞳。素晴らしい吸収力。白紙だからこそのものなのだろう。だが、その可能性を伸ばしてやることに、僕は、熱中していった。君はそんな僕を、にこにこほほえみながら後押ししてくれた。

子供達に集中講義をしていたある日の午後、兄上から仕事場に電話があった。
「このバカヤロー!何をやっている!」
第一声で怒鳴られた。
「はい?」
訳が分からず素っ頓狂な声が出た。
「透湖が流産した!透湖の身体も危ないかも知れない。」
僕は受話器を取り落としそうになった。我が耳を疑った。

その後、どうやって病院に駆けつけたものか覚えていない。息を切らせて辿りつくと、病室の前にはご両親と兄上が悲痛な顔をして僕を待っていた。
「どうしてお前は…!」
兄上が、顔を見るなり僕の首に掴みかかる。
「義行!」
父上が青い顔で窘める。
「そういう場合ではないだろう?それに、透湖の身体に障る。静かに。」
歯噛みしながら兄上は引き下がった。父上は僕に向き直って、いかにも辛そうに口を開いた。
「誠司君。赤ん坊はダメだった。透湖はなんとか大丈夫だ。命に別条はない。だが、透湖は…。」
父上は目を伏せ、言い澱んだ。
「透湖は…、透湖は二度と子供が産めなくなった…。」
僕は愕然とした。足元が崩れていくかと思った。母上が啜り泣いている。

「透湖は…?」
かろうじて掠れた声が出た。
「透湖は、知っているのですか?」
僕は自分のショックの中で、君の絶望を想った。君はどのような暗闇にいることだろう。
「…知っている。」
父上は堅い声でそう告げた。僕には地獄の底から響いてくるような気がした。
母上が涙声で付け加える。
「誠司さん。透湖を…、透湖を責めないで下さい。あの子は、細心の注意を払っていました。ただ、完全な健康体ではないことと、日頃の無理が祟ったとお医者様が…。」
「静音!」
父上が鋭く遮った。母上は慌てて口を噤む。
僕は再び愕然とした。僕が君に無理をさせた…?
思い当たることは多々あった。だが、いつも君はにこにこ微笑んで、楽しそうにしていた。いつも、僕のしたいようにさせてくれた。一言の愚痴も言わずに。
「すまない、誠司君。余計なことを…。」
父上が頭を下げた。母上が俯いて、涙を拭っている。
「いいえ…。確かに、僕が悪いんです。」
いくら後悔してももう遅い。母上はつい本音が出てしまっただけなのだ。僕が君に苦労をかけたから、君は倒れ、子供は死に、君は子供を産めない身体になった。僕が、君から母親になるという、女性の最大の幸福を奪った…。悔しくて、情けなくて涙が出てきた。君を幸せにすると誓ったのに!僕は…。

「おい。」
突然、兄上がそんな僕の肩を掴んで揺さぶった。
「どつぼにはまっている場合か?お前がそんなで、透湖はどうする?」
僕ははっと我に返った。
「お前しか、透湖を支えてやれないんだ。透湖を慰めてやれないんだ。悔しいことに、な。」
殴られるよりもその言葉は、僕の心に衝撃を与えた。目が覚める思いだった。僕はこの人達から、それ程に大切な人を奪ったのだ。
「お前、約束を守れよな。」
兄上は凄い目つきで僕を睨みつける。僕は、その目を真正面から見返して頷いた。そうだ。後悔して悩むのは後回しだ。今は、君のことを考えよう。君まで失うようなことになったら、僕は自分を二度と許せない。僕よりも暗い闇の中にいるだろう君を、僕の手の中に取り戻そう。
「行ってきます。」
僕は、病室のドアを静かに叩いた。

返事のないままドアを開けた。明かりはついていたが、いやに暗い。君の心の闇が、部屋の中に溢れ出しているのだろうか。君は、布団を頭まで被って泣いているようだった。
「透湖…?」
呼びかけるが、返事はない。僕はベットに近寄ると、そっと布団の縁を叩いた。
「透湖。」
びくり、と布団が震えて、君が顔を出した。涙でグショグショに汚れていた。

「誠司さん…!」
僕の胸に飛び込むように縋り付く。そして君は声を上げて泣き出した。僕はそんな君を黙って抱きしめているしかなかった。君の悲しみは深い。どのような言葉も上滑りしそうな気がした。
やがて君は、啜り泣きながら僕の顔を見上げて言った。
「…ごめんなさい…。私…、赤ちゃん…。」
僕は咄嗟に君を抱きしめて、君にその先を言わせなかった。
「言わなくていい!」
君の口にそんな残酷な事実を言わせたくなかった。
「知っているから…!」
君は僕のその言葉を聞くと、また、声を上げて泣き始めた。僕は君の背中を撫でながら、低い声で言い続けた。
「透湖のせいじゃない。透湖のせいじゃないんだ。運が悪かったんだ…。」

どのぐらいの時間、君をそうして抱きしめていたのだろう。やがて君は、泣き疲れて眠りに落ちた。僕はそっと君の頬の涙を拭いながら、この運命をもたらした自分を呪った。

君は思ったより回復が早かった。身体の方は癒えようと、ふとした時に見せる寂しそうな横顔は、心の傷が簡単には癒えないことを表していた。だが君は、二度と僕に、泣き顔を見せなかった。病室で見せたのが最後だった。健気に毎日を過ごす君が、僕は不憫でならなかった。

そんな日々を過ごしていたある日、僕は、自宅で小さな学習塾を開くことになった。それが結果として君に笑顔をもたらした。毎日響く子供達の元気な声。無邪気な表情。元来子供好きで、面倒見の良い君は、子供達から慕われた。それが君の心を癒したのだろう。やっと君の顔に柔らかい笑みが戻ってきた。僕も後悔の痛みから少しだけ解放されるようになった。

家の前の道路で事故があったのは、もう二十年以上前になる。大破した車の中には若い夫婦と生まれたばかりの赤ん坊。産院を退院してきたばかりでの事故だった。飛び出して来た猫を避けようとしたらしい。僕達が救急車の手配をし、若い夫婦に付き添った。生憎、その夫婦には身寄りが無かった。そして、ほぼ即死だった父親と、意識不明の母親、何も知らず親を求めて泣き叫ぶ生まれたばかりの赤ん坊が、僕らの前の現実となった。
「誠司さん、これも何かの縁。私たちに出来る限りのことをしてあげましょう。」
君は若夫婦と子供を気の毒がり、母親の意識が戻るまで、という約束で、母親と赤ん坊の面倒を見始めた。






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