月の青い晩には、このような話も思い出される。輝蘭と蒼凌。あまりにも淡い、月の光にも似た出来事。

 そろそろ秋風も立とうとしていた。唯一人、輝蘭はそぞろ歩きを楽しんでいた。騒々しい江戸の街も一歩町中を離れると、森閑とした静けさが辺りに漂う。別に思うところが有ってこうしている訳ではない。ただ、なんとなく心曳かれる思いがして歩いて来ていた。十七か十八か、今だ元服せぬのはその若衆姿を惜しんでの大殿の思し召しで、やっと今度のお国入りのさいには殿の近習としてのお勤めが決まり元服が許されたところだ。白地に淡く藤の花を染め貫いた大振袖に、銘仙の袴をつけ、前髪立ちのその姿は凛としてあでやか。大殿が元服を渋る理由が思い当たる。

 郊外の豊かな自然を楽しむうちに、古ぼけた、しかし由緒ありげな寺院の境内に、輝蘭は迷い込んでいた。そびえ立つ杉の大木。しんと静まりかえり、人気がまるでない。ふと苔むす石畳に足を滑らせ、輝蘭は吐いていた雪駄の鼻緒を切ってしまった。生憎とすげ変えようにも手持ちに適当な布もなく、履き物無しで帰るには余りに遠出しすぎていた。輝蘭は片手に雪駄をぶら下げて途方にくれた。それでもこの境内をぬけさえすれば、民家もあれば人にも会えよう。さすればすげ変える布地もわけてもらえよう。そう考えて輝蘭が雪駄を片手に提げて歩き出そうとした時、突然後ろから声をかけられた。
「もし、どうかなされたか?」
「はい、雪駄の鼻緒を切ってしまい難儀しております。」
 振り返りざま答える。見ると二十五・六の背の高い武士。涼しげな目をしている。
「それはまた難儀でしたな。ここに手頃な布がござる。わたしがすげ変えてしんぜよう。」
 そう言うとその武士はついと輝蘭の手から雪駄をひきとり、素早くすげ変えて輝蘭の足元に置いた。
「忝ない。助かりました。」
 礼を言って雪駄を履き、改めて名前等尋ねようかと顔を上げると、しかし既にその武士の姿はなかった。振り返ってみても誰もいない。輝蘭は狐につままれたような奇妙な気分を味わった。

 それから幾日か立った頃、輝蘭は今度は街中を歩いていた。使いの帰りでもはや急ぐ必要もない。活気に満ちた大通を、数多い店々様子等眺めながら歩いていく。人手も多い。近所で御祭礼でもあるのか、ハッピを着た若い衆が走り回っている。
 ふいに横手の居酒屋からふらふらと男が飛び出して来たかと思うと、輝蘭の目の前ですてんと転んだ。
「野郎、気をつけろい!」
 呂律の回らない口で、それでも難癖をつけてくる。完全に酔っぱらっているようだ。喧嘩早いのが江戸っ子の気性とか。その声につられて仲間も飛び出して来た。
「?」
 みるみる何が起きているのか把握すら出来ていない輝蘭を取り巻く。
「おい、六助。でえじょうぶか?このえらくお綺麗な侍に蹴り倒されたんだな。よお、よお、お侍さんよお。いくらお侍でもやって良い事と悪い事があらあ。どうしてくれるんだよ、ええ?」
 完全にいいがかりだ。輝蘭のあでやかだが一見頼りなげな姿を見くびってか、嘗めてかかっているのが一目瞭然だ。
「さあ、どう落としまえをつけてくれる気だい?」
 相手が酒代をせびっているのは判っている。だが、輝蘭も武士の端くれ。そんな風に凄まれて、尻尾を巻いて逃げ出したとなれば、武士の面目丸潰れである。そんな事は輝蘭のプライドが許さない。キッと相手の顔を睨み付ける。
「わたしを侮ってもらっては困る。そのような脅しには乗らぬ。」
「なにを!」
 相手の顔色が変わった。
「へえ、べっぴんさんよぉ。それならその身体で償って貰おうじゃないか。」
男どもが舌嘗めずりをしている。
「なあに、こんなべっぴんさんだあ。ちょっと痛め付けるだけにしといてやらあ。それから後はお楽しみってかあ?ちっとばかしとうが立ってるけど味は変わらんだろうしな。」
ニヤニヤと笑いながら輝蘭の周りを囲む輪をじりじり縮めてくる。輝蘭は刀を抜いた。多勢に無勢。本気でかからねば身が危うい。
「面白れえや。その細腕で何が出来るか見てやろうじゃねえか。」
一人が刀を持つ輝蘭の右手を狙い、飛び付き、はがい締めにしようと計る。輝蘭は必死に振りほどく。非力な輝蘭では捕まったら最後、相手の思うがままにされてしまう。しかし、この相手はやたら喧嘩慣れしていた。輝蘭が一人の手を逃れたかと思うと、間髪を置かずに次の野太い腕が伸びて来て、輝蘭の細い手首を掴んで引き倒そうとする。輝蘭は咄嗟に相手の腕に刀を振るい、傷を負わせてなんとか間合いを取ろうとした。接近戦では刀が思うように振るえない。相手もそれは百も承知のようで、今度は左右同時に飛び付いて来た。
「!何をする!」
不意をつかれる形で刀をもぎ取られ、後ろから羽交い締めにされ、輝蘭は叫んだ。
「なあに、可愛がってやろうってんだよ。大人しくしてな。」
下卑た笑いを浮かべて、首領格の男が輝蘭の顎を指先で持ち上げながら言う。
「ほう。思ったよりも上玉だな。こりゃあ、さぞかし…。」
また、舌嘗めずりをする。輝蘭はぞっとした。こんな男どもに自由にされて堪るものか。必死に逃れようともがく。
「ええい、大人しくしねえか!」
激しい平手打ちが飛んで来て、輝蘭は意識が遠ざかるのを感じた。
「ぐえっ!」
突然、男どもの一人が悲鳴を上げてもんどり打った。見ると、一人の武士が棒切れを片手に立っていた。
「なんだ、てめえは!?邪魔しようってのか!」
「お前達の所業、目に余る。許し難い。」
無造作に若い武士は言い放った。「なにを!?」
男どもが殺気だつ。
「私が相手になろう。」
軽く棒を振る。
「ちいっ!しゃらくせえ!やっちまえ!」
一斉に飛びかかって行く男達。輝蘭を相手にしていた時よりかなり荒っぽい。だが、この若い侍は一筋縄ではいかない相手だった。すい、と軽い、最小限の動きで男どもの突進をかわし、棒で叩き伏せる。力が入っているようには見えないが的確に相手の急所に打ち込まれているらしく、男は地面の上で痛みのため、のたうち回っている。辺りに男のうめき声が響く。見事、としか言いようのない腕前だった。自然体で動くためか、風が梢を吹き過ぎて行くように、全く無理がない。優雅、とさえ言えそうな無駄のない剣さばきだ。みるみる男達は薙ぎ倒されて地面に這いつくばった。
「くそー!覚えてやがれ!」
とうとう男どもは捨て台詞を残して尻尾を巻いて逃げ出した。後には輝蘭とあの若い武士の二人だけが残された。
若い武士は持っていた棒を投げ捨てると輝蘭の方に近づいて来た。
「大事ありませぬか?」
手を貸して輝蘭を助け起こす。
「はい。忝のうございます。」
礼を言って振り仰いで驚いた。
「あの、あなた様は…。」
相手もそれに気付いて怪訝そうな顔をする。
「あの…、先日、古寺の境内で雪駄の鼻緒を切って難儀しておりましたところをお助け頂いた者です。お見忘れでしょうか…?」
おずおずと訳を話すと、爽やかな笑顔が返って来た。
「ああ、あの時の…。」
そして、輝蘭の顔を覗き込むようにして
「あなたのような人は、こんな日に盛り場をうろついていてはいけませんね。襲ってくれと言わんばかりの所業ですよ。まさに猫に鰹節。私が間に合ったから良かったものの、あのままではどうなっていた事か。」と、目元だけを和ませて諭す。
「はい。わたくしの不注意でした。以後気をつけます。」
輝蘭は素直に頷いた。それを見て若い武士は、今度は満面の笑みを見せた。
「素直でよろしい。怪我は…?」
「はい。これといって特には…あ、痛い!」
輝蘭は思わず腕を押さえた。さっきの男達に押さえ付けられた時に痛めたらしい。細い手首には痣ができている。
「これは…、急いで冷やした方が良さそうですね。私の家がこの近くにあります。どうぞいらして下さい。手当しましょう。」
「あ、はい。重ね重ねお手数をおかけして申し訳ございませぬ。お世話になります。」
若い武士の親切な申し出に、輝蘭は甘える事にした。

少し歩くと街中の喧騒は遠ざかり、武家屋敷の建ち並ぶあたりに出た。その中の一軒の門をくぐる。かなり大きな門構え。立派なお屋敷だ。どうやら旗本の家柄らしい格式張った造り。輝蘭は少したじろいだ。ここまで大身の身分の武士だとは思っていなかった。身に着けている物も、家の格式から見ればかなり質素な物に思われた。
奥まった座敷に通されて、傷の手当を受けながら、輝蘭は不思議に思っていた。これ程の屋敷であるにもかかわらず、人気が全くないのだ。常識で考えれば、用人、使用人、中間、下男下女、取り混ぜて十数人はいなければおかしい屋敷なのだ。それなのに、傷の手当のための手桶の水すら、主人であるこの武士自らが汲んできたものだ。
不審に思う輝蘭に武士は笑って言った。
「人気のないのが不思議ですか?いつもなら、下働きの爺やがいるのですが、生憎と今日は出掛けてしまっているんです。だから、お茶の一つも出せません。」
済まなそうに頭を掻く。
「いえ、いろいろとお世話をおかけして、わたくしの方こそ申し訳なくて…。」
輝蘭が微笑みと共に答える。
「いいえ、袖摺り合うも他生の縁、と言いますからね。本当に、これだけの事で済んで良かった。」
「はい。ありがとうございます。」
それから急いで居ずまいを正すと、改めて三つ指をついてお辞儀をした。
「お世話になっておきながら、ご挨拶が遅れてしまいました。わたくしは仙台藩江戸留守居役結崎釆女が一子、輝蘭(きら)と申します。」
武士は慌てて自分も座り直すと、返礼した。
「これはご丁寧に…。私は旗本安積(あさか)家当主、安積蒼凌(そうし)と申します。今は無役です。どうぞ、もう堅苦しい事は抜きにして、むさ苦しい所ですが、気楽にして下さい。落ち着かれたらお送りしましょう。」
「はい。忝のう存じます。」
輝蘭はニッコリ笑った。その微笑みを蒼凌は眩しそうに見つめた。

たわいもない四方山話。輝蘭はあでやかに笑い、蒼凌はそんな輝蘭を穏やかな瞳で見つめる。
午後、昼下がりの陽射し。中庭にはタチアオイの花。
ふと、話しが途切れた時、輝蘭は自分を見つめる蒼凌の視線に気付いた。常日頃、見つめられるのには慣れている。だが、蒼凌の視線はいつものそれとは違っている。
「どうかなされましたか…?」
すっと目を伏せて、蒼凌は軽く首を振る。
「いえ…、あなたを見ていると、弟を思い出すのです。」
「弟御がおいでになられるのですか。ご一緒にお暮らしではいらっしゃらないのですね。今、どちらに…?」
蒼凌の瞳が陰る。
「もう、十年以上前に亡くなりました。」
「え…。」
輝蘭は戸惑った。
「わたくしは余計な事をお尋ねしてしまいました。申し訳ありませぬ。」
咄嗟に詫びを言う。
「いいえ。私から言い出した話しです。でも、これまで誰とも弟の話しをしようとは思わなかったのですよ…。」
蒼凌は唇に寂しい笑みを浮かべた。
「何故突然あなたにこんな話しをする気になったものか…。かえって、あなたにはご迷惑な話しですね。」
輝蘭は激しく首を振った。
「そのような事はございませぬ。わたくしで宜しければ、どのようなお話でもお伺い致します。どうぞ、お話下され。」
何故か懸命に訴えていた。蒼凌の余りに透き通った悲しみに満ちた瞳のせいかもしれない。
そんな輝蘭の瞳を、蒼凌は覗き込むようにして言った。
「聞いて下さるとおっしゃるか…?」
輝蘭は、その蒼凌の瞳を見つめ返した。
「わたくしで宜しければ…。」

「私の弟は名を銀弥(ぎんや)といいました。」
静かに蒼凌は話し始めた。
「生まれた時から身体の弱い子で、年を取ってから生まれたせいもあって、両親にとても大事にされていました。弟に手を取られるため、私の世話にまで手が回らないという事で、私は母方の叔父の家に預けられていました。私も幼かったものですから、不安と淋しさと不満とでかなり鬱屈していたと思います。でも、叔父という人は偉い人で、私のそんな思いを察したのか、剣術や体術、乗馬に弓術、はては学問に至るまで、武士に必要な全ての事をみっちりと仕込んでくれました。余計な事を考える暇もないくらいに。そんな日々がしばらく続いて、たまに会いに来てくれる父親には弟の容態について聞かされていたのですが、私は、弟の急変の知らせに、親元に呼び戻されたのです。弟が私を呼んでいる、というのです。」
蒼凌はふっと小さく笑った。
「決して仲の良い兄弟とは言えませんでしたからね。いつも臥せっているか、さもなくば大人しく縁側にちょこんと座っているしか出来ない弟でした。私は活発に動き回る方だったので、滅多に構ってやる事もありませんでしたし。でも、よく弟は、白い小さな顔に微かに微笑みを浮かべて、私の姿を目で追っていたようでした。そんな兄弟でしたのに何故か、いまわのきわに、私に会いたいと父母にねだったのだそうです。驚きと意外な思いとを抱えて、弟の部屋の襖を開けると、弟は、またひとまわり小さくなったような身体をひっそりと横たえて、私を待っていました。私を見るなり弟は、白い顔にいつもの微笑みを浮かべて、言いました。『ああ、間に合いましたね、兄上…。』私は彼が自分の死期を知っているのだと悟りました。そのうえで最後に私に会いたがったのだと。」
蒼凌の唇に苦い笑いが浮かぶ。輝蘭はじっと話しを聞いている。
「弟はまだ、わずか十歳にすぎませんでした。私は軽く狼狽して、弟の言葉に反論しました。『なにを言っている。まるで今生の別れのような言い方だぞ。そんな弱気でどうする。治るものも治らぬぞ。』そう言ったと思います。弟はうっすらと笑い、『でもね、兄上。わたしはもう、長くありません…。』弟は長いまつげを伏せて言いました。『だから、兄上にどうしても会っていわなくては…と思ったのです。』そして、無理を押して起き上がると、布団の上に座り直し、私に向かって言いました。『ごめんなさい、兄上…。』」
蒼凌の瞳が、心中の苦悩を映している。輝蘭は息を飲んで聞いている。
「情けない事に、その時の私にはその弟に何も言ってやる事すら出来ませんでした。また、そう告げた直後に倒れ臥した弟を、無事布団に横たえるのが先決であったのも確かなのですが。」
蒼凌は輝蘭の顔を見つめた。
「あなたは、その時の弟の顔を思い出させます。あの子は、全てを吹っ切ってしまっていたのでしょう。まるで天女のように微笑んだのです。」
輝蘭はそっと視線を落とした。蒼凌は何気なさそうに視線を庭に向けた。
「その夜のうちに、銀弥はこの世を去りました。父母はたいそうな嘆きようで、通夜も葬儀も盛大に行われました。でも、私はずっと弟の最後の言葉について考えていました。そして、思い当たりました。彼は私の気持ちを知っていたのだ、と。そして、最後の最後にその全てに対して、自分が存在していた事そのものについて、私に詫びたのでしょう。父母の愛情を一人占めにし、私から家庭を奪った。親から得られる幸福を私からもぎ離してしまった。それが後ろめたかったのかも知れませんね…。」
蒼凌は悲し気に微笑む。
「笑ってやって下さい。私が本当に弟の気持ちを理解出来たのは、判ったと思えるようになったのは、つい最近なのです。私が弟と同じ病で、もう長くはもたないと知ったからなのですよ…。」
輝蘭は瞳を見開いた。
「そんな…。」
蒼凌はゆっくりと首を振った。
「嘘や冗談ではありません。今の医術では手の施しようがないのだそうです。」
どこかで蝉の鳴く声が聞こえる。二人の間にしばし沈黙が流れた。見渡せる庭は、夏の陽射し。
つと、蒼凌は庭に向き直った。
「いざ、死が目の前に迫ると、人間は弱いものですね。時々夜中に目覚めると、恐ろしさのあまり眠れなくなります。人間全てがそんなに弱いものではなく、私が弱いだけの話かも知れません。弟はこの苦しみに、笑って耐えたのですから。我ながら情けなくなります。弟はまだ僅か十歳でしかなかったというのに…!」
蒼凌の膝に置かれた拳が、ぶるぶると震えている。輝蘭はそっとその肩に手を置いた。
「ご自分を責めておいでなのですね…。」
 「いや…。ただ、私は自分に嫌気がさしているだけです…。何故、こんなにも全てが手遅れになってしまってからしか、気付かないのか…!気付く事が出来ないのか!」
蒼凌の背中が泣いていた。輝蘭は思わずその蒼凌の背中を抱き締めた。
「嘆かないで下さい。あなたのせいではありませぬ。いったいどのような方なら、そんな事が出来るというのでしょう…。我等は所詮、唯の人にすぎませぬ。」
蒼凌は首だけで振り返り、輝蘭の顔を見た。彼の瞳は苦渋に満ち、涙さえ枯れ果てているように思われた。だが、全身で悲しみを訴えていた。
「わたくしでは、慰めにはなりませぬか…?」
輝蘭の口から思わずそんな言葉が漏れた。
「わたくしに出来る事でしたら、なんなりと…。」
蒼凌の目が一瞬大きく見開かれ、次に輝蘭の瞳を覗き込んだ。輝蘭は微かに頷く。
「あなた様はまだ生きておられます。わたくしで宜しければ、あなた様の生きた証ともなりましょう…。」
蒼凌はじっと輝蘭を見つめた。輝蘭は優しく微笑んだ。

月が出ていた。いつのまにか庭にも闇が落ちて来ていた。衣ずれの音を立てて、輝蘭は身繕いを終えた。
「遅くまでお引き留めしてしまいましたね。ご迷惑だったでしょうに。」
 蒼凌が伏し目勝ちに言った。
「いいえ。あなた様のお気が少しでも晴れたのでしたら、わたくしはそれで良いのです。」
輝蘭はあでやかに微笑んだ。
「下屋敷までお送り致しましょう。」
蒼凌もつられて少し微笑んだ。

月が青い。遠くで犬が鳴いている。静かな夜だ。家紋入りの提灯を手に、蒼凌が先に立って歩いている。
「まるで、夢のように美しい月夜ですね。」
輝蘭が空を見上げて言った。
「私にはあなたに出会った事自体が夢のようですよ。」
蒼凌は眩しそうに輝蘭を見つめながら言った。
「夢で無ければこれこそ奇妙な縁由、と言わねばなりますまい…。」
「そうですね…。全て、神の織り成す縁由なのかも知れませぬ…。」
二人は月下を行く幻のように見えた。こよなく美しい幻に。
やがて、下屋敷の門前に着き、輝蘭は蒼凌に別れを告げた。
「いろいろと忝のうございました。これにて失礼申し上げます。」
「私の方こそ…。お陰で、胸の支えが取れたような心地です。では、これでお別れです。」
お互い一礼すると、輝蘭は一目散に門内に向かった。後ろ髪を引かれたが決して振り返らなかった。振り返れば再び蒼凌の元に戻りたくなる。背中に蒼凌の視線が痛かった。

数カ月が過ぎ、輝蘭は元服を済まし、殿のお国入りの行列の一員となって旅路に就いていた。相変わらず江戸の街は賑やかしい。もう、弱々しい冬の陽射しを浴びながら、輝蘭は蒼凌の笑顔を思い出していた。もう二度とは会えぬ笑顔を。そのすぐ裏通りの狭い路地で、当の蒼凌が息絶えているとも知らずに。蒼凌は既に冷たくなっていた。一面血の海となった路地で、誰に見とられる事も無く、行き倒れていた。だがその顔は安らかで、微かに微笑みすら浮かべていた。輝蘭の頭の中にあの夜の蒼凌の言葉が蘇って来た。
「奇妙な縁由…」
木枯らしが音を立てて吹き過ぎて行った。


   End

あまりにも毛色が違い過ぎていて、気にいっていただけるか心配です。感想、お聞かせ下さいませ。    作者 こたつ猫 拝






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